あさのかお
四話
「ねえ旺ちゃん。生理終わったから、今日シよ?」
夕方欧介が帰宅するなり、凛子はそう誘った。
「ぅおっ! そんなところに立ってどうしたんだよ。とりあえず疲れてるから後にして」
ドアを開いて真ん前に立っていた妻に旺介は肝を冷やす。なんだか目が腫れぼったいし、顔には生気がない。
様子が変だとは思ったが、面倒なことに巻き込まれるのは御免なので、話を濁してリビングのソファに寝転がる。今日からまた新しいイベントが始まるから周回しないといけない。
「今日はもう用事ないでしょう。ね、久しぶりに一緒にシャワー浴びようよ」
「急にどうしたんだよ。休日出勤で疲れてるんだ。悪いけど今日は無理」
――嘘つき。
凛子は冷めた目で夫を見下ろす。
ラブホテルのあとはあす香の家で楽しんだことを知っている。
わたしとは一回もできないくらい励んできたということなのかしら?
(確かに女子アナには勝てないかもしれない。でも、旺ちゃんの妻はわたしなのに……ッッ!)
唇を噛んだ凛子は、スマホから目を離そうとしない夫に憎しみのこもった目を向ける。
「……ねえ。今日、本当に仕事だったの?」
「は? 当たり前だろ。港北テレビに行くって言ったの忘れた?」
「わたし、白銀山駅近くに買い物に行ったんだけど。旺ちゃんそっくりな人が女の人と歩いてるの見た」
旺介はスマホから目を離し、ゆっくりと上体を起こした。
「……俺が浮気をしたって言いたいの?」
「違うの?」
「そんなわけないだろ。証拠はあるのか?」
「それなら――」
凛子はスマホを取り出してハッとする。ヒビが入って電源が入らない。電車内で壊してしまったのだった。
固まる凛子を見て旺介は深いため息をつき、再びソファに寝転んだ。
「隠し撮りとか気色悪いことはやめてくれよ。あと人を試すような真似もナシな。気を引きたいのかなんだか知らないけど、とにかく今日は無理だから」
ピコン、ピコン、ズギューンとゲームのポップな効果音が響き渡る。
(――この人は、もうダメだ。話にならない)
凛子は静かに踵を返し、リビングを後にする。自分の部屋に戻り、スーツケースに衣類や貴重真を詰め、廊下に出る。
一度だけリビングを振り返る。旺介は食い入るようにゲーム画面を見つめたままだ。
「……さよなら、旺ちゃん」
そのまま玄関を出た。
特に音を抑えたつもりはなかったが、夫が気づいて追ってくる様子はない。
(――わたしたちは、いつからすれ違うようになってしまったんだろう)
そんなことを回顧しながら、凛子は夜の闇に消えた。
◇◇◇
互いに子供が好きだった。
結婚したら、最低三人はほしいよね。育休を取り合って協力して育児していこう。お金はなくても賑やかで温かい家庭にしたいね――。
そんなふうに将来について語り合う時間が何より幸せだった――。
「…………夢……」
春秋テレビの仮眠室で目を覚ました凛子。質の悪い硬いベッドで寝たから全身が重くだるかった。
昨晩家を出て携帯ショップに直行したものの、電源が入らず機器も歪んでしまってSDカードも取り出せなかった。
代替機を貸し出してもらったものの、データの引き継ぎはできていない。旺介の位置を確認することも、もうできない。
「はあ……なにやってんだろ、わたし。せっかく証拠を手に入れたのに、全部振り出しに戻っちゃった……」
ここ数日、感情のままに行動しすぎてしまったと反省する。もっと冷静にならなくては……。
備え付けのテレビをつけると、当然のように自局の番組が映る。
『――それでは皆さま、今日もよい一日を!』
望月あす香と男性アナウンサーが揃って頭を下げる。九時三十分。朝の情報番組が終わる時間だった。
ブチっとテレビを消してため息を付く。
スーツケースから着替えを取り出して身支度を整える。仮眠室を出ると同期の右近夏海とばったり顔を合わせた。
「わっ、凛子も泊まり? お互い辛いよねぇ〜! ディレクターに昇格すれば少しは楽になるのかなぁ〜!?」
夏海は隣の仮眠室を指さした。彼女はそこから出勤したらしい。
別番組を担当していると、同期と言えどなかなか時間が合わない。久しぶりの再開に凛子も思わず頬を綻ばせる。
しかし夏海には無理しているように映ったらしい。
「ねえ、ひどい顔だよ凛子! そんなに激務なの!? プロデューサーがクソ野郎とか!?」
「いや……大丈夫。最近いろんなことが立て込んでるだけ」
「そぉ!? 貴重な同期なんだから困ったら何でも言ってよね。あっそうだ、特別に元気が出るいいものを教えてあげる!」
夏海はジーンズのポケットからスマホを取り出した。
「これはあたししか知らない特ダネなんだけど! 見て見てこのアカウント」
画面を覗き込む。アカウント名は『いただきママ』だ。
「これがどうしたの?」
「これ、人妻の不倫アカウントなんだけど。ほらこの写真見て。ちらっとしか映ってないけど、背景がどう見てもうちの局のトイレなんだよね!」
「――! ほんとだ!」
トイレ内と思われる手洗い場で、豊満な胸元のアップの写真を撮っている。『今日もお仕事頑張ります♪ 次にカレに会えるのは週末かなー♡』
トイレなんてどこの会社でも似たりよったりな場所だけど、個室の数や向き、石鹸のボトルのデザイン、手を乾かす乾燥機の位置などは各社で微妙に違うだろう。
毎日使う場所なだけに、『これはうちの会社のトイレだ』と確信があった。
「誰だか知らないけど大胆だよねえ。いただきママ、ってことは子持ちなのかな? 最近のあたしの楽しみはこれが誰なのか突き止めることなの。凛子も仲間に入る?」
「いや……あたしはいいかな……」
まさに今不倫の渦中にいるだけに、他人の不倫事情を楽しむ余裕はなかった。
興味が出ないことを伝えると、夏海は「そうだよね、凛子には下世話すぎる娯楽だわ」とうなずいた。
「あんまり根を詰めすぎないでね? あたしは凛子の味方ってことを忘れないで」
「夏海……。ありがとう」
「じゃあ行くね! はあ、今日こそお家に帰りたーい」
夏海の後ろ姿をぼうっと眺め、凛子も反対方向に歩き出す。
今日も番組の収録が一本と、昼過ぎからはロケハンの仕事がある。気持ちを切り替えてしっかりしないと――。
そう思って顔を上げると。
廊下の奥からこちらに向かって、望月あす香が歩いてきた。コツコツとハイヒールが床を打つ音は鐘のよう。聖女のような微笑みを浮かべ、背後の窓から差し込む光は後光のようだった。
凛子の背筋にゾクゾクッと寒気が走った。
夕方欧介が帰宅するなり、凛子はそう誘った。
「ぅおっ! そんなところに立ってどうしたんだよ。とりあえず疲れてるから後にして」
ドアを開いて真ん前に立っていた妻に旺介は肝を冷やす。なんだか目が腫れぼったいし、顔には生気がない。
様子が変だとは思ったが、面倒なことに巻き込まれるのは御免なので、話を濁してリビングのソファに寝転がる。今日からまた新しいイベントが始まるから周回しないといけない。
「今日はもう用事ないでしょう。ね、久しぶりに一緒にシャワー浴びようよ」
「急にどうしたんだよ。休日出勤で疲れてるんだ。悪いけど今日は無理」
――嘘つき。
凛子は冷めた目で夫を見下ろす。
ラブホテルのあとはあす香の家で楽しんだことを知っている。
わたしとは一回もできないくらい励んできたということなのかしら?
(確かに女子アナには勝てないかもしれない。でも、旺ちゃんの妻はわたしなのに……ッッ!)
唇を噛んだ凛子は、スマホから目を離そうとしない夫に憎しみのこもった目を向ける。
「……ねえ。今日、本当に仕事だったの?」
「は? 当たり前だろ。港北テレビに行くって言ったの忘れた?」
「わたし、白銀山駅近くに買い物に行ったんだけど。旺ちゃんそっくりな人が女の人と歩いてるの見た」
旺介はスマホから目を離し、ゆっくりと上体を起こした。
「……俺が浮気をしたって言いたいの?」
「違うの?」
「そんなわけないだろ。証拠はあるのか?」
「それなら――」
凛子はスマホを取り出してハッとする。ヒビが入って電源が入らない。電車内で壊してしまったのだった。
固まる凛子を見て旺介は深いため息をつき、再びソファに寝転んだ。
「隠し撮りとか気色悪いことはやめてくれよ。あと人を試すような真似もナシな。気を引きたいのかなんだか知らないけど、とにかく今日は無理だから」
ピコン、ピコン、ズギューンとゲームのポップな効果音が響き渡る。
(――この人は、もうダメだ。話にならない)
凛子は静かに踵を返し、リビングを後にする。自分の部屋に戻り、スーツケースに衣類や貴重真を詰め、廊下に出る。
一度だけリビングを振り返る。旺介は食い入るようにゲーム画面を見つめたままだ。
「……さよなら、旺ちゃん」
そのまま玄関を出た。
特に音を抑えたつもりはなかったが、夫が気づいて追ってくる様子はない。
(――わたしたちは、いつからすれ違うようになってしまったんだろう)
そんなことを回顧しながら、凛子は夜の闇に消えた。
◇◇◇
互いに子供が好きだった。
結婚したら、最低三人はほしいよね。育休を取り合って協力して育児していこう。お金はなくても賑やかで温かい家庭にしたいね――。
そんなふうに将来について語り合う時間が何より幸せだった――。
「…………夢……」
春秋テレビの仮眠室で目を覚ました凛子。質の悪い硬いベッドで寝たから全身が重くだるかった。
昨晩家を出て携帯ショップに直行したものの、電源が入らず機器も歪んでしまってSDカードも取り出せなかった。
代替機を貸し出してもらったものの、データの引き継ぎはできていない。旺介の位置を確認することも、もうできない。
「はあ……なにやってんだろ、わたし。せっかく証拠を手に入れたのに、全部振り出しに戻っちゃった……」
ここ数日、感情のままに行動しすぎてしまったと反省する。もっと冷静にならなくては……。
備え付けのテレビをつけると、当然のように自局の番組が映る。
『――それでは皆さま、今日もよい一日を!』
望月あす香と男性アナウンサーが揃って頭を下げる。九時三十分。朝の情報番組が終わる時間だった。
ブチっとテレビを消してため息を付く。
スーツケースから着替えを取り出して身支度を整える。仮眠室を出ると同期の右近夏海とばったり顔を合わせた。
「わっ、凛子も泊まり? お互い辛いよねぇ〜! ディレクターに昇格すれば少しは楽になるのかなぁ〜!?」
夏海は隣の仮眠室を指さした。彼女はそこから出勤したらしい。
別番組を担当していると、同期と言えどなかなか時間が合わない。久しぶりの再開に凛子も思わず頬を綻ばせる。
しかし夏海には無理しているように映ったらしい。
「ねえ、ひどい顔だよ凛子! そんなに激務なの!? プロデューサーがクソ野郎とか!?」
「いや……大丈夫。最近いろんなことが立て込んでるだけ」
「そぉ!? 貴重な同期なんだから困ったら何でも言ってよね。あっそうだ、特別に元気が出るいいものを教えてあげる!」
夏海はジーンズのポケットからスマホを取り出した。
「これはあたししか知らない特ダネなんだけど! 見て見てこのアカウント」
画面を覗き込む。アカウント名は『いただきママ』だ。
「これがどうしたの?」
「これ、人妻の不倫アカウントなんだけど。ほらこの写真見て。ちらっとしか映ってないけど、背景がどう見てもうちの局のトイレなんだよね!」
「――! ほんとだ!」
トイレ内と思われる手洗い場で、豊満な胸元のアップの写真を撮っている。『今日もお仕事頑張ります♪ 次にカレに会えるのは週末かなー♡』
トイレなんてどこの会社でも似たりよったりな場所だけど、個室の数や向き、石鹸のボトルのデザイン、手を乾かす乾燥機の位置などは各社で微妙に違うだろう。
毎日使う場所なだけに、『これはうちの会社のトイレだ』と確信があった。
「誰だか知らないけど大胆だよねえ。いただきママ、ってことは子持ちなのかな? 最近のあたしの楽しみはこれが誰なのか突き止めることなの。凛子も仲間に入る?」
「いや……あたしはいいかな……」
まさに今不倫の渦中にいるだけに、他人の不倫事情を楽しむ余裕はなかった。
興味が出ないことを伝えると、夏海は「そうだよね、凛子には下世話すぎる娯楽だわ」とうなずいた。
「あんまり根を詰めすぎないでね? あたしは凛子の味方ってことを忘れないで」
「夏海……。ありがとう」
「じゃあ行くね! はあ、今日こそお家に帰りたーい」
夏海の後ろ姿をぼうっと眺め、凛子も反対方向に歩き出す。
今日も番組の収録が一本と、昼過ぎからはロケハンの仕事がある。気持ちを切り替えてしっかりしないと――。
そう思って顔を上げると。
廊下の奥からこちらに向かって、望月あす香が歩いてきた。コツコツとハイヒールが床を打つ音は鐘のよう。聖女のような微笑みを浮かべ、背後の窓から差し込む光は後光のようだった。
凛子の背筋にゾクゾクッと寒気が走った。
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