あさのかお

優月アカネ@note創作大賞受賞

三話

「ど、どうしてここに……?」

瞳いっぱいに涙をためた凛子が驚くと、廉は精悍な顔を曇らせる。

「妻が不倫をしてるんじゃないかっていうのは、薄々気がついていた。今日は仕事の予定だったんだけど、直前でバラしになったから、妻のあとを追ってみたらやっぱり……」

廉は今にも泣き出しそうな苦笑いを浮かべた。

「僕はあそこの席からホテルを見張ってたんだ。妻たちが入店してきて慌てたんだけど、隣の席の君が尋常じゃない様子だったから、もしかしたらと思って声をかけたんだ」
「ああ……」

凛子の顔に影が差す。驚きで一瞬忘れていたが、夫は不倫をしていて、あす香といっしょに自分の悪口を言っていたのだった……。

「……申し遅れました。浅倉凛子といいます。すみません、あす香さんと不倫をしていたのは夫の旺介です……」
「そうだったんだね……。いや、こちらこそ節操のない妻ですまない」

しばらく沈黙が流れた。
なんだかドラマやマンガの世界のようだと他人事のように思いを巡らせた。
サレ妻、サレ夫同士で何を話せばいいのか凛子にはわからなかった。あの二人の悪口を言うのも、なぜだかしっくりこなかった。
その結果、ほんとうに些細な質問をしてしまう。

「……小瀬田さん。変装しなくて大丈夫なんですか?」

小瀬田廉といえば今をときめく売れっ子イケメン俳優。結婚して八年になるはずだが、独身だったモデル時代からの根強いファンも多い。
マスクもサングラスもなしに、その端正な顔をぶら下げていてもいいのだろうか。

「最初はしていたんだけど、子どもが産まれてからはやめたんだ。サングラスをしていると信号の色が見えづらいし、帽子は風で飛ばされる。どっちも子育て向きじゃなくってね」
「なるほどです……」

テレビでは演技力に定評のある二枚目俳優とされているが、目の前にいる彼は飾り気がなく、親しみやすい雰囲気だった。子育てにきちんと参加していることがうかがえて、凛子は感心してしまう。あす香はこんな素敵な夫を無下にして不倫をしたのだ……。

「……でも、女性と二人でいるところを見られたらまずくはないですか? その、自分で言うのもなんですが、この状況を週刊誌にでも撮られたら……」
「僕らは悪いことをしてるわけじゃないんだから、堂々としていればいいんだよ」

その言葉は、今の凛子にとってとてもまぶしく感じられた。自分の存在をも肯定された気持ちになったのだ。

「そう……ですよね。なんだか今、勇気をいただいた気持ちになりました」

凛子はずびっと鼻をすすり、泣き腫らした顔でニコッと微笑んだ。

「家に帰ったら、今日何をしていたのって夫に聞いてみます。何もなかった顔でいることは、わたしにはできないので」
「凛子さんは強いね」

廉は寂しそうに目を細めるだけだった。
凛子ははっと理解した。小瀬田夫妻は芸能人だし、子供もいる。自分のような一般家庭とは住む世界が違うのだと。
どんなに辛くても、見て見ぬふりをせざるを得ない場合もあるんだろう。なんでもなかった顔をして、このあとも家族を演じ続けなければいけないのかも。

「不倫を辞めるよう夫に伝えます。……少しでも小瀬田さんの気持ちが楽になればいいんですが」
「僕の心配をしてくれてる? ……ありがとう」

廉はふわりと自然に笑顔を浮かべた。トップ俳優らしい、目にした人間の心を惹きつける表情だった。

「凛子さんの想像通り、いろんな事情でうちはすぐにどうこうできない可能性が高い。それで……こんなこと頼んでいいのかわからないけど……もしよかったらまた話を聞いてもらえないかな? こんなこと誰にも相談できないから……」

捨て犬のような表情の廉を、放っておけるはずもなかった。

「わたしでよければいつでもお話を聞きます。そもそも夫が迷惑をかけてしまっているので」
「助かる。じゃあLINNを交換しよう」

互いに連絡先を交換して別れた。
凛子は自宅に戻る電車に揺られながらスマホを取り出す。GPSアプリの青い丸は都心の高級住宅街のとある一点でじっとしていた。ここがあす香の自宅なのだろう。

(旺ちゃん……)

青い丸を穴が開くほど見つめていると、脳裏に出会ったころの思い出が次々と蘇る。
旺介は大学の広告研究会で出会った。三歳上の、穏やかで優しい先輩だった。
七夕の日に告白されて付き合った、初めての彼氏だった。

(『凛子ちゃんを悲しませるようなことは、絶対にしないから』って、約束してくれたのに――!)

ぽろぽろと涙が溢れて頬を伝う。
日常で些細な揉め事はあれど、仲良くやってきたと思っていた。
学生時代から旺介は抜けているところがあった。凛子は旺介の求めに応じる形で彼を最優先にしてきた。
授業に遅刻しないよう、自分は午後からの授業でも早起きしてモーニングコールをした。週に三日は旺介のアパートを訪ね、掃除や食事の作り置きをした。
就活の面接練習を手伝ったこともあった。内定をもらった日は奮発して銀座のすき焼きをご馳走したっけ。社会に出て疲弊する旺介のサポートをする傍らで、自分も就活戦争を生き抜いた。同棲し、結婚してからも、彼のためにできるだけの努力をしてきたのに――。

「ううっ……うぅ……」

嗚咽が止まらない。
悔しい、悔しい、悔しい――!
乗客の視線が集まっている気がしたが、もはやどうでもよくなっていた。とうとう凛子は、ふつふつとこみ上げてくる怒りをコントロールできなくなる。

「――どうしてなのよっ! わたしが気に入らないなら、そう言えばよかったじゃない! クソッタレ!!」

怒りに任せてスマホを床に叩きつけると、一斉に乗客の視線が集まった。
ハッとして我に返りスマホを拾い上げる。画面は真っ黒になっていて、蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。
しかし、どうして自分がこんな好奇の目にさらされなければいけないのだろう。悪いのはあの二人なのに!
凛子は再び失意と怒りの渦に飲み込まれる。

「信じてたのに……っ! 二人してわたしを馬鹿にして……っ!」

通路の中央に仁王立ちして号泣する。鼻水が口元を濡らすのも構わずに、子どものようにわあわあと声を上げて泣いた。
乗客の誰かが車掌を呼びに行ったのだろう。
凛子はかけつけた車掌に抱えられるようにして、次の駅で降ろされたのだった。

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