あさのかお
二話
翌日凛子が帰宅すると、ポストに小包が届いていた。
「もう届いたのね……」
昨日注文したGPSだとすぐにわかった。
家にはすでに旺介が帰っていたが、凛子には目を向けずスマホ越しに「おう、おかえり。飯できたら教えてー」と呑気に声をかけて寄越した。
今朝はわざと早起きして出てきたから、あの出来事以降きちんと旺介と顔を合わせるのは初めてだった。
仄暗い気持ちを抱えながら凛子はいつもの表情を作る。
「……ねえ旺ちゃん。玄関の外に大きな虫がいたの。怖いから退治してきてくれない?」
「なんで俺が? 凛子はたくましいんだから、それぐらいできるだろ」
「――悪かったわね。誰かみたいに女らしくなくて」
「……んっ? なんか言った?」
旺介はようやくスマホから顔を上げて凛子の目を見た。
「わたし、ご飯の支度があるから。旺ちゃんお願い」
凛子は笑顔を浮かべつつも、まったく感情のこもっていない棒読みで応える。
旺介は妻の様子がおかしいことを感じ取ったものの、腫れものには触れたくないため理由を訊ねることはしない。「……わかったよ」と重い腰を上げた。
「殺虫剤切らしてるから、コンビニで買ってきてね」
「オッケー」
夫が家から出ていくと、凛子は勢いよく旺介のリュックに飛びつく。
「証拠……! なにか怪しいものは……っ!」
リュックを逆さまにして中身を床にぶちまける。手帳や書類など怪しいものはないか一つ一つ食い入るように確認した。
ノートPCを立ち上げるがパスワードがわからず撥ねられた。肝心のスマホは旺介が持って出てしまっている。
あまり時間の猶予はない。凛子は諦めてノートPCを閉じた。
「ひとまずGPSを……」
リュックの内部に裏地が破れているところがあった。ズボラな旺介のことだから、多少の破れは気にしていないのだろう。
凛子は裏地の破れにGPSを滑り込ませ、ぶちまけた荷物を中に戻した。
虫を退治して戻ってきた夫に、また貼り付けた笑顔を向けるのだった。
◇
翌日の土曜日。本来凛子も旺介も休みだが、彼は「同僚に急病人が出て、急遽収録に入ることになった。港北テレビに行ってくる」と言っていそいそと出勤していった。
「カメラマンも大変だね。いってらっしゃい」と送り出した凛子は、ドアが閉まるとすぐさまポケットからスマホを取り出した。
「昨日の今日で役に立つなんて。ほんとうに仕事なの……?」
GPSと連動しているアプリを立ち上げる。旺介の位置を表す青い丸がゆっくりと画面上を動いていた。
「港北テレビに行くのなら地下鉄に乗るはず……」
凛子は祈るように青い丸のゆくえを目で追う。
しかし、青い丸は明後日の方向に移動を始める。急に速度を上げた地点はJRの駅だった。
「……どこに向かっているの?」
この方角にテレビ局はない。
ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。
電車から降りたらしく速度を下げた青い丸は、駅前のホテルでぴたりと動きを止めた。
「HOTELマーメイド――。ラブホテルだわ……」
目の前が真っ暗になった。
あの日の出来事は、ほんの出来心だとどこかで信じたかったのだ。
しかし、再び現実を突きつけられてどす黒い気持ちが湧き上がる。
「……行かなきゃ」
また相手はあす香なんだろうか?
凛子にとって、旺介が不倫をすることよりも、あす香が不倫をする方が現実離れして感じられた。不倫そのものは腸が煮えくり返る思いではあるが、『欲に負けました』と男性芸能人が謝罪会見をすることなんて、もはや世の中では珍しくもないことだ。
もしかしたらあす香は、旺介に無理やり関係を持たされているのかもしれない。
「なにか弱みを握られているのかも……。それか旺介が押し切ったりして……」
そう考えてしまうくらいには、あす香と不倫をするということが信じがたかった。
凛子はスマホを握り直し、真相を確かめるべく家を出た。
◇
――HOTELマーメイドの横には、チェーンのカフェがあった。
凛子はホテルがよく見える席に陣取り、旺介が出てくるのを待つことにした。
のどが渇いて仕方がなかった。テーブルには一つ、また一つとコーヒーカップが増えていく。
一時間半経ったところで夫が出てきた。女性はサングラスと帽子を目深にかぶっているが、間違いなく望月あす香だと凛子は確信した。
「あの二人……やっぱり……」
震える手でスマホを掴み、カメラを立ち上げる。
パシャ パシャパシャ パシャッ!
ガラス窓越しに二人の姿を撮影する。顔を寄せ合って親密そうな様子に怒りが込み上げる。
さあ後を追いかけよう。凛子は腰を浮かせたものの――。
「まっ、まずい! このカフェに入ってくる!」
さっと腰を下ろして座席の影に身をかがめる。
こっちに来ないで、こっちに来ないで……!
凛子は(どうしてわたしが隠れなければならないの)と理不尽な感情を抱きながら祈った。しかし――。
「旺介くん。ここ空いてるよ」
「ありがとうございます。あす香さんこっち側どうぞ。顔が見えるとまずいでしょ」
「ふふっ、ありがとう。でも旺介くんもいけないことしてるのに」
「俺の嫁は一般人だから。今ごろ家でポテチでも食って、呑気に寝転がってますよ」
「わたしだってお菓子は食べるわよ」
「あす香さんはいいんですよ。食べても太らないでしょ?」
二人は凛子の背後の席に着席した。
頭の後ろまでの高さの背もたれがあるソファ席。凛子と二人、互いの顔は見えないものの、声を潜めても話し声は聞こえてしまう距離だった。
ドクン、ドクン……。凛子の心臓は飛び出してしまいそうなくらい力強く拍動する。背中には嫌な汗がぶわりと滲み出た。
「凛子のやつ、大学時代は痩せてたのに。結婚してからは太る一方なんですよ。詐欺に遭った気分っす」
「仕事が忙しいのよ。ADは激務って聞くし」
「いやいやいや! それを言うならあす香さんもでしょ。ADなんかより局の看板女子アナのほうが忙しいに決まってる」
ADなんか――? 凛子は胸の奥をナイフで刺されたような鋭い痛みを覚えた。
わたしはこの仕事に誇りを持っている。同じ業界でカメラマン解いて働く旺介も、応援してくれていると思っていたのに――。
「しかも勤務時間は長いくせに、大した稼ぎはないんですよ。子供子供ってせっつかれてるけど、今産んだって時間もお金もないんだから、正直あいつの考えにはついていけないです。家にいても息苦しくって……」
夫の一言一句が胸に突き刺さる。逃げ出したいとさえ思ったが、この状況ではそれすら許されなかった。
店内のがやがやとした喧騒がはるか遠くに聞こえる。
「かわいそうな旺介くん……」
あす香はテーブルの上に置かれた旺介の右手に自分の手を重ねる。
「……確かに凛子ちゃんはみすぼらしいわ。わたしまで言うのは酷だけど、もう少し見た目に気を使うべきだと思う」
身を潜める凛子はひゅっと息を呑む。
「毎朝スタジオ前まで来て挨拶してくれるけど、困っているのよ。服は皺だらけだし、眉毛は手入れされてないし、鼻の下にはうっすらヒゲが生えたままだし。回りのスタッフも呆れているのに気がついてないみたいで」
「くくっ、ヒゲって……! オジさんかよ」
「ガサツで気が利かなくて、そのくせまとわりついてくる……。正直、わたしが大嫌いなタイプの女だわ」
あす香はズズッとストローを鳴らす。
「……飲みきってしまったわ」
「水分補給しましたし、もう出ましょうか。……このあとあす香さんの家に行ってもいい?」
「もう、旺介くんったら元気ねえ。いいわよ。夫は仕事だし、娘は保育園だから」
席を立つ音が聞こえる。凛子は反射的に顔を伏せてやり過ごした。
身体の震えが止まらない。吐き気がして、涙がとめどなく溢れ出る。
――そんな彼女の目の前の席に、一人の見目麗しい男が腰を下ろした。
「泣かないで」
男性は穏やかな声で言い、凛子に向かってハンカチを差し出す。
凛子は驚きで目を見開いた。
「……小瀬田廉さん……? あす香さんの、旦那さんの」
人気女子アナ望月あす香。
その夫の、俳優・小瀬田廉だった。
「もう届いたのね……」
昨日注文したGPSだとすぐにわかった。
家にはすでに旺介が帰っていたが、凛子には目を向けずスマホ越しに「おう、おかえり。飯できたら教えてー」と呑気に声をかけて寄越した。
今朝はわざと早起きして出てきたから、あの出来事以降きちんと旺介と顔を合わせるのは初めてだった。
仄暗い気持ちを抱えながら凛子はいつもの表情を作る。
「……ねえ旺ちゃん。玄関の外に大きな虫がいたの。怖いから退治してきてくれない?」
「なんで俺が? 凛子はたくましいんだから、それぐらいできるだろ」
「――悪かったわね。誰かみたいに女らしくなくて」
「……んっ? なんか言った?」
旺介はようやくスマホから顔を上げて凛子の目を見た。
「わたし、ご飯の支度があるから。旺ちゃんお願い」
凛子は笑顔を浮かべつつも、まったく感情のこもっていない棒読みで応える。
旺介は妻の様子がおかしいことを感じ取ったものの、腫れものには触れたくないため理由を訊ねることはしない。「……わかったよ」と重い腰を上げた。
「殺虫剤切らしてるから、コンビニで買ってきてね」
「オッケー」
夫が家から出ていくと、凛子は勢いよく旺介のリュックに飛びつく。
「証拠……! なにか怪しいものは……っ!」
リュックを逆さまにして中身を床にぶちまける。手帳や書類など怪しいものはないか一つ一つ食い入るように確認した。
ノートPCを立ち上げるがパスワードがわからず撥ねられた。肝心のスマホは旺介が持って出てしまっている。
あまり時間の猶予はない。凛子は諦めてノートPCを閉じた。
「ひとまずGPSを……」
リュックの内部に裏地が破れているところがあった。ズボラな旺介のことだから、多少の破れは気にしていないのだろう。
凛子は裏地の破れにGPSを滑り込ませ、ぶちまけた荷物を中に戻した。
虫を退治して戻ってきた夫に、また貼り付けた笑顔を向けるのだった。
◇
翌日の土曜日。本来凛子も旺介も休みだが、彼は「同僚に急病人が出て、急遽収録に入ることになった。港北テレビに行ってくる」と言っていそいそと出勤していった。
「カメラマンも大変だね。いってらっしゃい」と送り出した凛子は、ドアが閉まるとすぐさまポケットからスマホを取り出した。
「昨日の今日で役に立つなんて。ほんとうに仕事なの……?」
GPSと連動しているアプリを立ち上げる。旺介の位置を表す青い丸がゆっくりと画面上を動いていた。
「港北テレビに行くのなら地下鉄に乗るはず……」
凛子は祈るように青い丸のゆくえを目で追う。
しかし、青い丸は明後日の方向に移動を始める。急に速度を上げた地点はJRの駅だった。
「……どこに向かっているの?」
この方角にテレビ局はない。
ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。
電車から降りたらしく速度を下げた青い丸は、駅前のホテルでぴたりと動きを止めた。
「HOTELマーメイド――。ラブホテルだわ……」
目の前が真っ暗になった。
あの日の出来事は、ほんの出来心だとどこかで信じたかったのだ。
しかし、再び現実を突きつけられてどす黒い気持ちが湧き上がる。
「……行かなきゃ」
また相手はあす香なんだろうか?
凛子にとって、旺介が不倫をすることよりも、あす香が不倫をする方が現実離れして感じられた。不倫そのものは腸が煮えくり返る思いではあるが、『欲に負けました』と男性芸能人が謝罪会見をすることなんて、もはや世の中では珍しくもないことだ。
もしかしたらあす香は、旺介に無理やり関係を持たされているのかもしれない。
「なにか弱みを握られているのかも……。それか旺介が押し切ったりして……」
そう考えてしまうくらいには、あす香と不倫をするということが信じがたかった。
凛子はスマホを握り直し、真相を確かめるべく家を出た。
◇
――HOTELマーメイドの横には、チェーンのカフェがあった。
凛子はホテルがよく見える席に陣取り、旺介が出てくるのを待つことにした。
のどが渇いて仕方がなかった。テーブルには一つ、また一つとコーヒーカップが増えていく。
一時間半経ったところで夫が出てきた。女性はサングラスと帽子を目深にかぶっているが、間違いなく望月あす香だと凛子は確信した。
「あの二人……やっぱり……」
震える手でスマホを掴み、カメラを立ち上げる。
パシャ パシャパシャ パシャッ!
ガラス窓越しに二人の姿を撮影する。顔を寄せ合って親密そうな様子に怒りが込み上げる。
さあ後を追いかけよう。凛子は腰を浮かせたものの――。
「まっ、まずい! このカフェに入ってくる!」
さっと腰を下ろして座席の影に身をかがめる。
こっちに来ないで、こっちに来ないで……!
凛子は(どうしてわたしが隠れなければならないの)と理不尽な感情を抱きながら祈った。しかし――。
「旺介くん。ここ空いてるよ」
「ありがとうございます。あす香さんこっち側どうぞ。顔が見えるとまずいでしょ」
「ふふっ、ありがとう。でも旺介くんもいけないことしてるのに」
「俺の嫁は一般人だから。今ごろ家でポテチでも食って、呑気に寝転がってますよ」
「わたしだってお菓子は食べるわよ」
「あす香さんはいいんですよ。食べても太らないでしょ?」
二人は凛子の背後の席に着席した。
頭の後ろまでの高さの背もたれがあるソファ席。凛子と二人、互いの顔は見えないものの、声を潜めても話し声は聞こえてしまう距離だった。
ドクン、ドクン……。凛子の心臓は飛び出してしまいそうなくらい力強く拍動する。背中には嫌な汗がぶわりと滲み出た。
「凛子のやつ、大学時代は痩せてたのに。結婚してからは太る一方なんですよ。詐欺に遭った気分っす」
「仕事が忙しいのよ。ADは激務って聞くし」
「いやいやいや! それを言うならあす香さんもでしょ。ADなんかより局の看板女子アナのほうが忙しいに決まってる」
ADなんか――? 凛子は胸の奥をナイフで刺されたような鋭い痛みを覚えた。
わたしはこの仕事に誇りを持っている。同じ業界でカメラマン解いて働く旺介も、応援してくれていると思っていたのに――。
「しかも勤務時間は長いくせに、大した稼ぎはないんですよ。子供子供ってせっつかれてるけど、今産んだって時間もお金もないんだから、正直あいつの考えにはついていけないです。家にいても息苦しくって……」
夫の一言一句が胸に突き刺さる。逃げ出したいとさえ思ったが、この状況ではそれすら許されなかった。
店内のがやがやとした喧騒がはるか遠くに聞こえる。
「かわいそうな旺介くん……」
あす香はテーブルの上に置かれた旺介の右手に自分の手を重ねる。
「……確かに凛子ちゃんはみすぼらしいわ。わたしまで言うのは酷だけど、もう少し見た目に気を使うべきだと思う」
身を潜める凛子はひゅっと息を呑む。
「毎朝スタジオ前まで来て挨拶してくれるけど、困っているのよ。服は皺だらけだし、眉毛は手入れされてないし、鼻の下にはうっすらヒゲが生えたままだし。回りのスタッフも呆れているのに気がついてないみたいで」
「くくっ、ヒゲって……! オジさんかよ」
「ガサツで気が利かなくて、そのくせまとわりついてくる……。正直、わたしが大嫌いなタイプの女だわ」
あす香はズズッとストローを鳴らす。
「……飲みきってしまったわ」
「水分補給しましたし、もう出ましょうか。……このあとあす香さんの家に行ってもいい?」
「もう、旺介くんったら元気ねえ。いいわよ。夫は仕事だし、娘は保育園だから」
席を立つ音が聞こえる。凛子は反射的に顔を伏せてやり過ごした。
身体の震えが止まらない。吐き気がして、涙がとめどなく溢れ出る。
――そんな彼女の目の前の席に、一人の見目麗しい男が腰を下ろした。
「泣かないで」
男性は穏やかな声で言い、凛子に向かってハンカチを差し出す。
凛子は驚きで目を見開いた。
「……小瀬田廉さん……? あす香さんの、旦那さんの」
人気女子アナ望月あす香。
その夫の、俳優・小瀬田廉だった。
「現代ドラマ」の人気作品
書籍化作品
-
-
353
-
-
1259
-
-
127
-
-
2813
-
-
310
-
-
444
-
-
4
-
-
76
-
-
841
コメント