あさのかお
一話
浅倉凛子は、家に届いたクレジットカードの明細を見てため息をついた。
「旺ちゃんまた課金したの? 請求がすごいことになってるんだけど」
ソファに寝そべった茶髪の男性が面倒そうに顔を上げる。凛子より三つ年上で、彼女の夫である旺介だ。
「ごめんごめん。イベントあったから、つい」
旺介はスマホのゲーム画面から目を離さないまま顔だけ凛子に向けて謝った。Tシャツの裾をめくり、ぽりぽりとだらしなく腹を掻いた。
「子どものために今から貯金しようって決めたじゃない。本格的に妊活するならお金もかかるんだし、ちゃんとしてほしいな」
「わかってるって。来月からしっかりするから。あっヤベ、もう出勤時間だ!」
来月からちゃんとする、は何度聞いたかわからない夫の常套句だ。
凛子はわざとらしく出勤の準備をする夫に白けながら、テレビの電源ボタンを押した。
時刻は朝八時。朝の情報番組が始まったところだった。
『おはようございます。八月一日木曜日、朝のニュースをお伝えします。今日は夏らしいカラッとした陽気ですが――』
爽やかな笑顔を浮かべる清楚な女子アナ、望月あす香。艶のある黒髪に、知性と母性をたたえた穏やかな瞳。滑らかな声は耳に触れるだけで夏の暑さがいくらかマシに感じられるほど。
凛子は不機嫌を吹き飛ばして画面にかじりつく。
「……あす香さん、今日も美しいなぁ。グッドマザー賞をする完璧ママでありながら仕事もバリバリ。わたしもこんな女性になりたいな……」
三十分ほどニュースを見て望月あす香に元気をもらった凛子は、椅子から立ち上がる。
テレビを消すと、黒い画面に疲れた顔をしたプリン頭の自分が映る。また少し嫌な気持ちになったが、ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替える。
鞄を持ち、旺介が脱ぎ捨てたままの衣類や靴下をつまんで洗濯機に投げ入れ、職場に向かうのだった。
◇
――株式会社春秋テレビ。
職場に着いた凛子は迷わずAスタジオに向かった。
生放送を終えたキャストたちがぞろぞろと出てくる。凛子は一番最後に微笑みながら出てきた女性に飛びついた。
「あす香さん! 〝Best Morning!”生放送お疲れ様でした! 今日もすっごく素敵でした!」
「凛子ちゃん。いつも見てくれてありがとう」
「ベスモニでわたしの一日は始まるんです。わたしがいつか番組任せてもらえるようになったら、絶対出演してくださいね?」
「可愛いことを言ってくれるのね。凛子ちゃんは優秀なADだと聞いてるわ。もちろんよ」
あす香は凛子を慈しむように頭を撫でた。周囲のスタッフも最早毎朝の恒例となったこの光景を生暖かい目で見守っている。
凛子が身を離すと、あす香はにこりと笑った。
「そういえば、今日は旺介くんも局で仕事なのよね? 十五時から収録の歌番組のカメラさんで」
「あっ、はい。あれ? お伝えしましたっけ」
「この子ったら。先週嬉しそうに教えてくれたわよ」
凛子はほんの一瞬考えて、やっぱ伝えていないような気がしたけれど、大して重要じゃないことだと思い直し、会話に意識を戻す。
「一度会社に寄ってから来るみたいなので、たぶん昼過ぎにはウロウロしてるかと」
そう伝えると、あす香はゆっくりと口角を上げ、誰にも悟られないほど僅かに目を光らせた。
「……そう。よろしく伝えてちょうだいね。二人とも大事な後輩だもの」
「はい! あす香さんは東光大学広告研究会の光ですから。旺ちゃんにはゲームに課金してないで、あす香さんを見習うように伝えますね」
「息抜きも必要だけれど、やりすぎは困るわね」
凛子、あす香、旺介。三人の共通点は、出身大学と所属研究会が同じだったことだ。
三十一歳のあす香、二十八歳の旺介、そして二十五歳の凛子。旺介のみがほか二人と在学期間が被っている。
凛子はあす香と直接の関わりはなかったものの、その活躍ぶりは旺介から聞いており、かねてから憧れていた。
(あす香さんはしっかり自分を持っている。大学時代から周りに流されず、地に足をつけて、地道に自分の夢を叶えていったと聞いたわ。わたしもあす香さんのように、自立した大人の女性になりたい)
厳しい就職戦争をギリギリで生き残り、こうして同じ春秋テレビで働くことになり、心から嬉しく思っていた。
「じゃ、今日も一日頑張りましょう!」
凛子は無垢な笑顔を浮かべ、自分の仕事に戻っていった。
◇
局の社員食堂で少し遅めの昼食を終えた凛子は、急遽次の番組で使うことになった物品を取りに美術倉庫を訪れていた。
「えーっと、ピコピコハンマーに安全帽、ぬるぬるローションと電流を流す装置…………」
メモを見ながら棚を回り、台車に物品を積んでいく。
倉庫は照明が絞られていて薄暗い。奥まった場所にある電流装置を取りにいくため、台車を置いて凛子は狭い通路を進んでいく。
すると、奥から話し声が聞こえてきた。
「こんなところに誰かいるの……?」
倉庫は奥に行くほど使う頻度の少ない物品が収納されている。そんな場所で複数の話し声が聞こえるのは違和感があった。
いったい何を取りに来た人なのか。どんな番組で使うのだろうか。凛子が興味本位で近づいていくと――。
「あと二十分で収録なの。早く来て」
「朝からずっと、あす香さんに会いたかった。俺はもう――」
急いた話しぶりに、カチャカチャとベルトを外すような音。しばらくすると男女のくぐもった声が漏れ始める。
物陰からその様子を目の当たりにした凛子は頭が真っ白になっていた。
なぜならその二人は、夫の旺介と望月あす香だったのだから。
◇◇◇
――その晩。凛子は真っ暗な部屋の中でパソコンを開いていた。
パソコンの光が彼女の顔を不気味に浮かび上がらせる。
画面の検索窓には、【夫 不倫 女子アナ】というキーワードが打ち込まれていた。
「――なんで」
げっそりとして表情の抜け落ちた凛子が、唐突に漏らす。
「なんでなのよッッ!!!!」
歪んだ顔でマウスを壁に投げつける。プラスチック製の廉価マウスはひとたまりもなく壊れて床に落ちた。
「うあああああああッッ!!!!」
机の上に広げた企画書や資料をめちゃくちゃにする。頭皮から血が出るくらい髪をかきむしる。
声を出していないと、動いていないと、気がおかしくなりそうだった。
部屋の中がめちゃくちゃになり、当たる物がなくなって、ようやく凛子は我を取り戻す。はあ、はあ、と肩で息をしながら、倒れた椅子を起こして腰をおろした。
「よりにもよって……あす香さんと? なんで? いつから?」
旺介はまだ帰らない。二十三時を指す時計を凛子は恨めしそうに見上げた。
あす香は平日朝の生放送を担当しているから、この時間はすでに帰宅し就寝しているはずだが……。
「あす香さん……」
いつもにこにことしで穏やかで、優しく接してくれた先輩。
悩み相談に乗ってくれたり、親切にしてくれていたのに。
どうして旺介と不倫なんてしてるんだろう? 彼女にはまだ幼い子供だっているはずなのに――。
「なにか理由があるんだわ……そうよ……そうに違いない……」
旺介だってそうだ。彼との付き合いは大学時代からで七年になる。結婚してからはまだ一年で、新婚なのに――。
凛子は通販サイトを開き、検索窓にカーソルを合わせてキーボードを打った。
【夫 不倫 GPS】
画面をスクロールすると、ずらっとGPSが並んでいる。それなりの値段がするものの、小型で高性能な商品もあるようだ。
――こんなことをしてもいいのか。一瞬そんな気持ちが胸をかすめる。
しかし、二人が激しく求め合っていた昼間の光景がフラッシュバックする。その瞬間、凛子は購入ボタンを押していた。
「旺ちゃんまた課金したの? 請求がすごいことになってるんだけど」
ソファに寝そべった茶髪の男性が面倒そうに顔を上げる。凛子より三つ年上で、彼女の夫である旺介だ。
「ごめんごめん。イベントあったから、つい」
旺介はスマホのゲーム画面から目を離さないまま顔だけ凛子に向けて謝った。Tシャツの裾をめくり、ぽりぽりとだらしなく腹を掻いた。
「子どものために今から貯金しようって決めたじゃない。本格的に妊活するならお金もかかるんだし、ちゃんとしてほしいな」
「わかってるって。来月からしっかりするから。あっヤベ、もう出勤時間だ!」
来月からちゃんとする、は何度聞いたかわからない夫の常套句だ。
凛子はわざとらしく出勤の準備をする夫に白けながら、テレビの電源ボタンを押した。
時刻は朝八時。朝の情報番組が始まったところだった。
『おはようございます。八月一日木曜日、朝のニュースをお伝えします。今日は夏らしいカラッとした陽気ですが――』
爽やかな笑顔を浮かべる清楚な女子アナ、望月あす香。艶のある黒髪に、知性と母性をたたえた穏やかな瞳。滑らかな声は耳に触れるだけで夏の暑さがいくらかマシに感じられるほど。
凛子は不機嫌を吹き飛ばして画面にかじりつく。
「……あす香さん、今日も美しいなぁ。グッドマザー賞をする完璧ママでありながら仕事もバリバリ。わたしもこんな女性になりたいな……」
三十分ほどニュースを見て望月あす香に元気をもらった凛子は、椅子から立ち上がる。
テレビを消すと、黒い画面に疲れた顔をしたプリン頭の自分が映る。また少し嫌な気持ちになったが、ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替える。
鞄を持ち、旺介が脱ぎ捨てたままの衣類や靴下をつまんで洗濯機に投げ入れ、職場に向かうのだった。
◇
――株式会社春秋テレビ。
職場に着いた凛子は迷わずAスタジオに向かった。
生放送を終えたキャストたちがぞろぞろと出てくる。凛子は一番最後に微笑みながら出てきた女性に飛びついた。
「あす香さん! 〝Best Morning!”生放送お疲れ様でした! 今日もすっごく素敵でした!」
「凛子ちゃん。いつも見てくれてありがとう」
「ベスモニでわたしの一日は始まるんです。わたしがいつか番組任せてもらえるようになったら、絶対出演してくださいね?」
「可愛いことを言ってくれるのね。凛子ちゃんは優秀なADだと聞いてるわ。もちろんよ」
あす香は凛子を慈しむように頭を撫でた。周囲のスタッフも最早毎朝の恒例となったこの光景を生暖かい目で見守っている。
凛子が身を離すと、あす香はにこりと笑った。
「そういえば、今日は旺介くんも局で仕事なのよね? 十五時から収録の歌番組のカメラさんで」
「あっ、はい。あれ? お伝えしましたっけ」
「この子ったら。先週嬉しそうに教えてくれたわよ」
凛子はほんの一瞬考えて、やっぱ伝えていないような気がしたけれど、大して重要じゃないことだと思い直し、会話に意識を戻す。
「一度会社に寄ってから来るみたいなので、たぶん昼過ぎにはウロウロしてるかと」
そう伝えると、あす香はゆっくりと口角を上げ、誰にも悟られないほど僅かに目を光らせた。
「……そう。よろしく伝えてちょうだいね。二人とも大事な後輩だもの」
「はい! あす香さんは東光大学広告研究会の光ですから。旺ちゃんにはゲームに課金してないで、あす香さんを見習うように伝えますね」
「息抜きも必要だけれど、やりすぎは困るわね」
凛子、あす香、旺介。三人の共通点は、出身大学と所属研究会が同じだったことだ。
三十一歳のあす香、二十八歳の旺介、そして二十五歳の凛子。旺介のみがほか二人と在学期間が被っている。
凛子はあす香と直接の関わりはなかったものの、その活躍ぶりは旺介から聞いており、かねてから憧れていた。
(あす香さんはしっかり自分を持っている。大学時代から周りに流されず、地に足をつけて、地道に自分の夢を叶えていったと聞いたわ。わたしもあす香さんのように、自立した大人の女性になりたい)
厳しい就職戦争をギリギリで生き残り、こうして同じ春秋テレビで働くことになり、心から嬉しく思っていた。
「じゃ、今日も一日頑張りましょう!」
凛子は無垢な笑顔を浮かべ、自分の仕事に戻っていった。
◇
局の社員食堂で少し遅めの昼食を終えた凛子は、急遽次の番組で使うことになった物品を取りに美術倉庫を訪れていた。
「えーっと、ピコピコハンマーに安全帽、ぬるぬるローションと電流を流す装置…………」
メモを見ながら棚を回り、台車に物品を積んでいく。
倉庫は照明が絞られていて薄暗い。奥まった場所にある電流装置を取りにいくため、台車を置いて凛子は狭い通路を進んでいく。
すると、奥から話し声が聞こえてきた。
「こんなところに誰かいるの……?」
倉庫は奥に行くほど使う頻度の少ない物品が収納されている。そんな場所で複数の話し声が聞こえるのは違和感があった。
いったい何を取りに来た人なのか。どんな番組で使うのだろうか。凛子が興味本位で近づいていくと――。
「あと二十分で収録なの。早く来て」
「朝からずっと、あす香さんに会いたかった。俺はもう――」
急いた話しぶりに、カチャカチャとベルトを外すような音。しばらくすると男女のくぐもった声が漏れ始める。
物陰からその様子を目の当たりにした凛子は頭が真っ白になっていた。
なぜならその二人は、夫の旺介と望月あす香だったのだから。
◇◇◇
――その晩。凛子は真っ暗な部屋の中でパソコンを開いていた。
パソコンの光が彼女の顔を不気味に浮かび上がらせる。
画面の検索窓には、【夫 不倫 女子アナ】というキーワードが打ち込まれていた。
「――なんで」
げっそりとして表情の抜け落ちた凛子が、唐突に漏らす。
「なんでなのよッッ!!!!」
歪んだ顔でマウスを壁に投げつける。プラスチック製の廉価マウスはひとたまりもなく壊れて床に落ちた。
「うあああああああッッ!!!!」
机の上に広げた企画書や資料をめちゃくちゃにする。頭皮から血が出るくらい髪をかきむしる。
声を出していないと、動いていないと、気がおかしくなりそうだった。
部屋の中がめちゃくちゃになり、当たる物がなくなって、ようやく凛子は我を取り戻す。はあ、はあ、と肩で息をしながら、倒れた椅子を起こして腰をおろした。
「よりにもよって……あす香さんと? なんで? いつから?」
旺介はまだ帰らない。二十三時を指す時計を凛子は恨めしそうに見上げた。
あす香は平日朝の生放送を担当しているから、この時間はすでに帰宅し就寝しているはずだが……。
「あす香さん……」
いつもにこにことしで穏やかで、優しく接してくれた先輩。
悩み相談に乗ってくれたり、親切にしてくれていたのに。
どうして旺介と不倫なんてしてるんだろう? 彼女にはまだ幼い子供だっているはずなのに――。
「なにか理由があるんだわ……そうよ……そうに違いない……」
旺介だってそうだ。彼との付き合いは大学時代からで七年になる。結婚してからはまだ一年で、新婚なのに――。
凛子は通販サイトを開き、検索窓にカーソルを合わせてキーボードを打った。
【夫 不倫 GPS】
画面をスクロールすると、ずらっとGPSが並んでいる。それなりの値段がするものの、小型で高性能な商品もあるようだ。
――こんなことをしてもいいのか。一瞬そんな気持ちが胸をかすめる。
しかし、二人が激しく求め合っていた昼間の光景がフラッシュバックする。その瞬間、凛子は購入ボタンを押していた。
「現代ドラマ」の人気作品
書籍化作品
-
-
353
-
-
39
-
-
56
-
-
112
-
-
27026
-
-
3395
-
-
267
-
-
2288
-
-
89
コメント