さりとて、眺めながら

kamome

さりとて

 まだ日の昇りきらない薄青い時間に、わたしはガラス戸を開けて教室の内側へ忍び入った。

 昨夜降った雪のせいで、ここへたどり着くまでの道はどこもまっ白だった。誰も通ったことのない道へ、わたしひとりだけがさくさくと小さく歩いた証をつけていた。自分唯一があのまっさらな道を歩く人、と思うと静かに心は満ちる。

 靴底の雪を落として中に入れようか迷って、やめる。足跡をつけた名残をそのままに外へ並べておく。前もって鍵を開けておいた戸を閉めて、今度こそ締め切る。

 教室を見渡した。

 これは何の光景だろう。

 海の深く沈んだところの水が満ちているような、そうでなければ、あの太陽の近づいた遠い空の裾あたり、そこの濃紺を水に溶いて流し込んだような空間の色味。それがこの冷たさにひたりと固められて、教室に密閉されている。

 違うかもしれない。似てはいる。そもそも、こうしてたとえてみることはない。寂しさではなく静けさ。ここにそれさえあればいい。あとには、ただのわびしさが。

 わたしはダッフルコートを脱いで床に落とした。身が軽くなる。呼気が泡のように白い。水槽を気の向くまま泳ぐ魚のようになる。この水は慕わしい。

 昼間ここで、わたしは人でしかない。皆はきちんと魚でえら呼吸をする。それも鮮やかな熱帯魚達だ。わたしは息苦しくなって、しょっちゅうこの場所を出て行かなければとてもいられない。何ということもないところで喘いでいる。ぶざまだ、と言ってやる。

 巨大な回遊魚のつもりでゆっくりと泳ぎ続ける。

 そのうちに空がじわじわと色合いを変えていく。

 ふと隅の棚を見ると、その上に細い透明な花びんが置いてある。生けてある何本かの花のうち、白いただ一輪に見とれた。他の花の凍てついて色も萎えているのに、こればかりがみずみずしく生きている。この花がほしいと思った。他をすべて引き抜いた。冷たさに映える白い花弁をしたものだけが残った。

 淡く日が、わたしの席に差している。

 そっと花びんを運んでいく。机の上に下ろして、やっと手放す。花はわたしに代わって居場所を占めた。
 長く見つめる。

 白い花弁のくぼみに光が溜まっている。ほの明るく揺らいで匂う。

 今太陽が空を白けさせ、あおみを照らし出す。

 さぁもう二度と人にはなるまい。何も考えないで泳ぎ続ける魚を願おう。 

 わたしは静かに身を引く。花の白さを損ないたくない。

 ポケットの冷たいものを、指先で繰り返しなぶる。

 水の中にわたしと花は漂っている。

 手の内のものの正体は、これも銀色のやさしい魚。首筋にキスしてくれる。

 いよいよすべては白く明けるだろう。

 目を閉じて、この朝日の中かき消える。

 昼間の水槽は明るい。窓から注ぐ陽光は、この四角い部屋の何もかもをまぶしく照らし出す。

 わたしはふっとわずかに意識を戻したけれど、そのまま明るさを避けて、すぐに腕の中の暗がりへ引き返す。

 水面に体が浮き沈みするように体が揺れる。まぶたを薄く開くと、大きくしなやかな手がわたしの肩に広がっていた。おぼろげなその輪郭を眺めていると、再び体を揺さぶられる。わたしはマリオネットが繰り糸を振り回されるようにぐらぐらとして、ようやく目を見開いた。真っ先に大きな手の向こう、涼しげな瞳に焦点があった。

 わたしは水槽の中へ引き戻される。

 長くその人と見合ってから、ぼんやりと瞬いた。

「英輔」

 水紋のように忍び笑いが広がった。

「起きたかあ。深田」

 わたしは気まずく身を起こした。

 整然と並ぶいくつもの机。こっちを見つめているたくさんの顔。離れていても目につく魚眼が、座席表で扇ぐひときわ大きなにやにや笑いをわたしに向けている。

 肩にあった手が引いていく。わたしは身を固くして、みっともなく赤らんでいく顔を伏せ、目を泳がせた。

「けしからんなあ。新学期も初日に居眠りを決めこんでいるとは。先生、赴任してきたばかりでみんなとは初対面だから、けっこう緊張して話をしていたんだがなあ」

 魚眼男は大げさにがっかりしてみせた。

「まさかいきなり寝顔に向かってよろしくと言う羽目になるとは思わなかった。今ちょうど自己紹介をしていたところなんだが、深田。先生の名前は何だったかな」

 間が空いた。

 わたしは声を絞った。

「ん?」

 魚眼が困ったように眉を下げる。

 もう一度答える。

「なんだ?」

 さらにもう一度聞き返されて、わたしはやっと小さな声を届けることができた。

「すみません。わかりません」

 さあっと、またわたしを中心にして笑いが広がる。

 おかしなことを言っただろうか。

 息が詰まり、頬が燃える。冷たい汗がにじむ。

「ウン。そうだろう。じゃあ、隣の佐野クン。彼女に教えてあげなさい」

 また間が空いた。

 わたしを揺り起こした人間は大きな口を歪ませて、期待に応えるように言った。

「わかりません。夢中で、聞いていませんでした」

 わたしひとりに向けられたものとは違う種類の笑い声が空気を乱した。魚たちがわっとエサに群がるような感触。

「そうだろう、そうだろう」

 表情豊かに魚眼がうなずいた。いいか、もう一度書くぞとおどけた口調で言って、「滝田英明」と黒板に白いチョークで、でかでかと書く。

「先生はな、そういったことには理解がある方だからな。いつでも相談に来なさい。そして、その時のためにぜひ、名前を覚えておくといい。よろしいかな、お二人さん」

 魚眼は野太い声で言って、からかうように笑いかけた。

 たくさんの顔がにやにやと横目でわたしたちを見つめている。どの目も白目の部分が妙に生々しい。ふと生臭さが鼻先をかすめた気がした。たくさんの魚が目を剥いて私を見ている。背筋を冷たいヘビが這い下りていくようだった。

 わたしはいつの間にか立ち上がっていた。

 ざわつく声が水の中にいるように耳に響いて、動きはスローモーションのように鈍くなる。

 わたしは手で口を被った。なぎ倒すように机の間を通っていく。教室の扉をガラリと引いて大きく息を吸おうとして、ぐっと体を折り曲げる。

 息が出来ない。気持ちが悪い。

 背中に声が迫っていた。口をしっかりと押さえながら、わたしは廊下を駆け出した。

 過ぎていくどの水槽にもたくさんの魚たちが泳いでいる。ちらりとわたしに目を遣ることもあるが、すぐに退屈そうに視線を戻す。教壇に立つ教師たちは、声を張りながら、あるいは伏せ目勝ちに、笑顔で、無表情で、同じようなことを話している。すべての水槽の中では同じことが起こる。同じようなヒトたちがいる。同じことが繰り返されている。

 トイレに駆け込むなり、わたしは個室に入って戻しはじめた。

 こみ上げてくる気持ちの悪さをひたすら身体の外へ追い出す。顔は真っ赤に歪んでいる。頭がぼうっと気だるくなってくる。少し楽になると、抱え込んでいた便器から顔を上げて必死に呼吸する。やがて不快感がこみ上げてきて顔を下げる。そして溺れているように天井を仰いで、情けない顔でまた息をする。

 ぶざまで滑稽な姿だ。でもわたしにはどうしようもない。

 ふいに近くで足音がした。はっとしたときには、閉め忘れた個室の扉が音もなく開いていた。

「ああ。ひどいね」

 涼しい眼差しが私を見下ろしていた。

 わたしは口を開いて、言葉の代わりに腹の中のものを吐き出した。それからぱくぱくと空気を呑む。

 英輔は嫌な顔もせず、むしろ微笑を浮かべて、じっとわたしを見つめている。

 これ以上胃からは何も出てこない。そう思っても不快感が引かない。息がうまくできない。

 ぐったりと座り込んだ。

「英輔」

 わたしは自分のかすれた声を聞いた。横でへらへらしている人間に訴えた。

「背中をさすって」

 英輔ははじめ微動だにしなかったけれど、ゆっくりとしゃがんで大きな手をわたしの背に当てた。その手が心地よく冷たい。

 わたしはいつの間にかスカートの右ポケットに手を入れていた。ぼんやりと中のものを弄んでいた。

 英輔が背中に当てているのとは逆の手で、わたしのポケットに入れた手首をきつく握る。それから何気なく背中をさすり出す。

 わたしはやっと息をついた。水を肩からかけられているようだ。胸のつかえが流れていく。同時に、力が抜ける。水のどこか深いところに、わたしはどこまでも沈んでいく。

「クラスのヒトたちは、みんな驚いていたよ」

 英輔は静かに言った。

 まだどの教室でも授業をしている時間だ。廊下には人気がない。水槽から聞こえてくる声はどこか遠くで響いている。わたしは今、それらから隔てられたところにいる。目を閉じて考える。ここは水槽ではない。もっと深みのある水の中だ。英輔の声と自分の呼吸音だけを、近くに感じていた。呼吸がゆったりとしたテンポに移っていく。

「あの先生も、出目を見張ってびっくりしていた」

 彼はクックッと喉を鳴らし笑う。

 急につかまれていた右手首を引っ張られた。ポケットから手が抜ける。

 わたしは目を開いて、ぼんやりと英輔の顔を見上げた。もう何も持っていられないほど、右手が痺れていた。

「さあ。戻ろう」

 彼はさらに強くわたしの手を引く。

 英輔は恥ずかしげもなく女子トイレから出ていく。彼はしばらく大股に歩いてから、わたしの手を離した。

 手首は赤くなっていた。わたしはそこをそっとなでると、口をゆすいでから英輔の後を追った。彼の二倍の速度で足を動かす。

「ねえ」

 斜め後ろから小さく声をかける。

「何」

「さっき、何かしたの」

「さっきって?」

「教室で。わたしが寝ていたとき」

 英輔はわたしに目を落とした。

「どうして?」

「みんなが笑っていたから」

「そう。ミワちゃんを笑っていたんだ」

 わたしは黙り込んだ。

 英輔の唇が、かすかに歪んでいる。

 英輔が十歩歩く間に、わたしは二十歩歩く。

 彼は唐突に言った。

「見ていたんだ」

 わたしは顔を上げる。

「ミワちゃんが寝ているのをじっと見ていた」

 彼は低く笑った。

「あのヒトたちがどう思ったか、わかるだろう」

 廊下に足音が響く。

 教室に戻らないうちにチャイムが鳴った。教室の中がざわざわと騒がしくなったと思うと、色とりどりの魚群が廊下に溢れ出す。前にも後ろにも言葉が行き交っている。

 わたしは群れの中から突き出る英輔の頭を目印に進んでいく。

「ああ、深田。佐野」

 向こうから声がして、目印が動きを止める。

 わたしはやっと彼と並ぶことができた。

「大丈夫か。深田」

 わたしは魚眼にまじまじと見つめられて、黙って頷く。

「一年生の時おまえと同じクラスだった生徒に事情を聞いたよ。時々こういうことがあるんだってな」

 魚眼は戸惑い混じりの、心配そうな顔でわたしの顔を覗き込む。

「前任の先生は誰だったかな。おまえのことをまだ何も聞いていなかったんだ。もう平気か。無理はしなくていいんだぞ」

 わたしが小さく口を開こうとすると、英輔が口をはさむ。

「平気じゃありません。彼女、トイレで吐いていたんです。帰ったほうがいい」

 魚眼が眉をひそめて英輔に向き直る。

「佐野。おまえは、心配なのはわかるが、黙って教室を出て行くのはやめなさい」

 英輔は無言で魚眼を見返した。

 何でもない仕草なのに、魚眼が背筋を伸ばす。立ち位置を変える。

 英輔は軽くボールを投げつけるように言った。

「それは、すみませんでした」

「わかればいい」

 魚眼は英輔から視線をはずした。

 英輔はどこか勝ち誇ったような微笑を浮かべている。魚眼教師もしょせんは魚の一種なのだ。英輔にかなうはずもない。

「もう今日の授業は終わっているんだ。ミワちゃん、帰ってもいいでしょう」

 英輔はあっさりと言って、さっさと教室へ戻っていく。

 わたしも帰ります、とだけ言うとすぐに彼の後を追った。

 息を詰め、掃除をはじめようと騒がしい教室へ戻る。自分の机に向かう。

「深田さん」

 二人のクラスメイトがわたしを見つけて声をかけた。

「さっき、大丈夫だった?私たち先生に聞かれて、深田さんのことを少し話しちゃったんだけど、かまわなかった?」

「うん」

 わたしは懸命に微笑んだ。

「心配してくれて、ありがとう。ごめんね」

 自分の頬が引きつっているのを感じた。わたしはへらへらとして、二人を交互に見つめた。

「ううん。どういたしまして」

 一瞬、二人が目を合わせる。何となく笑い出しそうな、奥歯に何かはさまっているような表情をする。二人の様子に、わたしは自然と視線を落としていく。

 二人が愛想よく微笑みながらいなくなる。

 彼女たちの後ろに、机に頬杖をついた英輔がいた。彼はすらりとした足を組んで、こっちを楽しげに見ている。

「お。おかえり、佐野」

 英輔にクラスメイトの一人が話しかけた。

 彼は唇だけでにこりとして言った。

「ただいま」

「深田さん、平気なの」

 そのヒトが笑い出しそうな、不思議な表情をしてわたしを見遣る。

 まるで動物園のサルになったような気持ちで、わたしは無理やり気づかないふりをした。

「うん。治ったみたい」

 英輔が遠くにいる人のように、だけどあからさまにわたしを見る。

「ふうん。こういうこと、よくあるの」

「あるみたいだね。おれも、ミワちゃんとは今年からクラスが一緒だから」

「なあ」

「何?」

「付き合ってんの?深田さんと」

 英輔は今にも吹き出しそうな顔をして相手を見返した。大きな目が弓なりに曲がり、目尻にできたしわがピクピクと動く。口の端が奇妙に歪む。

 見られた方はぞっとしたように身を引く。

 ペリカンみたいに大きな、英輔の口が動く。

「どう見えるの?おれと深田さんって」

 笑うように震えているが、声色はごく冷たい。彼の目は相手をじっと見つめている。彼らの周りに薄い膜が張りつめている。

 わたしはその様子に引きつけられた。

 話しかけてきたクラスメイトは何でもない、とごまかすように言った。

「そう?」

 英輔がまたにこりと笑う。彼の獲物は、とたんにぱっと離れて行ってしまった。

 シャボン玉が弾けるような感触がして、水槽にざわざわと音が戻ってくる。

 わたしはふと英輔を見た。英輔の目や口は、今度ははっきりわたしに向けられていた。

「帰ろうよ。ミワちゃん」

 わたしは小さく頷いて、荷物をしまいはじめた。

 英輔は先にカバンを持って席を立つ。

「何?帰るの」

「うん。じゃあね」

「また明日」

 声をかけられてそれに応えながら、彼はゆっくりと歩いていく。

 わたしも小走りに英輔の後をたどる。

「深田さん、お大事にね」

「気をつけてね」

 通り過ぎる時にかけられた言葉に、ぎこちなく頷いた。

 わたしたちは水槽を抜け出した。

 桜の並木道を、英輔に少し遅れながらついていく。

 もう少し暖かくなれば花が綻び、この道も花見客で埋め尽くされるけれど、今はちらほらとだけ人が見える。敷地内に野球場やバラ園もある大きな公園だ。穏やかな午後、人々はベンチで体を休めたり、ランニングや犬の散歩をしたりして、思い思いにやさしい時間を過ごしている。

 わたしは静かに呼吸した。冬の寒さが、まだ名残を留めている。ひんやりとした空気を繰り返し吸い込む。すると頭の芯がすうっとして、わたしは正気を取り戻したような気持ちになる。教室にはヒトが大勢いて、空気は生ぬるい。そこでのわたしは頭まで酸素が回っていない。少ない空気でやっと息づいている。そんな気になる。

「ミワちゃん」

 英輔が振り向く。

「座ろうよ」

 わたしが返事をする間もなく、彼は腰を下ろした。

 それは大きな池の縁にあるベンチだった。そこからは池に架かる橋を渡る人や、カモの群れが隅の方で身を寄せ合う様子が見える。赤や黄色の遊具が置かれた広場がある。一人の子供がパンダの乗り物にまたがって、ぎいっこ、ぎいっこと揺れる甲高い音が池に響き渡る。

 わたしは英輔の横に腰掛けた。

 風が吹き抜けて、少し肌寒くなる。大きな雲がどんどん流れていく。揺れる水面が時折差す陽光に反射して明るく輝くけれど、その濃い灰色の水は触れるにはまだひどく冷たそうだった。

「寒い?」

 わたしは黙って頷いた。

「そう」

 英輔は平気な顔をして水面を眺めている。

「新しいクラス、どう」

「みんな優しい」

「そうだね。優しい」

 彼は一拍おいて、思い出したようにつけ加えた。

「気持ち悪い」

「うん」

 わたしは小さな声で同意した。

 強い風が吹く。わたしたちは少し肩をすくめるだけで、寄り添おうともしない。

「嘘くさいね。わたしたちが優しいなんて言うと」

 わたしもぼんやりと池を眺めながら言った。

「そうだね」

「どうしてだろう」

 英輔は急にわたしを睨みつけた。

「知らないよ。どうだっていい」

 わたしはポケットに手を入れていた。

 英輔がその手首を捕まえる。

「痛い?」

「うん」

「そう」

 わたしは目を閉じて、右手が痺れていくのを感じる。

「こういうの、前からだよね」

「うん」

「ずいぶん頻繁じゃないの」

「うん」

 右手の感覚がなくなっていく。

 日の光が瞼の裏で飛び交っている。明るいような暗いような視界と寒さの中、英輔の声を聞いていると不思議な気分になる。彼の手の冷たさにくらりとして、波間に漂い、やがて深い水底に沈んでいく。

「クラス替えがあったからかもしれないね」

 英輔は変わった声音をしている。子どもとも大人ともとれない、その半ばをとった微妙な音。いつもほんの少しだけかすれている。それがむしろ幼げだ。駄々をこねた少年が、そこにだけ残っている。

 英輔は一度手を離して、わたしのポケットに手を入れた。大きな手が小さな手をどけて、わたしの持っていたものをつかむ。

「危ないよ」

「ミワちゃんこそ。よくこんなものポケットに入れてるよ。いつから持ち歩いてるの」

「かなり前から」

「触るのは初めてだなあ。おれが知るより前からずっと持っていた?」

 わたしは頷いた。

「ふうん」

 英輔はわたしがしていたように、それをポケットの中で弄んだ。

 わたしはじっと身を固くする。

「怖い?」

 英輔を見上げる。嬉しそうな、そしてどこかねじれた笑いを浮かべている。わたしは彼の手をポケットの中で捕まえる。

「ミワちゃんって臆病だよね」

 彼はポケットから手を引いた。代わりに足元に視線を落として、その手で何かを探し出す。

「それなのに、そんなもの持ち歩いてるなんて変だよ」

 言いながら、身を起こす。

 わたしは彼が拾った石を見つめた。

 英輔は立ち上がって、池に張り巡らされた低い柵の方へ歩いて行く。わたしは彼の背中を目だけで追いかける。

 英輔は長い手を振り切って池に石を投げ込んだ。ボチャン、と大きな音がして、遠くのカモたちがびくりとこっちを見る。彼はもう一度石を手に取って、思い切り羽ばたくように手を振った。それは大きな鳥が窮屈なカゴの中でそうしようとするのに似ていた。

 わたしはぽつりと呟いた。

「時々たまらなくなるの」

 英輔が首だけを私に向ける。

「そのためのもの。わかるでしょう」

 彼はもうひとつ石ころを拾って、私に近づく。手渡された大ぶりの石を見下ろして、それから英輔を見上げた。

 立ち上がって柵に近づく。ずしりと重いそれを、水面に叩きつけた。

 英輔も隣に来て、今度はカモたちのいる方へ石を投げつける。

 互いを温め合っていた優しいカモの群れは、慌てて空中に飛び上がっていった。

おれはミワと公園で別れると、ひとりぶらぶら歩いて帰り道を辿った。頬に当たる風はまだ冷たい。けれどそれは好ましい冷たさだった。この空気を取り込むと、肺が満たされて体を流れる血液が清浄になっていく気がする。このまま季節がほどけず凍りついてしまえばいい。そしたらこの世は少しだけまともに見られるようになるだろう。

 おれは通りがかりのコンビニで、目についた色とりどりのパッケージの菓子を雑多に買い込んだ。

 アパートが近づくと鞄から鍵を取り出して、キーホルダーの輪に指を入れてくるくるともてあそぶ。

 ビニール袋をがさがさいわせながらアパートの小綺麗なエントランスに入っていく。

「佐野君」

 おれは振り返った。

「おかえり」

 ここの管理人がにこにこと気さくに話しかけてきていた。

「こんにちは」

 おれはにこりとして応えた。

 帰ってきたときに会うと、この管理人はいつもおかえり、と声をかけてくる。向こうは当然のようにそう声をかけてくるけれど、ただいま、と返すほどおれはここに馴染んでいない。ただいまなんてうっかり言い返してまった日にはぞっと鳥肌が立つことだろう。

 管理人はおれの手に下げたものにちらと目を向けるなり、眉根を寄せた。

「佐野君。君はまた、何を買ってきたの」

「何って。酒なんか買ってませんよ」

「そんなにたくさん・・・・・・お菓子だね?」

 管理人は無遠慮にビニール袋の中身を覗き込んだ。

「いけませんか?」

「君ねえ。せっかく朝晩食事の出る学生マンションに住みはじめたんだ。そんなものばっかり食べていないで、ちゃんとした食事を摂らなきゃダメだよ。ここは家賃だけでもそこそこするのに、何のためにご両親が食費まで出してくれていると思ってるんだ」

 中年の管理人はまるで自分がおれの父親だというように説教を垂れた。

 おれは愛想よく相づちを打ちながら、管理人の言葉がそのよく動く口から流れ尽きるのを辛抱強く待った。

「とにかく、きちんと食事は食堂に食べに来ること。あんまりひどいと親御さんに連絡するからね」

「ええ。わかりました」

 おれは大人しく頷いて管理人が管理室へ戻っていくのを見送った。

 すうっと胸が冷めていく。

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴る。

 水槽の中のだらけた空気が、はっと目を覚ましたように一瞬浮き立つ。

 ところがチャイムが聞こえなかったかのように話を続ける魚眼の様子に、魚たちはゆっくりと元の位置に沈んでいく。

 わたしもまた夢見心地で、薄暗い白昼夢の中にヤドカリのように引っ込んでいく。

 たっぷり五分間休み時間を削り取った魚眼教師は、最後のごほうびにひとつまみ特上のエサをまいて、水槽を出て行った。

「午後のロングホームルームでは、来月の林間学校のグループを決める。各自、誰と組むか考えておくように」

 水槽の中の魚たちが沸き立った。

 英輔が私に目を向けたのを感じる。動かない私を見て微笑している。

 やがて彼は席を立った。

 しばらくして、わたしも機械のように決まりきった動作で立ち上がる。早くここを抜け出さなければならなかった。目だけで目印を探し出し、それを頼りに混み合った廊下を通り過ぎる。階段までたどり着くとわたしは俯いて、英輔の後から上っていく。ひたすら上へと運ばれていく二本の足を追っている。すると段々しか目に入らない。ぼうっとしていると、ふとそれがどこまでも終わりなく続いているような気になる。

 英輔の足が止まった。

 気がつくと、わたしたちは校舎の中で二番目に高い位置にある踊り場に立っていた。そこから先には、腰の高さに「立ち入り禁止」という札付きの鎖がかかっている。

 英輔は軽々とそこを乗り越える。

 わたしはのろのろと気をつけながら鎖をまたいだ。

 さらに数段の階段を上がると、古い南京錠がひとつかけられた鉄製の扉の前にたどり着く。

 英輔が少し錆びついた南京錠を手に持ち、輪になっている部分をぐいと力を入れて上に引っ張る。それだけで役目を果たさなくなった金属片は、あっという間に英輔のポケットに収められてしまった。

 いつか、最後に扉を開けた誰かがきちんと鍵を閉め忘れたのか、それとも南京錠自体古くなって、その約束を守れなくなったのか。もしかすると、英輔の不思議な手品のひとつなのかもしれない。

 この秘密はどうして見つけたのか英輔と、今ではわたしのふたりしか知らない。

 英輔が扉を横に引いて開いた。生ぬるい空気が押し寄せる。春の初めの小雨がぱらぱらと体にかかる。英輔は気にせず外へ出た。

「昨日よりずっと暖かいよ」

 わたしたちは入口の屋根になっているところに座り込んだ。風が強く吹けば雨にも当たるが、それほど気にならなかった。

 英輔がビニール袋からパンを取り出した。

 わたしも弁当を広げる。

 わたしは箸を持ったまま屋上を見渡した。

 学校の正面、道路の向こうに、緑色の看板を掲げた立体駐車場付きのショッピングモールがある。黄や、黒や、白色のミニチュアみたいな車がその中を動き回る。学校の隣にはドラックストアの赤い大きな看板が立っている。それらすべてが、細い雨のベールの向こうにある。遠くの色は曖昧になって霞んでいる。垂れこめた雲が発光しているような灰色で、気だるげにさらさらと雨粒を落としている。

「気分が悪そうだね」

 ジャムパンとメロンパンを早々に平らげて、英輔が口を開いた。

 この雨は少しだけわたしを楽にしてくれる。水槽の水のように重たくないから、わたしは一匹の軽やかな魚になって、雨粒のすき間を縫い、どこまでも泳いでいけるような気になる。水の中でも呼吸ができているという錯覚に陥る。

 英輔は菓子パンの袋を細長く短冊に折って結び、ビニール袋の中に入れて、その袋の口をまた結ぶ。ぽい、とそれをわたしの方に投げた。

「あんなどうでもいいことだって、ミワちゃんは辛いんだ」

 わたしはビニール袋を手に取って、英輔に投げ返した。

 彼もまた袋を拾い、わたしに投げつける。

「ほかの誰も悩まない、くだらないことなのに」

 わたしが投げ返す。

 英輔がそれを拾う。

「バカみたいだ」

 袋はわたしの肩に軽く当たって転がった。

 わたしは弁当に目を落として、何もなかったように箸を動かした。しばらく黙々と口を動かして、だんだんと視線を上へ戻していく。にんまりと笑っている大きな口と、じっと、何かうまそうにわたしを見つめている涼しい眼差しに出会う。わたしはもう一度俯いて、卵焼きに箸を突き立てた。そのまま英輔に差し出す。

 英輔はちらりと見るなり、迷わずひと口で食べた。わたしから目を離さないまま呑み込む。

 ソーセージ。ベーコンのアスパラ巻き。プチトマト。英輔はペリカンのように、あげればあげた分だけ呑み込んだ。

 わたしの弁当のおかずは、あっという間になくなってしまった。

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