ショートショート「ひまわりのように」

有原悠二

ひまわりのように

 洞窟の奥にまで差し込んできた光は確かに針のような鋭さだったから、俺は残りの煙草を全部へし折っていつまでもくすぶっていたアイツの言葉をそこに浮かび上がらせたんだ。
「山にはなにもなかった。だからもう絵は描かない」
 それが最後だったように思う。俺はいつもアイツの背中を追っていたから裏切られたと勘違いされても仕方ないけど、それでもアイツの最大の理解者はいまでも俺だと思っている。
 アイツはゴッホに心酔していた。だからかもしれない。もう少しでうまくいきそうなときに限っていつも自分の首を絞めるような奇行に走り、明るい未来を壊してしまう癖があった。いつまでも売れないでいることに絶望と誇りを感じていたように思う。それが芸術家の血かもしれないけど、俺から見ればそれはただの呪いにしか見えなった。つまり不器用だったのだ。俺もアイツも。

 世間に向けていた攻撃の手を自分に向けだしてから、本格的に神について語りだして、そして消えてしまったアイツの軌跡を追うのは実際に大人になってからのほうが面倒なことが多かった。それでも俺はアイツが見たであろう最後の景色が頭の中にぽっかりと開いている空洞になんのテーマ性も感じない下手くそな抽象画として離れないもんだから、バスに乗ったんだ。十年分の後悔とともに。それが年の終わる昨日だった。

 大学を中退したアイツの部屋にあった絵の裏にはその山の名前が記載されていた。ただそれだけだったけど、俺はそれだけでたどり着ける直感的な確信があった。おかしなもので俺はそれだけで救われた気がした。アイツの人生はもっと肯定されるべきだと思うから。

 本格的な夜が来る前に洞窟は呆気なく見つかった。俺は凍死しないように背負ってきた荷物を下ろす。テントを広げて、くたびれた足を投げ出して、ランタンに火を灯し、湯を作る。生きるということは面倒くさいことの連続だ。それを投げ出せる人間が、もしかしたら天才と呼ばれる部類に入るのかもしれない。湿った天井から水が滴り、その音が反響する。外では風が騒がしい。洞窟はまだまだ奥がありそうだったが、俺はその暗闇に突っ込めるほど非常識ではないから、ここで十分だった。きっとこの距離が俺とアイツの距離なんだろうな、と思いながら久しぶりに酒を口にする。アイツは確かに躊躇なく暗闇の中に飛び込んでいけるような奴だった。だからかもしれない。洞窟の奥からアイツの気配を感じるが、夜に会うのは嫌だった。アイツはいつも夜になる前に酔いつぶれて、暴れるようなクズだったから、そんなアイツには会いたくなかった。誰もアイツみたいになりたくはなかった。アイツは死んで当然の人間だった。誰もがそう思っていた。例外的に、アイツ以外は。目を閉じて瞑想する。
「絶対にやってくると分かっている未来ほどつまらないものはない。そうだろう?」
 確かにそうかもしれない。こんな未来がやって来るなんて、いったい誰が思っただろうか。いや、案外あいつは思っていたんじゃないか。だから誰よりも飛び込んでいくことができたんだ。俺たちが到達できないと思っていたその果てに。
 目を開ける。ランタンの火が消えていた。俺はそこになにを見つめるべきか悩んで、それでもアイツのようにはいかない自分を鼻で笑い、洞窟の外にでた。耳のちぎれそうな風。かすかに浮かび上がる闇。俺は自分を殺したい衝動に駆られる。木々の揺れる音に意識を奪われながら。
 アイツは確かに消えた。俺はそれからも歩き続けてきたのに、どうして俺はアイツに追いつける気が一切しないのだろうか。
 気がつけば雫の音が時計代わりになって、俺の精神世界を蝕んでいった。目を開ける。洞窟の向こう側が白んでいる。もうすぐ朝日が昇る。初日の出だ。俺はそこでようやく、絵を諦めようと思った。

 その絵にタイトルをつけたのは他でもない俺だった。だからその絵が外国のどこか遠い美術館に行ったとき、本当はそこが俺にとっての新しいスタート地点になるべきだったのだ。それでも俺は鈍いから、ずっとこうして自分と自分の目の前に広がる世界を騙しつつ続けてきた。あの絵を見た瞬間の目が覚めたかの衝動をただの嫉妬に置き換え続けて。

 針のような光が洞窟内に広がっていく。穴の向こう側に新しい世界が形作られていく。直視できないほどのまぶしい光。それは未来の一部を届けてくれるかのように俺たちを包み込んでいく。だからきっと洞窟の奥から聞こえてくるこの声は幻想なんかじゃなく、いつかの過去なんだと思う。
「お前はこれからどうするんだ?」
 俺はその声になんて答えたらいいのか迷いながらも、それでも絵を諦めきれない自分をどうしても肯定したくて、だからまだ振り返らずに、山を下りようと思った。まだ、振り返られない。その思いがあの太陽のように激しく燃えているうちに。

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