今日から俺は魔法少女

東野 伊織

望む最善と思う最善

こんなことを願ったことがあるだろうか…
もしあの時…あの瞬間に戻れたらと。
しかし、それはどんなに願おうとも叶うはずもないただの愚劣な願望。
そうして願う側もそれを承知の上で思っているのだ。

俺だってわかっていた…祈った願いなど大抵叶わない。
だからこそ俺は後悔しているのだ。
あの日 あの時 ボールを握ったことを

──後悔とはこの世の物事の中で最も無意味なものである。
過去のことを遡って考えたところでいいことなんて何も生まれない。
欠片でも思い起こすたびに酷く混乱し、罪悪感と絶望がより一層俺を包み込んでいくのだ。
そうなるたびに思い出す…信頼と裏切り。
積み上げたものが一瞬で崩壊し、俺の心もまた共に崩れ去った。
そうしてある瞬間ふと気が付く──この世界に希望なんて存在しない…
人の望む・・最善の未来など、叶いはしないのだと。

重い瞼を持ち上げると、そこには色鮮やかな空が広がっている。
日照りも風もほど良い日…どこぞの物語の旅人はさぞ楽できそうな一日だった。
川の水面は日の光を反射して輝き、その様は宝石が散りばめられているようだ。
そんな綺麗な風景を横目に、彼らはバスに揺られて目的の場所へと向かっていく。
少年たちの眼は希望で満ち、輝いている…その光景を俺は様々な視点から見せられる。
あの日から俺の目に映る世界は色を失った…

「最近はなかったのにな」

少年たちの雰囲気とは裏腹に俺の口から出た言葉は鬱屈としていたが他意は無く、
これは俺にとって見慣れた光景で…加えて言えば最近はすっかり見なくなっていた現象。
しかしその内容はすべて覚えている。
当然だ…当時、数ヵ月もの間は毎日この光景を見続けていたのだから。

そう、これは過去に俺が犯した罪のトラウマなのだ…

再び瞼に力を籠めると、ガレージのシャッターが開くように俺の視界にはモノクロの天井が映る。
窓から差し込む光に照らされた埃が、輝きながらも空中を舞っていた…
それを払って部屋の明かりを付けると…暗闇に覆われていた部屋は色を取り戻した。

俺の名前は上谷かみやゆう
両親と三人で田舎に暮らしていたが、最近都会に引っ越してきた。
出身の田舎では割と有名だったがここでは違う、俺を知る人間は誰もいない。
朝の六時、ベットが軋む音と共に身体を起こす。
いつもならばもっと遅い時間に目が覚めるのだが、
今日は何故かとても健康的な時間に目が覚めてしまった…

「久しぶりにあの夢を見たな…」

今年で15歳の俺が、短い人生の中で早くも作り出した黒歴史。
生涯残るであろう心的外傷トラウマのおかげで、
その事に関連するものがあれば何もかも思い出せてしまう…そうして気が動転してしまうのだ。

だから俺は辞めることにした…何もかも最初からなかったかのように演じてきた。
苦しかったことも、嬉しかったことも全て…絶望と一緒にあの場所トラウマに封印したのだ。
そうして先日、やっと俺の編入手続きは終了した。

「やり直すんだ…俺ならできるさ」

楽観的な言葉を呟けば、それは虚しく部屋に響いた。
しかし無理にでも切り替えなければならない…なんと言っても今日が初登校日なのだから。

「やっと起きたか悠、使命を伝えに来たぞ」

突然背後から聞こえた声に振り向けば、そこには人の姿はない。

「あれ、俺まだ寝ぼけてるのかな?」

誰もいないのに声が聞こえた。
母さんや身近な人の声じゃないのは判別できたが、聞いたこともない声だ。
それは深く重い、一般的に威厳のある声といえるだろう。
しかしながらその発生源は──

「我は御陰…悠よ、汝は我のパートナーとなったのだ」

──小さな犬の姿をしていた。



はて、俺はケータイにストラップなんて着けていただろうか…
記憶が確かならばそんなもの着けたこともなければ、人形なんかも持っていない。
ならばこのケータイの上にある『犬の人形』──は誰のものなのか…
心なしか浮いているように見えるそれは、俺に語りかけてきているように見える。

「うん、俺はどうやら寝ぼけているみたいだな…犬の人形が浮いて喋るなんて」

「ほほう…よもやこの私を犬の人形呼ばわりするとはな」

これは夢なのだろうか…それにしてはハッキリと見えている気がする。
古典的に頬を抓ったり目元を擦すってみるが状況は変わらない。
依然として異常な光景はそこに存在した。
俺は額に手を添えて状況を整理することにした…
異様な存在感を放つ人形──は一体何なのだろうかと。

目の前のそれは俺が犬の人形と呼んだときに元々低かった声色を不満げに落とし、
頬を引き吊らせて微妙に不細工な笑みをつくっているのだ。
喋っているという点がもうすでに頭を抱えてしまうほどの出来事なのだが、
百歩譲ってそれはそういうものと飲み込んでしまおう。
でも──こいつ浮いてるんだよなぁ…

「えっと、お前は何なの?」

「無礼者め…私には御陰みかげという立派な名があるのだ」

御陰…犬には大層な名前だなと思ってしまうが──流石に名乗られてしまうと、
"お前"と呼び続けるのは躊躇われることもあり──俺はこの犬を御陰と呼ぶことにした。

「私は妖精の国からやって来た高貴な妖精だ…悠よ、改めて使命を伝えるぞ」

高貴ね…妖精と聞いてつい疑ってしまいそうになるが、犬が喋ったり浮いたりしてたら信じざるを得ない。
一度話の腰を折ってしまったこともあり、今度は黙って聞いておこうと思う。
しかしまぁこの状況は──御陰の姿は犬だ…なんの犬かって?

チワワだよ。

それはもう愛くるしい顔をしている小型犬ですよ。
そんな御陰が足を伸ばして腕を組んで浮かんでいるこの状況──シュールだ。
大体何でチワワなんだよ…高貴感出すならもっとあるだろ、ドーベルマンとか。

「──私と契約し、世に蔓延る侵略者共を殲滅してもらう…」

御陰から放たれた言葉にどうでもいい思考は一瞬にして消し飛び、驚きを隠せなかった。
当然だ、今まで俺は平和に生きてきた…侵略者など見たこともなければ聞いたこともない。
だが、この御陰との出会いが…俺の人生を大きく狂わせていくのだった──



空は澄み渡りまるで天が俺の初登校を祝福してくれているかのよう。
それでも俺の横に浮遊・・する悪夢は冷めないままだ。

「悠、我を見つめてどうした…まだ慣れないのか?」

「あのなぁ、慣れろって言われてもすぐには無理なんだよ…」

俺の隣で空中浮遊しているのは御陰という自称妖精だ。
妖精の国から遥々世界を救うためにやってきたらしい。

「これは確認なんだが、本当に見えてないのか?」

御陰によれば妖精の姿はパートナーである俺にしか見えないらしい。
しかし、道で通り過ぎる人はみな奇妙なものを見る目でこちらを見てくるのだ。

「安心しろ、我の姿はただの人間に見えてはいないし声も聞こえない」

そうか、それならよかった。
…では道行く人たちはなぜこっちを見ているんだ?

「彼らは一人で会話する悠をみて気味悪がっているだけだ」

「それはそれで別の問題が生まれたな」

俺からすれば会話だが、普通の人からすれば独り言にしか見えないのか…
すると、これから御陰と話すたびにあらぬ誤解をまき散らすことになってしまう。

「こうしよう、我は悠の思考を読み取ることができる。
悠は我に声を出して話す必要などない、ただ考えればいいだけなのだ」

『…確かにそのほうが奇異の視線を向けられなくて済むな』

御陰は普段ただの犬ではない、妖精なのだからただの犬ではないのだが…
この妖精は空中浮遊に加えて念話までできるらしい。
ためしに言葉を思い浮かべてみれば御陰は頷いて「その調子だ」と言う。
どうやら今の間隔で合っていたようで、早速念話という感覚を掴むことができた。

『それじゃあ確認だ御陰…俺じゃなきゃいけないってのは?』

「妖精は嘘はつかん、毛並みに誓って本当だ」

『あまり信用ならない誓いだな』

毛並みってなんだよ、妖精ならもっとかっこよく主にでも誓えばいいのに。
いや、今はそんなことどうでもいい。
御陰が言うには俺がこの世界を救う為の審査を通過した数少ない候補者なのだとか。

『それにしても、話を聞いただけじゃ信用できないな…』

「悠の世界には創作物としてある侵略者という存在…書物によっては悪魔や魔物とも記載されているような怪物は…実際には存在しないとされているのだったな」

『そうだ、いくら最近の流行りものだからってすんなり理解するってのはわけが違うだろ?』

御陰に朝聞いたことを思い返してみる。
この世界を支配しようと暗躍する組織と、その手先の「侵略者」。
その侵略者や組織を滅ぼさんと陰ながら活動している妖精とそのパートナーの存在。
そして俺もそのパートナーに選ばれたのだということ。

『凄く光栄なことなんだと思う…だから正直言えば鼻が高いよ』

「…うむ」

でも、俺はどこにでもいる一般人で…ただの男子高校生なんだぞ?
妖精に選ばれただのと担がれたところで結局は未熟な子供なわけで…
何度も失敗するかもしれないし大事な場面で恐怖で動けなくなるかもしれない。
世界を救うとか悪を滅ぼすとかそんな大層な頼みを…俺なんかが軽々しく引き受けたいとは思わない。
きっと、いや確実に俺はまた・・失敗する…今回の件、俺だけでは拭い切れないだろう。

家を出ようとした際、御陰は言った。
『組織の者どもや侵略者を放っておけば世界が危ない』
つまりこれは俺だけの問題じゃない…この世界の人たちの命に関わる「頼み事」なんだ。

正直言って重い…。

『もし、もし救えなかったら…達成できなければどうなる?』

「この世界の人間はまず間違いなく、悠を含めて一人残さず組織の連中に利用されることになるだろうな」

『そうだ、これは軽々しく受けていい頼みじゃない…規模が違う』

なにせ失敗すれば世界が終わる…決して遊び感覚で考えるようなことじゃない。
学校へと向かう歩幅が少し縮まってきた気がする。

「では一つ取引をしよう」

『取引?』

急に意外な言葉が飛び出したので驚いてしまいついオウム返しをしてしまう。
シンプルに説得をしてくるのかと思っていたが…

「我々妖精にはいくつかの重要な役目がある。
パートナーを選別すること、役目を説明すること、世界の状況を伝えること…」

そこまで言うと御陰は俺の目の前へとやってきて身に纏ったマントを翻らせた。
無駄にかっこいい動きをしても見た目はチワワなんだよなぁ という感想しかないが…

「──そしてパートナーをその気にさせることだ」

つまり俺のように考えているような面倒な人間を説得することも妖精の役目なのだと。
だが分からない…聞けば聞くほど何故俺でないといけない・・・・・・・・・のか?
態々俺を選ぶのではなく、もっと説得する必要がない人間を探せばいい。
いくら候補者が少ないと仮定したところで、人類は母数が多い。

俺の代わり何て…探せばいる筈だろうに。

「──言っておくが悠を選んだのは考えなしの行動ではない。
私は信じているのだ、他ならぬ悠が…悠ならば必ずこの世界を救えると」

まるで俺の心を読んだかのように、御陰は言葉を紡ぐ…
しかしその言葉を聞いても俺は未だに沈黙したままだった。

「一つ、悠の望みを叶えよう…我ら妖精が最後に悠ら人間に持ち出す交渉手段だ」

『なんでも一つ望みを叶える代わりに…お前の言う組織とやらと戦えと?』

「察しがよくて助かる」

願を叶える…か。

「──くだらない…」

念話も忘れて、俺はただそう呟いて御陰をその場に残して歩き出した。
望みを叶える…だと?

俺はもうそんな言葉を信じたりしない。

「やはり悠にはまだ棘が刺さったままか…」

御陰の虚空に呟かれたその言葉は、誰の耳に入ることも無かった。

青葉新緑高校…都内にあるそこそこ知名度のある割と普通の高校だ。
前まで通っていた中学校は進学校だったが、俺の都合で両親に無理を言ってこの学校に進学した。
この高校は校庭が広く、屋内にプールがあったりして何かと俺の理想だ。
部活動で校庭を取り合うこともないし、直射の日差しでゴーグル焼けしなくて済むだろう。
他にも選んだ理由は多くあれど、もっとも大きいのは都内であることだが…

初登校、入学式という大きな行事を乗り越えると、簡単なホームルーム。
今日はそれだけ行うと生徒はみな帰宅を促される…
翌日からは部活動紹介など新入生歓迎ムードが続くことになるだろう。

「帰るか」

誰に言うでもなくそう呟き、渡された教材を一部持って教室を後にする。
運ぶのが面倒な教科書は自分のロッカーに適当にしまっておいたので荷物はいうほど多くはない…俺は置き勉派なのだ。

携帯で地図アプリを見ながら下校ルートを模索している間、ふと今朝の事を思い出す。
御陰という妖精に出会ったこと、組織や侵略者、俺が候補者であること…
そしてなにより最後の交渉手段…

なんでも願いを叶えるか…

俺はこの世界を救う存在となる為の審査を通過した数少ない候補者…
その審査のためにはもちろん俺の素性を丸裸にする必要があるだろう。
すなわち御陰は俺の事を全部知っている…そのうえで取引を持ち掛けた。

当然知っているんだな、俺の過去もすべて…

「…当たり前だ、そのうえで悠がふさわしいと推薦したのだ」

声がした方を振り向けば、変わらず威厳を感じない姿の妖精様が飛んでいた。
慣れか…浮遊する犬というビックリ現象に驚かなくなってきている自分がいる。

「して決まったか」

『あのな、そんなすぐに決まるわけないだろ?』

「そうか?」

呆れたように溜息を吐きながら言葉を思考する俺に対して、御陰はなんてこともなさげに軽く返してきた。
コイツはなんでこう軽く考えられるんだか。

「悠は臆病だな…」

『悪かったな』

「──逆に言えば慎重な男だ、冷静に物事を考え見抜く力がある」

急に何を言うかと思い見ると、御陰はなぜか懐かしむように目を閉じていた。
こいつは一体どこまで俺のことを知っているのだろうか…会ったのは今朝だというのに。

『俺が願って侵略者や組織を滅ぼすとかできないの?』

「具体的にどこにある組織の誰を消したいか…どんな存在をこの世からどう消し去りたいか…これらを叶えるには情報が足りん。それに我が得意な魔法の種類でもないしな」

『不便な…だが全て分かっていれば個人の存在を消すこともできるのか』

魔法というのもその種類とやらもよくは分からないが、詳細な情報があれば人すらも…
そう考えれば、不便だが恐ろしい力だ…しかし成程、候補者が少ないわけだ。
この力を行使するとき、他人の命をないがしろにする輩は審査の段階で弾くのかもな。
人間は欲望の塊のような存在だ…だからこそ母数が多くても相当数が候補から消える。

俺には…たしかにこれと言って願いがない。
欲望が、叶えたいと思う目標が存在しない…
昔、というほど生きてもいないが、かつてはあったかもしれないな。

願い…保留にできないだろうか?

「そうだ、一つ言っておくが何でも願いを叶える権利を保留にすることはできない。
これはパートナーになる前に行うことができる交渉手段だからな」

また御陰は心でも読めるのか先回りした言葉を放ってくる。

「それに悠、お前は一人で戦うわけではないぞ…
この街には既に何人か妖精とパートナーが存在している。
悠がパートナーになれば自ずと彼女らと協力して戦ってもらうことになるだろう」

『おい、聞いてないぞそんなこと』

てっきりたった一人で世界を滅ぼそうとしている組織や侵略者なるモノたちと戦うことになるのかと思っていた、このチワワの説明不足である。
さっそく重要な役目とやらの説明部分に穴があったわけだが?

「ねぇお兄ちゃん何してるの?」

御陰と話していると、何故か心配そうに少女に話しかけられてしまった。
俺別に声に出してなかったよな…会話の内容を聞かれたわけじゃないはずだ…

「何って…ハッ!」

俺は今学校から帰宅する際中である。
御陰に声を掛けられて横断歩道の前で何分も立ち尽くしていた。
始めは信号待ちしていたが、いつの間にか信号が青になって点滅している。
これは一体何回目の青信号だろうか…話し込んでいてずっと立ってたとしたら…
あれ、確かに客観的に見れば俺ってかなり不審者?

「ご、ごめんね…ちょっとボーっとしてたみたいだ、心配してくれてありがとう」

「ふーん…大丈夫ならいいの、じゃあね!」

少女は何事もなかったかのように横断歩道を渡っていこうとする。
──その瞬間、妙な胸騒ぎがしたように感じた。
背中を冷たい汗が流れた…なにか大事なことを見落としている。
そう、たしか一瞬…視界の端に映った信号を見た時に…

「──信号!」

少女が話しかけてきたときには既に信号は赤に変わりかけていた。
では彼女が歩き始めたのは、渡りだしたのは一体いつだ?

瞬間、視界が揺らいだ。
そしてこれから起こるであろう事故の様子や未来の俺の姿が見える・・・
俺の体調の変化や精神の疲弊によるものではない…
もっと別の何かによって、記憶がところどころ欠けている。
遅れて聞こえるクラクション、何かが激しく衝突した耳障りな音…
テレビの砂嵐のような音に混じった時計の音?
世界全体が歪んでいく…記憶が曖昧になっていく感覚がする…
そうして意識が消えつつあるこの時、何故か俺はこの感覚に覚えがある気がした。

世界が巻き戻る…ある日、ある場所、ある少女と出会ったその瞬間まで。

「──危ない!」

俺は見知らぬ少女の腕を力強く引っ張り、歩道まで引き戻した。
咄嗟の判断だった…このままでは少女が危ないと…何故かそんな直感が働いたのだ。
瞬間、先ほどまで少女がいた場所をトラックが通過した…
信号を見れば既に赤に染まってから数秒経っていたのだろう。
何はともあれ、少女が事故に遭わずに済んでよかった…

「こら、信号はちゃんと守りなさい!」

「う…うん」

元はと言えば俺が少女に心配をかけたせいではあるが、赤信号になっても渡ろうとした少女にも非はあるので注意だけはしておくことにしよう。
再び信号が変わったのを見て少女を見送り、安心していたところをまた背後から声を掛けられる。

「──悠、願いは叶えたぞ」



入学式から数日が過ぎ、ある程度学校の授業に慣れてきたころ…俺はクラスメイトが続々と教室を後にする中で一人思わず身を硬直させていた──それは主にバッグの中の存在が元凶だ。
バッグのファスナーから顔を除かせる犬…つい先日衝撃的出会いをしたこの自称妖精さんは、何故か学校まで着いてきていた。

「おまっ…御陰何でバッグの中に!?」

──御陰…それはこの愛くるしい犬…チワワの姿をした妖精を自称する存在である。
今朝方頼んでみたのだが、通常の犬とは違って"おて"や"おかわり"の芸はしないらしい。
しかし"浮遊"や"会話"はできるという超人…いや超犬である。
そんな妖精さんは俺のバッグで教材と共に運ばれてきたのか姿を現した。

「私は悠のパートナーなのだぞ…それに高貴な私を家に置いていくとは何事か」

「んな姿で言われても…」

今の御陰はファスナーから顔のみを出している状態であり、とても高貴な存在に見えない。
威厳なんてフォルムからしてまずないのに、加えて状態が面白すぎて笑えてくる。
今すぐにでも腹を抱えて床を転げ回りたい気分だが、そんなことをした日には社会的に死ぬ。

「それに悠…私はまだ侵略者の対処法を教えていない」

確かにその通りだ…大体侵略者が何なのかも俺は聞いていない。
結局俺は御陰のパートナーになることにした。
今まで悩んでいたのだが、どうやら俺は願いを叶えてもらったらしい。
それも事故に遭った少女を救う為に御影の得意な魔法の力で…
その結果俺には願いを叶えてもらった記憶はなく、願いを叶えてもらったからには侵略者と戦わなくてはならない使命だけが残された。

嘘のようにも思えたが、事故の時のことは記憶が欠けていてぐちゃぐちゃになっている。
ところどころ思い出せるのだが、何故かトラックが通り過ぎた光景と路肩に駐車されている光景が同時に思い起こされてしまって混乱してしまう。
これらを踏まえれば御陰の言っていることが正しい可能性もゼロではない様に思えていた。
いや、むしろ俺ならそう願うだろう。

心配して声を掛けてくれた少女が目の前で不幸な事故に遭う…
それも俺に話しかけなければ赤信号で渡ることもなかっただろう。
つまりは俺のせいだ。

だから俺はきっと願ったはずだ…少女を助けてやりたいと。



そんなこんなで協力することにしたのはいいのだが、今まで言われたことと言えば、
御陰は芸はしないということと一緒に侵略者を殲滅してほしいということだけ。
重要なことは何一つ聞いていなかったのだ…しかし──

「俺これから授業なんだよ、悪いけどあとにしてくれよな」

「──何をッ!?」

教材を取り出した後に御陰の顔をバッグに押し込んでファスナーを締める。
バッグの中に入って付いてきたのだから呼吸できないというわけでは無いのだろう…
見つかっても面倒なので一時的にそのまま中で待っていてもらうとしよう。

「待て悠、高貴な私の扱いがぞんざいに──って聞いてるのか!」

「すまん御陰、今日の一項時移動教室なんだよ」

教室には既に誰も居ないようで、おそらく皆移動した後なのだろう…
早くいかなければ欠時になってしまう。
慌てて教室の扉を施錠して、俺は廊下を走り出した。

「…高貴な私をこんな場所に放置するとは…悠め」

幾らか時間が経って、締め切られた教室に風に靡くカーテンの音が響き渡る…
そして御陰はその存在を関知した。

「──出たか」



授業開始の鐘が鳴ってかなりの時間が経過した頃、俺はトイレに行くため席を立つ。
廊下に出れば静寂が広がっており、いつもは騒がしい廊下が静かなことに違和感を覚えた。
しかしまぁよくあることだと歩き出したその時、強い風が吹き込んできた。

「いや、今日風強すぎだろ!?」

海岸の崖に立っているかと思わせる程の強風に、慌てて足を開いてバランスをとる。
しかし、それでも尚強さを増していく風力は…俺の身体を壁まで吹き飛ばしていた。

「痛っ──は!?」

俺が声をあげたのは痛みでキレたのではなく、有り得るはずのない光景を目撃したからだった。
開かれた窓の外…校庭が一望できるその場所からは、空に滞空する鳥が見える。
物理法則を無視したその鳥は、一ミリたりとも動くことなく空中で停止していたのだ。

「悠よ…そこに居るのだろう」

「その声は御陰…お前バッグごと移動してきたのか」

浮遊する俺のバッグ…どうやってここまで来たのかは気になるが、移動教室と言っても同じ階の教室だし距離はたいしてありはしない。
そんなことよりも現状の把握の方が先だと意識を切り替える。

「これは一体どういうことなんだ?」

「うむ、十中八九侵略者の仕業だな…状況は見えないが」

侵略者の仕業…それは鳥の停止や、強風の発生のことを指しているのだろう。
よく見れば木から落ちた葉も停止していたことから、俺と御陰以外は停止しているらしい。

「その侵略者を追い払うのが俺の役目とか言ってたよな…どうすればいい?」

「そうだな…初めてで戸惑うかもしれんがまず戦闘態勢に変身するのだ」

へ、変身…俺そんな正義のヒーローごっこみたいなことしないといけないのか…
だが、そうするのが俺に与えられた使命だとか言われたら期待したくなる年頃だ。
それに…俺の活躍で救われるとか凄くワクワクしてくる。

「って待ってくれ、変身ってどうするんだ?」

「簡単だ…悠が戦う意思を表してくれさえすればなんでもいい。
…我ら妖精がパートナーの戦闘意思を念話の要領で知覚しそれに応える」

よくわからないが念じればいいんだな。
なんか仮面ヒーローみたいな感じがして恥ずかしいが。
いつの間にか握りしめていた汗ばんだ拳を見やる…

『…悠、決めてくれ!お前が俺らを──』

脳裏に響いた声を振り払うように頬を叩き、
高鳴る期待を胸に、俺は停止した世界でその言葉を呟いた。

「もうどうなっても知るか!やってやるぞ御陰!」

「いい意思だ」

戦闘の意思、それを念じた瞬間、言葉に呼応するかのように俺の身体を金色の光子が包み込む…
それと同時に体内から沸き上がってくる熱を強く感じ取れた。

「よもやこれ程とは…」

御陰の感嘆の呟きは俺には聞こえてこなかった…そんなことよりも重要なことがあるのだ。
頭が重い気がする…具体的に言えば髪の毛の重量が増している。
そして下半身に違和感を感じる…そのせいかバランスを崩して前のめりに倒れてしまった。
すると自然と視界に髪の毛が垂れてきた。

「俺の髪こんなに長かったか?」

え、誰の声だ今の…すごく至近距離から聞こえた気がするぞ!?
周りを見渡しても声の主は見えない、聞こえてきたのは可愛い感じの少女の声…しかし周囲に人影、ましてや女性なんていなかった。
というか俺の喉から聞こえたような…

「悠、言い忘れていたが…変身するとお前はこうなってしまう」

御陰はバッグのファスナーを自力で開くと、懐から手鏡を取り出した。
今何処から取り出したとか──何でそんな物をとかは、この際触れないでおこう。
それよりも驚くべきことは手鏡に写し出された謎の少女だった。
金色こんじきに輝くふわりとした髪の毛が特徴的な、控えめに言って美少女…
中学時代のマネージャーよりも可愛いぞこの子…てか俺か。
桃色のドレスを纏うその姿は、学校の廊下とはマッチせずに浮いていた。

「こうなるって…どうみても女じゃんか」

「安心しろ、変身を解けばおとこに戻る」

はたしてそういう問題なのだろうか…
というか俺、これから侵略者とかいうのが現れる度に女になって戦うの?
なにそれ辞退したい…

「…なんか身体があつい、ぬるい?」

「それこそが戦闘態勢…しかし、やはり悠は才能がある」

この姿になってから何故か全身が燃焼しているかのような感覚を覚える。
ぬるま湯につかっているような感覚にも近い…とにかく違和感やばい。

「…それで侵略者ってどれだ?」

「あれだな」

当然のように空中に浮かぶ御陰は、窓の外に肉球を向けた。
そこは校庭が広がっているはずなのだが、気が付けば地面が穴だらけになっている。
加えて竜巻のような存在が、まるで生きているかのように校庭の地面を削りながら動き回っていた。

「もしかして、あの竜巻が?」

「その通り…今回の敵は力が弱いようだ、初心者の悠でも十分倒せる相手だろう」

弱いって言っても俺さっきあの風で吹き飛ばされたぞ…かなり強く背中打ち付けたから痛かった。
ん、そういえばさっきから背中の痛みを感じないぞ…どうなってんだ?
御陰にそう聞くと、話ながらも着いてこいと言われた。

「何している…窓から直で行くのだぞ」

階段へと駆け出そうとしたところ、御陰は訳のわからないことを口にする。
窓から行けって言ったのか?馬鹿なの?俺人間だぞ?
あの妖精は俺を何だと思ってやがる…死ぬぞ、ここ四階だから余裕で足は折れる。

「察しの悪いやつだ…奴らに対抗する存在が脆くては使えんだろう」

「つまり、俺はここから飛び降りたところで死にはしないのか?」

「然り…対侵略者の悠は物理耐性を持っていることで簡単に死ぬことはない」

未だに信じがたい事だが、打ち付けた背中のこともあるので事実治癒能力も向上しているのだろう…きっとこのぬるま湯のような熱の力のおかげだ。
…御陰が言うならその通りなのだろう。
たしかに侵略者と戦う人間が脆くては使い物にならない…その為の戦闘態勢なのだろう。

思い切って窓枠を飛び出すと、加速度的に地面へと体が落ちていく。
その間、この感覚はジェットコースターを降りている感覚に似ているな…なんて呑気なことを考えてしまうほどに思考が現実逃避していた。
しかし、数秒経っても痛みはやってこなかった。
正確に言うならば痛みはあった…だがそれは激痛ではなく、足が一瞬しびれる程度の軽度なもの。
膝ほどにも満たない段差から飛び降りた程度のしびれなので痛みと認識できなかった。
地面は割れた。

「本当だ、全く痛くない…すごいなこの姿、鉄みたいに頑丈だ」

「して怪我がどうこう言ってたが…恐らくそれは悠自身の魔力によるものだな」

「魔力?」

下で待機していた御陰は俺が着地したのを見ると校庭へと飛び去って行く…
それについていくようにして俺も走り出した。

「悠よ、お前の魔力は異様に多い…そのため通常より頑丈なのだ」

「…この沸いてくる熱が魔力なら、確かに尽きる気がしないな」

四階から飛び降りても大丈夫ってことはそれだけ魔力の量も多いってことなのか。
魔力様様だな…

「既に魔力を感じ取れていたか…では武装を取り出してみよ」

いやいや、いきなりそんな指示を飛ばされても武装って何だよ。
言葉からして侵略者に対抗する武器なんだろうけどさ!
…まてよ、このパターンもしや変身みたいにまた?

「ええい、ものは試しだ!」

武器…武器…なんかこう強いやつがいいよな?
ナイフとかバール?いや子悪党かよ。

ごちゃごちゃな思考を置き去りに、俺の叫びに呼応するようにして粒子が舞い上がる…
身体の熱が一気に上昇していくのが分かり、一瞬の閃光と共にそれは私の手に収まっていた。
手のひらサイズのそれは、白色の球状の物だった。
赤色の二つの楕円型の模様が特徴的で…

「──野球ボールじゃねぇか!」

「何をする!?」

あまりのアホらしさに堪えかねてボールを放り投げた…
すると、飼い主に投げられた物を取りに行く犬のように、御陰がボールを食わえたのだ。
本当に威厳とか無いよなこの妖精…もうただのチワワでいいじゃん。

「自ら武装を捨てるなど自殺行為だぞ」

「俺は認めないぞ、野球ボールは武器にならないだろ!」

俺の意思は反映されないのか?
野球ボールってどう武器として使えばいいんだよ!

「投げればよいではないか」

「それ捨てるのと何か違うわけ!?」

悔しいがそれ以外に用途が思いつかない…最悪は投げつけて攻撃するとしよう。
それにしてもボールってなんだよ…もっとあるだろ?
RPGとかでいう剣とか大鎚とか、そういう強そうなの期待したのに。

「悠、速度を上げろ…まずい」

「…まずいって?」

話をそらされた気がしなくもないが、今は侵略者に目を向ける。
いつの間にか俺達は校庭に辿り着いていたようで、気が付けば竜巻が目の前に…

「奴は侵略者の中でも変異種のようだ。成長速度が異様に早い。このままでは初心者の悠では手が負えなくなるぞ」

「そもそも成長とかするんだな」

「…個体によって成長速度は様々だが、人間に例えれば生まれて10日で二足歩行するといったところか」

えっと、人間の赤ん坊は生まれて3年くらいで歩くことができるんだっけ?
うわ、侵略者さんの成長早すぎ…
そういえば確かに窓から見た時とは竜巻の大きさが大きくなっているように感じる。
心なしか竜巻の風圧も強くなっているように感じた。

そんな竜巻が校庭を円形の軌道を描いて動き続けていた。
しかしある瞬間、俺たちの存在に気が付いたのかこちらに猛スピードで迫ってくる。

「こっちに気が付いたのか、来るぞ悠」

「来るぞって言われても──危なっ!」

この姿の身体能力のおかげで、少し踏み込んだだけで回避することはできた。
しかし、奴の攻撃をよけ続けることが目的ではない…俺はあの魔物を倒さなければならないのだ。
俺は足に力を込めると、力強く踏み込み竜巻と一定の距離を保つことを心掛ける。
そうして逃げながらも御陰に視線を向けた。

「わかっている…奴らを倒すには本体、核に攻撃を当てる必要があるのだ」

本体…そう聞いて後ろを振り返ってみるが、
校庭の砂を巻き込んだ竜巻の中、それを視認することができない。
あの竜巻の中央にこの現象を起こしてる核みたいなのがあるって事か…
というかこのまま強くなられたら俺勝てないんじゃ?

「ちなみに当初の作戦は、悠が突っ込んで本体に攻撃をあててから」

「──おま、俺をなんだと思ってやがる!」

そういうのは断じて作戦とは言わない。
御陰って頭脳派に見せかけてもしかして脳筋なのか?

「だが今となってはその作戦は通用しない」

その言葉は普通に理解できた、近付けばまず間違いなく吹っ飛ばされる。
…なら近付かなければいいんじゃないか?
まさにこの時のためにあるようなものを俺は持っている…
いや、たとえ投げられてもあの竜巻を貫通するなんてことはできないか。
正面から投擲したのでは風にあおられて標的がずれてしまうだろう。

「仕方ない…御陰、竜巻野郎の注意を引くことはできるか?」

「…考えがあるのだな、まぁ揺動くらいまかせておけ」

御陰はそう言うと、かなり離れた位置まで瞬時に移動した。
目で追うことができないほどでは無かったがただの犬にはできない芸当だ。
何をするのかと思って見ていると、御陰の身体に何やらオーラのようなものが見えた気がした。
あれも魔力なのだろうか?よくわからない…なんか悔しいが頼もしいぞあの妖精!
オーラのようなものは数秒で大きく膨れ上がり、成人男性ほどの大きさにまでなった時、ついに御陰は地面に力ずよく前足を叩きつけた。
視線は竜巻の魔物ではなく、さらに上、太陽に向けているように見える…

おいおい、何する気だよ!
まさか…揺動を任せたのに妖精パワーとかでビーム出したり──

「──ワンッ!」

「・・・?」

小型犬特有の高い鳴き声が…虚しく校庭にこだまする。
一瞬でも気が逸れてくれれば俺も竜巻から距離をとれたのだが、
竜巻は御陰のことなど目もくれずに一心不乱で俺を追い続けていた。

「どういうことだよ御陰!」

「おかしい…なぜ私の挑発に乗ってこないのだ」

「小型犬だからじゃないかな!」

小型の犬は気性が荒くて大型の犬や人間に吠えまくってるイメージだ。
これは俺の偏見だがチワワは特によく吠える気がする…そして総じて相手にされない。
ある意味で何とかな犬ほどよく吠えるという造語の原型を目撃した気がする。

「ふ、この私の高貴な毛並みと勇ましい咆哮に恐れをなしたようだな」

「ただ相手にされてないだけ…だと思うのは俺だけなの!?」

たく、何が『…まかせろ』だよ…一瞬でも格好いいと思った俺の純情返せチワワ!
アイツ全く、これっぽっちも役に立たないじゃないか。
こうなったら俺が何とかなするしかない。

──思えば最初から全部巻き込まれた感じなのは否めないが
寝起きで使命とか言われるし
──それでも俺にしかできないなら
こんな危険な竜巻のような侵略者がこれからも出てくるというなら

「──やってやるよ!」

過去の俺なんてどうだっていいじゃねぇか。
トラウマなんて言ってられる規模の話じゃないだろ!
俺が侵略者コイツ倒さないと世界が侵略されるって言うなら…やるしかない!
──俺は無意識に身体の熱を足に集約し、一気に踏み出した。
見れば竜巻は俺と向かい合う様に位置していて、ここからなら完璧に作戦を実行できそうだ。

未だに竜巻は向かってきている──覚悟を決めた俺は変身して強化された身体能力で思い切り高く跳び上がって見せた。
校舎の四階ほどの高さまで跳び上がった俺と竜巻は上空ですれ違う…

──今だッ!!

『…で、デットボールッ!』

投球フォームをとると、必ず脳裏によぎる衝撃の言葉──
それは今までの俺の人生を深く、根強く蝕み続けてきた。
しかし、今となっては──そんなことで俺は…俺の球は外れない。

数年前の記事にはこうあった──『史上最年少!?驚異の球速150キロ越え!!』
とある球団でプロ選手顔負けな超速ストレートを投げる少年がいる…と。
そしてある大会で彼は問題を起こした…対戦相手の一人を病院送りにしたのだ。
──『噂の少年球団のピッチャーまさかのデットボール!!』
幸い対戦相手に後遺症は残らず、今では怪我も完治しているらしい。


身体の奥底から熱が溢れてくる…これは決意の熱だ。
受けとれ侵略者かこのおれ…俺はこの球に──意思を──決意を込める!
手にした硬球が眩い光を放ち、俺の気持ちの強さを表してくれる。

「──オラァ!」

空中からの投球何て初めてだが、何故かできるという確信だけはあった…
腰を捻れば空を切る音が耳に入り、勢いに乗った肩は安定して腕を送り出し、
鞭のようにしなやかに動く腕を地面に叩き付けるかのように振り抜く。
全身の熱は意識した筋肉に特に集中し、最後はボールと共に打ち出された──
手を離れた球はバランスボール程の大きな魔力弾と形を変えていたようだ。

およそボールが飛んでいるとは思えない轟音と共に竜巻は押しつぶされ、校庭の地面が大きく抉れた。
再び高所からの着地を済ませると体から熱が引いていくのが解る。

「完全に侵略者の反応は消え去った…よくやったな悠」
「はぁ、疲れた…って、男に戻ってる」

変身を解除したつもりは無かったが、無意識にやったのだろうか。
そしてとうとう最後の最後まで御陰は何も活躍がなかった。
ため息をつき、疲れが出てきたのか地面に仰向けの姿勢で倒れると、雲が流れていくのが見えた──
青い空 白い雲 変わらない街並みと会ったばかりの可笑しな犬。
──ふと気が付いた、灰色の世界に色が戻っている。

「…今日は比較的快晴に近い晴れだな、気持ちいい風だ」

「週間予報では明後日頃に雨が降るらしいがな…」

「御陰…お前空気読めよ」

このチワワ、帰ったら首輪着けてドックフード食わせてやる。
だがまあ、コイツのおかげで過去の事を吹っ切れた気がする…

「ん、どうした悠?」

威厳もない、かっこよくもなんともない、そんなちっこい妖精…
そのはずなのに…こんな奴に簡単にトラウマ克服させられちまった。

「はぁ、俺ってくだらねぇことで悩んでたんだな」
「あの姿の事か?」
「は?…いやそうだ、それもちゃんと説明しろ御陰!」

俺とパートナーの御陰…俺たちはこれからも共に世界の悪と戦うことになる。
それは辛く、厳しいものになるかもしれない…
だがきっと、今日みたいに乗り越えられるはずだ。



こんなことを願ったことがあるだろうか…
もしあの時…あの瞬間に戻れたらと。
しかし、それはどんなに願おうとも叶うはずもないただの愚劣な願望。
そうして願う側もそれを承知の上で思っているのだ。

俺だってわかっていた…祈った願いなど大抵叶わない。
だからこそ俺は後悔していた。
あの日 あの時 ボールを握ったことを

しかしこれらすべては俺が生きてきた証拠なんだ。
過去の出来事も後悔して過ごした日々も、御陰との出会いもその未来さき
全てをひっくるめて俺の経験、無意味じゃない、かけがえのない大事な記憶。

俺は人間だ、無力な人間…だからよりよい未来を渇望するし失敗すれば後悔だってする。
大切なのは失敗から何を得るかなんだと先人たちは言った。
正しいと思う…言葉だけではわかっていた…でも理解できてはいなかった。
俺は今まで長い時間を使って、たったこれだけの簡単なことを学んだ。

人の思う・・最善は叶う
つまり『これが最善だった』と考えればそれでいいのだ
だからこそ今、俺は後悔していない。
あの日 あの時 ボールを握ったことを

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