ひと夏を戯れたホテル

清水レモン

よくあることさと言われたくない

 「よくあることさ。いいから落ち着け」
 そう言われて怒りがこみあげた。
 かといって反抗しては相手の思うつぼ。
 黙って席から立ちあがり、廊下へ出た。
 「おい、どこ行くんだ」
 背中から質問に責められるが振り向かずに小さく、
 「あたま冷やしてくるよ」
 つぶやいた。
 声が届いたかどうかは、わからない。確認する気にもならなかった。

 玄関から外へ出ると美しい星空。
 世界は美しいよな、こんなにも。
 それなのに人間と人間というのは。
 思わず目に入る、他人の家。新しい一戸建て。
 隣の芝生は青いというのは本当だ。手入れをしている庭は美しい。放置してある庭を批判するひともいるけれど、ハーブや宿根花のナチュラルなたたずまいの美しさをどうして拒否するのだろう?
 うち?
 うちはね、芝生が枯れたまま。枯れたまんまなんだよ。
 『もしかしたら来年ちゃんと新しく芽が出てきてだな、いちめんアオアオと茂るかもしれないだろう?』
 なんて説明を聞くたびに思う。
 あなたは悠長なのか短気なのか几帳面なのかズボラなのか。
 夜の闇は芝を隠す?
 とんでもない。
 ありありと見せつけるよ。
 ほら、うちの庭。
 枯れた芝が星あかりに照らされて、まるで青い目をした少女の髪のように金色に輝いて見える。すっかり枯れてみすぼらしいったらありゃしないのに、夜は別格だ。美しい、まるでこうあるほべきと整えられているのではないかと錯覚するくらい、きれいだ。

 「よくあることさ」
 それは、わかる。知っている。それはそれで別にいい。
 だが、
 「よくあることさ」と言いくるめられるのは嫌いだった。
 なるべく理解して欲しくて、できる限り理解されるようにと努力して、説明を試みるんだけど、紡ぎ吐く説明の言葉は屁理屈の烙印を押されて畳の綿埃に混ぜられてしまう。
 戻れない時間を巻き戻そうとしても、それは徒労というものだろう?
 やるだけ無駄な努力というものだ。それを無駄だと思わずに来たのは、相手と自分とのコミュニケーションに希望を持っていたからだろう。
 いまはもう希望のカケラもなく、言い争いの空気を察知したら避けるにかぎる。
 「よくあることさ」
 いつか、自分から言ってやろう。
 こんなことも、そんなことも、あんなことでさえも、すべてが「よくあることさ」と烙印してあげる。
 そのときを楽しみにしていてくださいな。

 夜空は宇宙とつながっているんだと思う。月がきれい、その意味をきちんと理解していなかったけれど、伝えたい人に対して伝えたい気持ちがあることは自覚していたし、文学的表現をできなかったけれども伝えることは伝えた。だから、それ以外のことは……どうでもいい。どうでもいいわけないけど、どうでもいい。
 夜空の下をどこまでも歩いていけば、待っている人の元へ着くのだろう。
 それは遠い道のり。朝が来ちゃうよ。いや、もう着いたのか。

 いつも見慣れている門構え、新しく設置されたという呼び鈴。
 叩けば、しばらくしてから玄関のドアが開いて、彼女の顔が見れるかもしれない。
 長い髪が揺れて、その動きに思わず見とれて、「やあ」と声にできるかできないかの叫び。

 でも知っているし、わきまえている。
 もうそれは、してはいけないことなんだよ。
 やれるだけ、やったじゃん。もういいだろ。
 あきらめきれないことに対して、さんざんみっともない真似をしてしまったわけだけれど、そうさせてくれていたのかもしれないし。
 わかってる、満足だ。納得いかないことだらけだ。けど、自分のなだめかたを知っているし、それができるひとですよ自分は。
 あなたと違って。相手と違って。あきらめたくないことを、あきらめる。これは簡単じゃない。簡単にできたように見えても、

 『よくあることさ』

 あんなふうには言われたくなかったな。

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