ひと夏を戯れたホテル

清水レモン

2.潮の香りのする街へ

 これは潮の香りだろう。
 よく知っている香りだが、僕の故郷とはなにかが違う。
 まあ、いいさ。
 電車を降りてどのくらい時間が経過したのだろう。がらんとしたホーム、遠くまで見渡せそうな広々とした空気感。おそらく向こうに海があるのだと思われる。
 地図で見たことがあるけれど実際こうして訪れるのは初めてだ。初めてだけれど知らない土地ではない、そんな気がする。
 駅名を、もう一度だけ読んでみる。うん、間違いない。ここは僕が知っているけれど知らない土地だ。
 ベンチに強烈な陽射しが降り注いでいて、近づいただけで熱が伝わってくる。これは相当に熱いんじゃないかな。座ったらそうでもなかった。ほのかに温かいが火傷する気配は微塵もない。カバンを開けて手帳を取り出す。うしろのほうに挟んであるのが一通の手紙。文通相手から届いた最新の手紙だ。裏返せば住所、おれの記憶が正しければ彼女の家の最寄駅ということになる。
 
 来ちゃった。

 黙って、連絡もせず。

 いやまあ会うわけじゃないけどさ。だからといって、偶然たまたま通りかかりました~っていうのと異なるし。言い訳しようがないが、言い訳する必要などないだろう?
 自分でも混乱しているのがわかるよ。どうしたらいいのかわからなくなったくせに頭脳は冷静に計算を続けているし、僕は僕なりに考えて行動しているのだから。
 僕なりに考えて行動している?

 うそつけ、このやろう。

 まあいいや、とにかく街に出てみよう。このまま駅のホームにいたからって問題は解決しないし。いや待て、問題って?
 どうにも僕は自問自答するくせがあり、まるで頭の中に誰か別人が生息しているんじゃないのかなってくらいに会話を成立させている。どうしようか、どうしようもなにも乗り越し料金ちゃんと精算しなくちゃだよ。
 話は精算を済ませてからだ。

 なにげなく通ってしまう。誰もいなかったから。窓口らしい窓口がホーム側に見当たらなくて、改札を出てすぐそこに大きく看板が見えたから。精算所と。
 ブラインド下ろされている?
 ふいに蝉の鳴き声がした。あきらかに僕の地元とは種族が違う気がする。なんなのこれ、そのけたたましい鳴きかた。蝉時雨は好きだけれど、これほどまでにけたたましいのは滅多に浴びれない気がする。それともこの土地では日常なのか。
 こんこん、精算所の窓ガラスをノック。ガラスの硬い感触が拳に心地良かった。音も素晴らしい、なんという乾ききった音色だろう。返事がない。おかしいな。
 ついつい通り過ぎてしまったが、その改札。出てしまった以上、入るわけにはいかないよな。入るんだったら切符を買わないと。切符?
 いやいやそれよりちゃんと精算まずは乗り越しの運賃というものをだな。
 改札の隣に売店がある。誰の気配もなく商品だけがずらり。まさか、本当に誰もいないとか。いやさすがにそれはないだろう。
 いったん精算をあきらめて売店へと向かった。きんきんに冷えていると思われるガラス張りの冷蔵庫に、僕が知っている炭酸水があった。のどが渇いている、ってほどではないが飲みたくなる。あのう、すみません。いかなる反応もなく、僕は途方に暮れてみる。
 あらためて覚悟を決めて大きな発声を意識して叫ぶように言ってみた、

 「すみません。これ、ください」

 これもなにも、どの商品も手にしていない。でも、冷蔵庫で冷えていそうな炭酸水を見つめたままもう一度。

 「あのう、すみません」

 やはり返事がない。そのとき目に入ったのが、編まれたカゴのような平たい置物。よく見るまでもなく、コインがごろごろとしている。まさか。

 『まさかここにお金を入れて商品を持っていくとかじゃないよな!』
 そう思いつつも財布を取り出してコインを探す。ええと、コイン一枚でいいんだよな。ガラスの冷蔵庫に張られている価格表、その数字は僕が知っている値段と同じだ。
 よし、試してみようか。

 「いただきます」
 と、できるだけ大きく宣言してからコイン一枚をカゴに入れる。砂利の音がした。冷蔵庫の扉を手前に引き、お目当てのガラス瓶を取り出す。よく冷えてるよ最高じゃんか。
 あらためて売店の奥に視線、さらに続けてぐるりと周囲。静かなままの精算所、誰の気配もしない駅舎内だ。あいかわらずセミは賑やかで、まあいいや。
 「いただきますよ、ありがとうございます~?」と声にしてから栓をまわした。

 プシュっ、はじける炭酸うっすら濡れる指先、もう一度だけ読み直す駅名表示板。運賃表を無意識に眺めていると、僕の暮らしている街の名前が。へえ、ここからだとそういう位置にあるんだね。意外で新鮮、やはり遠くに来たんだなと実感する。
 じっとしていても、始まらない。僕は覚悟を決めて駅舎から出ることにした。

 まぶしくて白い駅前だ。

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