ひと夏を戯れたホテル

清水レモン

1.本当に申し訳ございません!

 ごめんなさい、本当に申し訳ございません。
 いまとなっては心からの謝罪であっても、伝えるべき相手に伝える手段がございませぬ。
 さあて、どうしたものか。
 いつものように予備校へ向かう、その電車のなかで僕は決めてしまった。このまま逃げよう、あとのことなどどうでもいい。
 え?
 みんなに迷惑がかかるよ?
 うん、そうだね、そうだろうともさ。知ってる、わかってる、承知のうえでだよ。
 自画自賛なってしまうけれども、すでにもう僕は親孝行を果たしたと感じている。これ以上どうして父の命令に従う必要があって母の懇願に頷かなければならないのかな。
 もう、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやなんだ。
 父の命令に従い続ければ、僕が大切だと感じている仲間を心から裏切ることにつながっていく。母の懇願は他人を陥れる道に他ならない。
 うそつきは泥棒の始まり、とはよく言ったものだ。
 親の命令であったとはいえ、嘘をついたのは他でもないこの僕さ。
 そうさ僕さ僕さ僕さ僕なのさ、僕が嘘をついたのさ、僕が嘘をついた結果どうなったと思う、え?
 予知していたとおりになった。まあ、それだけのことさ。
 それだけのこと?
 
 とんでもない!
 
 もうこんなの、たくさんだ。

 親の言うことをきくのが子の務めだと言うのなら、僕はきっちり果たしてきたと思うぞ。もう、じゅうぶんだろう。ちがうか。ちがうものか。どうなんだ。

 次の停車駅をアナウンスしている車内放送を耳にしながら僕は固く決意する。
 今度こそ、今度こそ。僕は実行する。もう、いままでとちがう。なにもかもが、ちがうんだよ。どうして僕は自分の心の声を信じてあげなかったのだろう。
 ごめん、本当に。本当に申し訳ございませんでした。
 僕は自分に対して謝罪の言葉を述べる。心のなかで、頭のなかで、見渡す限り暗闇でしかない虚像のなかで。降りないぞ。絶対に。

 夏期講習が始まって、どのくらい経過したのだろう。
 曜日の感覚が消えている。消えているけれども条件反射のように行動していた。僕のカバンには、今日の授業で使うテキストとノートが入っている。昨夜のうちに準備していたさ。曜日の感覚が失われてしまっていても、受ける授業を間違えることがない。
 われながら、すごいなあ。って思う。でも、この自分のすごさが、傷つく必要のない人たちを傷つける元凶だってことに、もう気づいてしまった。
 僕の能力は、誰かを傷つけられること。
 それも平然と、むしろ正しいこととして。
 
 大人を相手に戦うってことは、同級生が相手の喧嘩とは違う。
 勝てるのか。いや、勝負そのものに意味はない。挑む気があるのかないのか。気持ちの問題だ。

 僕は深呼吸をしながら車窓をぼんやり眺めている。いつもと同じ景色、いつものようにほら、まもなくモノレールが上空を通過していくだろう。暗く輝く銀色の瓦屋根が続いてから、漆黒のトタン屋根の家並みが始まる。あの路地には紫陽花が咲いていた。一瞬だけ見えて、すぐに流れ去る。
 さあ、もう覚悟はいいよな。
 うん、いいぜ。まかせとけ。
 やるときはやるよ、それが僕の真骨頂だ。
 少し傾斜が始まり、電車は坂を登るように空へ向かって走る。やがて高台だ。がたん、といつものように激しく上下に震動したとき、左手方向からモノレールが現われた。時間通りだね。美しい塗装が陽射しを反射していた。耳をつんざく音がした直後に、右手方向の車窓にモノレールの後ろ姿だ。あっちのほうが、ちょっと早い?
 さあ、登りきっていつものカーブが始まるよ。

 プシューって音が聞こえた。ガウン、と振動して扉が閉まる。
 降りるべき駅で席を立たずに、そのまま座り続けてしまった。もう長いこと、このままでいるような気がする。とてつもなく長い時間が経過していくようで少し恐い、でもそれ以上に感情が熱く躍動する。
 いよいよ。いよいよだな。
 僕は下車すべき駅を越えて、そのまま電車に乗り続けた。

 行き先は決めていない。
 ただひとつだけ、わかっていること。
 もう後戻りできないな。

 いいのかい、これで。
 僕は問う、ガラス窓に向かって。
 陽射しあふれる世界との遮断が、歪んでいる僕の顔をうっすらと写し出した。
 歪みは光と素材のせい。僕の顔は歪んでなどいない。けれども、僕の心は穢れに満ちていて、歪んでいるどころの騒ぎではない。世界中の醜さを集めても、僕の心ほどではない。

 さようなら、昨日までの僕。今朝までの僕は両親に従順で、友達に冷たい生物だった。それでいいと思っていたわけじゃないけれど、『しかたないじゃないか』と言い訳できるくらいには卑屈だった。
 電車のスピードがアップする。上下左右さっきまでとはレベルが違いすぎる、激しい振動だ。ボックスシートに座りながら、よろけてしまった。
 ああ、そうさ、そうだよ、僕は罰を受けるべき人間なんだ。
 
 だから本当に、ごめんなさい。
 許してもらえるとは思えないけれど、僕は心から謝罪する。
 世界でたったひとりしかいないのに、僕が僕の味方にならないでどうするっていうんだよ。
 いつも深刻で、生真面目に生きていた。で、その結果どうなった。
 
 心配するなよ大丈夫だからさ。
 いまからの僕は僕の味方だよ。全身全霊で僕が僕を応援する。
 

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品