瓶詰地獄彷徨

小達出みかん

木枯らしの季節がやってきた。食料も炭も蓄えがない貧民街にとっては、最も死に近い季節だ。夜半、風の音にまじって苦しい咳の音がいくつも聞こえる。やがて空き地や河原に死体が目立つようになった。


(疫病か…)


 季吉が仕事に通う都の大路でさえ、死体が転がっている。しかし病は人をえらぶ。まっさきに命を落とすのは、いつだって貧しい人間だ。あっという間に季吉たちの住む右京の端は、死体で埋め尽くされた。

 ここにこのままいては、みるも病にかかってしまう。しかしこんな寒い季節、出て行くあてもない…。そう危ぶんでいるうちに、みるではなく季吉が倒れてしまった。

 一度横たわると、もう起き上がる事ができなかった。高い熱に、頭が朦朧とする。次第に体に赤い斑点が広がり、膿んで熱くなった。


「どうしよう…どうしよう。おかみさんもその家族も…みんな死んじゃった…」


 みるが茫然とつぶやいているのが聞こえる。ありったけにかぶされた藁布団の中から、季吉はとぎれとぎれにつぶやいた。


「みる…逃げろ…銭をもって、ここを出てくんだ…」


 そういうと、みるはがばりと伏せる兄にしがみついた。


「いや…いやです!みるは兄さまと、ずっとずっと一緒なんですから」


「お前まで病にかかったらどうする」


「私はいいんです…でも、でも兄さまが」


 みるは泣きそうに唇をぎゅっとゆがめた。震える声がそこから漏れる。


「ごめんなさい、兄さま…」


「お前のせいじゃ…ない」


「父さまも、家も、捨てて…兄さまは、私をえらんでくれた…」


 みるはじっと虹色の目で季吉を見た。熱のせいが、その目がなんだかとても大きく見える。頭が朦朧とし、目を閉じかけた季吉の上に、みるは突然またがった。


「な…にを」


 閉じかけた目を開けて、季吉は驚いた。みるの目が、何かおかしい。虹を閉じ込めたようなその目が、ぐるぐる回って暗い色になっている。その深い色は何かに似ていた。


(そうだ…鳰の海だ。あの日飛び込んだ…)


 いとも簡単に季吉たちを押し流した、真っ暗闇の荒ぶる波。正気を失った母が、何度も入って引き上げられた海。熱に浮かされているはずの季吉の背筋が、すっと冷たくなった。


「お…おりろ…みる」


 妹は何をするつもりなのだ。季吉は背中からこみ上げてくるような恐怖を感じていた。しかしみるは、兄をみおろしておかしな目のまま微笑んだ。


「兄さま…みるを、食べてください」


 その言葉に、季吉は茫然とした。


「なにを…言ってる…お前は人間…だ…」


「私は…泳ぎを習ったわけでもないのに、あの日海で溺れなかった。それはにいさまも知っているでしょう」


「それが…どうした!」


 季吉の目が見開かれた。それでもお前は人間だろう。そうであってくれ。季吉の目がそういっていた。


「川へ行くと…私のまわりにだけ、おかしいくらいに魚がくるんです。それに…」


 みるは粗末な着物の裾をつかんで、そろそろとたくし上げた。見たくなどないのに、強制的にそこに目がむく。その白い太ももの上部を見て、季吉の顔に戦慄が走った。


「お前…お前、妹では…なかったのか…!」


 そこには、女の身体にはないはずのものがあった。驚愕する季吉を見て、みるは唇のはしを吊り上げた。紅いその唇から、小さな笑い声が漏れる。


「兄さま…見てほしいのはそこじゃないんです」


 みるは足を開いた。その太ももの内側は、濡れて鈍色に光っていた。鱗だ。

 …ついに決定的な証拠を目にしてしまった季吉は、唇を噛みしめて目を閉じた。


「何で…言わな、かったんだ…」


 悲しみが滲んだその声に、みるは泣きそうに言った。


「兄さまが…みるは人間だといってくれて、妹として接してくれて、うれしかった…でもこわかった。もし本当のみるを知ったら兄さまは…」


 そこでみるがぐっと泣き声をこらえたのがわかった。季吉は絆されて目をあけた。わなわなと震えるみるの唇は、太ももと同じようにてらてらと光っていた。その奥にずらりと並んだ歯は、一つ一つが鋭く光っているよう―…。慣れ親しんだみるの顔が、体が、急に知らない恐ろしい生き物のように見えた。季吉は思わず聞いていた。


「お前は…何なんだ…俺の妹ではなかったのか。どこから、来たんだ…」


「それは…私もわかりません。でも父は言っていました。お前は儂の子ではない、生きていては、わざわいをもたらすばかりだと…」


「父は…ぜんぶ知っていたのか」


「はい。人魚”姫”の方が価値があるからと、女の衣を着せられ、座敷牢に閉じ込められました。男だと言ってはならぬ、喰われる時には、切り落とせばいいと…」


「…人でなしが…」


 するとみるは悲し気に微笑んだ。


「みるがですか?」


「いいや、父がだ」


「兄さま…」


 みるはその唇から、絞り出すように言った。


「愛しています。私を食べて下さい」


 季吉は即座に首を振った。するとみるは季吉の小刀を取り出して、鱗の部分にあてて動かした。


「兄さまには、いくら感謝してもしたりません。みるのためにすべて捨ててくれた…兄さまに、死んでほしくありません」


みるのふとももに血が滲んで、ぱらぱらと鱗が剥がれ季吉の胸に落ちた。


「ほらみてください…兄さまの好きなお刺身です…」


 鱗のはがれた太ももは、透き通った薄桃色だった。見てはいけないものだ。季吉はとっさに目をそらしたが、みるは口元に太ももを近づけた。


「おねがいです兄さま…一口でいいから」


「いやだ…人を、喰うなど…!」


 しかし、その傷口からは懐かしい匂いがした。脂の乗った、甘い匂い。いちばんの好物であった、氷魚の寿司に似ている。昔日のその味を思い出して、口の中に唾が沸く。病んで痩せさらばえた体が、それを求めている。


(いかん…!)


 このままでは己の欲望に屈してしまう。そう思った季吉は、とっさにみるのもつ小刀を奪って自分の手に突き立てた。


「っ…!」


 みるは慌てて小刀をその手から取り去って、布で強く抑えた。


「兄さま…なんてことを…!」


 季吉を見るその目は、またしても暗い波のように荒ぶっていた。みるはじいっとその目で季吉を見下ろした。


「抵抗はやめて…ほら、見てください私の目を」


 暗い波が深緑のしぶきをあげている。しかし次の瞬間、その目はまぶしい翠色に輝いた。


「何も心配することなんてないんです…みるはただ、兄さまに栄養をつけてほしいだけ」


 目が翠色からとろりとした琥珀色に代わる。その色に魅入られて、季吉の頭はぼんやりとした。抗う気持ちが弱っていく。みるのその声は、大きな力で季吉を包み込むように、頭からつま先までに響いた。


「ほら…一口…いくらでも食べてもいいんですよ」


 口元に、桃色の肉があたる。ぷるりとしたそれは、まさに刺身の感触だった。夢うつつの中、季吉は口を開けた。


「ああぁ!」


 悲鳴とも悦びともつかない声が、みるの口から漏れる。その肉は、えもいわれぬ甘味がした。ひとかけらほどのそれを飲み下すとともに、季吉は後悔に強く目を閉じた。空の胃の腑に、その肉が溶けていくのが感じられた。


(ああ…俺は…血のつながった妹…いや弟を喰ってしまったのか…)


 しかしどこまでつながっているのか?みるは母から産まれたのは間違いない。なら…。そう考える季吉の胃の腑から、ぼこぼこと何かが沸くような心地がした。その音と同時に、脳裏に暗く深い淡水の海が広がる。その海の中に落ちていく母の先に、黒い大きな影が見える。鋼のような鱗をもち、鋭い歯を持つ何か――。頭の中でそれを見た季吉は、みるの出自を察した。


(人間ではない弟と、その弟を喰らった兄…)


 季吉はその事実におののいた。こうなってしまえば、どちらも同じに罪深い。

―やっと蟲毒の地獄から逃れたと思ったのに。逃げた先もまた、新たな地獄だったのか。


「兄さま、大丈夫、ですか」


「お前は…痛く…ないのか」


「ちっとも。うれしいです。これで本当にずっと―ずっとずっと、にいさまと一緒です」


 太ももをかじられて法悦の笑みを浮かべる弟を見て、季吉の背筋に冷たい震えが走った。父が流したくちなしの花が脳裏によぎった。

 その瞬間、恐怖が季吉の身体を動かした。季吉は狭い小屋から転がるように走り出し、二度と振り返らなかった。


 



 あれから長い時が経った。忍びも侍も時のかなたに消えるほどの時が。山小屋の床の上に横になったままの季吉は、眠る事もできずただじっとしていた。


(あの時から、俺は…逃げて、逃げて、逃げ続けてきた)

 

 忍びとして育てられた季吉は、逃げここる事、身を隠す事には長けていた。時には技を使い、時には魔除けの護符を使い、あれと再び相まみえる事なく生きながらえてきた。


(だが、こんな人生に意味などあるのか?俺は…あれを助けるために、最初逃げ始めたというのに)


 守るものを失ってしまった季吉に、もう生きる意味などなかった。しかしこの体は、死ぬこともできない。この絶望感を一時でも忘れるため、季吉はもはや惰性で逃げ続けていた。


(人の理をはずれ―なんと罪深いことだ)


 しかし、逃げたことは正解だ。季吉は自分にそう言い聞かせた。

 みるから差し出される、盲目的な愛。自分を喰わせる事すらいとわない度を超えた献身。その向こうに透けてみえる弟の欲望。あのまま一緒に居ればきっと―自分はみると、さらに深い罪を重ねていたに違いない。


(弟を喰い、契るなど―畜生道に堕ちてもまだ足りぬ、外道の所業だ)


 しかし、抑え込もうとしても時々ふと考える。みるの誘惑に屈していたら、今頃自分はどう過ごしていたのかと。それを想像すると―季吉の体には恐怖とも恍惚ともつかぬ震えが走るのだった。


(やめろ、そんな事を考えるなど)


 しかしそんな事を考えている時こそ、声がする。それはいつも同じ呼び声。


『にいさま…にいさま』


 みるが生きているのかさえ、もうわからない。なのにその声は永遠にやむことがない。壁の外から聞こえているのか、自分の頭の中に響いている声なのか、どちらなのかも最早わからない。季吉は淀んだ目を開いた。いつまで―この声に、抗う事ができるだろうか。


「ずっとずっと、一緒です」


 どこかから、また声が響いた。

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