瓶詰地獄彷徨
3
父はきっと諦めないだろう。追っ手を差し向けるに違いない。近江の緑濃い深山を転々として逃げ続けるか、戦つづきで危険な都へ身を隠すか。天秤にかけた結果、季吉はみるを連れて都へ逃れた。
「ではいってくるぞ、みる。何かあったらすぐ隠し穴に入れ」
都の一番端、桂川にほどちかい貧民街に季吉とみるは身を隠していた。ぬかるんだ地面に、今にも崩れそうな掘立小屋がひしめいている。しかし貴族も武者も見向きもしないこんな場所は、身を隠すのにはち
ょうど良かった。季吉は顔を隠し、荷運びや用心棒など日雇いの仕事で糊口をしのいだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
地面に藁を敷いただけの床に、みるは笑顔で三つ指をついた。二人で横になるのが精いっぱいの粗末な小さい小屋だったが、みるにとっては初めて手にいれた城で、朝な夕なせっせと手入れをし季吉が帰ってくるのを待っているのだった。みるの白い髪もまつげも、土ぼこりを浴びる生活ですっかりすすけて茶色くなった。じっと目を覗き込まないかぎり、以前の彼女とはわからないだろう。だけどその姿を見て、季吉の胸は軋むように痛くなった。
(…すまないみる。こんな暮らしで)
冬はもうすぐそこだった。あんな小屋で、どのくらい寒さがしのげるだろうか。街では何をするにも金がかかる。炭も火鉢も、なんとか都合をつけなくてはならない。もっと暖かいものをみるに着せてやらなければならない。金はいくらあっても足りない。忍びの技能を生かせばもっと実入りはいいだろうが、その場合郎党に見つかる可能性も高くなる―。
そんな事を考えていると、季吉の肩は自然と下がり、足取りは重くなった。ぬかるんだ地面に足裏から沈んでいきそうな心地だった。
「あっ、お帰りなさい、兄さま」
帰ると、小屋の中に座っていたみるがぱっと顔を上げた。その目はいつもよりも嬉し気に季吉を見上げていた。
「みてください兄さま。これ、貰ったんです」
みるが大事そうに抱えているのは、すすけてふちがかけた火鉢だった。
「もらったって、誰から」
「おとなりさん…拾ったからやるよって」
「…そうか」
「おとなりのおかみさんは、親切にしてくれるんです」
いつのまにそんな事があったのかと顔をしかめた季吉を見て、みるは慌てて言った。
「ちゃんと布を巻いて、髪は隠して会ってますから大丈夫ですよ」
季吉はため息をついた。
「…ならいいが」
みるは季吉の渋面をみて、少し迷ったが手のひらをさしだした。そこには銭が握られていた。季吉はその手をつかんで形相を変えた。
「お前これ、どうしたんだ、誰から?」
「おかみさんについていって、川にいったんです。魚を取りに。魚売りにそれを渡せばお金をくれるって、教えてもらって」
そう説明されて、季吉はますますやるせない気持ちになった。みるにそんな気を遣わせてしまっている事が。
「みる。気持ちはありがたいが、できるだけここを出ないでくれ。でないと危険だ」
みるはしゅんと肩を落として、その手で季吉の腕をつかんだ
「兄さまは…こんなに痩せてしまいました。これで何か食べてほしくて…」
たしかに常に空腹だった。食事は朝晩に稗粥を一杯だけ。だがそれはみるも同じだった。
「明日、お前の好きな干し柿でも買ってこよう」
「いいえ、これで兄さまのお好きな馴れ鮨を食べてください。私はさすがに、街中には行けませんから…」
そういうみるの目は必死だった。季吉はしぶしぶそれを受け取り、言った。
「わかった。だがもう、外へ行くことはしないでくれ」
「でも兄さま…」
迷うみるの目をまっすぐ見つめて、季吉は真剣に言った。
「たのむ。お前に何かあったら耐えられない」
するとみるの顔がふにゃりと緩んだ。ついで頬が赤くなり、みるはあわてたように両頬にぱっと手をあてた。
「わ、わかりました。兄さまの言う通りにします」
だが次の日の帰り道、季吉はどちらも手に入れることができなかった。そもそも寿司など、貧民の口に入るものではない。だから干し柿をと思ったが、冬にそなえて皆買い込んだりしまい込んだりで、どこにも残っていなかった。以前は簡単に口にでき、そのありがたみを感じることもなかった干し柿が、たった一つも手に入らないとは。寄る辺ない身分へ落ちてしまった事が、つくづく身に沁みた。
しかしこれ以上遅くなると心配だ。季吉は肩を落としてみるの待つ小屋へ入ろうとした。
「ねえ、ちょいと」
後ろから肩に手をかけられ、季吉はため息をついてその手を外した。辻君か何かだろう。
「悪いが急いでいる」
「つれないんだねぇ、せめてこっちを向いて断っとくれよ」
季吉が女を振り向くと、彼女はほうとため息をついた。
「あら…いい男じゃないか」
季吉は、逆に女の手に目がいった。彼女の腕の中には、丸めた茣蓙ござと、紐がついたままの干し柿が抱えられていたのだ。季吉は思わず銭を取り出していた。
「それを買わせてはくれまいか」
彼女は喜色満面になり、季吉の手を握った。
「うれしいねぇ、そうこなくっちゃ。こっちにおいでな」
「いや、その柿を買わせて欲しい。一つでいい」
とたんに女は不機嫌になった。
「あたしじゃなくて?柿を?」
「ああ。家の者が欲しがっていて」
その時、小屋の扉が勢いよく開かれた。
「…みる」
頭を鉢巻のようにして髪を隠したみるが、じいっと上目遣いで季吉と女をねめつけていた。見た事もないくらい、怖い顔をしている
「どうした、そんな顔をして」
みるの額によった皺が、ぐっと深くなる。
「何してるんですか、そこで」
「何って…」
柿を…という前に、女が肩をすくめた。
「なんだ、あんたかみさんいたのかい。」
季吉は銭を女に差し出した。女はため息をついてそれを受け取り、代わりに一つ柿を渡し、くるりと背を向けて去った。
そのあとのみるの不機嫌さといったらなかった。声を上げて怒りはしないが、その周りに異様な圧がただよっていた。
「何ですか、今のひと?それに…私は馴れ寿司をって言ったのに」
「そう言うな。お前は柿が好きだったろう。まぁ食べろ、ほら」
「いりません。兄さまが食べればいいんです」
みるは腕をくんでそっぽを向いた。季吉は困って頭をかいた。
「何を怒っているんだ。さっきの女からは柿を買っただけだ。もう帰ったじゃないか」
みるは恨みのこもった目で季吉を見た。
「わたしがいなければ、兄さまはあのひとと…どこかへ行っていたのですか」
「行くわけないだろう」
みるは唇をとがらせてまだ不機嫌そうだったが、不意にぽつりと言った。
「私たち…夫婦めおとに見えたんでしょうか」
「…そうかもな」
するとみるの頬にぱっと笑みが広がった。たちどころに機嫌を直して柿を受け取ったみるはそれを二つに裂いた。
「半分にしましょう。兄さまどうぞ」
季吉は小さいその果肉をほおばった。以前は柿があまり好きではなかったが、久々の甘味に頬の裏がくぼみ、空の胃の腑が騒いだ。もはや食べられるものならば何でもおいしかった。
「私は兄さまに…もっと栄養をつけてほしかったのに」
そういいながらもみるもぺろりと干し柿を食べた。その頬はまだ少し膨れている。
「兄さまが私のいう事を聞いてくれないのなら、私だって聞かないでまた魚を取りにいきますからね」
「…俺も干し柿が食べたかったんだ」
季吉がひねりだしたその苦しい言い訳に、やっとみるは笑った。
「もう、兄さまったら…」
季吉はほっとした。そして思った。
(少なくとも…みるは前よりも生き生きしている)
地下に閉じ込められていた時は、みるは喜怒哀楽がはっきりしなかった。いつもにこにこ笑って無邪気なばかりだった。自分が殺されるとわかった晩でさえ。
(だけど今は、泣いたり怒ったりもする…みるは間違いなく人間だ)
父の言っていたことは、今なら嘘だとはっきり言える。みるは外へ出て、人間らしい感情を持つようになったのだ。どこか夢見るような笑顔ではなく、ちゃんと嬉しくて笑うみるの顔はよりいっそう輝くように見えた。薄汚れた身なりをしていても。
それはきっといい事だ。だからこうなってよかったのだ。毎日ぎりぎりの暮らしだったが、季吉は一つ光明を見つけたような気がした。
「ではいってくるぞ、みる。何かあったらすぐ隠し穴に入れ」
都の一番端、桂川にほどちかい貧民街に季吉とみるは身を隠していた。ぬかるんだ地面に、今にも崩れそうな掘立小屋がひしめいている。しかし貴族も武者も見向きもしないこんな場所は、身を隠すのにはち
ょうど良かった。季吉は顔を隠し、荷運びや用心棒など日雇いの仕事で糊口をしのいだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
地面に藁を敷いただけの床に、みるは笑顔で三つ指をついた。二人で横になるのが精いっぱいの粗末な小さい小屋だったが、みるにとっては初めて手にいれた城で、朝な夕なせっせと手入れをし季吉が帰ってくるのを待っているのだった。みるの白い髪もまつげも、土ぼこりを浴びる生活ですっかりすすけて茶色くなった。じっと目を覗き込まないかぎり、以前の彼女とはわからないだろう。だけどその姿を見て、季吉の胸は軋むように痛くなった。
(…すまないみる。こんな暮らしで)
冬はもうすぐそこだった。あんな小屋で、どのくらい寒さがしのげるだろうか。街では何をするにも金がかかる。炭も火鉢も、なんとか都合をつけなくてはならない。もっと暖かいものをみるに着せてやらなければならない。金はいくらあっても足りない。忍びの技能を生かせばもっと実入りはいいだろうが、その場合郎党に見つかる可能性も高くなる―。
そんな事を考えていると、季吉の肩は自然と下がり、足取りは重くなった。ぬかるんだ地面に足裏から沈んでいきそうな心地だった。
「あっ、お帰りなさい、兄さま」
帰ると、小屋の中に座っていたみるがぱっと顔を上げた。その目はいつもよりも嬉し気に季吉を見上げていた。
「みてください兄さま。これ、貰ったんです」
みるが大事そうに抱えているのは、すすけてふちがかけた火鉢だった。
「もらったって、誰から」
「おとなりさん…拾ったからやるよって」
「…そうか」
「おとなりのおかみさんは、親切にしてくれるんです」
いつのまにそんな事があったのかと顔をしかめた季吉を見て、みるは慌てて言った。
「ちゃんと布を巻いて、髪は隠して会ってますから大丈夫ですよ」
季吉はため息をついた。
「…ならいいが」
みるは季吉の渋面をみて、少し迷ったが手のひらをさしだした。そこには銭が握られていた。季吉はその手をつかんで形相を変えた。
「お前これ、どうしたんだ、誰から?」
「おかみさんについていって、川にいったんです。魚を取りに。魚売りにそれを渡せばお金をくれるって、教えてもらって」
そう説明されて、季吉はますますやるせない気持ちになった。みるにそんな気を遣わせてしまっている事が。
「みる。気持ちはありがたいが、できるだけここを出ないでくれ。でないと危険だ」
みるはしゅんと肩を落として、その手で季吉の腕をつかんだ
「兄さまは…こんなに痩せてしまいました。これで何か食べてほしくて…」
たしかに常に空腹だった。食事は朝晩に稗粥を一杯だけ。だがそれはみるも同じだった。
「明日、お前の好きな干し柿でも買ってこよう」
「いいえ、これで兄さまのお好きな馴れ鮨を食べてください。私はさすがに、街中には行けませんから…」
そういうみるの目は必死だった。季吉はしぶしぶそれを受け取り、言った。
「わかった。だがもう、外へ行くことはしないでくれ」
「でも兄さま…」
迷うみるの目をまっすぐ見つめて、季吉は真剣に言った。
「たのむ。お前に何かあったら耐えられない」
するとみるの顔がふにゃりと緩んだ。ついで頬が赤くなり、みるはあわてたように両頬にぱっと手をあてた。
「わ、わかりました。兄さまの言う通りにします」
だが次の日の帰り道、季吉はどちらも手に入れることができなかった。そもそも寿司など、貧民の口に入るものではない。だから干し柿をと思ったが、冬にそなえて皆買い込んだりしまい込んだりで、どこにも残っていなかった。以前は簡単に口にでき、そのありがたみを感じることもなかった干し柿が、たった一つも手に入らないとは。寄る辺ない身分へ落ちてしまった事が、つくづく身に沁みた。
しかしこれ以上遅くなると心配だ。季吉は肩を落としてみるの待つ小屋へ入ろうとした。
「ねえ、ちょいと」
後ろから肩に手をかけられ、季吉はため息をついてその手を外した。辻君か何かだろう。
「悪いが急いでいる」
「つれないんだねぇ、せめてこっちを向いて断っとくれよ」
季吉が女を振り向くと、彼女はほうとため息をついた。
「あら…いい男じゃないか」
季吉は、逆に女の手に目がいった。彼女の腕の中には、丸めた茣蓙ござと、紐がついたままの干し柿が抱えられていたのだ。季吉は思わず銭を取り出していた。
「それを買わせてはくれまいか」
彼女は喜色満面になり、季吉の手を握った。
「うれしいねぇ、そうこなくっちゃ。こっちにおいでな」
「いや、その柿を買わせて欲しい。一つでいい」
とたんに女は不機嫌になった。
「あたしじゃなくて?柿を?」
「ああ。家の者が欲しがっていて」
その時、小屋の扉が勢いよく開かれた。
「…みる」
頭を鉢巻のようにして髪を隠したみるが、じいっと上目遣いで季吉と女をねめつけていた。見た事もないくらい、怖い顔をしている
「どうした、そんな顔をして」
みるの額によった皺が、ぐっと深くなる。
「何してるんですか、そこで」
「何って…」
柿を…という前に、女が肩をすくめた。
「なんだ、あんたかみさんいたのかい。」
季吉は銭を女に差し出した。女はため息をついてそれを受け取り、代わりに一つ柿を渡し、くるりと背を向けて去った。
そのあとのみるの不機嫌さといったらなかった。声を上げて怒りはしないが、その周りに異様な圧がただよっていた。
「何ですか、今のひと?それに…私は馴れ寿司をって言ったのに」
「そう言うな。お前は柿が好きだったろう。まぁ食べろ、ほら」
「いりません。兄さまが食べればいいんです」
みるは腕をくんでそっぽを向いた。季吉は困って頭をかいた。
「何を怒っているんだ。さっきの女からは柿を買っただけだ。もう帰ったじゃないか」
みるは恨みのこもった目で季吉を見た。
「わたしがいなければ、兄さまはあのひとと…どこかへ行っていたのですか」
「行くわけないだろう」
みるは唇をとがらせてまだ不機嫌そうだったが、不意にぽつりと言った。
「私たち…夫婦めおとに見えたんでしょうか」
「…そうかもな」
するとみるの頬にぱっと笑みが広がった。たちどころに機嫌を直して柿を受け取ったみるはそれを二つに裂いた。
「半分にしましょう。兄さまどうぞ」
季吉は小さいその果肉をほおばった。以前は柿があまり好きではなかったが、久々の甘味に頬の裏がくぼみ、空の胃の腑が騒いだ。もはや食べられるものならば何でもおいしかった。
「私は兄さまに…もっと栄養をつけてほしかったのに」
そういいながらもみるもぺろりと干し柿を食べた。その頬はまだ少し膨れている。
「兄さまが私のいう事を聞いてくれないのなら、私だって聞かないでまた魚を取りにいきますからね」
「…俺も干し柿が食べたかったんだ」
季吉がひねりだしたその苦しい言い訳に、やっとみるは笑った。
「もう、兄さまったら…」
季吉はほっとした。そして思った。
(少なくとも…みるは前よりも生き生きしている)
地下に閉じ込められていた時は、みるは喜怒哀楽がはっきりしなかった。いつもにこにこ笑って無邪気なばかりだった。自分が殺されるとわかった晩でさえ。
(だけど今は、泣いたり怒ったりもする…みるは間違いなく人間だ)
父の言っていたことは、今なら嘘だとはっきり言える。みるは外へ出て、人間らしい感情を持つようになったのだ。どこか夢見るような笑顔ではなく、ちゃんと嬉しくて笑うみるの顔はよりいっそう輝くように見えた。薄汚れた身なりをしていても。
それはきっといい事だ。だからこうなってよかったのだ。毎日ぎりぎりの暮らしだったが、季吉は一つ光明を見つけたような気がした。
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