瓶詰地獄彷徨

小達出みかん

船の上にすっと立ったのは、案の定父だった。


「聞け季吉。こやつは人間ではない。お前と共に生きながらえても禍わざわいの元となるだけ。今夜上様に献上するのが一番良い方法なのだ。」


 そういって、縄をぐいとひっぱった。みるは抵抗も空しく、海へと落ちた。花びらのように広がるその衣を無情にたぐりよせ、父はみるの頭が浮き上がらぬよう水の中で押さえつけた。


「なまじ妹などと言った儂も悪かった。いいか、水に沈めてもこやつは死なぬ。まだ妹と思うのならばとくと見るがよい」


 万力で押さえつけてくる忍びの身体の下から、季吉は叫んだ。


「おやめください父上!みるは、我が母から産まれた妹ではありませぬか!!」


「そうじゃ。しかし、儂の子ではない。それは確かじゃ」


 あの優しかった母が不義理をしたとでもいうのか。息子が次々死んでいくのを見て、心を病んでしまった母。入水自殺を繰り返し、最後はほとんど言葉もしゃべれず、屋敷に軟禁状態だったというのに。

 季吉は怒りを感じると同時に父の正気を疑った。みるが必死にもがき、水面を叩く音が聞こえる。


「何を、うつけた事を…!ついに耄碌されたか父上」


 みるを助けなければ。季吉は足の指の間に隠していた煙玉を爆発させようとしたが、察した忍びに足を押さえつけられた。


「若、もう抵抗はおやめになるのです。無体に聞こえるでしょうが、あれは若の手にはあまるものです」


 忍びの意識が季吉の足に向かった一瞬の隙をついて、季吉は手首に隠していた飛苦無とびくないを相手に突き立てた。


「っ…!」


 相手が痛みに怯んだのがわかったので、季吉はすばやく彼の下から這い出て煙玉を爆発させた。


「若…!く、待たれよ!」


 苦無には樒しきみの痺れ毒が塗り込んである。相手はしばらく動けないはずだ―…季吉は走り出したが、前方から飛んできた鋭い針が耳をかすめた。


「とまれ季吉。次は額だ」


 しかし季吉は止まらなかった。止まれば父のよい的だ。動いている方が当たる確率は低くなる。海のふちへたどりついた季吉はためらわず飛び込んで潜った。冷たい水が季吉の体を打ち、まとわりつく。しかし季吉はそれをふりきって水中を進んだ。水面下からみるを助け出せばいい。

 夜の鳰の海の中は、真っ暗闇も同然だった。だけれどみるが出しているであろう、空気を吐き出す音がする。ついに季吉は水中にたゆたうみるの衣をつかんだ。水面下で彼女の身体を抱きとめ、船体を蹴って一気に舟から離れる。


(このまま水遁で父をやりすごせば…)


 しかしみるはもう限界だろう。いったん水面に顔を出させなければ。季吉はみるだけを水面におしあげた。その時。突風が海の上を走り、水面が大きく揺れた。季吉はおおきなうねりにのまれ、深い場所へと沈みそうになった。


(っ、まずい…!)


 しかし、みるの手が季吉をつかんで引き上げた。


「っ…は、みる、浮け…!」


 予定外に水面に顔を出してしまった季吉は、荒れる湖面でみるの手を握ったまま、体の力を抜いて波をやりすごした。

 風は一瞬だったらしい。やがて波は収まり、暗い湖面に大の字で季吉とみるは浮かんでいた。この波に引き離されなかったのは奇跡だ。しかし握ったみるの手は冷たく力が抜けている。


「みる…生きているか」


 おそるおそる季吉は訪ねた。みるはきゅっと季吉の手を握りしめた。細長く節の目立つ指。


「はい、兄さまがさくせん、教えてくれたおかげです」


 こんな状況なのにみるは嬉し気に言う。


「この夜空に月が見えないのがざんねんです。せっかく兄さまと外へ出たのに」


 季吉はその言葉をきき流しながら当たりを見回した。舟はみあたらない。先ほどの波で沈んでしまったのか?父はどうなったのだ。


「でもこれからは…きっとたくさん見れますね?」


「ああ。みる、行くぞ。」


 こうなった時のために、別の場所にもう一艘小船を隠してあった。その舟に乗り込んだ季吉は、舟に用意してあった布でみるの身体をくるんだ。夏とはいえ、さすがに冷える。みるは季吉の胸中など知らず、とても嬉しそうに笑った。


「ありがとう、兄さま」


「お前はそのまま横たわって狙われないようにしろ。いいな」


「はい」


 注意深く櫂を漕いでいても、船はぐんぐんと進んだ。こんな時でなければ面白いくらいに。後方からなんの邪魔もないということは、先ほどの波で父も被害を被ったのだろう。


(忍びは樒の毒をあれだけくらってしばらく動けまい。父も自分の事で必死のはずだ…)


 いまのうちに、彼らの手が及ばぬほど遠くへ逃げなければ。そう算段した季吉は、全速力で櫂を動かした。湖面に再びゆるく風が吹きだした。その風にのって、何かが流れてきた。花びらだ。


(符号だ…父の)


 声を出せなくなった時などに使う伝達の手段として、父は花や葉、鳥の羽などに符合を定めていた。季吉は宙を舞う白いものを手でつかんだ。


「くちなし…」


 その花の意味する符合は「逃げろ」。季吉は顔をしかめた。自分らはやっと、あの場所から逃げ出したのだ。地獄からの脱出。


(なのに父上は何を言いたいんだ…?)


 考えながら櫂を持つ手を動かす季吉に、下からみるの声が響いた。


「兄さまは、寒くないですか」


「…ああ」


 まだ意味を考えていた季吉は生返事をした。するとみるは怒った。


「兄さま…兄さま!」


「なんだ、みる」


 季吉はしぶしぶ目線を落としてみるをみた。みるの綺羅綺羅きらきらしい虹色の目が、舟底からじっと季吉を見上げていた。


「ごめんなさい…みるのせいで、兄さまは抜け忍になった」


 そんな言葉を知っていたのかと季吉は驚いた。いつも無邪気であったみるの目に、薄い水の膜が張っている。張り詰めたその表面から今にも水滴が零れ落ちそうだ。

 季吉は簡潔に自分の胸中を告げた。


「…俺が決めたことだ。お前のせいではない」


 生まれてこのかたずっと閉じ込められていたお前を、外に出してやりたい。たった一人残った妹の命を、助けたい。そう思って行動したのはほかならぬ季吉だ。みるが兄に頼んだわけではない。

 そのそっけない言葉から季吉の思いが伝わったのか、みるはかすかに微笑んだ。


「兄さま…大好きです」


「…知っている」


 再び櫂を漕ぐことに集中しだした季吉を尻目に、みるは舟に吹き込んだ花びらを払って歌うような声でつぶやいた。


「これからは…にいさまといつも一緒…」



 

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