瓶詰地獄彷徨
2
船の上にすっと立ったのは、案の定父だった。
「聞け季吉。こやつは人間ではない。お前と共に生きながらえても禍わざわいの元となるだけ。今夜上様に献上するのが一番良い方法なのだ。」
そういって、縄をぐいとひっぱった。みるは抵抗も空しく、海へと落ちた。花びらのように広がるその衣を無情にたぐりよせ、父はみるの頭が浮き上がらぬよう水の中で押さえつけた。
「なまじ妹などと言った儂も悪かった。いいか、水に沈めてもこやつは死なぬ。まだ妹と思うのならばとくと見るがよい」
万力で押さえつけてくる忍びの身体の下から、季吉は叫んだ。
「おやめください父上!みるは、我が母から産まれた妹ではありませぬか!!」
「そうじゃ。しかし、儂の子ではない。それは確かじゃ」
あの優しかった母が不義理をしたとでもいうのか。息子が次々死んでいくのを見て、心を病んでしまった母。入水自殺を繰り返し、最後はほとんど言葉もしゃべれず、屋敷に軟禁状態だったというのに。
季吉は怒りを感じると同時に父の正気を疑った。みるが必死にもがき、水面を叩く音が聞こえる。
「何を、うつけた事を…!ついに耄碌されたか父上」
みるを助けなければ。季吉は足の指の間に隠していた煙玉を爆発させようとしたが、察した忍びに足を押さえつけられた。
「若、もう抵抗はおやめになるのです。無体に聞こえるでしょうが、あれは若の手にはあまるものです」
忍びの意識が季吉の足に向かった一瞬の隙をついて、季吉は手首に隠していた飛苦無とびくないを相手に突き立てた。
「っ…!」
相手が痛みに怯んだのがわかったので、季吉はすばやく彼の下から這い出て煙玉を爆発させた。
「若…!く、待たれよ!」
苦無には樒しきみの痺れ毒が塗り込んである。相手はしばらく動けないはずだ―…季吉は走り出したが、前方から飛んできた鋭い針が耳をかすめた。
「とまれ季吉。次は額だ」
しかし季吉は止まらなかった。止まれば父のよい的だ。動いている方が当たる確率は低くなる。海のふちへたどりついた季吉はためらわず飛び込んで潜った。冷たい水が季吉の体を打ち、まとわりつく。しかし季吉はそれをふりきって水中を進んだ。水面下からみるを助け出せばいい。
夜の鳰の海の中は、真っ暗闇も同然だった。だけれどみるが出しているであろう、空気を吐き出す音がする。ついに季吉は水中にたゆたうみるの衣をつかんだ。水面下で彼女の身体を抱きとめ、船体を蹴って一気に舟から離れる。
(このまま水遁で父をやりすごせば…)
しかしみるはもう限界だろう。いったん水面に顔を出させなければ。季吉はみるだけを水面におしあげた。その時。突風が海の上を走り、水面が大きく揺れた。季吉はおおきなうねりにのまれ、深い場所へと沈みそうになった。
(っ、まずい…!)
しかし、みるの手が季吉をつかんで引き上げた。
「っ…は、みる、浮け…!」
予定外に水面に顔を出してしまった季吉は、荒れる湖面でみるの手を握ったまま、体の力を抜いて波をやりすごした。
風は一瞬だったらしい。やがて波は収まり、暗い湖面に大の字で季吉とみるは浮かんでいた。この波に引き離されなかったのは奇跡だ。しかし握ったみるの手は冷たく力が抜けている。
「みる…生きているか」
おそるおそる季吉は訪ねた。みるはきゅっと季吉の手を握りしめた。細長く節の目立つ指。
「はい、兄さまがさくせん、教えてくれたおかげです」
こんな状況なのにみるは嬉し気に言う。
「この夜空に月が見えないのがざんねんです。せっかく兄さまと外へ出たのに」
季吉はその言葉をきき流しながら当たりを見回した。舟はみあたらない。先ほどの波で沈んでしまったのか?父はどうなったのだ。
「でもこれからは…きっとたくさん見れますね?」
「ああ。みる、行くぞ。」
こうなった時のために、別の場所にもう一艘小船を隠してあった。その舟に乗り込んだ季吉は、舟に用意してあった布でみるの身体をくるんだ。夏とはいえ、さすがに冷える。みるは季吉の胸中など知らず、とても嬉しそうに笑った。
「ありがとう、兄さま」
「お前はそのまま横たわって狙われないようにしろ。いいな」
「はい」
注意深く櫂を漕いでいても、船はぐんぐんと進んだ。こんな時でなければ面白いくらいに。後方からなんの邪魔もないということは、先ほどの波で父も被害を被ったのだろう。
(忍びは樒の毒をあれだけくらってしばらく動けまい。父も自分の事で必死のはずだ…)
いまのうちに、彼らの手が及ばぬほど遠くへ逃げなければ。そう算段した季吉は、全速力で櫂を動かした。湖面に再びゆるく風が吹きだした。その風にのって、何かが流れてきた。花びらだ。
(符号だ…父の)
声を出せなくなった時などに使う伝達の手段として、父は花や葉、鳥の羽などに符合を定めていた。季吉は宙を舞う白いものを手でつかんだ。
「くちなし…」
その花の意味する符合は「逃げろ」。季吉は顔をしかめた。自分らはやっと、あの場所から逃げ出したのだ。地獄からの脱出。
(なのに父上は何を言いたいんだ…?)
考えながら櫂を持つ手を動かす季吉に、下からみるの声が響いた。
「兄さまは、寒くないですか」
「…ああ」
まだ意味を考えていた季吉は生返事をした。するとみるは怒った。
「兄さま…兄さま!」
「なんだ、みる」
季吉はしぶしぶ目線を落としてみるをみた。みるの綺羅綺羅きらきらしい虹色の目が、舟底からじっと季吉を見上げていた。
「ごめんなさい…みるのせいで、兄さまは抜け忍になった」
そんな言葉を知っていたのかと季吉は驚いた。いつも無邪気であったみるの目に、薄い水の膜が張っている。張り詰めたその表面から今にも水滴が零れ落ちそうだ。
季吉は簡潔に自分の胸中を告げた。
「…俺が決めたことだ。お前のせいではない」
生まれてこのかたずっと閉じ込められていたお前を、外に出してやりたい。たった一人残った妹の命を、助けたい。そう思って行動したのはほかならぬ季吉だ。みるが兄に頼んだわけではない。
そのそっけない言葉から季吉の思いが伝わったのか、みるはかすかに微笑んだ。
「兄さま…大好きです」
「…知っている」
再び櫂を漕ぐことに集中しだした季吉を尻目に、みるは舟に吹き込んだ花びらを払って歌うような声でつぶやいた。
「これからは…にいさまといつも一緒…」
「聞け季吉。こやつは人間ではない。お前と共に生きながらえても禍わざわいの元となるだけ。今夜上様に献上するのが一番良い方法なのだ。」
そういって、縄をぐいとひっぱった。みるは抵抗も空しく、海へと落ちた。花びらのように広がるその衣を無情にたぐりよせ、父はみるの頭が浮き上がらぬよう水の中で押さえつけた。
「なまじ妹などと言った儂も悪かった。いいか、水に沈めてもこやつは死なぬ。まだ妹と思うのならばとくと見るがよい」
万力で押さえつけてくる忍びの身体の下から、季吉は叫んだ。
「おやめください父上!みるは、我が母から産まれた妹ではありませぬか!!」
「そうじゃ。しかし、儂の子ではない。それは確かじゃ」
あの優しかった母が不義理をしたとでもいうのか。息子が次々死んでいくのを見て、心を病んでしまった母。入水自殺を繰り返し、最後はほとんど言葉もしゃべれず、屋敷に軟禁状態だったというのに。
季吉は怒りを感じると同時に父の正気を疑った。みるが必死にもがき、水面を叩く音が聞こえる。
「何を、うつけた事を…!ついに耄碌されたか父上」
みるを助けなければ。季吉は足の指の間に隠していた煙玉を爆発させようとしたが、察した忍びに足を押さえつけられた。
「若、もう抵抗はおやめになるのです。無体に聞こえるでしょうが、あれは若の手にはあまるものです」
忍びの意識が季吉の足に向かった一瞬の隙をついて、季吉は手首に隠していた飛苦無とびくないを相手に突き立てた。
「っ…!」
相手が痛みに怯んだのがわかったので、季吉はすばやく彼の下から這い出て煙玉を爆発させた。
「若…!く、待たれよ!」
苦無には樒しきみの痺れ毒が塗り込んである。相手はしばらく動けないはずだ―…季吉は走り出したが、前方から飛んできた鋭い針が耳をかすめた。
「とまれ季吉。次は額だ」
しかし季吉は止まらなかった。止まれば父のよい的だ。動いている方が当たる確率は低くなる。海のふちへたどりついた季吉はためらわず飛び込んで潜った。冷たい水が季吉の体を打ち、まとわりつく。しかし季吉はそれをふりきって水中を進んだ。水面下からみるを助け出せばいい。
夜の鳰の海の中は、真っ暗闇も同然だった。だけれどみるが出しているであろう、空気を吐き出す音がする。ついに季吉は水中にたゆたうみるの衣をつかんだ。水面下で彼女の身体を抱きとめ、船体を蹴って一気に舟から離れる。
(このまま水遁で父をやりすごせば…)
しかしみるはもう限界だろう。いったん水面に顔を出させなければ。季吉はみるだけを水面におしあげた。その時。突風が海の上を走り、水面が大きく揺れた。季吉はおおきなうねりにのまれ、深い場所へと沈みそうになった。
(っ、まずい…!)
しかし、みるの手が季吉をつかんで引き上げた。
「っ…は、みる、浮け…!」
予定外に水面に顔を出してしまった季吉は、荒れる湖面でみるの手を握ったまま、体の力を抜いて波をやりすごした。
風は一瞬だったらしい。やがて波は収まり、暗い湖面に大の字で季吉とみるは浮かんでいた。この波に引き離されなかったのは奇跡だ。しかし握ったみるの手は冷たく力が抜けている。
「みる…生きているか」
おそるおそる季吉は訪ねた。みるはきゅっと季吉の手を握りしめた。細長く節の目立つ指。
「はい、兄さまがさくせん、教えてくれたおかげです」
こんな状況なのにみるは嬉し気に言う。
「この夜空に月が見えないのがざんねんです。せっかく兄さまと外へ出たのに」
季吉はその言葉をきき流しながら当たりを見回した。舟はみあたらない。先ほどの波で沈んでしまったのか?父はどうなったのだ。
「でもこれからは…きっとたくさん見れますね?」
「ああ。みる、行くぞ。」
こうなった時のために、別の場所にもう一艘小船を隠してあった。その舟に乗り込んだ季吉は、舟に用意してあった布でみるの身体をくるんだ。夏とはいえ、さすがに冷える。みるは季吉の胸中など知らず、とても嬉しそうに笑った。
「ありがとう、兄さま」
「お前はそのまま横たわって狙われないようにしろ。いいな」
「はい」
注意深く櫂を漕いでいても、船はぐんぐんと進んだ。こんな時でなければ面白いくらいに。後方からなんの邪魔もないということは、先ほどの波で父も被害を被ったのだろう。
(忍びは樒の毒をあれだけくらってしばらく動けまい。父も自分の事で必死のはずだ…)
いまのうちに、彼らの手が及ばぬほど遠くへ逃げなければ。そう算段した季吉は、全速力で櫂を動かした。湖面に再びゆるく風が吹きだした。その風にのって、何かが流れてきた。花びらだ。
(符号だ…父の)
声を出せなくなった時などに使う伝達の手段として、父は花や葉、鳥の羽などに符合を定めていた。季吉は宙を舞う白いものを手でつかんだ。
「くちなし…」
その花の意味する符合は「逃げろ」。季吉は顔をしかめた。自分らはやっと、あの場所から逃げ出したのだ。地獄からの脱出。
(なのに父上は何を言いたいんだ…?)
考えながら櫂を持つ手を動かす季吉に、下からみるの声が響いた。
「兄さまは、寒くないですか」
「…ああ」
まだ意味を考えていた季吉は生返事をした。するとみるは怒った。
「兄さま…兄さま!」
「なんだ、みる」
季吉はしぶしぶ目線を落としてみるをみた。みるの綺羅綺羅きらきらしい虹色の目が、舟底からじっと季吉を見上げていた。
「ごめんなさい…みるのせいで、兄さまは抜け忍になった」
そんな言葉を知っていたのかと季吉は驚いた。いつも無邪気であったみるの目に、薄い水の膜が張っている。張り詰めたその表面から今にも水滴が零れ落ちそうだ。
季吉は簡潔に自分の胸中を告げた。
「…俺が決めたことだ。お前のせいではない」
生まれてこのかたずっと閉じ込められていたお前を、外に出してやりたい。たった一人残った妹の命を、助けたい。そう思って行動したのはほかならぬ季吉だ。みるが兄に頼んだわけではない。
そのそっけない言葉から季吉の思いが伝わったのか、みるはかすかに微笑んだ。
「兄さま…大好きです」
「…知っている」
再び櫂を漕ぐことに集中しだした季吉を尻目に、みるは舟に吹き込んだ花びらを払って歌うような声でつぶやいた。
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