瓶詰地獄彷徨

小達出みかん

1


 山小屋の夜は暗い。灯りを消してしまえば自分の手も見えないほどまっくらだ。

 こんな晩には、さっさと寝てしまうに限る。季吉はごろりと床に横になった。扉にはいつも携帯している護符をすでに張ってある。心配はないはずだ。にもかかわらず、季吉はどこからか視線を感じていた。


(…見られている。くそ、今日ここに来たばっかりだっていうのに)


 そう、季吉はずっと逃げ続けていた。自分のきょうだいから――





「季吉、お前の妹を献上する時が来た。」

 

 おのれの頭を上げると、この黒々とした奥座敷に鎮座した父と視線がぶつかる。父の背後の屏風には、炎が渦巻く地獄絵図が描かれている。行灯あんどんの光が揺らめき、絵に過ぎないその光景を、まるで本当に炎が燃えているかのように不気味に照らしていた。屏風の真中では、鬼が幼子を別の鬼に差し出して、今しも食わんとしている様が描かれている。まさにこの屋敷にふさわしい絵だ。


(この家は――まるで蟲毒の瓶の中だ)


 季吉の母はすでに亡い。兄たちは、厳しい修行や任務で塗炭の苦しみにまみれながら命を落としていった。今や父のもとに残った嫡男は季吉だけだった。

 その父と子が、お互いを騙して裏をかこうと腹を探りあっている。


「と、おっしゃいますと」


 季吉は目を伏せて父に聞いた。


「上様は重い病気だ。今晩にも。わかっておろうな?」


 季吉に投げかけられる、脅しとも確認ともつかない父の声。


「仰せの通りに」


 季吉がそういうと、父はふうと息を吐いた。息子を疑っているのだ。


――命令に従わず、妹の命を助けるのではないかと。


 父の前から辞した季吉は一人、隠し扉の階段から地下へと向かった。


「みる、どこだ」


 暗いじめじめした地下の座敷の畳は、足の裏にべたりとに張り付くように湿っている心地がする。そのとき、後ろにはずむような息遣いを感じて、行灯の火をかざしていた季吉は呆れのため息をついた。


「後ろにいるのはわかっている」


 何をたくらんでいたのか季吉の後ろからひっそり近づいていた妹は、観念して兄の前へ出てきた。少し頬がふくれている。


「いつも、兄さまを驚かす事ができない…」


「お前ごときの気配がわからんようでは、俺は今頃死んでいる」


 にべもなく応える季吉に、妹はきゅっと唇をすぼめた。この暗い空間でさえ、その頬と髪は白く輝いて見えた。季吉を見上げる目の色は、翡翠と琥珀と瑠璃を混ぜたような不思議な色だった。雨上がりに空にかかる虹のような、儚く貴重な色。天が彼女のために特別にこしらえた、この世のものとは思えぬ一対いっついの玉ぎょくのような目だった。

 この異様な容貌の末娘を、父は人魚の娘だと信じ込んでいた。

 だが季吉にとっては、天にも地にもただ一人残った妹だった。その妹は、兄の着物のたもとをそっとつかんだ。


「それでも…一度くらいは、兄さまを驚かしてみとうございました」


 その手はかすかに震えている。季吉は妹の胸中を悟った。


「お前、父上の命を知ってるのか」


「はい。みるは、今夜にもここを出なければならないのでしょう」


 みるは季吉を見上げて笑った。


「だからもう一度上から降りてきてください。私が後ろから抱き着くので兄さまはわあっ!とおどろいてください。そしたらみるは、もう思い残す事はありません」


 その笑顔は無邪気そのものだった。ここを出れば自分がどんな運命をたどるのかわかっているにもかかわらず、だ。季吉は顔をしかめた。


「俺はお前を上様に喰わせはしない」


 妹の虹色の瞳が瞬いた。睫毛まで日の光の色だ。


「え…なんで」


「お前はただの人間だからだ。お前を喰って不老不死になれるはずもない。無意味だ」


「でも父様は、そんな事言ったって…」


「父上が納得しようとすまいと、それが事実だ。いくら見た目が変わっていようとお前は人間だろう、みる」


 季吉がそう問うと、みるは満面の笑みになり言った。


「はい、兄さま」



 真白の綾絹の衣に、薄更紗を垂らした市女笠をまとったみるは、まるでこれから嫁ぐ姫のようだった。しかしこれは死装束。上様に献上するために飾り立てられたみるを背負い、季吉はその夜屋敷から抜け出した。

 すぐに追っ手がかかるだろうと踏んで季吉は警戒を怠らなかったが、どれだけ走っても誰も追いかけてこなかった。

 とうとう予定通り鳰の海(琵琶湖)にたどり着いた季吉は、注意深くあたりを見回した。


「兄さま、よかった…あそこに隠した舟があるのでしょう?」


 みるは嬉し気に、水草の生い茂るふちに近寄った。当初の策では、あらかじめこれに乗って鳰の海を渡って反対側の近江まで逃げ延びるはずだった。だが。


(おかしい…上手くいきすぎだ。)


 誰も追ってこないはずがない。むしろこちらの手が全て読まれていて、泳がされているように感じた。季吉は直感的に妹を止めた。


「みる、舟から離れろ!」


 が、言うが早いが、舟から縄のうなる鋭い音がし、みるの身体を捉えた。そのまま舟がすっと動き出しす。白装束がひるがえり、みるは力のままに海へと引っ張られた。すかさず動こうとした季吉だったが、その時足元で煙玉がさく裂し、背後から飛び出てきた忍びたちに押さえつけられた。


(くっ…やはり罠か!)


 



コメント

コメントを書く

「ホラー」の人気作品

書籍化作品