【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした
10章
手には二百枚以上のコピー用紙があった。明朝体で印刷されて、左上には大きめのクリップが挟んである。印刷されたばかりだから、紙はほんのりと熱を孕んでいた。生まれたばかりのような温かさに、気持ちがはやる。
甘酸っぱい恋の話だった。本心を言えない少女と、からかうように話しかけながらも決して馬鹿にはせず応援してくれる少年。
ずっと気になっていた話の続きを私は読んでいた。少女が最初に見ていた年上の男子の正体。デートをした後、離れようとした少年の理由。彼は少女が物心つく前に両親の離婚で別れた実の兄だった。
そして少年は最初から少女のことが好きで話しかけていた。他の誰かを好いていると思っていても、話をしたのは夏休み中に転校することが決まっていたからだ。
デートの後、少年は予定通り転校する。
少女は少年がいなくなったことを知ると、夏休み、彼を探すために遠出をした。
最後のページを読み終えた私は、ふにゃふにゃとソファーの上で横になってしまいそうだった。そうしなかったのは、隣に悠さんがいるからだ。目が合って、柔らかそうな黒色の瞳が私に笑いかける。
夢中になって読んでいたけれど、たぶん悠さんに読んでいた私の顔を見られていた。間の抜けた顔をしていたはずだ。恥ずかしくなる。
「どうでした?」
「……すごく、素敵でした。あの、これって悠さんの書斎にあったものですか?」
「そういえば、ゴミ箱に入れていたはずが机の上に置かれていましたね」
「ゴミ箱が倒れて雪崩になっていたので、片付けようと思ったんですけど改めて私が捨てるのは抵抗があったので」
「読みました?」
「……ちょっとだけ、最後までは読んでません」
「素直ですね」
「どうして捨てたんですか? 読み返して修正するためでもなさそうでしたよね」
「まあ、そうですね。今日、本当なら芽依さんは出て行く日だったでしょう? だからその日に間に合うように書いていたんです。でも、いざ渡すことを考えたら……迷ってしまって……」
「結末ですか?」
「芽依さんに読んでもらうかどうか、です。だって、読んでしまったら、完全に作家と担当編集という関係になってしまう。中途半端なものを一つだけ残しておきたくなったんです。この小説を読んでもらえる機会がある内は、一度だけ元の不思議な関係に戻れるって思えば耐えられる気がした」
「私も同じことを思っていました。書斎に小説があった時、いつもの私なら読み始めたら手を離すこともできなかったと思います。でも、読めなかった。全部読んでしまったら、綺麗さっぱり何もかもなかったことになりそうで怖かったんです。読まなかったら、いつか悠さんがプライベートで話が完成したからって声をかけてくれるかもしれない。だから……私たち、本当に同じことを考えていたんですね」
「芽依」
「へっ」
不意打ちで呼び方を変えられた私は、咄嗟に体が固まった。背中がソファーの上に、ぱふんと落ちる。
上には悠さんがいた。彼の両手は私の顔の横に置かれている。ものすごく逃げ場がなかった。
「……もういいんじゃないですか?」
「な、何のことです!?」
いや、何のことかは分かっている。頑張ってとぼけていた。だけど私の心を一度、しっかり掴んだ悠さんには意味のないことだった。
「風邪はもうすっかりよくなったので、えろいことしてもいいですよね」
「もう一日、安静にしましょう」
「もう一日って、俺が風邪を引いてからどれくらい経っていると?」
「ええと……昨日ひいてまし……」
「一週間前ですよ」
そうだった。分かっている。そうです。あれから一週間後の土曜日です。それも夜。私はあれから悠さんが風邪だったことを理由に、安静にするよう頼んだ。平日は私が仕事だからという理由で、普通に寝ていた。来週には私の引っ越しが控えているので、それを理由に逃げることも悠さんは分かっていそうだ。
「これ以上の『待て』はちょっと……」
悠さんは苦笑いしながらも、目はすこしも笑っていなかった。ギラギラとした獰猛さを灯している。身の危険さえ感じた。……死ぬわけではないけれども。頭の天辺から足のつま先まで、彼のものになってしまいそうなのだ。危険を感じて当然だった。
「前はとくにしなくても、平気だったじゃないですか」
「全然平気じゃなかったですよ。だけど恋人ではなかったので、あなたの善意につけ込んで変なことはしたくなかった。でも今は堂々とシたいって言える関係ですよね」
「は、はい……」
もしかすると、彼の性欲は爆発寸前なのかもしれない。悠さんの気持ちが落ち着いてから、なんて悠長なことはできそうになかった。
「俺のこと、嫌になってしまったのかなって、思いそうになったんですけど……芽依、キャパオーバーになった?」
突然好きな作家からはがきが送られた時みたいに。
悠さんは満足そうな顔で、私の頬に触れる。赤くなった頬をするりと指でなぞった。
「わ、分かっているなら、めっ芽依って呼ぶのをですね! 私、ただでさえ悠さんから名前で呼ばれることに慣れていないんです! 悠さんは……ベッドで呼ぶように言っていたので、それほど衝撃もないと思いますけど!」
不公平だ。私は前から名前で呼んで欲しいと思っていた。
けれど、わざと私の心をかき乱すようにさん付けと呼び捨てを使い分けるのはあんまりだと思う。
最近はこれが悠さんの素の一部であることは何となく分かってきた。穏やかで丁寧な言葉づかいをするのも悠さんだけれど、その一番奥深い場所にはいたずら好きな少年の心がほんのすこし残っているのだと思う。
悠さんから聞いた過去の話と初めて書いた『茜色の屋根』から、両親がいなくなった当時を想像する。苦しみや痛みを乗り越えるためには、大人になるしかなかったのだ。そして彼にはそれができてしまった。どうしようもない現実を呑み込んで、今助けてくれる人たちに目を向けて生き続けた。
だから悠さんが私をからかったり意地悪するのはドキドキするし、嬉しくなってしまう。……もちろん、困りもするけれど。
思えば最初にホテルへ行った時もそうだった。理性が限界まですり減った悠さんの姿に、私は一等ドキドキしたのだ。
「分かりました。芽依さんが真っ赤になっていたので、てっきりこっちの方が好きなのかと思ったんです」
そっ、それはそうですけど。
恋人になってからというもの、なる前よりもドキドキすることが多くなっていた。それもだいぶ過激なレベルでドキドキする。
「でも、俺だって芽依さんから名前で呼ばれるたびにドキドキしていますよ。ほら、確かめてみますか?」
悠さんは私の手を取ると、自身の胸に触れさせる。
「……悠さん、胸板が厚いので分かりません」
手のひらに感じるのは、彼の硬い肉の感触だけだった。
「耳を当てないと分からないのかもしれないですね」
悠さんが手を離す。私は体を起こして、悠さんの広い胸に耳を当てた。
(……あ)
トクン、トクン、とやや速い心音が聞こえる。それがさらに速くなっていくのを聞きながら、私は目線を上に向けた。
「本当ですね、耳を当てたら聞こえてきました」
いつも穏やかで落ち着いている悠さんの内側を知ることができて嬉しくなる。
「すごい、どんどん速くなっていますね」
「……そりゃあ、そうでしょう」
「え……、あっ」
背中に悠さんの腕が回る。
「わ、罠……」
「違います。芽依さんが勝手に捕まりにきたんです。でないと、こんなにドキドキしません。それで、まだ待った方がいいですか」
「……だ、大丈夫、です。でも、あの……」
「うん」
恥ずかしくて、うなじに汗が滑るのを感じた。
「最初と二回をしてから……一ヶ月は経っているじゃないですか。だからえっと、この前確認したら色々と塞がってしまっているような……感じで……」
このままでは悠さんを受け止めきれないと思った私は自分で何とかしようと頑張ってみた。
しかし、自分でシた経験が乏しい私には直前になると怖くてできなかった。
「最初は……その……色々とご迷惑をかけるかもしれなくて……あんまり、激しいのは難しいかもしれない……です……」
言ってしまったと手で顔を覆いたくなるほど恥ずかしくなる。そんなことで、と言われたらどうしよう。
けれど、悠さんからの返事はなかった。代わりに、耳から彼の激しい鼓動が伝わってくる。
「悠さん?」
「じゃあ、今日はキスと触るだけにしましょうか」
「怒らないんですか」
「どうして? 怒ったりしませんよ」
悠さんはそう言って、私の体を横抱きにすると立ち上がる。足がぶらりと宙に浮く。そのままどこに行くのかは分かっていた。
まだ待たせてしまうことが申し訳ないのに、悠さんはとても機嫌が良さそうだ。……いや、良すぎる。
何となく、嫌な予感がした。本当に、何となく。
でもベッドに座った後、悠さんに体を抱きしめられて、まあいいかと思ってしまった。
彼を思いっきり抱きしめ返すと「芽依さん」と優しく呼ばれる。顔を上げたら、小鳥のように啄むキスを何度かされた。うっとりするほど心地良いスキンシップに目を瞑る。ずっとこうしていたいくらい幸せだった。
すこしすると、キスは深くなり始めた。上唇と下唇を別々で吸われて、唇が熱くなる。ゆるゆると差し込まれた厚い舌をちゅう、と吸うと応えるように私の舌も吸われる。ほんのりと甘く感じる口内に、喉を動かすと甘い液体がゆったりと奥へ流れていった。
「悠さん……」
ベッドの上で、ふにふにと唇が吸われ続ける。悠さんの大きな手が私の背中を優しく撫でた。
(これ……駄目、かも……)
泣いている子どもの背中を撫でるような仕草なのに、背骨が溶けてしまいそうになる。
すっかり力が抜けると、悠さんは私の背中に手を添えてゆっくりとベッドに寝かせてくれた。
「あっふ、ううっ」
それでもキスは終わらず、ちゅ、ちゅ、と唇を吸う音が続く。
背中に添えていた手は離れ、これで終わったかと思いきや今度は腰から太股の外側に移動する。手のひら全体を使って優しくすりすりと撫でられ、衣擦れの音がした。
「ふ……っ、ンン」
キスをして、体を撫でられているだけなのに、お腹がむずむずする。手のひらは性的な部分に触れることは一切なかった。だからこの気持ちの良い感覚に身を委ねたって問題はないはずだ。
「悠さ……っ、ふふっ、くすぐった……ッ」
唇以外にも首筋に優しくキスが落とされる。唇の先が僅かに触れるような軽い触れあい。こそばゆくて、足をぱたぱたと動かした。
「んー?」
笑いながら、悠さんは唇をふわりと当てる。
そろそろ寝ませんかと提案しようと思ったその時、悠さんの指が太股を直に撫でた。
「あっ」
思わず、大きな声が出た。恥ずかしさで唇をぎゅっと引き寄せるが、彼の手が止まることはない。
太股を下から上へと、フェザータッチで進んでいく。こそばゆさと謎の期待が私の体を駆け巡った。際どい部分で指は止まり、再び元に位置からすうっと動いていく。
「悠さん、こ、これっだ、駄目っ」
「キスと触るだけなら、芽依さんも痛くないでしょう?」
「痛くはない……です、けどっ!」
気持ちいいのに物足りないという絶妙なスキンシップに、私は逃げ出したくなった。
けれど、太股の間には悠さんが座っている。力も強くないので、彼が本気を出さなくても片手一つで私をベッドの上に戻すことができるだろう。
「もっと激しく触って欲しい?」
私の心を見透かすように、悠さんが目を細めた。鳴りを潜めていた彼の中の獰猛さが再び瞳に現れる。
どうする、と私の理性をかき乱すように悠さんは太股に触れ続ける。私はこのまま軽く触れるだけなんて、耐えられるはずがなく――最初からこうするつもりだったのだと気づきつつも頷くしかなかった。
      ♡
辛いはずの初体験よりも翌朝の疲労はすさまじかった。変なところに力を込めていたのか、腰がへとへとになっていて力が入らない。結ばれた証が朝になってもしっかりと残っていた。他にも腕や胸、足に背中もキスマークが残っているのだろう。
(わ、わーん……)
まだ受け入れられそうにない、なんて言いながら悠さんにたっぷり触られた私は、最終的に自分から強請ることになっていた。最初からこれを計画していたのだろう。
すっかり策に嵌まってしまったけれど、嫌ではない。ただひたすら、己の単純さに羞恥が込み上げてくるだけだ。
「朝から元気ですね」
ぎゅっと顔を寄せるのは悠さんだった。気怠そうにしつつも、「おはようございます」と言って頬にキスをする。
朝から糖分が多い……!
「……おはようございます。でも私、全然元気ではないですよ」
「だけど起きてから、布団を頭に被ったり、かと思えば足をバタバタさせて顔を枕に当てたりしていたでしょう。元気ですよ。俺はもう芽依さんを抱きしめたまま動きたくもない」
「い、今、裸ですよね……」
顔以外にも背中もお尻も悠さんの肌にぴったりとくっついていく。
「えぇ」
クスクスと笑う声が耳元をくすぐる。掠れた声に混じって、気怠そうな吐息が耳に当たった。
「昨晩、あれだけ愛し合ったんですから芽依さんもムラムラしないでしょう?」
だから大丈夫、と悠さんは足の指でふくらはぎをなぞる。
「あ、あの、あのですね、私は明日からちょっとずつ悠さんのマンションに引っ越すための用意をしないといけないんですよ」
「俺も手伝いますよ」
「いえ、大丈夫です!」
「そういえば芽依さんのアパートにまだ入ったことがないんですよね」
「……そうでしたっけ」
絶対にアパートの中を悠さんに見られたくない。
とぼけては見るが、押し切られる予感があった。
「そうなんです。なので引っ越す前に、芽依さんのアパートに泊まってもいいですか」
「時々、掃除はしていますけど、もう一ヶ月もまともに住んでいない状態なんです。無理です」
「だから昼間は俺も一緒に掃除して、夜は芽依さんと寝たいです」
言いながら、さりげなく彼の足がふくらはぎの上ですすすっと移動する。
(足癖!)
「私のアパートにあるベッドはここほど広くないんです。一人用です。シングルサイズ!」
「じゃあいっぱいくっつけますね」
「それに、アパートなので結構狭いんですよ。ワンルームです」
「うん。芽依さんに触れたくなったら、すぐに触れますね」
(ヤる気しかない……!)
「俺は掃除も家事も得意なので、連れて行った方がいいと思いますよ」
それは否定できなかった。
「大丈夫。芽依さんの部屋がどんな状況でも、嫌いになったりはしませんから」
「嫌われるかもって思うほど汚くはないですから……」
見られたくない物があるだけだ。悠さんがわざわざ家捜しのような真似をするとは思えないけれど、ふとした拍子に見られたくないものが彼の前に出ていきかねない。
「なら、俺に見られたくない物があるんですね」
そうなんでしょう、と足の指が私の足をつつく。
「それこそ、大丈夫ですよ。だって俺は芽依さんからもらったファンレター過去八年分ちゃんと保管してますから。恥ずかしがる必要なんてないですよ」
励ますように悠さんは言ってくれた。
けれどそれは、トドメでしかない。
ね、と首を傾ける悠さんに、私は枕で顔を隠して呻いた。
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