【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした
8章-2
同居最終日の金曜日、仕事から帰ると悠さんはソファーで横になっていた。真っ赤な顔で息が荒い。
私が近づくと、閉じていた瞼がぱちりと開いた。潤んだ瞳を向けられると、庇護欲がぶわりと膨れ上がって抱きしめたい衝動に駆られる。
明らかに体調が悪そうだった。
「悠さん、ベッドで寝ましょう」
額に触れても、やっぱり熱い。悠さんは喋るのも億劫そうだった。
「あ……いえ……これは過労というか動きすぎると、軽い風邪を引きやすいので……ご飯食べてたらなお……」
言いかけて、口を動かすのに疲れてしまったのか何とも微妙な顔で無言になる。
私が仕事に出ている間、ずっと書いていたのだろうか。だけどそれだけで熱を?
「支えますから、寝室に行きましょう」
両腕をすこし広げると、悠さんは大人しく私に体を預けてくれた。何故か腕を掴むのではなく、腕の中に入ってきたことには驚いた。その上、腰に腕を回されている。
私は悠さんの足の動きに合わせて、ゆっくりと移動した。
「……本当は、こんなつもりじゃなかったんです。すみません」
今日は一緒に夕飯を食べる最後の日だった。楽しみにしていたのは私だけではなかったのかもしれない。
「ご飯、お粥にしましょうか」
「いえ……それは……」
「遠慮しないでください。それとも、お腹が空いているならお粥以外にもあった方がいいですか」
「じゃあ、お粥だけで」
「それと良かったら出るのは明後日にしませんか。風邪をひいているので……」
「いえ、それは駄目です」
それだけはきっぱりと返事をされた。固い意志のようなものを感じ取り、寂しくなる。
「もうこれ以上、香月さんに迷惑はかけられません」
迷惑なんて思ってもいない。
悠さんが、はふ、と苦しそうに息を吐く。これ以上の会話は負担だった。
「ご飯の前に冷やすもの、取ってきますね」
厚みのある唇がピクリと動く。
しかし、もう喋る気力もないのだろう。
冷蔵庫から保冷剤を取り出し、タオルを濡らす。すこしでも楽になったらと思い、再び寝室に向かうと悠さんは目を瞑っていた。
こんなに熱があるのに、過労とはどういうことだろう。他にも何か理由があるのではないか。ここ最近のことを思い返す。
最近の悠さんは私よりも先に起きていることが多かった。寝室で朝の挨拶をするのはいつものことだけれど、その時の悠さんは既にベッドから出ていなかったか。
さすがにそれはないだろう。
まじまじと彼の顔を見る。目に隈があったりはしなかった。だけど、実はこっそり寝室を抜け出して書斎に籠もっていたのではないか。
詳しく知りたかったけれど、今は原因よりも看病が先だ。
小さな土鍋にお粥を作り、寝室に向かう。まだ眠っているようだったら、起こさずサイドテーブルにお粥を置こうと思った。お米の匂いにつられて、ゆっくりと目が覚めるかもしれない。
さっきまで寝ていたはずの悠さんは、目を開けていた。
「体の一部を冷やしたらだいぶ楽になりました」
「回復、早いですね」
「香月さんのおかげです」
そう言われるほどのことは、まだ何もできていない。
「お粥は食べられそうですか」
「はい」
返事をしながら、彼は気怠そうに体を起こした。やっぱりまだ辛いのだ。
「スプーン、持てますか?」
「それくらい持てますよ」
お盆を悠さんの膝の上に置く。何かの弾みで倒れたら大変なので、ベッドのそばで待機することにした。
悠さんはお盆の上に置かれた木製の軽いスプーンを握ってみせる。掴むことはできていた。ただ、それを使ってお粥をすくって食べることができるかどうかは、また別の問題に思えた。それくらい頼りない持ち方だ。
「ね?」
と首をすこし傾ける様が、熱のせいもあって官能的に見える。
「すこし食べたのを見てからにします」
「ふふ、心配性ですね……」
笑っているけれど、お粥をスプーンですくうと、彼の表情に疲労の色が見えた。
「ん……」
持ち上げようとした手は、途中で止まる。
そして力が抜けたかのようにゆっくりと下りていった。
「……俺が食べられそうにないって言ったら、食べさせてくれますか」
悠さんは恥ずかしそうだった。この弱った姿にドキドキするのは不謹慎だと自分に言い聞かせる。
「そのつもりです」
「じゃあ……お願いしても?」
「はい」
悠さんの手からスプーンを受け取って、彼の唇に運ぶ。
「熱くないですか」
「ちょうどいいです」
もぐ……、もぐ……、と頬が動く。咀嚼が終わるのを見て、もう一度お粥を運んだ。
私も恥ずかしかったけれど、悠さんはもっと恥ずかしそうだった。食べさせたのは逆効果だったのではないかと思うほど、耳が赤くなっている。今までは私の方が甘えてばかりだったので、逆の立場というのは新鮮だった。
「まだ食べられそうですか」
土鍋に入ったお粥は半分近く減っていた。
「もうすこし、食べられそうです。……香月さんが面倒でなければ」
「面倒なんて思いません。元気になってきたみたいでよかったです」
体調が悪くても、食欲だけは旺盛だった。なので、最後まで私は食べるのを手伝うことにした。悠さんは申し訳なさそうに、それでも口元にスプーンが近づくとパクリと唇を開く。
お粥を食べた後は、薬を飲んでもらった。
「風邪をひいて看病してもらうなんて久しぶりです」
お腹がいっぱいになったからか、悠さんはうとうとし始めた。
「一人暮らしだと、自分だけで何とかしちゃいますよね。ご飯を作ったり体を冷やすお手伝いしかできないですけど、いつもで呼んでください。今の関係が終わったとしても……」
口にしてから、余計なことを言ってしまったと反省する。ついさっき、明日もここで生活しようと提案したら断られたばかりだった。
「そう……ですね……」
悠さんは躊躇うように目を伏せた。
「香月さんがいたら、俺はすごく安心するんだと思います」
震える唇は「だけど」と言葉を続ける。
「慣れたら一生、手放せなくなる……ので……」
次に聞こえたのは、穏やかな寝息だった。
会話の内容を思い返そうと努力する。あれは何だったのだろう。手放せない? 何を?
具体的にどういう意味なのか、頭が追いつかない。
これは良い話なんですか。それとも悪い話なんですか。
相手は病人だった。ほとんど眠りかけていた状態での言葉なので、次に目が覚めた時には覚えているかどうかも怪しい。
「……手放さなくて、いいのに」
無意識に出た声にハッとする。
悠さんは眠っていた。この声は聞こえていない。大丈夫。
そっと寝室を出た後、空になった食器を洗い場に置く。途端に、耐えていたものが一気に崩れて足から力が抜けた。
何てこと言ってしまったんだ、私。
相手は病人で、気が弱っている。そんな時に出た言葉を真に受けてどうする。嬉しいけれど、本気にしたら駄目だと思った。
食器を洗い終わってから、いつも閉じられている書斎が開けっぱなしになっていることに気づく。悠さんが風邪を引いたことで、他のことを考える余裕はなかったのだ。
扉が全開に開いているので、閉じようと思って近づく。すると、机の下にあるゴミ箱が倒れているのに目が入った。捨てようとした紙の束が雪崩みたいに床に広がっている。
さすがに片付けてから扉を閉じよう。
勝手に入るのは気後れした。
けれど、このままにすることもできない。
悠さんの書斎はゴミ箱周辺以外は綺麗に整えられていた。天井まで届く本棚は小説だけでなく歴史や建築、心理学など様々な資料が並んでいる。
パソコンデスクは広々としていた。モニターとキーボード以外に物はない。電源は切られている。だから余計に、倒れたゴミ箱の存在が目立つ。
机の前でしゃがんで、倒れたゴミ箱を立てた。散乱した用紙を一枚一枚拾うと、明朝体で印刷された文字がするりと頭の中を駆けていく。読むつもりはなかった。
自然と入ってきた文章には思い当たる節があった。
これは私が気になっていた話の続きだ。
デートまでした後、しばらくは仕事の方を優先していたはずだ。その後は、悠さんが気まぐれで他にも過去書いた短編なんかを印刷して読んでいたのだから。
散乱していた紙は、デートシーンだった。
いつから書き始めたのだろう。
(読みたい……)
書いた本人が風邪をひいているのに、この誘惑に負けてはいけない。
だけど、これはゴミ箱に入れるようなものなのだろうか。どうして捨てたのか、それが気にかかった。
ページにはきちんとルビも印刷されているので、散乱していたとしてもページ順に並べることができる。ちょうど私が読んでいないページから始まっているが、それでも集めた紙を束ねるとそれなりの厚さになる。百ページはあった。
悠さんに読ませてもらうまで、私は読んではいけない。いけないことだと分かっていた。
だけど明日にはこの家を出て行くことになる。その後も、私はこんなに気安く悠さんの家に入れるだろうか。話をできるだろうか。
ちらりと読んでしまったページを思い返す。
『デート、全然できてたじゃん。だいぶ男と話すのも慣れたんじゃないか』
『そうかな』
『そうそう! 自分のことは自分でしようとしてたけどさ、今は自然と頼れるようになっただろ』
『うん。……あの、おかげで勇気を出して話すことができて、それで……』
『そうなんだ!』
少年は話を遮るように喜んだ。
『じゃあ、いつか告白もできるようになるな』
少女の表情から、熱が消えていく。落胆の色が見えたが、少年は気づかなかった。
『でも、あなたと話すのには慣れたけど……』
『デートの時みたいに髪を下ろして、眼鏡を取ってコンタクトにすればいけるよ。可愛いんだから。それに話しかけることができたんだろ。その調子だ。頑張れ』
『……そうかもね。うん、やってみる』
『もう俺も必要ないかもな』
『必要ないなんて言い方、しないで。でも、どうしてここまでしてくれたの』
『そんなの話したかっただけだよ』
胸の奥がチリチリと痛んだ。続きが気になってしまう。どう読んでも、少女は少年のことを好きになっている。それなのに、最初に見つめ続けていた年上の男子に話しかけたのは何故なのか。
二人は一体どんな結末を迎えるのだろう。
気になって、読みたくなる。
なのに私は読めなかった。
明日、私は悠さんのマンションを出ていく。彼はその日のためにこの小説を用意していたのだろうか。仕事で書かなければならない小説だってあるのに。
仕事で依頼している小説は定期的に進捗の報告があった。
ということは、同時に書いていたということだ。
「……っ」
喉の奥がヒクリと音を立てる。
初めて悠さんの部屋に泊まった日、読んだ小説が完結してしまう。終わってしまう。続きが読みたかったのに、胸が苦しかった。
この小説が完結してしまったら、私と悠さんの関係も本当に綺麗さっぱり消えてなくなってしまいそうだった。
(まだ、ここにいたい……)
別にもう二度と会えなくなるわけではない。作家の黒澤ユウさんの担当編集ではいられる。充分だったはずだ。
それが今さら、どうして理性がなくなってしまいそうなほど辛くなるのだろう。
(私、毎日悠さんの隣で眠るだけだった)
最初は肉体的な関係も込みだと思っていたのに、悠さんは私をそばに置いて優しくしてくれるだけで求めてくることはなかった。
(私がマンションに来たのは……必要のないことだったのかな)
担当編集として顔会わせをした日に比べれば、悠さんの顔色はかなりよくなっている。だけど、ただ隣で寝ているだけの私は本当に必要だったのかと不安になった。
目の裏側が熱い。視界が滲むと、頭の中も同じように滲んでいく。
「私……」
唇が震えた。
私は声も出さず、なぞるように二文字を言う。確かめるように唇を動かすと、どうしようもなく実感した。
(どうして、今になって気づいてしまったんだろう)
そんなの分かっている。ずっと、気づかないように逃げていたからだ。
後ろ髪を引かれる思いで、私は捨てられていた紙を机の上に置いた。入ってしまったことがバレてしまうし、ちょっとは読んだことも確定してしまう。
でもしょうがない。
私の手で、悠さんの書いたものをゴミ箱に入れるなんてできないのだから。
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