【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした

佐倉響

7章-2





 デートを約束した日を迎えるのは、思ったよりもあっという間だった。すぐデートをしなかったのは「環境が変わって無意識に疲れているかもしれない時に日帰りの旅行はきついと思う」と悠さんが言ったからだ。

 二人でいつもより早く寝たので、起きるのも早い。いつも私が先に起きて、悠さんを起こすことになる。白い肌に長い睫と整った鼻筋を眺めて、「悠さん、起きてください」と頭を撫でる。朝から大きな声を出したり、布団を引っ剥がしたりする必要もなく、悠さんは目を開けた。視線が私を捉えると、いつも照れたような顔で「おはようございます」と挨拶する。すっかり見慣れた朝の光景だった。

 化粧と服装は、仕事の時よりも気合いを入れたものになった。何と言ってもデートだ。小説のためとはいえ、無性に意識してしまう。

 服は事前に悠さんからどういうのが好きか聞いていた。

「香月さんが好きな服を着ればいいと思いますけど、でも俺の好みだったらワンピースを着ているのが好きですね」

 とのことなので、私はこの日のために新しくワンピースを購入していた。薄い緑色の無地で、スカート部分は一部だけギャザーがある。金色のボタンが袖にも着いていて、涼しげで上品な服だった。

 髪型は動画を見ながら編み込みのハーフアップに整える。

 化粧も大人らしく見えるように目元を頑張った。

 ……すこし、やりすぎたかもしれない。

 小説のためにという理由があるとはいえ、かなり気合いの入った格好になっていた。

「黒澤さん、準備終わりました」

 扉から顔を出す。悠さんはもう着替え終わっていた。

 灰色のTシャツに黒色のカーディガンを羽織っている。いつもはもっとシンプルで、スタイルの良さが際立つような格好をしていた。けれど今日はスタイルがいいだけでなく、オシャレな大人の男性に見える。目が合うと、彼の目尻にある黒子がさらに色っぽく見えた。

「ワンピース可愛いですね」

「そうですよね! このワンピース可愛くて」

「はい。ワンピースを着た芽依さん、可愛いです」

「ひゃぇ」

 慣れない褒め言葉に、突然の名前呼び。咄嗟に言葉が出なくなるのも当然だった。

「どうかしましたか?」

「名前で呼んで来たので、びっくりして」

「だって今日はデートですから、芽依さんも夜の時みたいに悠って呼んでください。その方が恋人らしい」

「悠さん……」

「うん」

 言いたいことはたくさんあった。それらが一度に頭の中をぐるぐると回って言葉に詰まる。悠さんは黙って、待っていてくれた。だから私は無理矢理蛇口をひねるように、声を出す。

「今日は、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 大きな手のひらが私の方に向けられる。指も長くて、手の筋や硬そうな肉付きに見蕩れてしまう。

「芽依さん?」

「へ」

「嫌ではなかったら、デートらしく手を繋ぎませんか」

「は、はいどうぞ!」

 慌てて手を置くと、ゆるく手を握られる。

 まだ家を出てもいないのに、心臓がドクドクしている。目的地に着く前から息切れしてしまわないか不安になった。そのせいで腰が砕けたら、きっと悠さんは丁寧に支えてくれるのだろう。余計に腰から力が抜ける未来が見えた。絶対に意識を保とうと決心する。

 移動は電車を使った。幾つか乗り換えながら、カップルらしい人たちを観察する。私と悠さんは手を繋いでいるけれど、彼らのようにカップルに見えているのだろうか。

「そんなに緊張していると、目的地に着く頃にはバテてしまいますよ。ほら、リラックスして。肩にもたれかかってもいいですからね」

 そんなことしたら余計に緊張してバテてしまいますけど!?

 緊張の原因である悠さんは、私が何も言えずぷるぷるしているのを見て生温かい視線を向ける。

 最近、悠さんはこういう軽口が増えてきた。そういう気安い態度を嬉しいと感じる自分の心が一番、恨めしい。

 誰かに見られているわけではないことを確認してから、悠さんの肩にとん、と頭を預ける。突然のことだったからか、悠さんの視線が痛い。

 何やっているんだろうと顔が熱くなったので、ゆっくりと頭を持ち上げていく。

 やってみたけど、私にはあんな甘え方は無理だ。そもそも恋人でもない。

 気まずい空気が数秒流れると、電車が止まりタイミングよく人が入ってきた。ぴん、と張った心臓が緩むのを感じる。すこししてから、何でもなかったように二人でこの前一緒に見た映画の話を始めた。





 最初の目的地は広々として空中庭園だった。カラッと晴れた青空の下、気持ちのいい風が吹いている。甘い花の香りが心地良い。

「晴れてよかったですね」

「そうですね」

 のんびりと散歩をしながら、花を見る。バラやダリアの花が鮮やかだった。近くにハーブもあって、スマホで写真を撮る。

「ここ、ブランコもありますね」

 屋根付きの二人乗りブランコが幾つかあった。

「座ってゆっくりしましょうか」

「いいですね」

 空いているブランコに二人で座る。

 ブランコは木製で触れるとほんのり温かい。風が吹いていることもあって、ブランコは前後に小さく揺れた。そこから見える庭園に、思わず息が漏れる。

「芽依さん、やりたいことがあったら言ってくださいね」

「もちろんです。悠さんも遠慮なく言ってくださいね。協力するために来たんですから」

「今、手を繋いでいるだけで充分ですよ」

「他にもあるんじゃないですか。せっかくここまで来たんですから、思いついたら言ってくださいね」

「うーん、キスとか?」

「ここでですか!?」

 さすがにそれはできなかった。周囲には人がいる。手を握ることはできても、それ以上のスキンシップができるほどバカップルにはなりきれない。

「こういう場所だと雰囲気があるんだろうな、と思って言っただけなので本気ではないですよ。俺もさすがに恥ずかしいので、ちょっとだけ顔を近づけて話しませんか」

「それくらいならできます」

 すると悠さんは、背中を丸めて顔を近づける。内緒話でもするように、小さな声で「これくらいの距離でいいですか」と聞いてきた。

 顔が触れているわけでもないのに、首から上の肌がくすぐったい。

「これ、見る角度によってはキスしているみたいですね」

「何てこと言うんですか」

 本当に見られていないか、周囲を確認したくなるけどできない。首を動かせば悠さんと顔をぶつけてしまいそうだった。

 彼の穏やかな呼吸が風の音に混じって聞こえる。繋いだ手がじんわりと熱を増した気がした。

「どんな気持ちですか、今」

「顔が近くて緊張します」

「俺と一緒ですね」

「じゃあ、そろそろ顔を近づけるの止めませんか」

「……もうすこしだけ」

 もうすこしって、どれくらいだろう。

 既に色々と限界だった。悠さんの瞳に私しか映っていないのだと思うと、見られている肌が赤くなっていくのを感じる。赤色に染まっていく頬を見られている。あんまり近くで観察されると、心の内側まで見つめられてしまいそうで、頭が真っ白になった。

 近くにいる悠さんの唇がふっと緩む。

 ああ、もう駄目。

 恥ずかしくて、目をぎゅっと瞑る。

 肩が悠さんに触れていた。まるで、もっと近づいたみたいだ。息を止めてしまいたくなる。限界まで膨らんだ緊張は、悠さんの気配が離れたことによってあっさりと萎んだ。

「参考になりました。ありがとうございます」

 目を開くと、悠さんは花の方へ視線を注いでいる。

「……こちらこそ」

 言ってから、何がこちらこそ何だと頭を抱えたくなる。すこしして、そこは「どういたしまして」と言う場面だったと気づいた。悠さんはその間違いを指摘することなく、もう別のことに考えを巡らせているようだった。

「もう一周して、そろそろ移動しましょうか」

「そうですね!」

 花の蜜がほんのりと香る庭園を、手を繋いだまま歩く。庭園を出た後は、気になっていたレストランで食事をとった。

 次に向かった水族館には小さな水槽が幾つもあった。水槽の一つ一つ、雰囲気が違う。ライトの色にまでこだわっているようで、クラゲのいる水槽は緩やかにライトの色が変わっていく。色を目で追うことに夢中になってしまう。水族館だけど、美術館みたいな場所だった。

「綺麗……」

 悠さんの手を握っていない方の手で、写真を撮る。いつか資料として使う日が訪れるかもしれないし、そうでなくとも今日の思い出になる。悠さんも時々、写真を撮っていた。後で撮った写真を送りあうことも約束している。

 楽しい時間はあっという間だった。

 そろそろ水族館の中を見終わる頃になって、スマホに保存された写真が風景や魚しかないことに気づく。デートなのに、人物の写真が一枚もなかった。写真を撮る時、悠さんは真横にいたのでしれっと背中を撮れるチャンスもない。

 最後は天井まで続く大きな水槽だった。大きな魚はゆったりと気持ちよさそうに泳ぎ、小さな魚は群れになって機敏に泳ぐ。海の中にいるような光景だった。

 隣にいる悠さんも、魚たちに見蕩れていた。

 周囲は人が少なくなっている。それを知って、私は声をかけた。

「悠さん」

 声が緊張で裏返りそうになる。舌だってもつれそうだった。

「……もしよかったら、写真を撮ってもいいですか」

 今、ここにいる悠さんの写真が欲しかった。

「写真を撮られるのが嫌だったら断ってください!」

「いいですよ」

「ありがとうございます」

 スマホのロックを解除して、カメラのアプリを起動する。

 けれど、悠さんは繋いだ手を離してくれない。このままだと顔が近くてせっかくの大水槽がもったいことになる。

 私がもたもたしていると、悠さんは不思議そうに首を傾けた。

「芽依さんのスマホで撮りますか?」

「は、はい」

「分かりました」

 そう言って、悠さんは歩き始めたので私も一緒に移動する。別の場所で撮るのだろうか。大水槽から離れた壁際に行こうとする彼の背を不安な気持ちで眺める。

「すみません、もしよかったら写真を撮ってもらえませんか?」

 悠さんの足が止まった。壁際で魚を見ていた男性だった。

「写真ですね、いいですよ」

「芽依さん」

 私に向けられた柔らかい声に、気持ちが浮上しかける。すぐに現実に意識を留めて、男性にスマホを渡した。

 大水槽に近づいて、男性の方に顔を向ける。カチカチに固まる私の背を、悠さんがとんとんと優しく叩く。まさかツーショットの写真になるとは思わなかった。

 水槽の前で立っただけの写真だったけれど、三枚ほど撮ってもらえた。その内の一枚だけ悠さんが私を見ている。たまたまだったのだろう。目を細めている顔を見て、喉から胸まできゅうっと縮みそうになった。

「俺も、撮った写真送ってもらっていいですか」

「はい」

 私は撮ってもらった写真を悠さんに二枚だけ送る。彼が私を見ている写真だけは、見てはいけないものを見てしまった気がして送れなかった。

 水族館のエントランスホールに戻る。後はもう帰るだけだった。この先に予定はない。ちょうど団体客が入館するところのようで、驚くほど人が多くなっていた。入る時間が被らなくて良かったと思っていると、近くで電話の呼び出し音が聞こえ始める。その瞬間、繋いでいる手を強く握られる。痛むほどではない。

「悠さん?」

「どうかしたましたか」

 声音はいつもと何ら変わらなかった。

 けれど、表情は強ばっている。

 呼び出し音が途切れると悠さんは、すこしずつ元に戻っていくのが分かった。まだ会って一ヶ月近く。けれどその間、私はずっと悠さんを見てきた。

 筑波さんから悠さんに電話はしてはいけないと教えられたことを思い出す。電話の呼び出し音も苦手なのかもしれない。

「大丈夫ですか。すぐに、離れますか?」

「……そういえば、芽依さんは筑波さんから聞いてたんですよね」

「さすがに理由は知らないですよ」

 水族感の中は人は多い。外出先で電話の呼び出し音に遭遇することはそこまでないけれど、せめて外に出ておきたかった。私は彼の腕を引っ張って、外に出る。弱くなった日の光に迎えられてほっとした。

「すみません、芽依さん」

「謝ることなんてないですよ」

 苦手なものは誰にだってある。

「せっかくデートの最後だったのに」

 悠さんは弱っているようだった。

「気にしてませんよ」

 伝えても、悠さんは寂しそうに眉尻を下げる。私が言えば言うほど逆効果だった。

「だけど、俺は……」

 彼はハッとした表情をすると堪えるように唇を閉じる。

「悠さん……?」

「帰りましょうか」

 繋いでいる手から力が抜けていく。私がしっかり握らないと、簡単に離れていきそうだった。

 電話の音で顔が強ばったのは、それほど大きな失態だっただろうか。誰かに迷惑をかけるほど取り乱したわけでもない。

 電車の中に入る頃には、悠さんを取り巻く雰囲気は和らいでいた。二人で窓から赤く染まり始めた空を見る。

「一日でこんなに行動したのは久しぶりです」

「私もです」

「眠くなったりしていませんか」

「すこしだけ、瞼が重たいですね」

「遠慮しないで寝ていいですからね」

「我慢できなくなったら、そうします」

 日差しは弱まり、電車がガタンガタンと揺れる。その音を聞いていると、ついつい瞼が落ちかけた。

 この日のために、今日は五時半に起床していた。それでも時間は足りない。のんびりと準備できるはずもなかった。服のコーディネートは最初から決まっていたのに、直前になってこれでいいのかどうか迷って他の服を着てみたりもしていたのだ。上から下まで準備を整えた頃には、すこしだけ疲れていたことを思い出す。

 それだけバタバタしていたのだから、夕方には眠くもなるだろう。

 電車の乗り換えまで、まだ二時間もあった。

 どれほど気を張っても、数秒で頭が上下に揺れる。意識が途切れ途切れになっていることを自覚した。

 だけど、せっかく悠さんが隣にいるのだから退屈させたくない。

 そう思って抵抗している私の耳に、イヤホンが片っぽだけ差し込まれた。

「どうしたんですか」

「音楽でも聴きませんか?」

 悠さんはどんな音楽を聴くのか気になった。こくりと頷くと、柔らかく穏やかなピアノの音が耳に流れ込む。まるで清水のように注がれた音は、クラシックだった。それも一層、眠気を誘うような曲だ。曲名は分からない。でも、一度は聴いたことのある有名な曲だった。

「あの、今は眠たいんですけど……」

「はい」

「これを聴いていたら眠りそうです」

「眠れない時に効くBGMです。芽依さんが来る前、たまに聴いてました。リラックスできますよね」

「ちょ、ちょっと待ってください。すご……く、眠いんですけど……」

「効果ありますね」

 眠気に負けそうで、イヤホンに手を伸ばす。それなのに、その手は悠さんに掴まれる。酷い。

「夜、眠れなくなって……しま……か、も」

「そうなったら俺が責任を持って寝かせますよ」

 具体的に何をするつもりなのだろう。

「そ、そんな……ふ、ぁ」

 喋りながら大きなあくびが出かかる。口元を隠したかったけれど、両手は悠さんに取られていた。俯いて口を開くも、間の抜けた声までは隠せない。目尻に涙が浮き出ていた。

「悠さ……、今日のデート、参考になりました……か……」

「どうしたんですか、突然」

「だって私……すごく楽しかったんです」

「それなら良かったです」

「でもこのデートは小説の続きを書く参考に……するためなので。なのに私は……途中から、はしゃいでしまって……」

 それどころか、思い出に悠さんの写真が欲しくなった。

「もっと……できることが、あったんじゃ……」

 思わずにはいられない。このデートは予定を決めて、手を繋いで歩いただけのように思えた。役に立てただなんて思えない。とくに水族館では悠さんに歩くペースを合わせてもらっていた。

「なら、またデートをすればいいんです」

「悠さんの時間がもったいないです」

「芽依さんとのデートほど有意義な時間もないと思うんですけどね」

 聞こえた声は幻聴のよう思えた。眠すぎて、耳がおかしくなったのだろうか。悠さんは堂々としていた。何も恥ずかしいことなどないという態度だ。聞いた私の方が恥ずかしくて胸がくすぐったい。

「せめて悠さんが楽しかったなら、いいんです……けど……」

「今も楽しいですよ」

「なら……良かった……で……」

 喋りながら、今度こそ抗えないくらいに意識が潰れていく。かくん、と体から力が抜けていた。頭の中が真っ黒になって、いよいよ限界を迎えようとしている。唇を動かそうと試みる。唇の先っぽがすこしだけ動く。でも声になることはない。

 耳に流れる音楽は、まるで木漏れ日の下にいるような気分にさせる。

 話せなくなった私に、悠さんは何も言わなかった。





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