【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした
5章-1
朝一番に、成人男性の胸板を見た私は驚きで二度寝をしてしまうところだった。夢だったのでは? と思いかけて、違う。悠さんと寝たのだと思い出す。
人の家に泊まったにも関わらず、一度寝たら朝までぐっすり眠っていた。
むくりと顔を伸ばして、周囲を見渡す。それもそうかと納得した。ベッドは大きくて心地がいいし、部屋は安眠のためかラベンダーの匂いがほのかにしていた。窓も朝日が入りすぎず、ほどよく室内を明るくしてくれる。だから眠る時はたくさん眠れるし、起きる時はすっきりとした目覚めになった。
さすが悠さん、不眠のためにできることは何でも手を出している。
時計を確認すると、まだ七時前。
悠さんは私が起きる時に起こして欲しいと言っていたけれど、こんな時間に起こしていいのだろうか。悠さんの家を出る時に起こした方がいいのではないだろうか。
「ん」
迷っていると、喉を鳴らす音がした。
長い睫がぱちりと持ち上がる。だけど瞳は未だ眠たそうにとろんとしていた。目尻にある黒子のせいもあって、朝から色気が漂っている。
「おはよう……ござい……ます……」
言いながら、悠さんは私をしっかり抱きしめる。二人で結ばれた後、どうやって寝ただろうか。私は下着なしのワンピース姿。悠さんは下半身だけ剥き出しのままなのが、素足から伝わってくる。
「こんな状態で、二度寝したら駄目です!」
「んん……」
むにゃむにゃ状態で悠さんが返事をする。
額にリップ音と共に何かが触れた。
それから、ふあ、と長い欠伸をする。
「ああ……すごくよく眠れました」
「それは良かったんですけど、私はこれから着替えて会社に向かわないといけないので」
「まだ時間的に余裕があると思いますけど」
出社時間を教えたつもりはないけれど、私よりも編集と付き合いが長いのだから知っていても不思議ではない。
「朝食をどこかで食べようと思っているので」
「仕事着は持って来ているんですよね?」
「はい」
「じゃあ、俺と一緒に朝ご飯を食べませんか。お礼も兼ねて。香月さんが身支度を済ませている間に作っておきます」
先に目を覚ましたのは私だったのに、ベッドから一番に出たのは悠さんだった。眠そうだった顔はどこにいったのか、すたすたと部屋を出て行く。眠いのではなかったのか。
あまりの切り替えの速さに、残っていた眠気も飛んでいった。
ハッとしてベッドから出る。
悠さん一人に朝食の用意をさせるわけにはいかない。
寝室から出ると、キッチンにはパジャマ姿にエプロンをかけた悠さんがいる。
「香月さん、朝食は和食と洋食どっちがいいですか?」
「ゆっ……黒澤さんが、作りやすい方でいいです。私も手伝いますから」
危ない。ベッドの中で『悠さん』と何度も呼んでいたせいで、うっかり言い間違えるところだった。
「手間のかかるものを作るわけではないので、大丈夫ですよ。それに、エプロンは一つしかないので。可愛いパジャマが汚れたら俺も悲しいですから」
言われて、私は自分の格好を見る。
そして今になって気づいた。
――パンツ、はいてない!
すぐに寝室に戻り、布団の中に紛れたパンツを見つけた後、身支度を済ませた。普段以上にてきぱきと服を着替え、化粧を済ませたのに、キッチンからは美味しそうな香りが漂っている。間に合わなかった。
「手間がかからないものって言ってたじゃないですか!」
出来上がった朝食を見た私は、悲鳴のような声が出た。
「俺が作る分には、手間だと感じない朝食ですよ。カットして冷凍保存した具と出汁と味噌を入れただけだったり、魚を焼いただけだったり、後は作り置きを数品。ご飯はタイマーで朝出来上がるようにしていたので」
俺が作る分には。つまり、人に頼む分には手間だということは理解しているのだろう。
「私、実家でもこんな豪華な朝食を食べたことないです」
「実家……」
こんなにしてくれなくていい、というつもりで伝えたはずだった。
なのに悠さんは、実家という言葉に反応している。どう触れればいいのか分からない、という顔をしていた。
どうしたのだろう、と悠さんを見た。
しかし彼は、目を瞬いて照れたように笑う。
「朝食の量、多かったですかね」
「品数はありますけど、一つ一つの量はすこしずつなのでちょうどいいと思います」
「よかった。でも多かったら無理に食べなくても大丈夫ですからね」
ほっと胸を撫で下ろす姿を見たら、追求することもできなくなった。
悠さんが作った朝食は、とても美味しかった。ナスやタマネギなど具がたくさん入った味噌汁とご飯だけでも充分なのに、鮭の塩焼きもある。とくに美味しいのは作り置きだと言っていたタコと野菜のマリネだった。ずっと食べていたいくらい美味しい。
夢中で食べた後、空になったお皿を見て悠さんに渡した作り置きを思い出す。
「……こんなに料理が得意だったら、私が作った酢の物なんていらないんじゃ」
「それはないです」
即答されても、それはあるはずだと思った。
「昼や夜にゆっくり食べますから、返すのはなしにしてください。それくらいなら香月さんが気に入ってくれたタコのマリネをあげますから」
「どうしてマリネ美味しいって思っていたのがバレてるんですか」
「食べた瞬間、頬がとても緩んでいたので」
ぺちん、と両手で頬に触れる。
……緩みきっていた。
「とにかく、きゅうりとタコは原価が違い過ぎるので代わりに何か要求なんてしませんから」
「欲しいものがあったら、いつでも言ってくださいね」
と、ふわふわ笑っている。
「このご飯だけで充分ですから」
悠さんから欲しいものなんてない。これからも健康体で、無理のない範囲で小説を書いてくれたら嬉しい。だけど、不眠とうまく付き合いながら彼はたくさん小説を書いてくれた。もうたくさん、もらったのだ。
悠さんは無理をしていないだろうか。
不安になって、目の下にある隈がどうなっているのか確認する。朝日に照らされているからか、だいぶ肌色がよく見えた。
(これでデリヘルを呼ぶことを考え直してくれたらいいのに)
誰か好きな人ができて、その人と一緒にいたいというのなら、こんな押しかけるようなことはしない。継続してそばにいてくれる人がいた方がいい。十年に及ぶ不眠症が、たった一回寝ただけで回復するとは思えなかった。
試しに一回、という話ではあったけれど、その後どうするのかはまだ話していない。朝からする話でもないだろう。ご飯を食べたら早めにマンションを出たかった。この周辺が朝、どれほど人で込むか分からないからだ。
食器を洗った後、玄関で悠さんに見送られる。
「いってらっしゃい」
一人暮らしを始めてから聞く機会のなかった言葉だった。久しぶりすぎてくすぐったい。
「いってきます……」
真っ赤に染まりかける顔を隠すために、すぐに戸を開ける。
駅の中は人で混雑していた。それを気にもならないほど、心が舞い上がっている。頬に触れると、タコのマリネを食べた時よりも緩んでいた。
自分が住んでいるアパートからではなく、悠さんのマンションからの出社は、不思議な感覚だった。体から頭が離れてぼんやりしそうになる。
もちろん、このままでいいはずがない。
休憩スペースにある自販機でブラックのコーヒーを飲んでから席についた。
会社のPCを立ち上げ、メールを確認すると悠さんから途中まで書かれた原稿が送られていた。中を軽く確認した後、さっそくメールの返信をする。
筑波さんから引き継ぐことになって、一番強く言われたのは悠さんに電話をしないことだった。どんなに急いでいても、電話はかけない。メールやメッセージアプリを使って何度も送ればいいとまで言われた。電話が嫌いなのかと思えばそうではないと訂正される。
『事情は言えないが、とにかく苦手なんだ。使わなくても、締め切りはきちんと守るから緊急の用事なんて早々ないけど』
聞いた当初はそれならいいか、と深く知りたいとも思わなかった。業務上、必要のない個人的なことだ。それに本人が明かしたいわけでもないのに重たそうな内容を他の人から聞く必要もないし、私自身そういう行為は好きではない。
こうして編集として仕事をしていると、私は悠さんのことを小説以外はそれほど知らないのだと実感させられる。不眠症になった原因も知らなければ、電話が苦手な理由も知らない。
休憩時間になると、私個人のスマホに悠さんからメッセージが届いていたことに気づいた。
『香月さんがよかったら、しばらく一緒に寝てもらえませんか』
「わ……」
読んだ直後、声が出る。すぐには信じられなくて、何度も読み返した。
『今後のことについて、きちんと話もしたいので仕事が終わったら早めに来てくれますか。夕飯は用意します』
「夕飯」
思い出すのは今朝の食事。夕飯はさらに美味しいものが出てきそうな予感がした。コンビニ弁当を食べたばかりなのに、もうお腹が空きそうだ。いつもならお弁当を作って会社に行くけれど、今日ばかりは用意できなかった。これからも悠さんに協力するのなら、キッチンを借りる許可をもらった方がいい。きっと、こういう細かい部分を話すのだろう。
もちろん、断るつもりはない。
仕事が終わった後、私は真っ直ぐ悠さんのところへ向かった。泊まる時に必要なものは昨日と同じなのでアパートに戻る必要もない。
悠さんのマンションに入ると、すぐに話をすることになった。
「こういう条件でいいですかね」
彼に紙を手渡されて、目を通す。
期間は悠さんが一人でも眠れそうになったら。もしくは、私が止めたいと思った時。具体的な日数はない。
寝る時は悠さんと一緒に寝る。
起きる時は悠さんを起こしてからベッドを出る。
家賃や水道光熱費・食費は悠さんが払う。
食事は悠さんが朝昼晩と作る。
その他、家事は基本、悠さんがする。
決まり事はそれほど多くはない。
「どういうことですか……」
「抜けていることがありましたか」
「いくら何でも、私に都合が良すぎます!」
どう見ても悠さんの負担が大きい。金銭の面でも、家事の面でも。
「香月さんが俺のところに通ってもらっている時点でだいぶ負担だと思います。仕事も俺とは違って、会社まで行かないといけない。それに環境も変わることで、無意識のうちに疲れてしまうこともあるかもしれない」
「仕事をしているのは悠さんもです。環境だって、朝晩私がいることで気疲れするかもしれない」
私は悠さんの健康と貞操が心配で来ているのだ。それなのに家事が二人分に増え、それによってかかる費用も彼が負担することになったら意味がない。
「もうすこし、お互いが平等になる条件にしてください」
悠さんは頷いてくれたものの、かかる費用を折半することは首を縦に振ってはくれなかった。ほとんど同居のような生活になるけれど、私は自分が住んでいるアパートを解約するわけではない。基本料金もかかるはずだと言われれば、確かにそうだったと気づく。それでも私は抵抗があった。
「じゃあ、ここに引っ越しますか。それなら折半でもいいです」
「そ! それは!」
ぶわり、と耳が熱くなる。
だめだ。どうして舞い上がる、私。
「分かっています。香月さんはそういうの抵抗ありますよね」
「は、はは……」
笑って言葉を濁しながら、浮かれていた気分がいっきに地の底に落ちていく。笑いながら溜め息を吐きそうになった。一緒に住むなんて考えたこともないのに、言われた瞬間、胸がドキドキした。
「じゃあ食費を折半にしましょう。水道光熱費は俺が一人の時よりだいぶ多い場合は香月さんにすこし払ってもらいます」
「じゃあ家事は……」
ざっと悠さんの部屋を見ても、私が住んでいるアパートよりも綺麗だ。
私は帰っても仕事で知りたいことを調べることに夢中になったり、本を読むことを優先するせいで掃除は二の次になっていた。
対して、悠さんはどこに物を置くのかしっかり決めているのだろう。でもミニマリストというほどではないし、ものすごく片付けに厳しいわけでもない。テーブルに雑誌が置かれたままだったりしている所も目撃した。
「料理を作るのも、掃除をするのも、俺の気分転換でやっているんですよね。ずっと座っていても体が硬くなるので」
「でも料理は一人分から二人分になるので、食材を買うのも作るのも息抜きレベルではなくなると思います」
「言われてみれば……そういう気も……」
そうかもしれない、と他人事のように零す。
「実際やってみたら大変ですよ!」
たぶん。
誰かと同居した経験はないけれど、想像で語る。
「黒澤さんほど料理が上手なわけではないんですけど、私も作らせてください。お昼ご飯はどうですか。私、いつもお昼はお弁当を作るので黒澤さんの分も一緒に作ります。それに夕飯も定時で帰れる時は私も一緒に作らせてください。今までだって作っていたんです。会社からそのまま黒澤さんのマンションに帰って家事をしない生活をしていたら、絶対に暇ですから……!」
半分以上は勢いでの説得だった。
言いながら、悠さんに任せきりの生活を想像するだけで罪悪感がすごい。絶対にそんな生活はできなかった。
「……香月さんが、そこまで言うなら」
この言葉を引き出すのに二時間はかかったような気分だった。
けれど実際には三十分ほどしか経過していない。他にも相談するべきことがあったかもしれないけれど、思い出した時でいいかと思うくらいには気力が尽きていた。
「でも、こんなに良くしてもらっていいんですか。俺が言うのもおかしい話なんですけど、いくら不眠だって言っても引き受けないと思いますよ。これといった報酬もないのに」
「報酬なんて……」
「まさか本当に男の人とシたいだけなんですか」
悠さんからすれば、こんな話を引き受ける理由が分からないのだろう。私はただ、悠さんが好きでもない女性を抱いて欲しくなかった。彼が好きな作家だからというだけではない。彼の人となりを知ってしまったからこそ、叫びたくなるほど嫌になる。ほとんど衝動的な行動だった。なのに今もこの衝動は消えることなく残っている。
……どうして?
ふと、自分の考えに違和感を覚えた。なのに深く考えることを億劫に感じる。体のどこかがチリチリと痛む。
(私は悠さんに苦しい思いを一人で抱えて欲しくないだけ)
自分の中で納得できる考えを見つけ、私は平静を装った。
「……そうですって、言ってるじゃないですか」
「毎晩?」
「まっ……」
毎晩なんて体が持つだろうか。いや、そこは頑張ろう。最中、前後不覚になっているので、今までが頑張れているかどうかは怪しいけれど。
「毎晩でもいいですけど、黒澤さんがしたくなった時だけでいいですよ」
「ふふ、じゃあムラムラしたらお願いします。でも、まあ……できるだけ我慢します」
「は、はぁい……」
返事をしながら、悠さんの性欲が強いのかどうか真剣に聞きたくなった。
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