もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

幸福〈1〉

「ただいま、フミ」

 仕事が休みの土曜日の夜。キッチンに立って夕飯の用意をしていると、仕事が帰宅したアツくんが背中からぎゅっと抱きしめてきた。

「おかえりなさい」

 笑顔で振り向くと、それを待ち構えていたかのように、アツくんにキスされる。唇が触れるだけのキスは徐々に深く本気のキスへと変わっていく。

「ちょ……、今はだめ」

 サラダ用にきゅうり切ろうと手に持っていた私は、ドキドキしながらアツくんの胸を押し退けた。

「じゃあ、あとでね」

 悪戯っぽく目を細めたアツくんが私の額に軽くキスをして離れる。

「着替えてくるね」
「うん……」

 ジャケットを脱ぎながらクローゼットのほうに向かうアツくんの背中を、私はしばらく火照った顔で見つめた。

 翔吾くんとの交際にケジメをつけて、アツくんと初めて身体を繋げた夜からそろそろ一ヶ月。

 私はアツくんの恋人になり、仕事が休みの週末はほぼ毎週と言っていいほど彼のワンルームのマンションに入り浸っている。

 アツくんは土曜日も診察に出るので、そのあいだに部屋の掃除をしたり、ごはんを作ったりするのが私の役目だ。

 アツくんは「何もせずにゆっくりしてたらいいのに」と言ってくれるけど、私がしたくてやっている。

 料理はもともと、得意なわけでも特別好きなわけでもない。料理を含めた家事は、母とふたりで暮らしている頃からなんとなく義務的にやっていて、大人になるまでにそれなりになんでもできるようになった。

 でも、義務的に料理を作るのと、誰かのために料理を作るのとはモチベーションが全然違う。アツくんは私が作ったものをなんでも褒めてくれるから、彼の家での家事は楽しかった。

「今日は何作ってくれたの?」

 着替えを済ませたアツくんが、サラダを作っていた私の手元を横から覗き込んでくる。

「ビーフシチューだよ」
「あ、やっぱり。玄関開けたとき、それっぽいいい匂いがすると思ったんだ」

 嬉しそうに笑うアツくんの顔を見たら私まで嬉しくなってきて。胸の中がぽわぽわと温かい気持ちになった。

「何か手伝う?」
「もうすぐだから、座って待ってていいよ」
「じゃあ、スプーンとかグラス並べとくよ。そういえば、先週買ったワイン残ってたよね」

 アツくんがそう言いながら、冷蔵庫から赤ワインを取り出す。私は食卓の準備を整えてくれるアツくんを横目にサラダを仕上げると、用意していたバケットをスライスして軽く焼き、ビーフシチューの鍋に火をかけた。

 お皿にそれぞれサラダと焼き上がったバケットを盛り付けていると、アツくんが出来上がったものから順番に食卓へと運んでくれる。

 私がふたり分のビーフシチューをよそって食卓に運んだときには、既に食事の準備が完璧に整えられていて、アツくんの気配りのよさに感心した。

 年が離れているからか、昔一緒に暮らしていた期間があったからか、それとも元来気配り上手なのか、アツくんはいつも先のことまで見越して自然に私のことをサポートしてくれる。アツくんと一緒に過ごす時間は、私のとって想像以上に居心地の良いものだった。

「じゃあ、食べようか」

 グラスにワインを注いでくれたアツくんと乾杯をして、食事の時間が始まる。

「フミのビーフシチュー、すごく美味しい」

 私の作ったものを、アツくんが笑顔で口に運んで褒めてくれる。何気ないことだけど、それがとても幸せで嬉しい。

「今日は夕飯のあとにデザートもあるよ」
「そうなんだ。何作ってくれたの?」
「プリン。ちゃんとカラメルソースも作ったの。朝に作ったから、そろそろうまく固まってると思う」
「楽しみだな」

 アツくんがビーフシチューを口に運びながら、嬉しそうに目を細めた。

「そういえば、小学生の頃にもフミが俺にお菓子作ってくれたことあったよね」
「そんなのあった?」

 考えても記憶になくて、首を傾げる。

「あった、あった。あれ、バレンタインデーだったのかな? こんなちっさいハート型のチョコくれたよね」
「バレンタインデー……」

 そういえば、母と二宮さんの離婚が決まる半年ほど前のバレンタインデーで、私はアツくんにチョコをあげた。それも、溶かして固めるだけのものすごく簡単なもの。あんなの、手作りお菓子と言っていいかどうかもわからないくらいの代物だったはずなのに……。ほんとうにアツくんは、昔の私のことをよく覚えている。

「チョコを包んでたラッピングも、折り紙とか使った手作り感満載のやつでさ。でも、すごく嬉しかったよ。俺、フミが来る前はずっとひとりっ子だったから、妹がいたらこんなことしてもらえるんだな、可愛すぎる、って思って。学校で友達にすげー自慢した」
「ウソ。私のチョコなんて自慢しなくても、高校生のときのアツくんなんて、絶対に女の子からチョコたくさんもらってたでしょ」
「たくさんってことはないけど……」

 アツくんが笑いながらなんとなく言葉を濁す。

 はっきりと否定はしないけど、学生自体のアツくんはきっとモテていただろう。アツくんに初めて会ったときに小学生だった私も、かっこいいお兄ちゃんができたことが嬉しくてかなりテンションが上がったんだから。

 複雑な気持ちでビーフシチューを啜っていると、アツくんが私に優しいまなざしを向ける。

「でも、フミがくれたあのときのチョコは俺にとってはやっぱりトクベツだったよ」

 バレンタインデーのチョコをあげたとき、私はまだアツくんへの恋心は自覚していなかった。アツくんだって、あのときは私のことを《妹》だとしか思っていなかっただろう。

 それでも、あのときからお互いにお互いのことがトクベツだと思っていたなら嬉しい。あのときから、私はアツくんのことが好きだったから。

 ふわふわとした幸せな気持ちで夕食を過ごしたあと、アツくんとふたりで協力して片付けを済ませる。シンクの前にふたりで並んで話しながら作業していると、洗い物はあっという間に終わってしまう。アツくんと一緒にいると、そういう時間も楽しかった。

 夕食の片付けが終わると、冷蔵庫で冷やしてあるプリンを食べるために、アツくんがコーヒーを淹れてくれる。

「これ、すごくなめらかでお店のプリンみたい」

 手作りのプリンは、食べてみたら思ったよりも甘味が足りなかった。それでもアツくんがにこにこ笑って褒めてくれるから、私はまた嬉しくなった。

 子どもの頃、私にあまり関心のなかった母に褒められた経験が少ないせいか、アツくんに笑って褒めてくれると私の心は幸福感に満たされる。

「また何か作るね」

 プリンの容器を片付けるとき、つい調子にのってそう言うと、アツくんが私を引き寄せてキスしてくれた。

「楽しみにしてる」

 唇を離したあと、至近距離で微笑まれて心臓がドキンと鳴る。そんなふうに言われたら、来週末も何か作るしかない。

 アツくんに気に入ってもらえそうな、新しいレシピを調べておかなくちゃ。

 私は少しそわそわとした気持ちで、空になったコーヒーカップとプリンの容器をシンクに運んだ。

◇◇◇

 夕食を食べてお風呂に入ったあと、私とアツくんはリビングのソファーに並んで座ってテレビをつけた。

「あ、そうだ。フミが見たいって言ってた映画、視聴できるようになってたよ」

 アツくんがそう言って、テレビの画面を地上波から登録している動画配信サービスのホーム画面に切り替える。アツくんが選んでくれたのは、以前、何気ない会話で私が「見てみたい」と口にした洋画だった。

「今から見る?」
「うん」

 アツくんの肩にすり寄るように頭を寄せて頷くと、彼がふふっと笑って映画を再生してくれる。

 映画の本編が始まると、背中の後ろにアツくんの腕が回ってきて、肩に預けた頭を優しく撫でてくれた。そのまま頭の上に置かれたアツくんの手が、私の髪を撫でたり、梳いたりする。その触れ方が、とても心地よかった。

 アツくんの隣でくっついて髪を撫でられながら、テレビ画面の字幕を追っているうちに、だんだんと瞼が重たくなってくる。映画の中盤で、ついコクリと頭を揺らすと、「眠い?」と耳元でアツくんの囁く声がした。

「ううん、ごめん……。せっかく一緒に見てたのに」

 目を擦りながら首を横に振ると、アツくんが映画を一時停止する。

「眠いなら無理しなくてもいいよ。続きは明日見ればいいし」
「でも……」
「それに、俺もフミとの距離が近すぎて、いまいち内容が頭に入ってきてなかったし」

 甘い声でささやかれ、閉じかけた瞼にキスされて、ドクンと心臓が鳴った。一瞬前まで眠くてウトウトしていたのに、瞼に触れたアツくんの唇の熱さで眠気が吹き飛んでしまう。

「やっぱり、続き見れるかも……」

 顔を赤くしながら、間近に迫るアツくんの唇を手で押さえたら、その手をつかまえられた。

「俺はもう見れないかも」

 私の手のひらに口付けながら、アツくんが上目遣いに見てくる。

 映画を見るために少し照明を落とした部屋で、濡れたように揺れるアツくんの瞳。その瞳にジッと見つめられるだけで、身体が熱くなった。

「ベッドに行くでしょ?」

 アツくんがそう訊ねてくるのは、眠たいからじゃない。

 甘い声と絡みつくみたいな視線に、何かを期待して下腹部が疼く。コクンと頷くと、アツくんが私の頬に触れて唇を重ねてくる。それから私の手を繋いで立ち上がらせると、ベッドのあるロフトへと導いた。
「このロフトは悪くないけど、階段上るのが焦れったいな」
 ロフトに繋がる階段を上ると、あとからあがってきたアツくんがそう言って、私を横から抱えるようにしてベッドに倒れ込んだ。

 私の上で子どもみたいに顔をしかめるアツくん。その反応が意外にもかわいくて、ふふっと笑うと、不意打ちでキスが落ちてきた。

「んっ……」

 声を漏らした唇の隙間から、アツくんの舌が割り込んできて絡めとられる。

「フミ、まだ眠い?」

 何度も深いキスをして、私の身体を熱くさせておいて、アツくんがそんなことを聞いてくる。

 口角を引き上げながら私を見下ろすアツくんは、わかっているくせに意地悪だ。

「もう、眠くない……」

 顔を背けてつぶやくと、アツくんがクスリと笑う。

「フミ、可愛い」

 横を向いた私の耳を、アツくんが唇で食む。耳にかかる熱い吐息に、身体がゾクリと快感に震えた。

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