もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

決別〈1〉

 翌朝。パンの焼けるいい匂いで目が覚めた。

 見慣れないロフトのベッドで身体を起こしてしばらくぼんやりしていると「フミー、そろそろ起きろよ」と下のほうからアツくんの声がする。

 まだ夢の中にいるのかと思っていたら、アツくんが「フミー」と呼びながらロフトの階段を上がってきて。ようやくちゃんと目が覚めた。

「おはよう、フミ」

 梯子段から顔を出して笑いかけてくるアツくんに、心臓がドクンと鳴る。アツくんの「おはよう」で目覚めるのは、十四年ぶりだ。まさか、こんな日がまた来るなんて。

 ぼんやりとアツくんの顔を見ていると、彼が怪訝に眉を寄せる。

「俺の顔に何かついてる? それより、早く起きてきなよ。ホットサンドが冷めちゃう」
「ホットサンド?」

 だから、目覚めた瞬間に香ばしい匂いがしてきたのか。

「普段はトースト焼くだけだけど、今朝はフミが来てるから特別。クロックムッシュにしたから、冷めないうちに食べちゃって」
「うん、食べる」

 朝からアツくんの作ったごはんが食べられるなんて嬉しすぎる。飛び起きて、アツくんのあとからロフトの階段を降りると、顔を洗って食卓につく。

 テーブルの上には焼きたてのホットサンドが用意されていて、三角に切られた切り口からは、ハムと蕩けたチーズと卵が顔を覗かせている。

 熱々のホットサンドに手を伸ばしてひと口齧ると「おいし……」と思わず声が溢れた。

 アツくんの作ってくれたホットサンドには、具材と一緒にホワイトソースが挟まれていて。ちょっと感激するくらいにおいしい。

 私は朝はあまり食欲が出ないほうなのだけど、このホットサンドはいくらでも食べられそうだった。

「口にあってよかった」

 モグモグと夢中で食べていると、アツくんが笑いながらコーヒーを淹れてくれる。そのコーヒーの味も苦味が強くておいしくて。ひさしぶりに朝から満たされた。

 朝食を済ませたあと、着替えて、カバンの中のポーチにあった最低限のメイク道具で化粧をする。

 服が昨日と同じなこと、由紀恵さんに変に勘繰られないといいけど。

 洗面所の鏡を見ながら考えていると、「俺はあと十五分くらいで出るけどフミは?」と、アツくんがリビングから声をかけてきた。

「私も同じタイミングで出る」

 化粧ポーチのファスナーを締めると、それを上から鷲掴んで洗面所を出る。

 出勤の準備を整えると、同じタイミングで準備を終えたアツくんが「あ、そうだ」と仕事用のカバンから何かを取り出して渡してきた。

「これ、返しとくね」

 アツくんに渡されたのは、昨日の帰りに電源を切った私のスマホ。恐々電源を入れてみると、一気に十件以上のラインの通知が届く。留守番電話も二件残っていて、それらは全て翔吾くんからだった。

〈いつ帰る?〉
〈どこにいる?〉
〈今、フミの家の前にいる〉
〈俺から逃げるなんて許せない〉
〈ごめん。謝るから電話に出て〉

 怒ってみたり、下手に出たり。何件も届いている翔吾くんからのメッセージは、かなり情緒不安定だ。

 昨日の夜、私がアツくんの家で守られている間に、翔吾くんはうちへ来たのだろうか。

 アツくんからのラインは、時間をあけて夜中の三時頃まで一方的に送られてきていて。彼の私への執着の強さが狂気じみていて怖かった。

「念のため、仕事のあとも一緒に帰ろうか」

 アツくんが、スマホを握りしめて青ざめる私の肩を叩く。

「でも、迷惑じゃ……」
「フミのことで、迷惑だと思うことなんてないよ。こんなライン見たら心配だよ。フミも不安じゃない?」

 アツくんに問われて、小さく頷く。

 私はもう、翔吾くんと穏便に別れることはできないのかもしれない……。

「今日は院長先生に頼んで、診察が終わったら早めに仕事を上がらせてもらうようにするから。フミも、ギリギリまで仕事をして、職場を出るときは必ず誰かに付き添ってもらって」
「わかった」

 不安な面持ちで頷くと、「大丈夫だよ」とアツくんが頭を撫でてくれる。

 再会してすぐの頃は、子ども扱いされているみたいで恥ずかしかったのに。今は、アツくんの手のひらの温度が私の気持ちを落ち着かせてくれた。


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