もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

好意〈1〉

 翔吾くんに頬を殴られたあと、私は体調不良という名目で仕事を二日休んだ。よほど強い力で殴られたのか、左頬にファンデーションでカバーしてもわかるくらいの青痣ができていたのだ。

 二日休んでいるあいだに、翔吾くんから「会って話したい」というラインが何度か届いたけれど、私はそれに応えなかった。

 合鍵を持っている翔吾くんは、来ようと思えばいつでも私の家に来れるはずだ。けれど、私を殴った気まずさからか、彼がアポなしで家に来ることはなかった。

 仕事を休んでいるあいだ、翔吾くんからは謝罪のメッセージがいくつも届いた。

〈ほんとうにごめん。〉
〈もうしないから、許してほしい。〉
〈史花とちゃんと話がしたい。〉

 ラインの文面からは翔吾くんの必死さが伝わってきたけれど、どれだけ謝られても私の心は動かなかった。

 翔吾くんに殴られた日の夜、私は謝りながら抱きしめてくる彼のことを引き離して、無理やり家に帰らせた。動揺している翔吾くんとまともに会話ができるとは思えなかったし、私もショックを受けていて、ひとりになりたかったのだ。

 頬の痛みとショックでうまく寝付けないまま一夜が明けて。鏡に映る自分の顔を見たとき、ものすごく気分が落ち込んだ。殴られた痕が、思った以上に痛々しくて。見るに耐えなかったのだ。

 翔吾くんは謝りさえすれば許されると思っているのかもしれないけれど、どれだけ謝罪の言葉を並べられても、「好きだ」と言われても、暴力で私の気持ちを繋ぎ止めようとしてきた彼を受け入れられそうになかった。そして、日にちが過ぎて頭が冷静になればなるほど、彼のことを受け止められない気持ちは強くなる。

 翔吾くんに会ったとしても、私が彼に伝えたいのは「別れたい」という意志だけ。だけど、別れを告げようとしたら、翔吾くんはまた私に手をあげるかもしれない。そう考えたら、憂鬱だった。

 二日ぶりに出社した日の夜。オフィスを出ようとすると、翔吾くんからラインが届いた。

〈この前は悪かった。どうしても史花と話がしたい。今日は早く仕事が終わりそうだから、会いに行っていい?〉

 この二日間、謝罪の言葉だけを送り続けてきた翔吾くんから、疑問系のメッセージが送られてきてことにドキリとする。

 私が謝罪の言葉を全て無視しているから、翔吾くんもついに痺れを切らしたのかもしれない。

 会いに来てほしくなんかない。会いになんて来られたら困る。私の話も聞かずに暴力をふるうような人には会いたくない。

 だけど、翔吾くんは私の家の合鍵を持っている。あれを手元に取り戻すか、鍵そのものを変えない限り、彼は私の家に入ってくることができた。

 もし私がこのまま翔吾くんからのラインを無視し続けても、彼はきっと最後には、合鍵を使って私の家にやってくるだろう。もしかしたら、私が帰宅したときには、既に合鍵で入って部屋で待っているかもしれない。そうなったら、逃げられない——。 

 想像しただけで、もう痛くないはずの左頬が熱くなった。そっと左手で頬を押さえると、肌に指先の震えが伝わってくる。

 一番安心できるはずの自宅。そこに帰るのが怖いなんて……。

 一瞬、母の家に行こうかと迷ったけれど、その考えはすぐに立ち消えた。この前、電話で一緒には暮らさないと宣言したばかりなのに、母のことは頼れない。

 怖くても家に帰らなければ……。ビルのエレベーターを降りたところで先に進めずしばらく足踏みしていると「フミ?」と呼ばれた。

 ちょうど一階に着いたエレベーターから降りてきたアツくんが、私に気付いて歩み寄ってくる。

「今帰り?」
「うん……。アツくんも、今帰り? いつもより早いね」
「そうだよ。俺は今日、午前中の外来のみだったから、午後からは雑務をしたり、次の学会の資料に目を通したりしてた」
「そうなんだ……」
「せっかく会えたし、駅まで一緒に帰る?」
「うん……」

 笑顔で話すアツくんの気配を隣に感じながら、私はなんとなく彼から顔を背けた。まだうっすらと残っている頬の痣はファンデーションでカバーしたし、会社でも誰にも気付かれなかったから大丈夫だと思うけど……。アツくんは妙に鋭いところがあるから、油断できない。

 うつむきながら駅のほうに向かおうとすると、「そういえばさ」とアツくんが話しかけてきた。

「この前のこと、大丈夫だった?」
「この前のこと……?」
「うん。三日前に小田くんとエレベーターで鉢合わせたでしょ。フミ、あのあとすごく動揺してたから気になってて。昨日もおとといも、もしかしたらフミがいるかと思って休憩スペースに様子を見に行ったんだけど、時間がずれてるのか会わなかったね」

 アツくんの言葉に、心臓が嫌な感じでドクンと鳴った。

「今日は院内の別室で簡単に済ませたから休憩スペースには行けなかったんだけど、タイミングよく会えてよかった」

 アツくんに横から顔を覗き込まれて、背中や手のひらに変な汗をかく。

 翔吾くんに殴られたことや、そのせいで二日も欠勤していたことがバレたらどうしよう。ただでさえ目の前で貧血を起こしたり、翔吾くんと鉢合わせて動揺したり、恥ずかしいところばかりを見せているのに。これ以上、余計な心配をかけたくない。

 左頬を隠すように手のひらで触っていると、アツくんが「フミ?」と少し怪訝そうに私を呼んだ。

「どこまで行くの? 駅、そこだよ」

 アツくんに指摘されて、ハッとする。左頬を気にしながらぼんやりとしていた私は、地下鉄の駅に繋がる階段の入り口を通り過ぎそうになっていた。

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「大丈夫? ごはんはちゃんと食べてる?」
「……、食べてるよ」

 一瞬、妙な間を空けた私を、アツくんが疑わし気に見てくる。

「ほんとうに、食べてるから」

 アツくんから顔をそらして、早足で階段を駆け下りる。

「あ、フミ……」

 追いかけてくる足音を聞いてさらに駆ける速度をあげようとすると、最後の一段で右足のヒールの踵が地面に斜めに着地して、足首を捻った。

「痛っ……」
「フミ!」

 小さな呻き声をあげてよろけた私を、追いかけてきたアツくんが支えてくれる。

「何やってんの。っていうか、なんで突然走り出したの?」

 呆れ顔で私の腕を軽くつかんだアツくんが、長袖のブラウスの裾から覗いた手首を見て表情を変える。私の手首には、ブレスレットのようなわっか状の青痣が残っていて。それが、誰かに強くつかまれたか縛られたかした痕だということは、一目瞭然だった。

 頬の痣はファンデーションでカバーしたし、手首の痣も長袖を着ていれば見えないと思ったのに。迂闊だった。

 焦ってアツくんの手を振り払って逃げようとすると、彼が私の両肩を軽く押さえて引き留める。

「待って、フミ。この痣、何?」
「ちょっと、仕事中にぶつけて……」
「フミ、事務の仕事してるんだよね? どういうふうにぶつけたら、こんなふうに誰かに強くつかまれたみたいな痣ができるの? 反対の手は?」

 慌てて隠そうとしたけれど、アツくんに手をつかまれて、もう片方の手首の痣も見つかる。

「もしかしてこれ、小田くんにやられたの?」

 顔を覗き込むようにしながらゆっくりとした声で訊ねられて、私はアツくんから顔をそらした。

「返事がないってことは、肯定ととらえていいんだよね?」

 もう一度確認するように訊ねられて、私は顔を背けたまま唇を噛んだ。

 翔吾くんに殴られたことは知られたくなかったのに。アツくんに情けないところを見られてしまった。

 もう子どもじゃないのに。十四年経っても、私はアツくんに弱いところや情けないところを見られてばっかりで。ほんとうに恥ずかしい。

「翔吾くんと、別れ話で少し揉めたの。でも平気だから。ちゃんと自分で解決できる……」

 深刻な顔で見つめてくるアツくんにそう言ったとき、カバンの中で私のスマホが鳴り始めた。

「ちょっと電話……」

 アツくんとの会話を中断させるのにちょうどいいタイミングでかかってきた電話にほっとしながらスマホを手に取る。だけど、電話の相手は翔吾くんで。画面に表示された彼の名前に、私の手はスマホを落としそうなくらいにがくがくと震えた。

 翔吾くんは、もううちに来ているのだろうか。それとも、どこかからアツくんと私がふたりでいるところを見ていて牽制の電話をかけてきているのだろうか。

 翔吾くんとはもう離れたい。別れたいと思っているのに、殴られたときのことを思い出すと手が震えてしまって、電話に出ることすら怖い。

 アツくんには「自分で解決できる」なんて言ったけど、私は本当にひとりで翔吾くんに対峙できるだろうか。

 スマホを見つめたまま動けずにいると、アツくんが無言で翔吾くんからの着信を切る。それから震える私の手を握り込むように包むと、目を細めて少し苦しそうな顔をした。

「その電話には出なくていいよ。手首の痣やフミの反応で、なんかいろいろ予想がついた」
「え……?」
「フミに干渉しすぎちゃだめだって、これでも結構気を付けてたつもりなんだけど……。さすがに今回は見過ごせない」

 アツくんが強い口調でそう言ったとき、また私のスマホが鳴り始めた。かけてきているのは、翔吾くんだ。

 画面に表示された名前を見ただけでビクッと肩を震わせる私の手から、アツくんがスマホを取り上げる。着信の鳴り止まないスマホを無表情でじっと見つめたあと、アツくんは翔吾くんからの着信を拒否をして、スマホの電源を切ってしまった。

「アツくん、そんなことしたら……」

 翔吾くんは怒って、私の家に押しかけてくる。

 焦ってスマホを取り戻そうとしたけど、アツくんは電源の落ちたスマホを自分のカバンに入れてしまい、その代わりにとでもいうように、私に手を差し伸べてきた。

「おいで、フミ」

 アツくんの優しい声音に、胸がドキンとする。
 おいで、って。どこに……?

 戸惑っていると、アツくんが大きな手のひらが私の右手を包み込む。

「もう躊躇わないよ。あのときみたいに後悔したくないから」

「あのとき」と言われて思い出したのは、大きな選択を迫られた十四年前の夏の記憶。ジージーとうるさい蝉の声と、悲しそうなアツくんのまなざし。幼い決意と胸の痛み。

 二宮さんと別れて、母について行くことを決めてから、私の心にはずっと後悔が付き纏っていて。どこにいても、誰といてもほんとうの意味では満たされず、ずっと迷子の子どもみたいな気分だった。

 それが、アツくんに手を包まれた瞬間、ずっと求めていた場所にようやく辿り着けたような気持ちになる。

 アツくんに優しく微笑みかけられて、私はあのとき掴めなかった彼の手を十四年越しに、ぎゅっと握り返した。


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