もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

執着〈1〉

「検査の数値を見る限り、貧血気味だけどものすごく深刻ってわけでもなさそうだね」

 貧血の検査結果が出たというので昼休みに五階の内科クリニックを訪れると、診察室から出てきたアツくんが結果表を渡してくれた。

「だから心配ないって言ったのに」
「深刻ではないけど、心配ないってことはないよ。赤身の肉とか、鉄分のとれるものをちゃんと食べて、少しでも改善させないと」
「お肉……」
「今から食べに行く? このビルから五分くらい歩いたところに焼肉屋さんがあるよ」

 結果表を半分に折りたたんでカバンに入れていると、アツくんが唐突に提案してくる。

「え、今から焼き肉? それはさすがに無理だよ。午後から仕事があるのに服に匂いがついちゃうし。アツくんだって、午後から診察でしょ。それに……」

 途中まで口にしかけた言葉を飲み込むと、アツくんが腰を屈めて私の顔を覗き込んできた。

「小田くんに見られたら困る?」

 言い淀んだ私の代わりに、アツくんが翔吾くんの名前を口にした。

「うん……」

 視線を落として頷くと、アツくんが私の頭に手を置いて優しく撫でてくれた。

「わかった。じゃあ、肉はまた今度」
「うん」

 翔吾くんの監視がある限り、アツくんとの食事の約束が実現することはないだろうな。そう思いながら、曖昧に頷く。

「じゃあ、私、コンビニでお昼ごはん買って、上の休憩スペースで食べるね。検査の結果、ありがとう」

 私はそう言うと、午前と午後の診察の合間、私のために特別にクリニックを空けてくれたアツくんと受付の女性に頭を下げた。

「コンビニでごはんを買うなら、ゼリーじゃなくて、おかずの種類が多いお弁当にしなよ」
「わかった」

 心配しておせっかいを焼いてくるアツくんに苦笑いを返すと、内科クリニックの外に出る。クリニックから出て廊下を少し進んだところにあるエレベーターの前で待っていると、上から降りてきたエレベーターが五階に到達する直前で「フミ」と背中から呼ばれた。

 振り向く私に、クリニックから出てきたアツくんが駆け寄ってくる。

「これ、今日返そうと思ってたのに忘れてた」

 アツくんに手渡されたのは、貸したままになっていた文庫本だった。

「ありがとう。もう読み終わってるから、いつでもよかったのに」
「でも、今日を逃したら次にいつ渡せるかわからないから」

 眉尻を下げて少し困ったように笑いかけてくるアツくん。さっきは軽いノリで私を食事に誘ってきたけれど、ほんとうはアツくんも私との口約束がそう簡単には実現しないことをわかっているのだろう。

 今ここでバイバイしたら、次にアツくんと顔を合わせられるのはいつになるだろう。

 いっそ、検査の結果が思いきり悪かったほうが、無条件にアツくんに会いにくる理由ができたのかな。

 つい不謹慎なことを考えていると、頭上からポンっと電子音が聞こえてきた。

 五階に到着したエレベーターの扉がゆっくりと開く。

「じゃあ、また……」

 名残惜しい気持ちでアツくんに手を振る。手を振り返してくれるアツくんに、少し切ない気持ちで背を向けたとき――。エレベーターの中にいた数人の乗客の中に、翔吾くんの姿を見つけた。

 私と、その後ろに立っているアツくんの姿をとらえた翔吾くんの瞳がカッと大きく見開かれ、薄い唇がゆっくりと動く。

「史花……?」

 声もなく私を呼ぶ翔吾くんの色を失った表情に、ゾクリと背筋が震えた。

「乗らないの?」

 足がすくんで一歩も踏み出せなくなってしまった私に、扉の近くに立っていたスーツの男性が苛立った様子で声をかけてくる。

「あ、え、あの……」

 乗らなきゃ。翔吾くんに近寄って「偶然だね」って声をかけて。「最近ちょっと貧血気味で、アツくんの働いてるクリニックで検査受けてたんだ」ってふつう通りに笑って。「今からお昼なんだけど、下のカフェで食べる?」なんて誘いかけて。そうすればきっと、大丈夫。翔吾くんだって、怒らないはず……。

 頭ではそんなふうに思うのに、実際には水槽の魚みたいに口がパクパクと動くだけで、声が出ない。

「おい、聞いてんのか?」

 扉の近くに立つ男性の声が鋭くなる。

 翔吾くんの冷たい視線と男性の苛立った声。その両方に怯えてビクつくと、後ろから回されたアツくんの手が私の肩にそっと触れた。

「すみません、行ってください。上なので」

 アツくんが低姿勢な態度で謝ると、苛立っていた男性は無言で私を睨んで扉を閉めた。ゆっくりと閉まっていく扉の向こうで、翔吾くんだけが感情の読めない瞳でじっとこちらを見つめてくる。

 扉が完全に閉まってエレベーターが階下へと移動していくと、私の膝からガクッと力が抜けた。

「わ、っと……。フミ、大丈夫?」

 アツくんが、倒れそうになった私の身体を両腕に受け止めてくれる。

 大丈夫――? 大丈夫だろうか。

 エレベーターの扉が閉まりきる間際まで私を直視していた翔吾くんの突き刺すようなまなざし。あれは、絶対に大丈夫じゃない……。

「どうしよう。今すぐ追いかけて……、違う、翔吾くんに電話して……」

 震える手をカバンに入れて、スマホを探す。いつもはすぐに見つかるスマホをなかなか取り出せずに手間取っていると、アツくんが背中からぎゅっと私を抱きしめてきた。

「フミ、落ち着いて」

 耳元で優しい声にゆっくりと囁かれて、動揺して冷えた身体に少しずつ温度が戻ってくる。

「フミは最近、ここのビルの休憩スペースでごはん食べてるんだっけ?」

 私の震えが落ち着くのを待ってから、アツくんが話しかけてくる。肩越しに振り向きながら頷くと、アツくんがふっと目尻を下げた。

「じゃあ、そこで一緒にごはん食べようか。あそこはビルのテナントの従業員専用で、入口でパスワード入力しないとドアから入れないようになってるし、小田くんが来る心配もないよね」
「でも、私、コンビニで買わないとごはんなくて……。それに、今はあんまり食べる気分じゃ……」
「じゃあ、俺が何か飲み物買ってきてあげるから、フミはこのままエレベーターで十五階まで上がって先に休憩スペースで待ってて。小田くんが待ってたらって思うと、すぐに下に行くのは怖いでしょ」
「だからって、アツくんに買いに行かすのは悪いよ。休憩スペースに自販機あるから、そこで飲み物だけ買えば充分」
「飲み物だけで済ませちゃダメだよ。さっき言ったばかりだよね」
「そう、だけど……」

 アツくんの気遣いは嬉しいけど、いくらなんでも立て続けに迷惑かけすぎだ。それに、甘え過ぎてる。

 うつむいて口ごもると、アツくんが私をあやすように頭を撫でてきた。

「どうせフミのことだから、俺に甘えちゃだめだとか迷惑かけられないとか思ってるんだろうけど、今さらだよ。それに、俺はひとりで我慢されるより、フミに甘えられたり頼られたりするほうが嬉しい」

 甘いセリフにドキリとして顔をあげると、目が合った瞬間にアツくんがふっと吐息を零して笑う。その笑顔に、胸がきゅっと詰まった。

 昔、ほんの数年家族だっただけなのに。アツくんは、いつも私に優しすぎる。

 アツくんにどんな顔を返せばいいのかわからなくて困っていると、上に向かうエレベーターがやってきて、私たちの前で扉を開けた。

「ほら、乗って」

 たまたま無人だったエレベーターに、アツくんが私の背中を押し込む。

「あとで行くから、休憩スペースの席取っといて」

 私ににこっと笑いかけると、アツくんがエレベーターの「閉」ボタンを押してさっと外側に身を引く。

 閉まっていく扉の向こうで手を振るアツくんに小さく手を振り返しながら、私は少し困っていた。

 エレベーターの壁に背をつくと、両腕で自身を抱き締めるように肩に手で触れる。そこにはまだ、アツくんの手の感触が残っているような気がした。

 翔吾くんは怖い。だけど、アツくんの優しさに甘えて頼りきってしまうのも怖い。

 アツくんは、妹として私の世話を焼いてくれているだけなのに。弱っているときにあまりに優しくされたら、アツくんに対して秘めている気持ちが、抑えられなくなってしまう。

 私一人だけを乗せたエレベーターは、珍しくノンストップで十五階まで上がっていった。開いていく扉を見つめてため息を吐くと、エレベーターを降りて休憩室に入る。

 空いている席を二人分確保して待っていると、カバンの中でスマホが鳴り始めた。

 ドキッとして取り出すと、スマホの画面には翔吾くんの名前が表示されている。

 言い訳するなら、早いほうがいい。電話越しのほうが、表情を見られないからいくらでも誤魔化しがきく。

 だけど、どういうテンションで電話に出るべきかわからなくて。躊躇っているうちに着信が切れた。

 またかかってくるだろうか。それとも、今からでも私がかけ直すべき……?

 ぐずぐずと決断できずにいるうちに、ラインが届く。

〈今夜、行くから。〉

 翔吾くんから送られてきた短いひとことに、スマホを持つ手が小刻みに震えた。

 今この瞬間、翔吾くんからの電話やラインを無視しても、それは一時だけのこと。私が翔吾くんとの付き合いを続ける限り、彼からは逃れられない。

 翔吾くんから「逃げたい」とか、彼の機嫌を損ねたら「怖い」と思っている時点で、既に私たちの関係は破綻しているのかもしれない。

 私が翔吾くんに対して感じている気持ちは、たぶんもう、恋じゃない。前から薄々と感じていたのに、ずっと気付かないフリをして誤魔化してきた自分の気持ち。それを伝えたら、翔吾くんはどんな顔をするだろう。

 想像するだけでも怖いけれど、このまま翔吾くんとの付き合いを続けていても、幸せな未来が見えないことだけはわかる。一度歪んだ関係は修復されないまま。この状況で結婚すれば、私は翔吾くんの監視の目に縛られて暮らすことになるのだろう。

 それならば、今夜――。

「フミ」

 不意に名前を呼ばれて、思考が途切れる。スマホから視線をあげると、隣に座ったアツくんが私の顔を心配そうに覗き見てきた。

「大丈夫? また思い詰めた顔してるけど」
「あ、うん……。平気」

 ふにゃっと笑う私に、アツくんが何か言いたげに眉根を寄せる。だけど結局何も言わないまま、手に持っていたコンビニの買い物袋と紺色の巾着袋をテーブルの上に置いた。

「買ってきてくれてありがとう。いくらだった?」

 カバンから財布を出そうとすると、「フミはこっち」と紺色の巾着袋が私の前にスライドされてくる。

「これ何?」
「何って、お弁当だよ」
「それはわかるけど……」

 どう見ても手作りのお弁当が入っていそうな巾着袋。それを前にまばたきしていると、アツくんが横から巾着袋の結び目をシュッと解いた。

「忙しいと外に休憩に出られないから、基本的には弁当作ってるんだ」
「アツくんが自分で?」
「そうだよ」

 だから、昼休みにカフェに行っても毎回会えるわけじゃなかったのか。そういえばアツくんは、高校生のときから簡単な料理なら作れていた。

「コンビニ行ったけど、お弁当は既に品薄になったんだ。俺は買ってきたおにぎり食べるから、フミはこれ食べて。たいしたおかずじゃないけど、コンビニおにぎりよりはいいでしょ」

 アツくんが開けてくれたお弁当箱の中身は、卵焼き、唐揚げ、牛肉とピーマンの焼き肉炒めなど。お肉中心のガッツリ目なおかずが詰められていて。たいしたおかずじゃないどころか、めちゃくちゃ美味しそうだった。

「さっき焼き肉食べに行くかって聞いてきたけど……、食べに行かなくても焼き肉入ってるね」

 お弁当のおかずを見て思わず笑うと、アツくんが「そうだね、忘れてた」と戯けて笑う。

「またアツくんの料理が食べられるとは思わなかったな。一緒に住んでた頃は、たまに朝ごはんとかお昼ごはんを作ってくれたよね」
「作ったって言っても、ホットケーキとかチャーハンとかその程度じゃなかったっけ?」
「それでも、私にはアツくんが作ってくれるごはんが嬉しかったよ。ねえ、これ、本当に私が食べていいの?」
「もちろん」
「ありがとう。いただきます」

 アツくんのお弁当はボリュームが多くて、最近食欲が落ちている私には半分食べるだけで精一杯だった。だけど、ひさしぶりのアツくんの手料理は美味しくて、食べているほんのひとときだけは、翔吾くんのことを忘れられた。

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