もう一度、重なる手
自覚〈2〉
「休憩、行ってきます」
「いってらっしゃい」
由紀恵さんに見送られてオフィスを出た私は、お昼ごはんを買うためにビルの地下一階のコンビニに向かった。
地下のコンビニで買ったものをビルの最上階の休憩スペースで食べるのがここ数週間の昼休みのルーティーン。
前まではオフィスの近くのカフェやひとりでも入りやすいレストランでランチをしていたけど、最近の私の昼ごはんはおにぎりや菓子パン。食欲がないときは、飲むタイプのゼリーで済ませる。
今日はコンビニに入って、おにぎりとパンのコーナーをひと通り見てみたけれど、食べたいものが見つからず。店の中をうろうろと彷徨った末に、飲むタイプのブドウ味のゼリーを手に取る。
レジでお金を払って店を出ようとすると、「フミ?」と、後ろから急に腕をつかまれた。
私のことを「フミ」という愛称で呼ぶ人間なんて限られている。ドキッとして振り向くと、アツくんが「やっぱり」と息を吐いた。
「あれから全然連絡してくれないけど、元気だった? 昼休みはしばらく同僚との打ち合わせがあるって言ってたけど、少しは仕事落ち着いた?」
「あ、えっと……、うー……」
思いがけずアツくんと出会ってしまい、私の頭の中はひどく混乱していた。
どうしよう……。翔吾くんにはもう、アツくんとは会うなと言われているのに。偶然とはいえ、アツくんと会ったことが翔吾くんにバレたら、彼の監視の目は今よりももっと厳しくなるだろう。
そうなったら、怖い……。
翔吾くんのことを考えるだけで、血の気が引いた。
「フミ? 大丈夫?」
震える唇をぎゅっと噛み締めると、アツくんが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? もしかして、具合でも悪い?」
「へ、平気。私、もう行くね……」
「あ、ちょっとフミ!」
アツくんの手を振り払って駆け出そうとすると、急に眩暈がして足元がふらついた。
ああ、どうしよう。こんなときに、貧血かも……。
「フミ?」
ぐらりと揺れた私の身体をアツくんが抱きとめる。
「大丈夫? 貧血だよね。声をかける前から顔色悪かったけど、ちゃんとごはん食べてる? 最後に会ったときより痩せてない?」
私のことを心配してくれているのか、アツくんが矢継ぎ早に話しかけてくる。アツくんの優しさが嬉しい。だけど私は、どこで監視しているかわからない翔吾くんの目が気になって仕方なかった。
「ありがとう。最近暑いから、ちょっと夏バテなのかも……。でも、平気だから……」
「平気じゃないよ。俺が今手を離したら、絶対にどこかで倒れる。今昼休みだよね? うちのクリニックで点滴できるから、行こう」
「そんなのいいよ。ちょっとふらつくのなんて、よくあることだし」
「よくあること? だったら、なおさら見過ごせないんだけど」
振り切って逃げようとすると、いつもは優しいアツくんが珍しく怖い顔で私を見下ろしてきた。この顔は、たぶん怒っている。
アツくんが怒るのは、昔から私が我慢して意地を張るとき。小学生の頃、熱があるのに無理して学校へ行って倒れたときも「変なところで我慢しちゃだめだよ」とアツくんに厳しく諭された。
あのときの私は、我慢したわけじゃなくて、子どもながらに二宮さんやアツくんに余計な心配をかけたくないと思って体調不良を打ち明けれなかった。
今も、小学生のときと同じだ。ただの貧血で、アツくんに余計な心配をかけたくない。それに、翔吾くんのこともある。
私の昼休みの時間をだいたい把握している翔吾くんが、いつラインをしてくるかわからない。それにちゃんと返信をしなかったら、翔吾くんは機嫌が悪くなる。
「アツくん、私、ほんとうに大丈夫だから。もし何かあれば、ちゃんと連絡するし、病院にも行くし」
私がそう言うと、アツくんがうんざりしたようにため息を吐いた。
「そう言って、フミは全然連絡くれないよね?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。本を返したいって言ってるのに、もう何週間も連絡がないし。もしかして避けられてるのかなってちょっと思ってたんだけど……」
「まさか……」
ドキッとして頬を引き攣らせると、アツくんが私を見つめて「ふーん」と頷く。
「わかった。言うこと聞かない子は、強制連行」
そう言ったかと思うと、アツくんが私の背中と膝の裏に手を回して軽々ひょいっと抱き上げた。
「え、ちょっ……。何?」
突然、コンビニの入り口の前で白衣のイケメンに抱き上げられた私に、周囲の注目が集まる。
これって俗に言う、お姫様抱っこでは……。
「あ、アツくん……! 見られてる。見られてる! おろして!」
慌ててジタバタしたけれど、アツくんは私が暴れてもわめいても平気な顔で、コンビニから出てエレベーターのほうに歩いていく。
「アツくん、私、ちゃんと自分で歩ける……」
顔を熱くしながら抵抗している間に、アツくんは私を抱きかかえられたままエレベーターに乗り込んでしまった。
片手で私を支えながら、アツくんが押した行き先ボタンは五階。
「あの、ほんとうにもうおろして……、ください……」
「うちのクリニックに着いたらね」
最終的に敬語でお願いしてみたけれど、アツくんはすんとした顔のまま私を抱えて立っている。
幸い、エレベーターにはほかの同乗者はいない。このまま五階までノンストップで上がってくれることを願いつつうつむいていると、エレベーターは一階で止まった。
ゆっくりと開いていく扉の向こうにはスーツやオフィスカジュアルな服装の人たちが数名立っていて。エレベーターに乗り込もうとした瞬間に、白衣姿のアツくんにお姫様抱っこをされている私に気付いて、全員が扉の前でぴたりと足を止める。
目を見開いたり、呆然とした顔で私たちを見つめる人たち。彼らの視線にさらされて、恥ずかしさで消えたい気持ちの私と平気な顔で他の乗客のためにエレベーターの壁側に寄ってスペースを空けるアツくん。
「乗られますか?」
扉の向こうで固まっている人たちにアツくんが涼しい笑顔で訊ねるけれど、エレベーターに乗り込んで来る人はひとりもおらず。私たちふたりだけを乗せたまま、扉が閉まる。
そんな展開が、二階と四階でも繰り広げられ。医療モールのある五階にたどり着く頃には、私の神経と体力はかなりすり減っていた。
「二宮先生。その方、どうされたんですか?」
アツくんに抱きかかえられたまま内科クリニックに入ると、受付に座っていた制服姿の女性が驚いたように目を見開く。
「ああ、うん。このビルで働いてる俺の知り合い。体調悪いみたいだから連れて来た」
そう説明すると、アツくんがようやくクリニックの待合の椅子に私をおろしてくれる。
クリニックはちょうど午前と午後の診察の間の空き時間らしく、休憩をとっていた受付の女性以外に人はいなかった。
真っ白な壁の、清潔感のある綺麗なクリニックの待合室。座らされた椅子の上で肩を縮こまらせながらそわそわとしていると、アツくんが私の前で屈んだ。
「フミ、あとどれくらい昼休みとれる?」
奥二重の切れ長の目。アツくんに間近でじっと見上げられて、トクトクと心音が速くなる。
「三十分くらいなら……」
待合室の受付のデジタル時計にちらっと視線を向けながらボソリと答えると、「そっか」とアツくんが私の頭をよしよしと優しく撫でてきた。
「じゃあ、職場にいちおう連絡入れといてくれる? ビルのクリニックで診察受けてから戻るって」
「え……? 私、悪いところなんて何もないけど」
ゆるりと首を左右に振ると、アツくんが眉間を寄せて顔をしかめた。
「さっき倒れかけたでしょ」
「よくある立ち眩みだから平気」
「だから、よくあるっていうのが問題なんだって。フミ、毎日ちゃんとごはん食べてる? 今日のお昼ごはんも、どうせそれだけなんでしょ?」
アツくんが、私のカバンからちらっと見えている飲むタイプのゼリーを指差す。
「最近暑くて、あんまり食欲ないから……」
そそくさとカバンの奥にコンビニで買ったゼリー飲料を押し込んでいると、横顔にアツくんの視線を感じた。
「食欲がないのは、ほんとうに暑さだけが理由?」
私の心の奥まで全てを見透かすようなアツくんのまなざし。それに抗えなくて、つい目が泳ぐ。
「とりあえず、貧血の検査しよう。必要だったら点滴も。ついでに診察室で、ゆっくり話も聞かせてもらうから」
アツくんは私の手をとって立ち上がると、有無を言わせない態度で私を診察室に導いた。
「すぐ戻るから、その間に会社に連絡入れてね」
診察用の丸い椅子に私を座らせると、アツくんが診察室の奥へと入っていく。
言うことを聞かなかったら、またしかめっ面をされそうなので、仕方なく由紀恵さんにラインを打った。そうしている間に、アツくんが注射のセットを持って戻ってくる。
パソコンが置かれたデスクの前に座って私のほうを振り向いたアツくんは、あたりまえだけどちゃんとお医者さんにしか見えなくて。かっこよかった。
どこからどう見たって、患者の私に対峙するアツくんは若手のイケメンドクターだし。もしかしたら、アツくん目当てでこのクリニックに来ている患者さんだっているかもしれない。
軽く問診を受けたあと、「フミ、アルコール消毒大丈夫だよね?」とアツくんが聞いてくる。
「うん」
「じゃあ、腕出して。貧血の検査しとくから」
「検査……?」
「そう。さっきは俺がそばにいたからよかったけど、あんなふうにしょっちゅうフラフラしてるなら心配だから。少しだけチクッとするよ」
テキパキと準備をしたアツくんが、左腕に注射器の針をあてて採血をする。
チクッとするとは言われたけど、アツくんの注射の仕方が上手いのか、刺された痛みはほとんど感じなかった。小さな試験官のようなものに三本分の採血をすると、アツくんが小さな四角い絆創膏を貼ってくれる。
「しばらく上から押さえといて」
「うん」
「結果が出たら連絡するけど、もし数値があまりに低かったらちゃんと診察受けたほうがいいよ」
「うん。でも、これまでちょっと立ちくらみがすることはあっても倒れたことは一度もないよ。今日はたまたま、調子が悪くなっただけで。だから、そんなに心配しなくても……」
大丈夫――。
その言葉は、アツくんのしかめっ面によって遮られた。
「今までは大丈夫だったってことは、ここ最近で大丈夫じゃなくなるような何かがあったってこと? さっきも聞いたけど、食欲が落ちてるのは暑さのせいだけじゃないよね?」
「……」
アツくんの顔を直視できずにうつむくと、診察用の椅子の横に置いたカバンの中でスマホが鳴った。
たぶん由紀恵さんからの返信か、翔吾くんからの所在確認。由紀恵さんからならすぐに既読をつけなくても平気だけど、翔吾くんからだったら……。
翔吾くんの執着とほんの少しの狂気が混じった冷たいまなざし。それを思い出しただけで、勝手に手が震えた。
「ごめん、ちょっとスマホ……」
アツくんに断りを入れてカバンからスマホを取り出すと、届いていたのはやっぱり翔吾くんからのラインで。
〈今、昼休みだよな? 何食ってる?〉
毎日のように送られてくる定型文のようなメッセージに、手の震えが激しくなった。
いつもは翔吾くんからのメッセージに、休憩スペースの背景が入ったコンビニのごはんの写真を送る。だけど今日は、それができない。
ここで飲むタイプのゼリーの写真を撮って送れば、背景が違うことがバレるだろうし。ゼリーの写真だけアップにしたら、居場所がわからないから翔吾くんに疑われるかもしれない。
そういえば、さっきコンビニからここまでアツくんに抱かれてきたけれど、あの姿をこのビルに仕事で出入りする翔吾くんや彼の知り合いに見られなかっただろうか。
抱きかかえられているあいだは、恥ずかしさとアツくんに触れられているドキドキで他のことに気を回している余裕がなかったけれど。もしも見られていたら……。
「フミ、大丈夫?」
両手でスマホを握って震えていると、椅子に座ったまま距離を詰めてきたアツくんが、私の手を両側からそっと包んできた。
アツくんの手が、血の気がひいて指先まで冷たくなった私の手をじんわりと温めてくれる。その温もりがやけに胸に沁みて、泣きそうになった。
「小田くんと何かあった?」
うつむいて唇を噛む私に、アツくんが優しい声音で訊ねてくる。
最近の私のストレスの原因は、翔吾くんの束縛のせい。だけどそれは、私と翔吾くんのふたりの間の問題であって、アツくんには関係ないことだ。
「別に、何も。順調だよ」
「ほんとうに? なにか困ってることがあるならちゃんと話して」
「そんなのないから、大丈夫だよ」
顔をあげて少し無理やり笑おうとする私の目をアツくんがじっと見てくる。そのまなざしに動揺して、微妙に視線を逸らすと、アツくんが私の両手をきつく握り込んできた。
「俺に隠し事できると思ってる? フミがウソついてるからどうかなんて、俺には瞬きひとつでわかるよ」
「まさか――」
「もしかして、小田くんに、俺とは会うなって言われてる?」
ドキッとした。思わず身震いするほどに。
どうしてアツくんは、そんなことまで見抜いてしまうのだろう。翔吾くんのラインの中身を見せたわけじゃないのに。
顔をこわばらせて固まる私に、アツくんが「やっぱり」とため息を吐く。
「この前小田くんを紹介してもらったとき、なんとなくだけど彼の俺を見る目に敵意を感じたんだよね」
アツくんが、眉尻を下げて苦笑いする。
「あの日の帰り際にフミが帰り際にトイレに行って、少しだけ俺と小田くんのふたりだけになったの覚えてる? そのとき、彼にはっきりと牽制されたよ。『史花とは結婚も考えてるので、誑かすつもりで近付いたならやめてください』って」
「そう、なの……?」
「うん。フミは俺にとって大切な家族だし、これからのフミの幸せを願ってるって言ったら、小田くんは表向きは愛想良く笑ってたよ。でも内心では、フミと血の繋がりもないくせに兄貴ヅラしてる俺のことや、フミが十四年ぶりに再会した俺と連絡取り合ってることもあんまりよく思ってないんじゃないかな」
あの日、私がトイレに行っている間にそんな会話が繰り広げられていたとは知らなかった。
翔吾くんが、笑顔の下にアツくんに気付かれるくらいの敵意を隠していたことも。
「翔吾くんは、私がアツくんに対して恋愛感情を持ってるって誤解してるんだと思う……」
私の言葉に、アツくんがピクリと眉を引き攣らせた。
「私がアツくんのことを血の繋がりなんてなくても大事だ、って翔吾くんに言ったから。翔吾くんは私の気持ちを疑って、私のことを監視するようなラインを送ってきたり、アポ無しで家に来たりするようになった。アツくんにも、二度と会うなって言われてる……」
隠そうとしたって、どうせアツくんにはいろいろと気付かれているのだ。
隠し事をしてもムダ……。そう思って話したら、言葉と一緒に堪えていた涙までがぽろぽろと溢れてきた。
「ねえ、アツくん。私、もう、翔吾くんのことが好きなのかどうかよくわからない。結婚の話を仄めかされたときから、ほんとうはもう、好きかどうかわからなくなってたのかも……」
最近の翔吾くんにはいろいろと思うことがあるけれど、好きかどうかもわからないまま彼との関係を続けてきた私も酷いやつだ。私の曖昧な態度が翔吾くんを不安にさせて、過度な束縛をさせているのだろうから。
「フミの今の気持ち、小田くんに伝えてみたら?」
「そんなの、怖いよ。好きかどうかわからなくなったなんて言ったら、翔吾くん、きっと怒る……」
「そうかもしれないけど……。小田くんだって、フミの気持ちがわからないから不安になってるんだろうし。このままじゃ、フミだって苦しいんでしょ」
「そう、だけど……」
涙をこぼしながらうつむくと、アツくんが私の頭に手をのせた。
「俺は、小田くんが怒るからそばにいるのも、彼を好きなフリをするのもちょっと違うかなって思う。誰がどう思うかじゃなくて、大事なのはフミが小田くんと一緒にいたいって思うどうかでしょ。俺と会うか会わないかだって、小田くんに指図されることじゃなくて、フミが会いたいかどうかで決めてよ。フミは昔から人のことばかり考えて行動するけど、フミがフミ自身で決めていいんだよ」
そっと視線をあげると、アツくんが少し目を細める。
「ちなみに俺は、小田くんに何と言われようが、これからもフミに会いたいよ。もちろん、フミが嫌じゃなければだけど。フミはどう?」
私を見つめる優しいまなざしに。小首をかしげる少しあざとい仕草に。胸がぎゅっと詰まる。
「そんな聞き方、ずるい……」
翔吾くんへの気持ちがわからなくて。どうしようもなくなっている私にも、ひとつだけわかっていることはある。
翔吾くんにはアツくんには二度と会うなって言われたけれど、それだけは嫌だ。
私が自分の意志で決めていいのなら、アツくんには。アツくんにだけは会いたい……。これからも。
だって、ずっと会いたかったんだから。
「そんな泣いて、午後からの仕事大丈夫かな」
ぽろぽろと涙を落とす私の頬をアツくんが両手で包むようにして拭ってくれる。
アツくんの苦笑いがぼやけて滲む。
アツくんが何度手のひらで拭っても、こぼれ落ちる涙が止まらない。
アツくんの手の温もりを頬に感じながら、私は気付いてしまった。言葉にはできないけれど、自分が一番大切なものが何で、本当は誰のそばにいたいのか。
そのことを私よりも早く見破っていた翔吾くんは、なかなか勘が鋭いのかもしれない。
私は、アツくんが好きなんだ……。恋愛感情で。たぶん、ずっと昔から――。
「いってらっしゃい」
由紀恵さんに見送られてオフィスを出た私は、お昼ごはんを買うためにビルの地下一階のコンビニに向かった。
地下のコンビニで買ったものをビルの最上階の休憩スペースで食べるのがここ数週間の昼休みのルーティーン。
前まではオフィスの近くのカフェやひとりでも入りやすいレストランでランチをしていたけど、最近の私の昼ごはんはおにぎりや菓子パン。食欲がないときは、飲むタイプのゼリーで済ませる。
今日はコンビニに入って、おにぎりとパンのコーナーをひと通り見てみたけれど、食べたいものが見つからず。店の中をうろうろと彷徨った末に、飲むタイプのブドウ味のゼリーを手に取る。
レジでお金を払って店を出ようとすると、「フミ?」と、後ろから急に腕をつかまれた。
私のことを「フミ」という愛称で呼ぶ人間なんて限られている。ドキッとして振り向くと、アツくんが「やっぱり」と息を吐いた。
「あれから全然連絡してくれないけど、元気だった? 昼休みはしばらく同僚との打ち合わせがあるって言ってたけど、少しは仕事落ち着いた?」
「あ、えっと……、うー……」
思いがけずアツくんと出会ってしまい、私の頭の中はひどく混乱していた。
どうしよう……。翔吾くんにはもう、アツくんとは会うなと言われているのに。偶然とはいえ、アツくんと会ったことが翔吾くんにバレたら、彼の監視の目は今よりももっと厳しくなるだろう。
そうなったら、怖い……。
翔吾くんのことを考えるだけで、血の気が引いた。
「フミ? 大丈夫?」
震える唇をぎゅっと噛み締めると、アツくんが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? もしかして、具合でも悪い?」
「へ、平気。私、もう行くね……」
「あ、ちょっとフミ!」
アツくんの手を振り払って駆け出そうとすると、急に眩暈がして足元がふらついた。
ああ、どうしよう。こんなときに、貧血かも……。
「フミ?」
ぐらりと揺れた私の身体をアツくんが抱きとめる。
「大丈夫? 貧血だよね。声をかける前から顔色悪かったけど、ちゃんとごはん食べてる? 最後に会ったときより痩せてない?」
私のことを心配してくれているのか、アツくんが矢継ぎ早に話しかけてくる。アツくんの優しさが嬉しい。だけど私は、どこで監視しているかわからない翔吾くんの目が気になって仕方なかった。
「ありがとう。最近暑いから、ちょっと夏バテなのかも……。でも、平気だから……」
「平気じゃないよ。俺が今手を離したら、絶対にどこかで倒れる。今昼休みだよね? うちのクリニックで点滴できるから、行こう」
「そんなのいいよ。ちょっとふらつくのなんて、よくあることだし」
「よくあること? だったら、なおさら見過ごせないんだけど」
振り切って逃げようとすると、いつもは優しいアツくんが珍しく怖い顔で私を見下ろしてきた。この顔は、たぶん怒っている。
アツくんが怒るのは、昔から私が我慢して意地を張るとき。小学生の頃、熱があるのに無理して学校へ行って倒れたときも「変なところで我慢しちゃだめだよ」とアツくんに厳しく諭された。
あのときの私は、我慢したわけじゃなくて、子どもながらに二宮さんやアツくんに余計な心配をかけたくないと思って体調不良を打ち明けれなかった。
今も、小学生のときと同じだ。ただの貧血で、アツくんに余計な心配をかけたくない。それに、翔吾くんのこともある。
私の昼休みの時間をだいたい把握している翔吾くんが、いつラインをしてくるかわからない。それにちゃんと返信をしなかったら、翔吾くんは機嫌が悪くなる。
「アツくん、私、ほんとうに大丈夫だから。もし何かあれば、ちゃんと連絡するし、病院にも行くし」
私がそう言うと、アツくんがうんざりしたようにため息を吐いた。
「そう言って、フミは全然連絡くれないよね?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。本を返したいって言ってるのに、もう何週間も連絡がないし。もしかして避けられてるのかなってちょっと思ってたんだけど……」
「まさか……」
ドキッとして頬を引き攣らせると、アツくんが私を見つめて「ふーん」と頷く。
「わかった。言うこと聞かない子は、強制連行」
そう言ったかと思うと、アツくんが私の背中と膝の裏に手を回して軽々ひょいっと抱き上げた。
「え、ちょっ……。何?」
突然、コンビニの入り口の前で白衣のイケメンに抱き上げられた私に、周囲の注目が集まる。
これって俗に言う、お姫様抱っこでは……。
「あ、アツくん……! 見られてる。見られてる! おろして!」
慌ててジタバタしたけれど、アツくんは私が暴れてもわめいても平気な顔で、コンビニから出てエレベーターのほうに歩いていく。
「アツくん、私、ちゃんと自分で歩ける……」
顔を熱くしながら抵抗している間に、アツくんは私を抱きかかえられたままエレベーターに乗り込んでしまった。
片手で私を支えながら、アツくんが押した行き先ボタンは五階。
「あの、ほんとうにもうおろして……、ください……」
「うちのクリニックに着いたらね」
最終的に敬語でお願いしてみたけれど、アツくんはすんとした顔のまま私を抱えて立っている。
幸い、エレベーターにはほかの同乗者はいない。このまま五階までノンストップで上がってくれることを願いつつうつむいていると、エレベーターは一階で止まった。
ゆっくりと開いていく扉の向こうにはスーツやオフィスカジュアルな服装の人たちが数名立っていて。エレベーターに乗り込もうとした瞬間に、白衣姿のアツくんにお姫様抱っこをされている私に気付いて、全員が扉の前でぴたりと足を止める。
目を見開いたり、呆然とした顔で私たちを見つめる人たち。彼らの視線にさらされて、恥ずかしさで消えたい気持ちの私と平気な顔で他の乗客のためにエレベーターの壁側に寄ってスペースを空けるアツくん。
「乗られますか?」
扉の向こうで固まっている人たちにアツくんが涼しい笑顔で訊ねるけれど、エレベーターに乗り込んで来る人はひとりもおらず。私たちふたりだけを乗せたまま、扉が閉まる。
そんな展開が、二階と四階でも繰り広げられ。医療モールのある五階にたどり着く頃には、私の神経と体力はかなりすり減っていた。
「二宮先生。その方、どうされたんですか?」
アツくんに抱きかかえられたまま内科クリニックに入ると、受付に座っていた制服姿の女性が驚いたように目を見開く。
「ああ、うん。このビルで働いてる俺の知り合い。体調悪いみたいだから連れて来た」
そう説明すると、アツくんがようやくクリニックの待合の椅子に私をおろしてくれる。
クリニックはちょうど午前と午後の診察の間の空き時間らしく、休憩をとっていた受付の女性以外に人はいなかった。
真っ白な壁の、清潔感のある綺麗なクリニックの待合室。座らされた椅子の上で肩を縮こまらせながらそわそわとしていると、アツくんが私の前で屈んだ。
「フミ、あとどれくらい昼休みとれる?」
奥二重の切れ長の目。アツくんに間近でじっと見上げられて、トクトクと心音が速くなる。
「三十分くらいなら……」
待合室の受付のデジタル時計にちらっと視線を向けながらボソリと答えると、「そっか」とアツくんが私の頭をよしよしと優しく撫でてきた。
「じゃあ、職場にいちおう連絡入れといてくれる? ビルのクリニックで診察受けてから戻るって」
「え……? 私、悪いところなんて何もないけど」
ゆるりと首を左右に振ると、アツくんが眉間を寄せて顔をしかめた。
「さっき倒れかけたでしょ」
「よくある立ち眩みだから平気」
「だから、よくあるっていうのが問題なんだって。フミ、毎日ちゃんとごはん食べてる? 今日のお昼ごはんも、どうせそれだけなんでしょ?」
アツくんが、私のカバンからちらっと見えている飲むタイプのゼリーを指差す。
「最近暑くて、あんまり食欲ないから……」
そそくさとカバンの奥にコンビニで買ったゼリー飲料を押し込んでいると、横顔にアツくんの視線を感じた。
「食欲がないのは、ほんとうに暑さだけが理由?」
私の心の奥まで全てを見透かすようなアツくんのまなざし。それに抗えなくて、つい目が泳ぐ。
「とりあえず、貧血の検査しよう。必要だったら点滴も。ついでに診察室で、ゆっくり話も聞かせてもらうから」
アツくんは私の手をとって立ち上がると、有無を言わせない態度で私を診察室に導いた。
「すぐ戻るから、その間に会社に連絡入れてね」
診察用の丸い椅子に私を座らせると、アツくんが診察室の奥へと入っていく。
言うことを聞かなかったら、またしかめっ面をされそうなので、仕方なく由紀恵さんにラインを打った。そうしている間に、アツくんが注射のセットを持って戻ってくる。
パソコンが置かれたデスクの前に座って私のほうを振り向いたアツくんは、あたりまえだけどちゃんとお医者さんにしか見えなくて。かっこよかった。
どこからどう見たって、患者の私に対峙するアツくんは若手のイケメンドクターだし。もしかしたら、アツくん目当てでこのクリニックに来ている患者さんだっているかもしれない。
軽く問診を受けたあと、「フミ、アルコール消毒大丈夫だよね?」とアツくんが聞いてくる。
「うん」
「じゃあ、腕出して。貧血の検査しとくから」
「検査……?」
「そう。さっきは俺がそばにいたからよかったけど、あんなふうにしょっちゅうフラフラしてるなら心配だから。少しだけチクッとするよ」
テキパキと準備をしたアツくんが、左腕に注射器の針をあてて採血をする。
チクッとするとは言われたけど、アツくんの注射の仕方が上手いのか、刺された痛みはほとんど感じなかった。小さな試験官のようなものに三本分の採血をすると、アツくんが小さな四角い絆創膏を貼ってくれる。
「しばらく上から押さえといて」
「うん」
「結果が出たら連絡するけど、もし数値があまりに低かったらちゃんと診察受けたほうがいいよ」
「うん。でも、これまでちょっと立ちくらみがすることはあっても倒れたことは一度もないよ。今日はたまたま、調子が悪くなっただけで。だから、そんなに心配しなくても……」
大丈夫――。
その言葉は、アツくんのしかめっ面によって遮られた。
「今までは大丈夫だったってことは、ここ最近で大丈夫じゃなくなるような何かがあったってこと? さっきも聞いたけど、食欲が落ちてるのは暑さのせいだけじゃないよね?」
「……」
アツくんの顔を直視できずにうつむくと、診察用の椅子の横に置いたカバンの中でスマホが鳴った。
たぶん由紀恵さんからの返信か、翔吾くんからの所在確認。由紀恵さんからならすぐに既読をつけなくても平気だけど、翔吾くんからだったら……。
翔吾くんの執着とほんの少しの狂気が混じった冷たいまなざし。それを思い出しただけで、勝手に手が震えた。
「ごめん、ちょっとスマホ……」
アツくんに断りを入れてカバンからスマホを取り出すと、届いていたのはやっぱり翔吾くんからのラインで。
〈今、昼休みだよな? 何食ってる?〉
毎日のように送られてくる定型文のようなメッセージに、手の震えが激しくなった。
いつもは翔吾くんからのメッセージに、休憩スペースの背景が入ったコンビニのごはんの写真を送る。だけど今日は、それができない。
ここで飲むタイプのゼリーの写真を撮って送れば、背景が違うことがバレるだろうし。ゼリーの写真だけアップにしたら、居場所がわからないから翔吾くんに疑われるかもしれない。
そういえば、さっきコンビニからここまでアツくんに抱かれてきたけれど、あの姿をこのビルに仕事で出入りする翔吾くんや彼の知り合いに見られなかっただろうか。
抱きかかえられているあいだは、恥ずかしさとアツくんに触れられているドキドキで他のことに気を回している余裕がなかったけれど。もしも見られていたら……。
「フミ、大丈夫?」
両手でスマホを握って震えていると、椅子に座ったまま距離を詰めてきたアツくんが、私の手を両側からそっと包んできた。
アツくんの手が、血の気がひいて指先まで冷たくなった私の手をじんわりと温めてくれる。その温もりがやけに胸に沁みて、泣きそうになった。
「小田くんと何かあった?」
うつむいて唇を噛む私に、アツくんが優しい声音で訊ねてくる。
最近の私のストレスの原因は、翔吾くんの束縛のせい。だけどそれは、私と翔吾くんのふたりの間の問題であって、アツくんには関係ないことだ。
「別に、何も。順調だよ」
「ほんとうに? なにか困ってることがあるならちゃんと話して」
「そんなのないから、大丈夫だよ」
顔をあげて少し無理やり笑おうとする私の目をアツくんがじっと見てくる。そのまなざしに動揺して、微妙に視線を逸らすと、アツくんが私の両手をきつく握り込んできた。
「俺に隠し事できると思ってる? フミがウソついてるからどうかなんて、俺には瞬きひとつでわかるよ」
「まさか――」
「もしかして、小田くんに、俺とは会うなって言われてる?」
ドキッとした。思わず身震いするほどに。
どうしてアツくんは、そんなことまで見抜いてしまうのだろう。翔吾くんのラインの中身を見せたわけじゃないのに。
顔をこわばらせて固まる私に、アツくんが「やっぱり」とため息を吐く。
「この前小田くんを紹介してもらったとき、なんとなくだけど彼の俺を見る目に敵意を感じたんだよね」
アツくんが、眉尻を下げて苦笑いする。
「あの日の帰り際にフミが帰り際にトイレに行って、少しだけ俺と小田くんのふたりだけになったの覚えてる? そのとき、彼にはっきりと牽制されたよ。『史花とは結婚も考えてるので、誑かすつもりで近付いたならやめてください』って」
「そう、なの……?」
「うん。フミは俺にとって大切な家族だし、これからのフミの幸せを願ってるって言ったら、小田くんは表向きは愛想良く笑ってたよ。でも内心では、フミと血の繋がりもないくせに兄貴ヅラしてる俺のことや、フミが十四年ぶりに再会した俺と連絡取り合ってることもあんまりよく思ってないんじゃないかな」
あの日、私がトイレに行っている間にそんな会話が繰り広げられていたとは知らなかった。
翔吾くんが、笑顔の下にアツくんに気付かれるくらいの敵意を隠していたことも。
「翔吾くんは、私がアツくんに対して恋愛感情を持ってるって誤解してるんだと思う……」
私の言葉に、アツくんがピクリと眉を引き攣らせた。
「私がアツくんのことを血の繋がりなんてなくても大事だ、って翔吾くんに言ったから。翔吾くんは私の気持ちを疑って、私のことを監視するようなラインを送ってきたり、アポ無しで家に来たりするようになった。アツくんにも、二度と会うなって言われてる……」
隠そうとしたって、どうせアツくんにはいろいろと気付かれているのだ。
隠し事をしてもムダ……。そう思って話したら、言葉と一緒に堪えていた涙までがぽろぽろと溢れてきた。
「ねえ、アツくん。私、もう、翔吾くんのことが好きなのかどうかよくわからない。結婚の話を仄めかされたときから、ほんとうはもう、好きかどうかわからなくなってたのかも……」
最近の翔吾くんにはいろいろと思うことがあるけれど、好きかどうかもわからないまま彼との関係を続けてきた私も酷いやつだ。私の曖昧な態度が翔吾くんを不安にさせて、過度な束縛をさせているのだろうから。
「フミの今の気持ち、小田くんに伝えてみたら?」
「そんなの、怖いよ。好きかどうかわからなくなったなんて言ったら、翔吾くん、きっと怒る……」
「そうかもしれないけど……。小田くんだって、フミの気持ちがわからないから不安になってるんだろうし。このままじゃ、フミだって苦しいんでしょ」
「そう、だけど……」
涙をこぼしながらうつむくと、アツくんが私の頭に手をのせた。
「俺は、小田くんが怒るからそばにいるのも、彼を好きなフリをするのもちょっと違うかなって思う。誰がどう思うかじゃなくて、大事なのはフミが小田くんと一緒にいたいって思うどうかでしょ。俺と会うか会わないかだって、小田くんに指図されることじゃなくて、フミが会いたいかどうかで決めてよ。フミは昔から人のことばかり考えて行動するけど、フミがフミ自身で決めていいんだよ」
そっと視線をあげると、アツくんが少し目を細める。
「ちなみに俺は、小田くんに何と言われようが、これからもフミに会いたいよ。もちろん、フミが嫌じゃなければだけど。フミはどう?」
私を見つめる優しいまなざしに。小首をかしげる少しあざとい仕草に。胸がぎゅっと詰まる。
「そんな聞き方、ずるい……」
翔吾くんへの気持ちがわからなくて。どうしようもなくなっている私にも、ひとつだけわかっていることはある。
翔吾くんにはアツくんには二度と会うなって言われたけれど、それだけは嫌だ。
私が自分の意志で決めていいのなら、アツくんには。アツくんにだけは会いたい……。これからも。
だって、ずっと会いたかったんだから。
「そんな泣いて、午後からの仕事大丈夫かな」
ぽろぽろと涙を落とす私の頬をアツくんが両手で包むようにして拭ってくれる。
アツくんの苦笑いがぼやけて滲む。
アツくんが何度手のひらで拭っても、こぼれ落ちる涙が止まらない。
アツくんの手の温もりを頬に感じながら、私は気付いてしまった。言葉にはできないけれど、自分が一番大切なものが何で、本当は誰のそばにいたいのか。
そのことを私よりも早く見破っていた翔吾くんは、なかなか勘が鋭いのかもしれない。
私は、アツくんが好きなんだ……。恋愛感情で。たぶん、ずっと昔から――。
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