もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

不安〈2〉

「あ、史ちゃん。おかえりなさい」

 アツくんとのランチタイムを終えてオフィスに戻ると、隣の席に座っている由紀恵さんがパソコンから顔をあげた。

「お疲れさまです。今日は先にお昼をとらせてもらってありがとうございました」
「いいの、いいの。それより、小田くんとは会えた?」

 デスクに座ろうとする私に、由紀恵さんがこそっと囁いてくる。

「え、翔吾くんですか?」

 きょとんと首を傾げると、由紀恵さんが「え、連絡こなかった?」と意外そうにまばたきをした。

「史ちゃんが休憩に出たあと三十分くらいして、小田くんが営業回りのあいさつに来たんだよ。ちょうど同じビルの取引先のところに来たのでごあいさつだけーって」
「そうなんですね。私のところにはなにも……」
「そうなの? 帰り際に史ちゃんのことをなんとなく気にしてるふうだったから、休憩出てるよって教えたんだけどな」
「そう、ですか……」

 由紀恵さんの話が気になってスマホをチェックしてみたけど、翔吾くんからはなんの連絡もきていない。

〈さっき、うちの会社に来てたの?〉

 念のためにラインを入れてみたけど、もちろんすぐに返事はこない。

「次の予定が合って、連絡できなかったのかな」
「かもしれないですね……」

 私はスマホをカバンにしまうと、由紀恵さんに曖昧に笑い返した。

 由紀恵さんは太陽損保の総務課で働くふたつ上の先輩で、入社時からの私の指導係だ。

 面倒見が良くて優しい人で、仕事帰りにたまにふたりで飲みに行ったりするくらい仲も良い。

 だから、うちの会社にたまに顔を出す翔吾くんが私の彼氏だということも由紀恵さんにだけはバレている。

「残念だったね、会えなくて」

 私と翔吾くんが順調に付き合っていると思っている由紀恵さんが、ニヤリと笑ってからかってくる。

「いいんですよ、仕事中なので」
「史ちゃんて、ほんとうに恋愛に関してはクールだよね。たまに小田くんが営業でうちの会社に顔出しても、顔色ひとつ変えないし」
「だって、仕事ですもん」
「だとしても、彼氏が職場に来たらほんのちょっとくらいは浮き足立っちゃわない?」
「……、ません」
「そうかー」

 キッパリと答えると、由紀恵さんが少し残念そうな顔をする。

 由紀恵さんは、私が職場で翔吾くんのことを意識する顔が見たいらしいけど。私は付き合い出してから一度も、たまに会社に出入りしている翔吾くんに仕事中にときめいたことはない。

 恋愛に関してはクールと言われればそうなのかもしれない。職場で会うときの翔吾くんはあくまで取引先の営業担当なのだから、私も仕事モードで対応するべきだと思う。

 そう言うと、由紀恵さんはなぜかいつも「つまんないー」と残念がる。

「じゃあ、私はこれから交代で休憩行かせてもらうね」
「はい、ゆっくり行ってきてください」
「ありがとう」

 カバンを持ってデスクを離れる由紀恵さんの背中を見送ると、私はスリープ状態になっていたパソコンを起動させて頭を仕事モードに切り替えた。

◇◇◇

 昼間に翔吾くんに送ったラインには、三十分の残業をして家に帰ってからも返信がなかった。

 送ったメッセージに既読が付いているから、確認はしているのだろう。

 営業の仕事で日中の電車移動も多い翔吾くんは、私が昼休みにラインを送っておくと、たいてい移動の隙間時間で返事をくれる。それがないということは。今日は忙しいのかな……。

 翔吾くんのことを気にしつつ、簡単に作った夜ごはんを食べてシャワーを浴びた。

 ゆっくりとお湯にあたってから出てきたところで、インターホンが鳴った。

 え、このタイミングで誰? 宅配便?

 髪と体を拭いて着替えていたら時間がかかるし、再配達を頼むしかないな。

 インターホンへの対応は諦めて脱衣所のカゴに置いていたバスタオルで髪の毛を拭いていると、不意にガチャッと玄関の鍵が開いた。

 え、何……?

 シャワー上がりで無防備な状態なところに聞こえてきた音に、ビクッと肩が震える。

 心臓を震わせながら広げたバスタオルを体に巻き付けると、「史花ー、帰ってる?」と聞き馴染んだ声がした。翔吾くんだ。

 私が送ったラインになんの返事もしてこなかったくせに。嫌がらせみたいなアポ無しの訪問にため息がこぼれる。

「シャワーしてた。今出たところだから、リビングで適当に待ってて」

 脱衣所のドアから顔を覗かせて言うと、翔吾くんが靴を脱いで部屋に上がってくる。

 脱衣所の前の廊下を通り過ぎていく翔吾くんの足音を聞きながら、私は急いで着替えを済ませて、髪の毛をドライヤーでざっと乾かした。なんとなくだけど、あまり待たせたら翔吾くんが機嫌を損ねそうな気がしたから。

「お待たせ」

 パジャマに着替えた私がリビングに行くと、ビーズクッションに座ってスマホを弄っていた翔吾くんが顔をあげた。

 ややつり目気味の翔吾くんは、無表情で口を閉ざしていると少し怒っているように見える。最近は機嫌の良い日が多かったのに、私がご両親と会う約束をドタキャンしたせいで、翔吾くんの機嫌は急降下だ。

「翔吾くん、もうごはんは食べた? お腹空いてる?」
「仕事終わりに軽く食べた」
「そうなんだ。じゃあ、何か飲む? コーヒー淹れようか」
「いや、いらない。ちょっと話しにきただけだから」
「次にご両親と会う日程のこと? だったら、お母さんのケガが治ればすぐに調整するよ」
 
 不機嫌な表情を浮かべたままの翔吾くんを前に、作り笑いが引き攣る。翔吾くんは、私がなんと言えば機嫌を直してくれるのだろう。

 ため息を吐きたいのを堪えていると、翔吾くんが私を睨むように見ながら口を開いた。

「昼休みに史花がカフェでランチしてたやつ、あれ、誰?」
「え?」 
「今日の13時頃、仕事で史花の会社が入ってるビルに行ったんだ。そのとき、男とふたりでランチしてる史花のことを見かけた。テーブルの上で手を握り合ったりして、随分と親し気だったけど」

 翔吾くんの指摘に、ドキッとする。

 まさか、アツくんと一緒にいるところを見られていたなんて。昼間に送ったラインに翔吾くんが返事をしてくれなかったのはそのせいだ。

 アツくんとの間にやましいことはないけれど、何も知らない翔吾くんには、私が白昼堂々と浮気しているように見えたんだろう。

「なあ、史花。あいつ、誰? 俺に隠れて、しょっちゅうあんなふうに会ってたのか?」

 アツくんのことはいずれ翔吾くんに話すつもりだったけれど、こんなカタチで知られてしまうなんて。

「カフェで会っていた人は私の兄」

 仕方なく白状すると、翔吾くんが怪訝な顔をした。

「兄? 家族はお母さんだけだって言ってたよな」
「そうだよ、血の繋がってる家族はお母さんだけ。カフェで翔吾くんが見た人は、お母さんの昔の再婚相手の子どもで、私の義理の兄だった人」
「そんな話、初めて聞いたけど」
「お母さんとその相手は、十四年前に離婚してるから。兄ともずっと会っていなかったんだけど、最近偶然、会社のビルで再会したの」

 アツくんが私が勤める大洋損保と同じビル内のクリニックに勤めているドクターであることや、今日ふたりでカフェで会っていたのは本を貸すためだったことを説明すると、翔吾くんは渋い表情だったがいちおう理解してくれた。だけど、私とアツくんの関係について納得はしていないらしい。

「史花がお兄さんとふたりで会ってた理由はわかった。でも、血が繋がってるわけでもないのに、史花とお兄さんは随分仲がいいんだな。いい年した兄妹が、ふつう手を握り合って話すか?」
「ふつうがどうかはわからないけど、あのときはお母さんのことで兄に相談をしていたから……」
「ふーん。その兄って人はほんとうに、史花の相談をなんの下心もなく聞いてくれてんの? 十四年も会ってなかった義理の血の繋がらない妹なんて、ほぼ他人だろ」

 翔吾くんの言葉に、私はアツくんが貶されたような気がしてムッとした。

 アツくんは、今も昔も変わらずに優しい。家族だったときと変わらない、慈しむようなまなざしで私を見てくれる。十四年も離れていたのに、昔と変わらない温度で私を大切にしてくれる。

 アツくんと家族だった数年間が、私にとって人生で一番幸せなときだった。血は繋がっていなくても、私とアツくんにはちゃんと家族の絆があった。何も知らない翔吾くんに、勝手な想像で私とアツくんの関係を穢されたくない。

「翔吾くんは、アツくんがひさしぶりに会った私を騙してるって言いたいの? アツくんは、血の繋がりなんてなくても私の大事な家族なんだよ」

 私が不機嫌に声を尖らせると、翔吾くんが一瞬怯んだ。

 どちらかというと人の顔色を伺って下手に出ることの多い私が、反論してくると思わなかったんだろう。

 私から視線を逸らした翔吾くんが、忌々し気に舌打ちする。しばらく黙り込んだあと、翔吾くんが「史花、スマホ出して」と低い声で指示してきた。

「どうして?」
「俺の前で連絡とってよ。その、お兄さんの《アツくん》に」
「なんで急に……」
「だって、史花の大事な家族なんだろ。史花にとって大切な人なら、俺も挨拶しとかなきゃ」
「挨拶……?」
「そう。俺にやましいことがないなら、電話できるだろ。史花のお母さんの前に、まずは《アツくん》を紹介してよ」
「今すぐに?」
「今すぐに。できないの?」

 私に視線を戻した翔吾くんが、わずかに目を細める。その目は少しも本気で笑っていなかった。

「できるよ」

 抵抗しても余計に疑われるだけだ。

 私はスマホを手に取ると、翔吾くんの望む通り、彼の前でアツくんに電話をかけた。

 受話口から聞こえてくるコール音を、一回、二回と数えながら、アツくんが出なければいいと思う。

 五回目、六回目のコール音が聞き流し、次のコール音が鳴り終わっても出なかったら切ろうと思っていると、急に通話に切り替わった。

「もしもし、フミ?」

 電話だと、直接会っているときよりも少し低めに聞こえるアツくんの声。

 私からかけたくせに勝手だけど、今は出てほしくなかったな……。

「フミ? どうしたの?」

 しばらく黙り込んでいると、アツくんが心配そうな声で呼びかけてくる。

「あ、うん。ちょっと、アツくんに話があって……。今、電話大丈夫?」

 ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた私に、翔吾くんの鋭い眼差しが突き刺さる。私とアツくんとの会話を一言一句聞き漏らすまいとしている翔吾くんの目が怖かった。とぐろを巻いた大蛇に睨まれているような気分だ。

「大丈夫だよ。何かあったの?」

 私の置かれている状況を知らないアツくんが、優しく問い返してくる。

「うん、実はね……。さっき付き合っている人にアツくんのことを話したら、その人がアツくんに会いたいって言ってて……」
「そうなんだ? 俺にそんな話を持ちかけてくるってことは、フミが不安に思ってた結婚のことやお母さんのことをちゃんと彼氏にも話せたんだね」
「え、うん。まあ……」

 煮え切らない返事をすると、アツくんが「よかった、よかった」と笑った。

「フミの彼氏が会いたいって言ってくれてるなら、喜んで都合つけるよ。土曜日は診察があるけど、日曜日なら大丈夫だから」

 何も知らないアツくんが、翔吾くんと会う話を嬉しそうな声で進めてくる。

 ほんとうは翔吾くんには何も話せてないし、今電話をかけているのも翔吾くんに私とアツくんの関係が疑われているからなのに。

 アツくんが純粋に翔吾くんに会うことを楽しみにしてくれているのだと思うと、アツくんのことを騙しているようで。心苦しくて仕方ない。

 でも、翔吾くんに会話ん聞かれている手前、ヘタなことも言えない。

「フミは週末にお母さんのところにも行かなきゃ行けないだろうし。予定はできるだけフミたちに合わせるから、日にちを決めたら連絡してよ」
「……、うん。彼にも予定を確認してみる」
「いやー、でも、今日の昼にいつか彼氏を紹介してって話をしたけど、それがこんなに早く現実になるなんて思わなかったなあ」

 まさか、その彼氏に通話を聞かれているとは思っていないアツくんは、そのまま私に話を続けてきた。

「嬉しいんだけど、ちょっと淋しい気持ちもあるっていうか……。娘を嫁に出す気分」
「なにそれ……」

 受話口でふふっと笑うアツくんの息遣いが、右耳の鼓膜をくすぐる。

 この電話が翔吾くんに聞かれていなければ、もっとリラックスしてアツくんといろんな話ができるのにな。

 残念に思っていると、翔吾くんが急にスマホを持っていないほうの私の手をぎゅっとつかんできた。

 目線をあげると、不機嫌そうに私を睨む翔吾くんの唇が「まだ?」と静かに動く。

 自分の前でアツくんに電話をかけろと言ったくせに。通話が長ければ、それはそれで不満らしい。

 仕方なく、私はまだ会話を続けようとしているアツくんの言葉を遮った。

「ごめん、アツくん。明日早いから、今日はそろそろ寝る準備をしようかな」
「ああ、ごめん。そうだよね。じゃあ、また連絡待ってる。おやすみ、フミ」

 アツくんの耳心地の良いテノールに、胸がきゅっとなる。

「おやすみなさい」

 少し名残惜しい気持ちで電話を切ると、その瞬間に翔吾くんが私を抱きしめてきた。

 翔吾くんの言う通りにアツくんに紹介する約束を取り付けたし、翔吾くんに疑われるような発言もしなかった。

「ちゃんと電話したよ?」

 確かめるように言うと、「聞いてたよ」と翔吾くんの声が返ってくる。

 アツくんと私の会話には、疑われるようなことは何もなかったはずだ。それなのに何が不安なのか、翔吾くんは私の首の後ろに手を回して押さえつけるようにキスをしてきた。

 薄く開いた唇の隙間から乱暴に押し入ってきた翔吾くんの舌が、私の舌を絡めとる。そのまま私は、少し前まで翔吾くんが座っていたビーズクッションに背中から押し倒された。

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