もう一度、重なる手
味方〈3〉
母の家から帰宅すると一番に、私はリビングのビーズクッションにダイブした。
「はあ、疲れた……」
ため息を吐きながら、クッションに顔を埋める。圧迫するような息苦しさが、疲れた体に妙に心地よかった。
母から食材の買い出しと夕飯作りを頼まれた私は、結局他にもいろいろと雑用を押し付けられ。母と山本さんが食べる一週間分のおかずまで作り置きさせられた。
食べやすいようにタッパーに小分けにして冷蔵庫に保管までしてあげたのに、母は私が料理を作っている横で「この食材は嫌いだ」とか「その味付けは彼が気に入らないかもしれない」とか、何かにつけて文句ばかりつけてきた。
気に入らないなら、自分で作ればいいのに。
人に頼んでおいて文句ばかり言う母に、心の底から嫌気がさした。
できればもうしばらく、母の顔は見たくない。
ふーっとため息を吐いたあと、クッションの上でゴロンと仰向けに寝転がる。
やる気なくクリーム色の天井を眺めながら、そういえば母の状況を翔吾くんとアツくんに連絡しておかないと、と思った。
クッションのそばに置いたカバンからスマホを取り出すと、五分ほど前に翔吾くんとアツくんからそれぞれラインが届いていた。
〈お母さん、大丈夫だった?〉
内容はどちらも、母の状態を気遣うものだ。
順番に返事をしようと、まずアツくんとのトーク画面を開く。
〈心配してくれてありがとう。お母さんは、思ったよりも軽症で〉
そこまで打ち込んだところで、私は文章を全部削除した。それから、ラインの画面を通話に切り替える。
疲れているせいか文字を打つのが急に面倒くさくなったのもあるし、なんとなく、アツくんの声が聞きたくなった。
電話をかけると、3コール鳴らさないうちにアツくんが出てくれた。
「もしもし、フミ?」
電話口から響いてくる声が、疲れた心をじんわりと癒やしてくれる。ぼんやりと聞き入っていると「フミ? 大丈夫?」と、少し焦ったアツくんの声に心配された。
「ああ、うん。大丈夫。お母さんも大丈夫だったんだけど、なんかすごく疲れちゃって……」
私が病院に迎えに行ったときの母の反応や自宅に送って行ってからのことを、アツくんにぽつぽつ語る。
相槌を打ちながら静かに話を聞いてくれていたアツくんは、「相変わらずだね、フミのお母さん」と呆れたように笑った。
「でも、なんだかんだでちゃんとお母さんのこと手伝ってあげてるフミは優しいよね」
「全然……、優しくはないよ。放っておくと、仕事中でもお構いなしに電話がかかってくるかもしれないし。そうなったら面倒くさいから」
「そんなこと言うけど、フミはお母さんのことを完全には見放せないんだよ」
アツくんが、電話口でふふっと笑う。
私が母を迎えに病院に行ったのも、おかずを作り置きしてきたのも、善意なんかじゃない。だけど、アツくんと話していると母に対して感じていたモヤモヤや苛立ちが少しだけ払拭される気がした。
「それで、明日の昼休みだけど……。12時半に下のカフェでいいかな」
母の話に区切りがつくと、アツくんがそんなふうに話を切り出してきた。
「明日の昼休み……」
「もしかしてフミ、忘れてた? 本、貸してくれるんでしょう?」
「忘れてないよ。12時半で大丈夫」
今日は憂鬱なことばかりだったけど、明日アツくんに会えると思ったら元気が出てきた。
「午前の診察が伸びたら、少し遅れちゃうかもしれないけど……。13時までには行けると思うから、フミのほうが早かったら先に何か食べておいて」
「わかった。楽しみにしてるね」
「うん、俺も」
アツくんの言葉にドクンと心臓が音をたてる。そのとき、玄関のほうから物音がした。
「史花ー、帰ってんの?」
突然、翔吾くんの声が聞こえて焦る。帰ってきてから私がなんの連絡もしないままだったから、心配して来たのだろう。
アツくんに電話する前に、翔吾くんにもひとこと連絡を入れておくべきだった。
「史花ー」
翔吾くんが、リビングまでの廊下を歩いてくる音がする。
自分には何の連絡も入れずに他の人と電話をしていたと知れば、翔吾くんは確実に気を悪くするだろう。
「ごめん、ちょっと来客があって……。切るね」
「俺は大丈夫だけど。フミは大丈夫?」
翔吾くんに会話の内容を聞かれたくなくて声のトーンを下げると、アツくんが心配そうに訊いてきた。
「大丈夫だよ」
「そう? じゃあ、また明日ね」
「うん。また、ね」
言葉のチョイスに気を付けて話しながら、アツくんとの通話を切る。ちょうどそのタイミングで、翔吾くんがリビングに入ってきた。
「なんだ、やっぱり史花帰ってるじゃん」
慌てて耳からスマホをおろす私を見て、翔吾くんが怪訝そうに眉を顰める。
「ああ、うん。十五分くらい前に」
床に置きっぱなしのカバンに視線を向けながら薄く笑うと、翔吾くんが少し不機嫌そうな声で「ふーん」と頷いた。
「それで、お母さんは大丈夫だった?」
「うん。転倒して右腕にヒビが入ったみたいなんだけど、それ以外の外傷はなくて思っていたより元気だった」
「そう。よかったね」
「ただ、右腕を全体的にギブスで固定されてるから数週間手が不自由みたいで。ケガが治るまでは、週末に家のことを手伝いに来てほしいって言われてる」
「そうなんだ」
「うん。あの、翔吾くん、今日はごめんね。前からの約束だったのに、ドタキャンしちゃって……」
「それは仕方ないよ。うちの親も史花のお母さんのこと心配してた。挨拶に来るのは、お母さんのことが落ち着いてからでいいって」
約束を急にキャンセルしたにも関わらず、翔吾くんや彼のご両親が、思った以上に理解を示してくれたことにほっとする。
だけど私が安堵のため息を吐きかけた瞬間、翔吾くんがややつり気味の目を鋭く光らせた。
「それよりさ、史花。さっき、誰かと話してた?」
「え?」
「うちに挨拶に行く約束が延期になったことは構わないんだけど、出前の寿司はキャンセルできなかったみたいなんだ。持って帰って、史花が食べられそうなら状況なら食べろって母親に託されたから、ここに向かう途中電話をかけたんだけど。話し中で繋がらなかったから」
そう話す翔吾くんの口元には笑みが浮かんでいるけれど、私を見据える彼の目は少しも笑っていない。その目が怖くて、スマホを持ったままの手が冷えた。
「ご、ごめん。家に着いたあと、すぐにお母さんから電話がかかってきてて」
翔吾くんに疑われていると思った私は、咄嗟に嘘をついてしまった。
「お母さん?」
「そう。さっき、お母さんに頼まれて必要なものを一週間分まとめて買い物してきたんだけど、私が片付けた場所がいつもの置き場所と違ってわからなかったみたいで……。それで」
私の口から、自分でも恐ろしいくらいの嘘の言い訳がするすると出てくる。けれど内心はとてもドキドキしていて、嘘が見抜かれてしまわないか気が気ではなかった。
「ふーん、それならいいけど」
低い声でつぶやいた翔吾くんが、私の嘘をほんとうに信じてくれているかどうかはわからない。
「せっかく持ってきたし、寿司食べる?」
「あ、うん……」
翔吾くんが、食卓の上でお寿司の皿を包んでいた風呂敷を広げる。
翔吾くんのご両親が頼んでくれたお寿司は、ネタが大きく豪勢だった。それを、翔吾くんとふたりで食卓で向き合って食べる。
「お寿司、おいしいね」
お寿司を食べているあいだ、私のほうからいろいろと話しかけてみたけれど、翔吾くんは終始無表情だった。
ここ最近は付き合ったばかりの頃のように機嫌良く笑っていた翔吾くんが、むすっと黙り込むのはひさしぶりだ。
私がアツくんと電話をしていたことで翔吾くんを怒らせてしまったことは明白で。自分の失態を後悔するとともに、憂鬱な気持ちになる。
きっと明日から、また私の浮気を疑う翔吾くんからの抜き打ち検査が再開するのだろう。
翔吾くんといると、疲れる……。
重たい空気のなかでいただくお寿司は、口の中でもたついて。食べるのが苦しかった。
「はあ、疲れた……」
ため息を吐きながら、クッションに顔を埋める。圧迫するような息苦しさが、疲れた体に妙に心地よかった。
母から食材の買い出しと夕飯作りを頼まれた私は、結局他にもいろいろと雑用を押し付けられ。母と山本さんが食べる一週間分のおかずまで作り置きさせられた。
食べやすいようにタッパーに小分けにして冷蔵庫に保管までしてあげたのに、母は私が料理を作っている横で「この食材は嫌いだ」とか「その味付けは彼が気に入らないかもしれない」とか、何かにつけて文句ばかりつけてきた。
気に入らないなら、自分で作ればいいのに。
人に頼んでおいて文句ばかり言う母に、心の底から嫌気がさした。
できればもうしばらく、母の顔は見たくない。
ふーっとため息を吐いたあと、クッションの上でゴロンと仰向けに寝転がる。
やる気なくクリーム色の天井を眺めながら、そういえば母の状況を翔吾くんとアツくんに連絡しておかないと、と思った。
クッションのそばに置いたカバンからスマホを取り出すと、五分ほど前に翔吾くんとアツくんからそれぞれラインが届いていた。
〈お母さん、大丈夫だった?〉
内容はどちらも、母の状態を気遣うものだ。
順番に返事をしようと、まずアツくんとのトーク画面を開く。
〈心配してくれてありがとう。お母さんは、思ったよりも軽症で〉
そこまで打ち込んだところで、私は文章を全部削除した。それから、ラインの画面を通話に切り替える。
疲れているせいか文字を打つのが急に面倒くさくなったのもあるし、なんとなく、アツくんの声が聞きたくなった。
電話をかけると、3コール鳴らさないうちにアツくんが出てくれた。
「もしもし、フミ?」
電話口から響いてくる声が、疲れた心をじんわりと癒やしてくれる。ぼんやりと聞き入っていると「フミ? 大丈夫?」と、少し焦ったアツくんの声に心配された。
「ああ、うん。大丈夫。お母さんも大丈夫だったんだけど、なんかすごく疲れちゃって……」
私が病院に迎えに行ったときの母の反応や自宅に送って行ってからのことを、アツくんにぽつぽつ語る。
相槌を打ちながら静かに話を聞いてくれていたアツくんは、「相変わらずだね、フミのお母さん」と呆れたように笑った。
「でも、なんだかんだでちゃんとお母さんのこと手伝ってあげてるフミは優しいよね」
「全然……、優しくはないよ。放っておくと、仕事中でもお構いなしに電話がかかってくるかもしれないし。そうなったら面倒くさいから」
「そんなこと言うけど、フミはお母さんのことを完全には見放せないんだよ」
アツくんが、電話口でふふっと笑う。
私が母を迎えに病院に行ったのも、おかずを作り置きしてきたのも、善意なんかじゃない。だけど、アツくんと話していると母に対して感じていたモヤモヤや苛立ちが少しだけ払拭される気がした。
「それで、明日の昼休みだけど……。12時半に下のカフェでいいかな」
母の話に区切りがつくと、アツくんがそんなふうに話を切り出してきた。
「明日の昼休み……」
「もしかしてフミ、忘れてた? 本、貸してくれるんでしょう?」
「忘れてないよ。12時半で大丈夫」
今日は憂鬱なことばかりだったけど、明日アツくんに会えると思ったら元気が出てきた。
「午前の診察が伸びたら、少し遅れちゃうかもしれないけど……。13時までには行けると思うから、フミのほうが早かったら先に何か食べておいて」
「わかった。楽しみにしてるね」
「うん、俺も」
アツくんの言葉にドクンと心臓が音をたてる。そのとき、玄関のほうから物音がした。
「史花ー、帰ってんの?」
突然、翔吾くんの声が聞こえて焦る。帰ってきてから私がなんの連絡もしないままだったから、心配して来たのだろう。
アツくんに電話する前に、翔吾くんにもひとこと連絡を入れておくべきだった。
「史花ー」
翔吾くんが、リビングまでの廊下を歩いてくる音がする。
自分には何の連絡も入れずに他の人と電話をしていたと知れば、翔吾くんは確実に気を悪くするだろう。
「ごめん、ちょっと来客があって……。切るね」
「俺は大丈夫だけど。フミは大丈夫?」
翔吾くんに会話の内容を聞かれたくなくて声のトーンを下げると、アツくんが心配そうに訊いてきた。
「大丈夫だよ」
「そう? じゃあ、また明日ね」
「うん。また、ね」
言葉のチョイスに気を付けて話しながら、アツくんとの通話を切る。ちょうどそのタイミングで、翔吾くんがリビングに入ってきた。
「なんだ、やっぱり史花帰ってるじゃん」
慌てて耳からスマホをおろす私を見て、翔吾くんが怪訝そうに眉を顰める。
「ああ、うん。十五分くらい前に」
床に置きっぱなしのカバンに視線を向けながら薄く笑うと、翔吾くんが少し不機嫌そうな声で「ふーん」と頷いた。
「それで、お母さんは大丈夫だった?」
「うん。転倒して右腕にヒビが入ったみたいなんだけど、それ以外の外傷はなくて思っていたより元気だった」
「そう。よかったね」
「ただ、右腕を全体的にギブスで固定されてるから数週間手が不自由みたいで。ケガが治るまでは、週末に家のことを手伝いに来てほしいって言われてる」
「そうなんだ」
「うん。あの、翔吾くん、今日はごめんね。前からの約束だったのに、ドタキャンしちゃって……」
「それは仕方ないよ。うちの親も史花のお母さんのこと心配してた。挨拶に来るのは、お母さんのことが落ち着いてからでいいって」
約束を急にキャンセルしたにも関わらず、翔吾くんや彼のご両親が、思った以上に理解を示してくれたことにほっとする。
だけど私が安堵のため息を吐きかけた瞬間、翔吾くんがややつり気味の目を鋭く光らせた。
「それよりさ、史花。さっき、誰かと話してた?」
「え?」
「うちに挨拶に行く約束が延期になったことは構わないんだけど、出前の寿司はキャンセルできなかったみたいなんだ。持って帰って、史花が食べられそうなら状況なら食べろって母親に託されたから、ここに向かう途中電話をかけたんだけど。話し中で繋がらなかったから」
そう話す翔吾くんの口元には笑みが浮かんでいるけれど、私を見据える彼の目は少しも笑っていない。その目が怖くて、スマホを持ったままの手が冷えた。
「ご、ごめん。家に着いたあと、すぐにお母さんから電話がかかってきてて」
翔吾くんに疑われていると思った私は、咄嗟に嘘をついてしまった。
「お母さん?」
「そう。さっき、お母さんに頼まれて必要なものを一週間分まとめて買い物してきたんだけど、私が片付けた場所がいつもの置き場所と違ってわからなかったみたいで……。それで」
私の口から、自分でも恐ろしいくらいの嘘の言い訳がするすると出てくる。けれど内心はとてもドキドキしていて、嘘が見抜かれてしまわないか気が気ではなかった。
「ふーん、それならいいけど」
低い声でつぶやいた翔吾くんが、私の嘘をほんとうに信じてくれているかどうかはわからない。
「せっかく持ってきたし、寿司食べる?」
「あ、うん……」
翔吾くんが、食卓の上でお寿司の皿を包んでいた風呂敷を広げる。
翔吾くんのご両親が頼んでくれたお寿司は、ネタが大きく豪勢だった。それを、翔吾くんとふたりで食卓で向き合って食べる。
「お寿司、おいしいね」
お寿司を食べているあいだ、私のほうからいろいろと話しかけてみたけれど、翔吾くんは終始無表情だった。
ここ最近は付き合ったばかりの頃のように機嫌良く笑っていた翔吾くんが、むすっと黙り込むのはひさしぶりだ。
私がアツくんと電話をしていたことで翔吾くんを怒らせてしまったことは明白で。自分の失態を後悔するとともに、憂鬱な気持ちになる。
きっと明日から、また私の浮気を疑う翔吾くんからの抜き打ち検査が再開するのだろう。
翔吾くんといると、疲れる……。
重たい空気のなかでいただくお寿司は、口の中でもたついて。食べるのが苦しかった。
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