完璧御曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます
騙したの?
小さいお鍋に、お湯をぐらぐら沸かす。このお鍋しかないようだったから、郁美は買ってきたパスタをぱきんと折って投入した。柔らかくなった所をすかさず、菜箸でかき混ぜる。銀の泡に翻弄され、金糸のようにパスタが鍋の中で舞う。じゅうじゅう言っている隣のフライパンに、ソースの仕上げのルッコラを散らして蓋をし、ちらりと時計を見る。
「あと5分後に、できますから」
「手慣れたもんだな」
アイランドキッチン越しに、花園はじいっと郁美を見つめていた。その誉め言葉は屈託ないものだったが、そんなに見つめられると、居心地が悪い。
「……大したものじゃないですが、胃には優しいかなと」
「ふうん」
頬杖をついた花園は、相変わらず目をそらさない。郁美はとうとう根を上げた。
「そこでじっと見てられると……その、緊張します」
すると花園は、少し唇を尖らせた。
「ねぇ、そろそろ敬語やめない? 俺、年下だよ」
「……年下ですが、上司です」
花園はふと郁美から顔をそらして、ぽつんとつぶやいた。
「もし、俺が上司じゃなかったら? 一斤屋で出会ってなかったら、付き合ってた?」
その発言に、郁美は笑って首を振った。
「お仕事以外で、彰さんみたいな立場の人と知り合う機会なんて、ないですよ」
「だから、もしもの話。合コンで俺がいたら?」
「う~ん……想像つかないですね……」
ふたたびじっと見つめられて、郁美はたじろいだ。が、真剣に取る必要もないだろう。ただの雑談だ。
郁美はゆで上がったパスタをソースに搦めながら、言った。
「もしそんな場所に彰さんがいたら――素敵だなって思うかもしれません。で、多分話しかけられずに帰ります」
フォークを添えて、出来上がったパスタのお皿を、ソファの前のてテーブルに置く。
「お待たせしました。どうぞ食べてください」
白い湯気越しに、花園は期待に満ちた顔でお皿に目を落とした。その目はキラキラしている。
「いただきます」
「お口にあうといいんですが……」
郁美も隣に腰かけ、パスタを口に運んだ。とうがらしのぴりっとした辛さと、ほどよい塩気。今日もまずまずの出来栄えだ。こっそり花園を覗いてみると、彼はお皿を持って夢中でもぐもぐ食べていた。部屋着を着てそんな風に過ごしていると、彼も年相応の男の子という感じがして、郁美はふっと肩の力が抜けた。
「美味しかった。ごちそうさまです」
こういう挨拶は律儀な花園は、きちんと手を合わせてそう言った。郁美はティッシュを差し出した。
「口の端、ソースついてますよ」
「え、どこ」
「ここです」
わからないようだったので、郁美は手を伸ばしてふいてあげた。すると花園がくすぐったそうに笑う。
「郁美って、結構世話焼きだよな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
そう言って、花園はお皿を持ち上げた。
「洗うのは、俺がするよ。テレビでも見てろよ」
一緒にご飯を食べて、テレビを見ながら少し肩の力を抜いて。
そんな風に過ごしていたら、あっという間に昼下がりの時間は過ぎてしまった。花園はふうとため息をついて、身支度を始めた。シャワーに入ったあと、スーツ姿の彼が突然出てきて、郁美はその変化に思わずドキッとした。
(あ……いつもの花園さんに、戻った)
細身のストライプの入ったスーツに、鮮やかな水色に太目の縞の入ったネクタイ。いつも一斤屋で見せている姿。
(ちょっと悔しいけど……いつも似合うものを着てるんだよね)
伊達に紳士服の店員をしているわけじゃない。郁美は彼を素直に褒めた。
「彰さんのスーツは、いつもセンスがいいですね。どんなものを着てきても、似合っていて」
「そうかな」
「はい。仕立てがいいだけじゃなくて……自分のこだわりがあって選んでいるんだなってわかります」
そう言う郁美を、花園はふいに抱きしめた。
「……行きたくないな」
珍しく、弱音だ。郁美は優しく彼の肩を撫でた。
「お疲れさまです、ほんとに」
「……帰ってきたら、また郁美が居ればいいのに」
答えに窮する郁美だったが、花園はなおも言った。
「そしたら……俺、どんなことでも頑張れる気がする」
郁美は彼の手をぎゅっと掴んだ。
「無理はいけませんよ。お付き合いなので難しいかもしれませんが……ちゃんと身体の事、考えて飲んでくださいね」
「うん……」
そのまま花園は言葉を途切れさせた。郁美は頭にあった提案を、口に出してみた。
「来週の週末も、ご飯を作りにきましょうか」
「え……」
「お弁当を免除してもらう代わりに。彰さんの予定が会えば、ですが」
すると花園は、郁美の肩をぎゅっと掴んで顔を覗き込んだ。
「うん! そうしてほしい!」
その顔はぱっと光ように明るく、郁美には眩しいほどだった
「じゃあ、出ましょうか」
郁美と花園は、一緒にマンションを出て、駅で別れた。帰りの電車に揺られながら、郁美の胸の中に、今までになかった気持ちが生まれていた。
(……あんな風に、喜ぶ人だったんだな)
スーパーでプリンを選ぶ姿も、パスタを頬張る笑顔も。郁美は今日、初めて見た。そしてこちらが彼の本当の姿なんじゃないかと、ふと思ったのだ。
今までの意地悪な態度の数々を、忘れたわけではない。だけれど花園はきっと、今まで素直に甘えたり、助けを求める事ができなかったのだ。一人で辛い事を抱え込み、それでも誰かに助けてもらいたい気持ちはどんどん膨れ上がり、でも誰にもそれを伝えられずに、求める気持ちばかり肥大してねじくれていって。
(やっと今、私に受け入れられて……素直になってくれたのかな)
彼のその不器用さを、悪だと切り捨てる事は、郁美にはできなかった。
(心がぽっきり折れたら、もう治らないもの。そうなる前に、誰かに助けてもらう方が良いに決まってる)
その辛さを、郁美は良く知っている。だから花園に対して、同情心を抱いてしまったのだった。彼もまた、弱った顔を見せられない厳しい環境で、長年戦い続けてきたのかもしれない。自分や、淳史と同じように。
(……なら、出来る限り優しくしてあげよう。だってやっぱり、優しくし合うのが、いいもの)
誰だって、優しくされれば嬉しいのだ。今日の花園の素直な笑顔を思い出して、郁美も人知れず笑みを浮かべた。
(私も……ちょっと嬉しかったもの)
『やさしさ』の効用は、してもらう側だけにあるのではない。
ご飯を作ってあげる。気にかけてあげる。そんな些細な親切でも、受け取って喜んでもらえれば、してあげた方も嬉しくなるものだ。
喜んでくれた分、相手をもっと気にかけてあげたくなるものだ。
(……来週は、何を作ってあげようかな。また、喜んでほしいな)
頭の中であれこれレシピを考えながら、郁美は穏やかな気持ちで帰宅したのだった。
週明け出社すると、従業員用の入り口の裏側で、花園が待っていた。
「おはようございます」
まるで他人のように挨拶しながらも、郁美は彼を見上げた。
(体調、大丈夫?)
他の人も通るので、あまり親しくは話せない。が。郁美のそのまなざしで、花園は何を聞きたいか分かったようだった。
(大丈夫だ)
わずかにうなずくその表情は平静だったが、目が嬉し気に笑っていた。ふとすれ違いざまに、彼が何かを郁美の手に押し付けた。
(えっ、何?)
見てみたら、小さな袋の中に、ワン太ちゃんのマスコットが入っていた。
(これ……)
くれるってこと?そう思って郁美は顔を上げたが、すでに花園は先へ行っていた。
郁美はマスコットをまじまじと見た。愛らしくて、ちょっととぼけた顔のワン太ちゃん。
「ふふ……」
郁美は笑いながら、ふわふわのそれを鞄にしまった。月曜日の朝、なんとなく幸先が良い。一週間の良いスタートを切れたような、そんな気がした。
しかし、その期待は的外れだったようだ。郁美は昼休み、それを思い知った。
「ちょっと中村さん、いいかしら」
例の千鶴さんに呼び出されて、郁美はバックヤードに足を踏み入れた。郁美は努めて平静を装って聞いた。
「はい、何でしょうか」
「あなた、彰さんとお付き合いしているの?」
こんな事になるかもしれないと予測していた郁美は即座に否定した。
「いいえ。まったく、そんな事はありませんが」
「でも、土曜日に彰のマンションに居たのはあなたよね?」
彼女はギッと郁美を睨みつけていた。とてもじゃないが、嘘をつける雰囲気ではない。
「そう、ですが……花園さんが体調を崩していのたので、」
「はっ。白々しい嘘……。彰さんも、なんでこんな……」
「はい?」
聞き返した郁美に、彼女は腕を組んで言い放った。
「あのね、彼は私の婚約者なの。周りをちょろちょろするの、いい加減にやめてもらってほしいんだけど」
それは初耳だった。
「……そうなんですか?」
聞き返した郁美に、千鶴は勝ち誇ったように顎をそびやかした。
「そうよ。彼から聞いてないの? まぁそうでしょうね。遊び相手に律儀にそんな事、言うわけないもの」
――裏切られた。郁美の頭の中に、なぜだかそんな言葉が浮かんだ。
(花園さん、婚約者がいるなんて、一言もそんな事……)
そこで、郁美は千鶴の言葉の意味が分かった。
(そうだ。この人の言う通りだ。遊び相手セフレに、そんな事いちいち言うわけがない。逃げられるもの……)
郁美は冷静な表情を保ったまま、ぐっと拳を握った。
(もし、この人の言う事が本当だとしたら)
自分は人としてやってはいけない事を、知らずに行ってしまった事になる。
(他人の婚約者に、手を出すなんて)
郁美は麻痺したような気持ちで、彼女に向かって頭を下げた。
「そうとは知りませんでした。誤解を招くような行動をしてすみません」
彼女はにっこりと笑った。
「わかってくれればいいの。もう二度と、彼と二人きりになるような真似はよしてね」
「……はい」
「話が早くて助かるわ。それなら私も、貴女の行為は水に流す事にするわ。今後は気を付けてね」
「はい」
風切るようにして、つかつかと彼女は去っていった。なんだかどっと疲れた郁美は、ため息をついた。
(……婚約者が、いたなんて)
花園に対して、怒りにも似た思いが沸く。しかし郁美はそれを抑えて、まず理性的に考えた。
(知らないうちに、人の婚約者に手を出した事になっちゃう……)
郁美がそんな事をしたという話が広まれば、この職場にとても居づらくなるだろう。何しろ相手があのマヌカン様の千鶴なのだから。郁美の口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
(花園さんは……私の生活とか、仕事とか……そんな事、どうでもいいと思っているって事ね)
婚約者がいるという事を黙っているなんて、あまりにも悪質だ。今後一切、花園との接触は断らなくては。たとえ脅されたって、もう聞けない。借金は、時間がかかってもちゃんと返しますと伝えればいい。仕事の方が大事だ。
郁美は携帯を取り出した。しかし、花園の番号をタップする寸前に、その指は止まった。
(ほんとに……千鶴さんは婚約者、なのかな)
ふとそんな疑問がよぎる。本当に婚約者ならば、休日にランチに誘われれば彼女を優先するはずじゃないだろうか。お弁当だって、郁美のなどより千鶴の作ったものを食べるんじゃないだろうか。
しかし郁美は、すぐにその考えを切り捨てた。
(馬鹿な期待はよしなさい。だって土曜日は……遊び相手の私が先に部屋にいたんだもの)
ドアを開けて鉢合わせれば、当然修羅場になる。花園は郁美を優先したわけではなく、あの場でトラブルが起きないように行動しただけなのだ。訪ねてきたのが郁美なら、きっと郁美の方が追い返されていたはずだ。
お弁当だって、郁美が先に約束をしていたから、きっとそれだけの話だ。
(けど……ずっと……嘘、ついてたんだ)
郁美の作ったパスタを美味しそうに食べた時も。『郁美が待っていてくれれば、頑張れるかもしれない』と言った時も。
花園には、婚約者がいたのだ。
(……本当に?)
素直な花園を思い出すと、そんな思いが郁美の頭によぎる。
携帯を持つ手が、震える。千鶴の言う事を、花園に確認するのが怖い。
彼はなんて言い訳するんだろう。謝るだろうか。それとも『そうだよ、千鶴が俺の婚約者だよ。言う必要あった?』と、あの意地悪な顔で言うのだろうか。
郁美の胸が、ひゅっと冷たくなる。ナイフを突きつけられたかのような、恐怖。
そうだ――怖いのだ。彼にそんな事を言われたら、きっと郁美は傷ついてしまう。
(……優しくしてあげよう、って……思ったばっかりだったから)
彼は本当は、意地悪な人なんかじゃない。苦しんでいるから、助けてあげなければ。そう思いなおした郁美の気持ちを、おもいきり踏みつけられてしまったような心地だった。
彼が見せた無邪気な笑顔を、郁美はすっかり信じてしまっていたのだった。自分だけに見せてくれた、と愚かにも思ってしまったのだ。
(こんな事になるなら……やっぱり、優しくなんてしない方がよかった。あの人だって、なんで私に……あんな思わせぶりなこと)
花園のあのまなざしを思い出すと、身体が震えそうになる。
――俺の名前を呼んで。
――もっと一緒にいて
――俺の事、ちょっとでも、好き?
その必死の眼差しに、震える唇。
花園の意地悪な顔の裏に『何か』があると思い込み、郁美はいつの間にか、心が傾いてしまっていたのだ。
(馬鹿みたい……。あれもぜんぶ、嘘だったんだ)
あんなに『遊びだ』と自分に言い聞かせていたというのに。信じてしまった自分自身が憎たらしい。
郁美は重苦しいため息を最後に一つついて、携帯をしまった。
花園に真実を聞くのも怖いが、かといってまた平気な顔で会うことなんてできない。
(とりあえず……保留だ。今は仕事。後で、考えよう)
重たい足取りで、郁美は仕事場へ戻った。
「あと5分後に、できますから」
「手慣れたもんだな」
アイランドキッチン越しに、花園はじいっと郁美を見つめていた。その誉め言葉は屈託ないものだったが、そんなに見つめられると、居心地が悪い。
「……大したものじゃないですが、胃には優しいかなと」
「ふうん」
頬杖をついた花園は、相変わらず目をそらさない。郁美はとうとう根を上げた。
「そこでじっと見てられると……その、緊張します」
すると花園は、少し唇を尖らせた。
「ねぇ、そろそろ敬語やめない? 俺、年下だよ」
「……年下ですが、上司です」
花園はふと郁美から顔をそらして、ぽつんとつぶやいた。
「もし、俺が上司じゃなかったら? 一斤屋で出会ってなかったら、付き合ってた?」
その発言に、郁美は笑って首を振った。
「お仕事以外で、彰さんみたいな立場の人と知り合う機会なんて、ないですよ」
「だから、もしもの話。合コンで俺がいたら?」
「う~ん……想像つかないですね……」
ふたたびじっと見つめられて、郁美はたじろいだ。が、真剣に取る必要もないだろう。ただの雑談だ。
郁美はゆで上がったパスタをソースに搦めながら、言った。
「もしそんな場所に彰さんがいたら――素敵だなって思うかもしれません。で、多分話しかけられずに帰ります」
フォークを添えて、出来上がったパスタのお皿を、ソファの前のてテーブルに置く。
「お待たせしました。どうぞ食べてください」
白い湯気越しに、花園は期待に満ちた顔でお皿に目を落とした。その目はキラキラしている。
「いただきます」
「お口にあうといいんですが……」
郁美も隣に腰かけ、パスタを口に運んだ。とうがらしのぴりっとした辛さと、ほどよい塩気。今日もまずまずの出来栄えだ。こっそり花園を覗いてみると、彼はお皿を持って夢中でもぐもぐ食べていた。部屋着を着てそんな風に過ごしていると、彼も年相応の男の子という感じがして、郁美はふっと肩の力が抜けた。
「美味しかった。ごちそうさまです」
こういう挨拶は律儀な花園は、きちんと手を合わせてそう言った。郁美はティッシュを差し出した。
「口の端、ソースついてますよ」
「え、どこ」
「ここです」
わからないようだったので、郁美は手を伸ばしてふいてあげた。すると花園がくすぐったそうに笑う。
「郁美って、結構世話焼きだよな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
そう言って、花園はお皿を持ち上げた。
「洗うのは、俺がするよ。テレビでも見てろよ」
一緒にご飯を食べて、テレビを見ながら少し肩の力を抜いて。
そんな風に過ごしていたら、あっという間に昼下がりの時間は過ぎてしまった。花園はふうとため息をついて、身支度を始めた。シャワーに入ったあと、スーツ姿の彼が突然出てきて、郁美はその変化に思わずドキッとした。
(あ……いつもの花園さんに、戻った)
細身のストライプの入ったスーツに、鮮やかな水色に太目の縞の入ったネクタイ。いつも一斤屋で見せている姿。
(ちょっと悔しいけど……いつも似合うものを着てるんだよね)
伊達に紳士服の店員をしているわけじゃない。郁美は彼を素直に褒めた。
「彰さんのスーツは、いつもセンスがいいですね。どんなものを着てきても、似合っていて」
「そうかな」
「はい。仕立てがいいだけじゃなくて……自分のこだわりがあって選んでいるんだなってわかります」
そう言う郁美を、花園はふいに抱きしめた。
「……行きたくないな」
珍しく、弱音だ。郁美は優しく彼の肩を撫でた。
「お疲れさまです、ほんとに」
「……帰ってきたら、また郁美が居ればいいのに」
答えに窮する郁美だったが、花園はなおも言った。
「そしたら……俺、どんなことでも頑張れる気がする」
郁美は彼の手をぎゅっと掴んだ。
「無理はいけませんよ。お付き合いなので難しいかもしれませんが……ちゃんと身体の事、考えて飲んでくださいね」
「うん……」
そのまま花園は言葉を途切れさせた。郁美は頭にあった提案を、口に出してみた。
「来週の週末も、ご飯を作りにきましょうか」
「え……」
「お弁当を免除してもらう代わりに。彰さんの予定が会えば、ですが」
すると花園は、郁美の肩をぎゅっと掴んで顔を覗き込んだ。
「うん! そうしてほしい!」
その顔はぱっと光ように明るく、郁美には眩しいほどだった
「じゃあ、出ましょうか」
郁美と花園は、一緒にマンションを出て、駅で別れた。帰りの電車に揺られながら、郁美の胸の中に、今までになかった気持ちが生まれていた。
(……あんな風に、喜ぶ人だったんだな)
スーパーでプリンを選ぶ姿も、パスタを頬張る笑顔も。郁美は今日、初めて見た。そしてこちらが彼の本当の姿なんじゃないかと、ふと思ったのだ。
今までの意地悪な態度の数々を、忘れたわけではない。だけれど花園はきっと、今まで素直に甘えたり、助けを求める事ができなかったのだ。一人で辛い事を抱え込み、それでも誰かに助けてもらいたい気持ちはどんどん膨れ上がり、でも誰にもそれを伝えられずに、求める気持ちばかり肥大してねじくれていって。
(やっと今、私に受け入れられて……素直になってくれたのかな)
彼のその不器用さを、悪だと切り捨てる事は、郁美にはできなかった。
(心がぽっきり折れたら、もう治らないもの。そうなる前に、誰かに助けてもらう方が良いに決まってる)
その辛さを、郁美は良く知っている。だから花園に対して、同情心を抱いてしまったのだった。彼もまた、弱った顔を見せられない厳しい環境で、長年戦い続けてきたのかもしれない。自分や、淳史と同じように。
(……なら、出来る限り優しくしてあげよう。だってやっぱり、優しくし合うのが、いいもの)
誰だって、優しくされれば嬉しいのだ。今日の花園の素直な笑顔を思い出して、郁美も人知れず笑みを浮かべた。
(私も……ちょっと嬉しかったもの)
『やさしさ』の効用は、してもらう側だけにあるのではない。
ご飯を作ってあげる。気にかけてあげる。そんな些細な親切でも、受け取って喜んでもらえれば、してあげた方も嬉しくなるものだ。
喜んでくれた分、相手をもっと気にかけてあげたくなるものだ。
(……来週は、何を作ってあげようかな。また、喜んでほしいな)
頭の中であれこれレシピを考えながら、郁美は穏やかな気持ちで帰宅したのだった。
週明け出社すると、従業員用の入り口の裏側で、花園が待っていた。
「おはようございます」
まるで他人のように挨拶しながらも、郁美は彼を見上げた。
(体調、大丈夫?)
他の人も通るので、あまり親しくは話せない。が。郁美のそのまなざしで、花園は何を聞きたいか分かったようだった。
(大丈夫だ)
わずかにうなずくその表情は平静だったが、目が嬉し気に笑っていた。ふとすれ違いざまに、彼が何かを郁美の手に押し付けた。
(えっ、何?)
見てみたら、小さな袋の中に、ワン太ちゃんのマスコットが入っていた。
(これ……)
くれるってこと?そう思って郁美は顔を上げたが、すでに花園は先へ行っていた。
郁美はマスコットをまじまじと見た。愛らしくて、ちょっととぼけた顔のワン太ちゃん。
「ふふ……」
郁美は笑いながら、ふわふわのそれを鞄にしまった。月曜日の朝、なんとなく幸先が良い。一週間の良いスタートを切れたような、そんな気がした。
しかし、その期待は的外れだったようだ。郁美は昼休み、それを思い知った。
「ちょっと中村さん、いいかしら」
例の千鶴さんに呼び出されて、郁美はバックヤードに足を踏み入れた。郁美は努めて平静を装って聞いた。
「はい、何でしょうか」
「あなた、彰さんとお付き合いしているの?」
こんな事になるかもしれないと予測していた郁美は即座に否定した。
「いいえ。まったく、そんな事はありませんが」
「でも、土曜日に彰のマンションに居たのはあなたよね?」
彼女はギッと郁美を睨みつけていた。とてもじゃないが、嘘をつける雰囲気ではない。
「そう、ですが……花園さんが体調を崩していのたので、」
「はっ。白々しい嘘……。彰さんも、なんでこんな……」
「はい?」
聞き返した郁美に、彼女は腕を組んで言い放った。
「あのね、彼は私の婚約者なの。周りをちょろちょろするの、いい加減にやめてもらってほしいんだけど」
それは初耳だった。
「……そうなんですか?」
聞き返した郁美に、千鶴は勝ち誇ったように顎をそびやかした。
「そうよ。彼から聞いてないの? まぁそうでしょうね。遊び相手に律儀にそんな事、言うわけないもの」
――裏切られた。郁美の頭の中に、なぜだかそんな言葉が浮かんだ。
(花園さん、婚約者がいるなんて、一言もそんな事……)
そこで、郁美は千鶴の言葉の意味が分かった。
(そうだ。この人の言う通りだ。遊び相手セフレに、そんな事いちいち言うわけがない。逃げられるもの……)
郁美は冷静な表情を保ったまま、ぐっと拳を握った。
(もし、この人の言う事が本当だとしたら)
自分は人としてやってはいけない事を、知らずに行ってしまった事になる。
(他人の婚約者に、手を出すなんて)
郁美は麻痺したような気持ちで、彼女に向かって頭を下げた。
「そうとは知りませんでした。誤解を招くような行動をしてすみません」
彼女はにっこりと笑った。
「わかってくれればいいの。もう二度と、彼と二人きりになるような真似はよしてね」
「……はい」
「話が早くて助かるわ。それなら私も、貴女の行為は水に流す事にするわ。今後は気を付けてね」
「はい」
風切るようにして、つかつかと彼女は去っていった。なんだかどっと疲れた郁美は、ため息をついた。
(……婚約者が、いたなんて)
花園に対して、怒りにも似た思いが沸く。しかし郁美はそれを抑えて、まず理性的に考えた。
(知らないうちに、人の婚約者に手を出した事になっちゃう……)
郁美がそんな事をしたという話が広まれば、この職場にとても居づらくなるだろう。何しろ相手があのマヌカン様の千鶴なのだから。郁美の口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
(花園さんは……私の生活とか、仕事とか……そんな事、どうでもいいと思っているって事ね)
婚約者がいるという事を黙っているなんて、あまりにも悪質だ。今後一切、花園との接触は断らなくては。たとえ脅されたって、もう聞けない。借金は、時間がかかってもちゃんと返しますと伝えればいい。仕事の方が大事だ。
郁美は携帯を取り出した。しかし、花園の番号をタップする寸前に、その指は止まった。
(ほんとに……千鶴さんは婚約者、なのかな)
ふとそんな疑問がよぎる。本当に婚約者ならば、休日にランチに誘われれば彼女を優先するはずじゃないだろうか。お弁当だって、郁美のなどより千鶴の作ったものを食べるんじゃないだろうか。
しかし郁美は、すぐにその考えを切り捨てた。
(馬鹿な期待はよしなさい。だって土曜日は……遊び相手の私が先に部屋にいたんだもの)
ドアを開けて鉢合わせれば、当然修羅場になる。花園は郁美を優先したわけではなく、あの場でトラブルが起きないように行動しただけなのだ。訪ねてきたのが郁美なら、きっと郁美の方が追い返されていたはずだ。
お弁当だって、郁美が先に約束をしていたから、きっとそれだけの話だ。
(けど……ずっと……嘘、ついてたんだ)
郁美の作ったパスタを美味しそうに食べた時も。『郁美が待っていてくれれば、頑張れるかもしれない』と言った時も。
花園には、婚約者がいたのだ。
(……本当に?)
素直な花園を思い出すと、そんな思いが郁美の頭によぎる。
携帯を持つ手が、震える。千鶴の言う事を、花園に確認するのが怖い。
彼はなんて言い訳するんだろう。謝るだろうか。それとも『そうだよ、千鶴が俺の婚約者だよ。言う必要あった?』と、あの意地悪な顔で言うのだろうか。
郁美の胸が、ひゅっと冷たくなる。ナイフを突きつけられたかのような、恐怖。
そうだ――怖いのだ。彼にそんな事を言われたら、きっと郁美は傷ついてしまう。
(……優しくしてあげよう、って……思ったばっかりだったから)
彼は本当は、意地悪な人なんかじゃない。苦しんでいるから、助けてあげなければ。そう思いなおした郁美の気持ちを、おもいきり踏みつけられてしまったような心地だった。
彼が見せた無邪気な笑顔を、郁美はすっかり信じてしまっていたのだった。自分だけに見せてくれた、と愚かにも思ってしまったのだ。
(こんな事になるなら……やっぱり、優しくなんてしない方がよかった。あの人だって、なんで私に……あんな思わせぶりなこと)
花園のあのまなざしを思い出すと、身体が震えそうになる。
――俺の名前を呼んで。
――もっと一緒にいて
――俺の事、ちょっとでも、好き?
その必死の眼差しに、震える唇。
花園の意地悪な顔の裏に『何か』があると思い込み、郁美はいつの間にか、心が傾いてしまっていたのだ。
(馬鹿みたい……。あれもぜんぶ、嘘だったんだ)
あんなに『遊びだ』と自分に言い聞かせていたというのに。信じてしまった自分自身が憎たらしい。
郁美は重苦しいため息を最後に一つついて、携帯をしまった。
花園に真実を聞くのも怖いが、かといってまた平気な顔で会うことなんてできない。
(とりあえず……保留だ。今は仕事。後で、考えよう)
重たい足取りで、郁美は仕事場へ戻った。
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