完璧御曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます
弁当戦線、異常あり
花園にお弁当を渡すようになってから、幾日かが過ぎた。一緒に食べる日もあれば、彼はお弁当だけもらってどこぞへと仕事へ向かってしまう事もある。今日なんか、秘書を名乗る男性がお昼時に訪ねてきて、わざわざお弁当を預かっていった。
「たしかにお預かりしました。ありがとうございます、中野様」
背は高いが、どこか親しみやすい雰囲気の人だったので、郁美は微笑んで頭を下げた。
「こんなもののためにご足労をかけまして、すみません」
「いえいえ、とんでもないです。このところ、ぼっちゃ……彰さんは、昼食が唯一の楽しみのようで」
そんなに忙しいのだろうか。いけ好かない奴だが、郁美は少し心配になった。
「そうですか……。ならあの、無理してこんなお弁当で、我慢しなくとも」
郁美がそう言うと、秘書さんはちょっと目をまるくしたあと、苦笑した。
「そうそう、こちらをお渡しするようにと彰さんに言われていたんだった。材料費だそうです」
差し出された分厚い封筒を見て、郁美は首を振って固辞した。
「いえいえ、大丈夫です! もともとついでなので、そんなに費用はかかっていません」
すると彼は困ったように言った。
「貰っていただけないと、私が彰さんに叱られてしまいますので……どうか」
郁美は少し迷ったのち、封筒から一枚だけお札を貰った。
「これくらいで、十分です。花園さんには、そうお伝えください」
すると彼も、それ以上は勧めなかった。
「わかりました。では中野様、失礼いたしました。午後もお仕事、頑張ってください」
「は、はぁ……」
颯爽と去っていく彼をぼんやり見送る郁美の後ろから、かつ、かつ、とハイヒールの音がした。振り返ると、いかにもノーブルな、ツイードのスーツを着こなした女性が立ってこちらをじっと見ていた。
(おお、マヌカン様だ)
彼女の邪魔になる前に、郁美はさっとロッカールームの入り口からどいた。彼女が入ってから、自分は出ればいい。
(あれ、けどマヌカン様がこんな所に何の用かな)
彼女らは、選ばれしアパレル店員だ。郁美のように百貨店に雇われ売り場に配属される店員とは違い、マヌカンは高級ブランド専属の店員で、各ブランドから百貨店店舗に派遣されている。ブランドを熟知し、裕福な顧客を相手に莫大なノルマを売り上げるのが仕事の彼女らは、美しいだけではなく、そのブランドを着こなすセンスや、イメージを損なわない気品ある接客が求められる。
――ので、同じ職場に勤める同僚とはいえ、郁美や加奈からすると、とても気軽に挨拶できるような相手ではなかった。彼女らとは休憩室もロッカーも別だ。少し不思議に思いつつ、そそくさと郁美は出て行った。
その背中をマヌカンがじっと見つめているのに、郁美は気が付かなかった。
休憩から戻ると、加奈が小走りで郁美のもとへと来た。
「ん? 何かあった?」
郁美はちらりと店を見回したが、お客は誰もいない。加奈は何かうずうずしているようだった。
「郁美さん……私今日、マヌカン様のボスとご飯いってきたんですっ」
その言葉に、郁美は目を丸くした。マヌカンの中のボスとは、さっきロッカー室ですれ違ったツイードの彼女その人だ。
「それで聞かれたんですよ、中野さんのことっ」
「え、私!? な、なにを聞かれたの?」
予想もしていなかった発言に、郁美は驚いた。何かしでかしてしまっただろうか。背中が少し寒くなる。
「それが、褒めてたんです。中野さんってやり手なんでしょうって。中野さんが入ってから、ここ、売り上げ伸びてるのよね?って……」
「いや……それは、私じゃなくて主任や三浦さんみんなの力だと思うけど…」
いまいち話が見えないなと思いつつ、郁美は加奈の話に耳を傾けた。
「それで、独身なのかとか、恋人はいるのか、とか聞かれて……彼氏はわかんないけど、結婚はしてないって言っちゃいました。中野さんのプライベートを、ゴメンなさい。すっごく聞かれて……」
すこししょぼんとする彼女に、郁美は首を振った。
「いいよそれは。別に隠しているわけでもないし……」
すると加奈は、奥歯にものが詰まったように言いよどんだ。
「その……あの……中野さん、花園さんと付き合ってるって、本当なんですか?」
それを聞いて、郁美はマヌカン様が加奈に聞きたかった事を察した。どこまで知られているのかはわからないが、彼女は郁美と花園の仲を疑っているのだ。
(お弁当を渡していたの……誰かに見られていたのかな)
けれど、断じて付き合っているという関係ではない。ここははっきり否定しておいた方がいいだろう。
花園は、あくまでも外面はいい。その上、若くて顔が綺麗で、御曹司なのだ。この百貨店にいる女性全員に、大なり小なりよく思われている事は事実だった。
(もし、マヌカン様が花園を狙っている……とかだったとしたら)
考えなくても、面倒な事になると言う事がわかる。
「ううん、付き合ってるわけがないじゃない。とんでもないよ」
「えっ、そうなんですか……?」
だが、こうなってしまった以上、お弁当の事は下手に隠さないほうがいいだろう。
「そう。ただ、頼まれてお弁当を作ってはいる。なんでもマーケティングのために、庶民の味を研究したいんですって。仕事として、ちゃんと費用ももらっているの」
「ええ?! お弁当を? それって……」
「でもいつも一緒に食べてるわけじゃないから、本当にあの人が食べてるのかわからないんだよね。食品企画の部署に回されてるのかも……」
あくまでも仕事で、私的に親しいわけではないのだと郁美は強調した。
「へぇ……そ、そうなんですね」
郁美の説明に押されたのか、加奈は納得したようだった。郁美はさらにダメ押しした。
「ほんとをいうと、ちょっと大変なんだよね。誰か料理上手な人に代わってほしいくらい」
「中野さんも、大変ですね。私、お料理とかぜんぜんだからなぁ……」
すっかりいつもの調子に戻った加奈にほっとしながら、二人は午後の業務に取り掛かり始めた。もくもくとガラスを磨きながら、郁美は心穏やかではなかった。
百貨店は、女性が多い職場だ。噂は一瞬で広がると思ったほうがいい。
(もし、私と花園さんが付き合ってる、なんて噂、皆が知ったら……)
もう、面倒な気配しかない。いや、実際マヌカンの彼女に勘ぐられて、面倒な事になりはじめているのだ。
(……冗談じゃないよ)
自分は、仕事をするために来ているのだ。付き合うだのなんだの色恋沙汰で、仕事に支障が出てはかなわない。なぜなら郁美は、二人きりとはいえ、一家の大黒柱なのだから。郁美が稼げなくなっては、弟も自分も生活していけなくなる。
(……もうお弁当、やめたいな)
しかし、花園は郁美の言い分など聞いてくれないだろう。ガラスケースを磨き続けながら、郁美はどうすればいいか考えた。
が、いい方法は思いつかないおかげでガラスケースは、いつも以上にすっかりピカピカになってしまった。
しかし、思わぬ方向で郁美の悩みは解決される事となった。あくる日こそこそとお弁当を隠し持って休憩室に向かったら、そこには先客が悠々と座っていたのだ。
(あっ、マヌカン様……)
今日はパンツスーツではなく、いくらかフェミニンでモードなワンピースを着ていた。彼女はアイラインが完璧に惹かれた麗しい目を、ちらりと郁美にくれた。その冷たい目は、言葉よりも雄弁だった。
(何してるの? さっさと出て行ってちょうだい)
そのまなざし一つで、郁美は高貴な彼女の部屋に無遠慮にも勝手に立ち入った泥棒のような、恐れ多い気持ちになった。さすがはマヌカン様、だ。
彼女の前には、きちんと包まれた重箱らしきものがどんとおいてあった。大きな箱をつつむアイボリーのその布は、ひと目であのブランドのものとわかるシックなものだった。きっと中身も、さぞ豪華なのだろう。
それを見て、さすがの郁美も彼女の意図を察した。彼女が郁美を追い出す言葉を口にする間でもなく、郁美は軽く会釈をして休憩室から退出したのだった。
(ふぅ……なるほど。美女が自ら、お弁当を持って現れるなんて……)
花園はつくづく、いい御身分だ。そう思いながら休憩室のドアをしめると、ふと曲がり角の向こうから誰かの足音がした。
(まずい! もしや花園さん……!?)
ここで三者が鉢合わせたら、確実に面倒な事になる。郁美はとっさに再びドアを開けて、休憩室の手前のロッカールームに逃げ込んだ。部屋の隅の、カーテンがわだかまる窓際の陰にさっと身を隠す。
ドアを開けて入ってきたのは、案の定花園だった。
(うわ、ニアミス……まぁ、ここで待ち合わせしてるんだからあたり前か)
頃合いをみて、そっと外に逃げればいい。そう思いつつ、郁美は息を殺した。花園がロッカールームを抜けて、休憩室に入っていく。声が漏れ聞こえた。
「中野さ……って、あれ?」
さきほど郁美には一言も発さなかった彼女が、あでやかな声で答えた。
「お久しぶりね、彰さん」
すると、花園はくだけた声で答えた。
「ああ、千鶴さんか。同じ場所に勤めてるのに、めったに会わないですね」
どうやら二人は、名前で呼び合う仲のようだった。マヌカン様こと千鶴は、少し拗ねたように言った。
「だってあなた、五階にばっかりいるんですもの。私の居る二階になんて、ぜんぜん来なくて」
「まぁ、一応紳士服フロアに配属された事になってるんでね。ところで、中野さん来なかったですか?」
「ここには誰も来なかったけど」
「そっか……邪魔してすみません、じゃ」
(わっ、こっちくるっ)
花園が休憩室を出て行こうとしたので、郁美は逃げる機会を逸した。しかし、千鶴がそれを黙って見送るはずもない。
「あら、彰さん……。私の目の前にあるお弁当、気が付かないの?」
「えらく気合が入っていますね。千鶴さんも、自炊とかされるんですね」
郁美の前にいるときとは対照的に、彼は落ち着いた敬語で彼女に対応した。まるで、常識的な大人みたいに。
「今日はたまたま……ね。でも、作り過ぎちゃって。よかったら一緒に味見してもらえないかしら」
とても直接的な誘い文句だ。花園は、どう答えるのだろう。一瞬自分が隠れている事も忘れて、郁美は聞き耳を立てた。
「申し訳ないですが、今日は先約があって。失礼させていただきますね」
穏やかで冷静な声で彼が断わったのを見て、郁美は驚いた。
(えっ、嘘。なんで。あんな美人の誘い……)
すると、千鶴の声のトーンが変わった。
「ふぅーん。あの中野さんって人のお弁当を、受け取りにいくのね」
場の温度が、すっと下がったような気がする。しかし花園は屈託なく肯定した。
「そう。わざわざ作ってもらう約束だったものを、直前になってドタキャンするなんて心無い事はできないですから」
「それなら、明日ならいいの?」
「いや、実はずっと、彼女に頼んでいるんです」
苛立つ千鶴に対して、花園は悠然としている。郁美はだんだんハラハラしてきた。
「……なぜ、彼女なのかしら? 実は料理の腕がすごいとか?」
「いや、ごく普通ですよ。俺は……普通の食事、ってやつに興味がありまして」
「あなたほどの男の人でも――ああいう普通の、ぱっとしないタイプの女性と遊びたくなる時があるのね。気を張らなくて癒される、っていうのかしら?」
彼女の言葉は、郁美に対する棘でいっぱいだった。
「でも、あまりあの人に親切にしすぎるのもどうかと思うわ? 本気にしたら、可哀想じゃない」
すると花園は笑った。
「いいんですよ、別にそれで」
「あら、彰さんって悪い人ね。そうやってアラサー女性をもてあそんで。彼女にとっては、貴重な時間よ?」
「そんなつもりはありませんが」
彼女が立ち上がって、こちらに来る足音がする。どうやら出て行くようだ。郁美は身を固くしたが、彼女は気が付かず花園に言った。
「思い通りになる彼女が楽しいの? つまらない遊びをしているのね。それに、あなたが遊びだと知った時の彼女が、お気の毒だわ」
彼女の言いたい事が、その言葉の裏に透けていた。
――言いなりになるつまらない女なんかじゃなくて、この私の方があなたにふさわしいでしょう……?
その声は、楽し気ですらあった。しかし花園は、慇懃に返した。その声はなんの感情もこもっていない、冷たいものだった。
「繰り返しになりますが、そんなつもりは全くありませんよ。では失礼」
つかつかと花園が出て行った事がわかった。それを受けて、マヌカンの彼女も一拍遅れて出て行った。苛立つハイヒールの足音が遠ざかったのを確認して、郁美はおそるおそるカーテンの陰から出た。
(な……何か、とんでもない誤解が生まれていたような)
「たしかにお預かりしました。ありがとうございます、中野様」
背は高いが、どこか親しみやすい雰囲気の人だったので、郁美は微笑んで頭を下げた。
「こんなもののためにご足労をかけまして、すみません」
「いえいえ、とんでもないです。このところ、ぼっちゃ……彰さんは、昼食が唯一の楽しみのようで」
そんなに忙しいのだろうか。いけ好かない奴だが、郁美は少し心配になった。
「そうですか……。ならあの、無理してこんなお弁当で、我慢しなくとも」
郁美がそう言うと、秘書さんはちょっと目をまるくしたあと、苦笑した。
「そうそう、こちらをお渡しするようにと彰さんに言われていたんだった。材料費だそうです」
差し出された分厚い封筒を見て、郁美は首を振って固辞した。
「いえいえ、大丈夫です! もともとついでなので、そんなに費用はかかっていません」
すると彼は困ったように言った。
「貰っていただけないと、私が彰さんに叱られてしまいますので……どうか」
郁美は少し迷ったのち、封筒から一枚だけお札を貰った。
「これくらいで、十分です。花園さんには、そうお伝えください」
すると彼も、それ以上は勧めなかった。
「わかりました。では中野様、失礼いたしました。午後もお仕事、頑張ってください」
「は、はぁ……」
颯爽と去っていく彼をぼんやり見送る郁美の後ろから、かつ、かつ、とハイヒールの音がした。振り返ると、いかにもノーブルな、ツイードのスーツを着こなした女性が立ってこちらをじっと見ていた。
(おお、マヌカン様だ)
彼女の邪魔になる前に、郁美はさっとロッカールームの入り口からどいた。彼女が入ってから、自分は出ればいい。
(あれ、けどマヌカン様がこんな所に何の用かな)
彼女らは、選ばれしアパレル店員だ。郁美のように百貨店に雇われ売り場に配属される店員とは違い、マヌカンは高級ブランド専属の店員で、各ブランドから百貨店店舗に派遣されている。ブランドを熟知し、裕福な顧客を相手に莫大なノルマを売り上げるのが仕事の彼女らは、美しいだけではなく、そのブランドを着こなすセンスや、イメージを損なわない気品ある接客が求められる。
――ので、同じ職場に勤める同僚とはいえ、郁美や加奈からすると、とても気軽に挨拶できるような相手ではなかった。彼女らとは休憩室もロッカーも別だ。少し不思議に思いつつ、そそくさと郁美は出て行った。
その背中をマヌカンがじっと見つめているのに、郁美は気が付かなかった。
休憩から戻ると、加奈が小走りで郁美のもとへと来た。
「ん? 何かあった?」
郁美はちらりと店を見回したが、お客は誰もいない。加奈は何かうずうずしているようだった。
「郁美さん……私今日、マヌカン様のボスとご飯いってきたんですっ」
その言葉に、郁美は目を丸くした。マヌカンの中のボスとは、さっきロッカー室ですれ違ったツイードの彼女その人だ。
「それで聞かれたんですよ、中野さんのことっ」
「え、私!? な、なにを聞かれたの?」
予想もしていなかった発言に、郁美は驚いた。何かしでかしてしまっただろうか。背中が少し寒くなる。
「それが、褒めてたんです。中野さんってやり手なんでしょうって。中野さんが入ってから、ここ、売り上げ伸びてるのよね?って……」
「いや……それは、私じゃなくて主任や三浦さんみんなの力だと思うけど…」
いまいち話が見えないなと思いつつ、郁美は加奈の話に耳を傾けた。
「それで、独身なのかとか、恋人はいるのか、とか聞かれて……彼氏はわかんないけど、結婚はしてないって言っちゃいました。中野さんのプライベートを、ゴメンなさい。すっごく聞かれて……」
すこししょぼんとする彼女に、郁美は首を振った。
「いいよそれは。別に隠しているわけでもないし……」
すると加奈は、奥歯にものが詰まったように言いよどんだ。
「その……あの……中野さん、花園さんと付き合ってるって、本当なんですか?」
それを聞いて、郁美はマヌカン様が加奈に聞きたかった事を察した。どこまで知られているのかはわからないが、彼女は郁美と花園の仲を疑っているのだ。
(お弁当を渡していたの……誰かに見られていたのかな)
けれど、断じて付き合っているという関係ではない。ここははっきり否定しておいた方がいいだろう。
花園は、あくまでも外面はいい。その上、若くて顔が綺麗で、御曹司なのだ。この百貨店にいる女性全員に、大なり小なりよく思われている事は事実だった。
(もし、マヌカン様が花園を狙っている……とかだったとしたら)
考えなくても、面倒な事になると言う事がわかる。
「ううん、付き合ってるわけがないじゃない。とんでもないよ」
「えっ、そうなんですか……?」
だが、こうなってしまった以上、お弁当の事は下手に隠さないほうがいいだろう。
「そう。ただ、頼まれてお弁当を作ってはいる。なんでもマーケティングのために、庶民の味を研究したいんですって。仕事として、ちゃんと費用ももらっているの」
「ええ?! お弁当を? それって……」
「でもいつも一緒に食べてるわけじゃないから、本当にあの人が食べてるのかわからないんだよね。食品企画の部署に回されてるのかも……」
あくまでも仕事で、私的に親しいわけではないのだと郁美は強調した。
「へぇ……そ、そうなんですね」
郁美の説明に押されたのか、加奈は納得したようだった。郁美はさらにダメ押しした。
「ほんとをいうと、ちょっと大変なんだよね。誰か料理上手な人に代わってほしいくらい」
「中野さんも、大変ですね。私、お料理とかぜんぜんだからなぁ……」
すっかりいつもの調子に戻った加奈にほっとしながら、二人は午後の業務に取り掛かり始めた。もくもくとガラスを磨きながら、郁美は心穏やかではなかった。
百貨店は、女性が多い職場だ。噂は一瞬で広がると思ったほうがいい。
(もし、私と花園さんが付き合ってる、なんて噂、皆が知ったら……)
もう、面倒な気配しかない。いや、実際マヌカンの彼女に勘ぐられて、面倒な事になりはじめているのだ。
(……冗談じゃないよ)
自分は、仕事をするために来ているのだ。付き合うだのなんだの色恋沙汰で、仕事に支障が出てはかなわない。なぜなら郁美は、二人きりとはいえ、一家の大黒柱なのだから。郁美が稼げなくなっては、弟も自分も生活していけなくなる。
(……もうお弁当、やめたいな)
しかし、花園は郁美の言い分など聞いてくれないだろう。ガラスケースを磨き続けながら、郁美はどうすればいいか考えた。
が、いい方法は思いつかないおかげでガラスケースは、いつも以上にすっかりピカピカになってしまった。
しかし、思わぬ方向で郁美の悩みは解決される事となった。あくる日こそこそとお弁当を隠し持って休憩室に向かったら、そこには先客が悠々と座っていたのだ。
(あっ、マヌカン様……)
今日はパンツスーツではなく、いくらかフェミニンでモードなワンピースを着ていた。彼女はアイラインが完璧に惹かれた麗しい目を、ちらりと郁美にくれた。その冷たい目は、言葉よりも雄弁だった。
(何してるの? さっさと出て行ってちょうだい)
そのまなざし一つで、郁美は高貴な彼女の部屋に無遠慮にも勝手に立ち入った泥棒のような、恐れ多い気持ちになった。さすがはマヌカン様、だ。
彼女の前には、きちんと包まれた重箱らしきものがどんとおいてあった。大きな箱をつつむアイボリーのその布は、ひと目であのブランドのものとわかるシックなものだった。きっと中身も、さぞ豪華なのだろう。
それを見て、さすがの郁美も彼女の意図を察した。彼女が郁美を追い出す言葉を口にする間でもなく、郁美は軽く会釈をして休憩室から退出したのだった。
(ふぅ……なるほど。美女が自ら、お弁当を持って現れるなんて……)
花園はつくづく、いい御身分だ。そう思いながら休憩室のドアをしめると、ふと曲がり角の向こうから誰かの足音がした。
(まずい! もしや花園さん……!?)
ここで三者が鉢合わせたら、確実に面倒な事になる。郁美はとっさに再びドアを開けて、休憩室の手前のロッカールームに逃げ込んだ。部屋の隅の、カーテンがわだかまる窓際の陰にさっと身を隠す。
ドアを開けて入ってきたのは、案の定花園だった。
(うわ、ニアミス……まぁ、ここで待ち合わせしてるんだからあたり前か)
頃合いをみて、そっと外に逃げればいい。そう思いつつ、郁美は息を殺した。花園がロッカールームを抜けて、休憩室に入っていく。声が漏れ聞こえた。
「中野さ……って、あれ?」
さきほど郁美には一言も発さなかった彼女が、あでやかな声で答えた。
「お久しぶりね、彰さん」
すると、花園はくだけた声で答えた。
「ああ、千鶴さんか。同じ場所に勤めてるのに、めったに会わないですね」
どうやら二人は、名前で呼び合う仲のようだった。マヌカン様こと千鶴は、少し拗ねたように言った。
「だってあなた、五階にばっかりいるんですもの。私の居る二階になんて、ぜんぜん来なくて」
「まぁ、一応紳士服フロアに配属された事になってるんでね。ところで、中野さん来なかったですか?」
「ここには誰も来なかったけど」
「そっか……邪魔してすみません、じゃ」
(わっ、こっちくるっ)
花園が休憩室を出て行こうとしたので、郁美は逃げる機会を逸した。しかし、千鶴がそれを黙って見送るはずもない。
「あら、彰さん……。私の目の前にあるお弁当、気が付かないの?」
「えらく気合が入っていますね。千鶴さんも、自炊とかされるんですね」
郁美の前にいるときとは対照的に、彼は落ち着いた敬語で彼女に対応した。まるで、常識的な大人みたいに。
「今日はたまたま……ね。でも、作り過ぎちゃって。よかったら一緒に味見してもらえないかしら」
とても直接的な誘い文句だ。花園は、どう答えるのだろう。一瞬自分が隠れている事も忘れて、郁美は聞き耳を立てた。
「申し訳ないですが、今日は先約があって。失礼させていただきますね」
穏やかで冷静な声で彼が断わったのを見て、郁美は驚いた。
(えっ、嘘。なんで。あんな美人の誘い……)
すると、千鶴の声のトーンが変わった。
「ふぅーん。あの中野さんって人のお弁当を、受け取りにいくのね」
場の温度が、すっと下がったような気がする。しかし花園は屈託なく肯定した。
「そう。わざわざ作ってもらう約束だったものを、直前になってドタキャンするなんて心無い事はできないですから」
「それなら、明日ならいいの?」
「いや、実はずっと、彼女に頼んでいるんです」
苛立つ千鶴に対して、花園は悠然としている。郁美はだんだんハラハラしてきた。
「……なぜ、彼女なのかしら? 実は料理の腕がすごいとか?」
「いや、ごく普通ですよ。俺は……普通の食事、ってやつに興味がありまして」
「あなたほどの男の人でも――ああいう普通の、ぱっとしないタイプの女性と遊びたくなる時があるのね。気を張らなくて癒される、っていうのかしら?」
彼女の言葉は、郁美に対する棘でいっぱいだった。
「でも、あまりあの人に親切にしすぎるのもどうかと思うわ? 本気にしたら、可哀想じゃない」
すると花園は笑った。
「いいんですよ、別にそれで」
「あら、彰さんって悪い人ね。そうやってアラサー女性をもてあそんで。彼女にとっては、貴重な時間よ?」
「そんなつもりはありませんが」
彼女が立ち上がって、こちらに来る足音がする。どうやら出て行くようだ。郁美は身を固くしたが、彼女は気が付かず花園に言った。
「思い通りになる彼女が楽しいの? つまらない遊びをしているのね。それに、あなたが遊びだと知った時の彼女が、お気の毒だわ」
彼女の言いたい事が、その言葉の裏に透けていた。
――言いなりになるつまらない女なんかじゃなくて、この私の方があなたにふさわしいでしょう……?
その声は、楽し気ですらあった。しかし花園は、慇懃に返した。その声はなんの感情もこもっていない、冷たいものだった。
「繰り返しになりますが、そんなつもりは全くありませんよ。では失礼」
つかつかと花園が出て行った事がわかった。それを受けて、マヌカンの彼女も一拍遅れて出て行った。苛立つハイヒールの足音が遠ざかったのを確認して、郁美はおそるおそるカーテンの陰から出た。
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