完璧御曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます
獰猛だけど、無防備な
夜の歓楽街。とぼとぼ歩く郁美のバッグの中で、スマホが鳴った。
『中野さん?いまどこ』
花園だ。郁美は震える指先で返事をした。
『新宿駅前です』
『わかった、今いくから待ってて』
スマホをバックにしまい、郁美は駅前の広場の石垣に腰を下ろした。昼間の雨のせいでそこは濡れていた。が、もうどうでもよかった。
(あの人……私をどうするつもりなんだろう)
身体で払えなんて、前時代的すぎる。裸の写真でも撮って、それを盾に会社を追い出す気だろうか。それとももしかして、文字通り「臓器」で支払わせられるとか……?
死んだ魚のような目で、郁美は駅へ向かう人の群れを眺めた。家路につく人々のひとりひとりが、今は心底羨ましかった。
自分も昨日は、そんな人のひとりだったはずなのに――。
「いたいた、待った?ごめん」
かけられた声に、郁美はどんよりと花園を見上げた。暗い目の郁美とは対照的に、花園の目はなぜか嬉し気にキラキラ輝いていた。
「どう?無事返せたわけ?」
郁美は死んだ目のままうなずいた。
「返せました……」
すると花園は、拗ねたような不機嫌な表情になった。
「あのさぁ、もう少し何かないの?お、お礼とかさぁ」
そういわれて、郁美は深々と頭を下げた。仕事で習った、「最も深いお辞儀」。
「この度は助けていただいて、ありがとうございました。……お借りしたものは、時間がかかっても全額しっかりお返ししたいと思います。それまでお待ちいただけますか」
深々とお辞儀をしたまま、郁美はつづけた。
「なので、今日はどうか帰らせてください……。家が、心配で」
「何で心配?もう借金は返したんだから平気でしょ」
「ですが……」
「そんなに彼氏が気になるの?」
花園はずいっと郁美に顔を近づけた。嘘を言ったら絶対に見破ってやる、そんな顔だった。郁美は顔をそむけた。
「そ――そういうわけじゃ」
「本当に?」
「は、はい」
すると花園は郁美の手首をつかみ、立たせた。
「金なんていらないって言っただろ。俺に付き合え。50回分な」
ぐいっとひっぱられ、抵抗する間もなく郁美は手を引かれて歩いていた。心にぽっかり穴があいたような絶望感で、下腹部がうす寒くなった。
(そっか――500万と引き換えに、おもちゃになれってことなんだ)
きっとこれから、いろいろひどい事をされるんだ。でも、お金を受け取ってしまったらかには、もう逆らう事なんてできない。
嫌だった。悲しかった。だが不思議と涙は出なかった。力を持つ者に逆らったって、どうしようもない。
すでに諦めが、郁美の身体を支配しはじめていたのだ。
「ほら、入るぞ」
いつの間にか、入り口にずっしりとした塀で入り口を隠された建物の前にいた。ピカピカ光るネオンの看板。このへんは、駅から少し歩けばもうこんなホテルばかりだ。手を引かれるままに郁美はその玄関をくぐった。ガラスのドアが自動で開き、柔らかなオレンジの照明が二人を迎え入れる。
無人のロビーで開いている部屋をさっさと選び、花園は一直線にフロアを横切りエレベーターへ乗り込んだ。一番上の「6」の表示が煌々と光っている。ぼんやりとそれを眺める郁美の横顔を、花園は食い入るように見つめていた。その息遣いが荒い。
「なんですか……?」
虚ろな顔を向けて問うと、花園は獣のように郁美の身体を掻き抱いた。
「っ――」
突然、唇を重ねられる。郁美の冷たい唇を割って、荒々しく花園の舌が侵入してきた。
「っん、ふ……っ」
乱暴に舌を絡めさせられ、唇を噛まれる。痛い。不快だ。けれど郁美は文句も言わずにじっと耐えた。
「はぁ―、あ、中野……」
顔を離した花園は、なぜか必死の表情だった。
「俺もう、我慢できない」
ちょうどその時、エレベーターが到着した。
「はぁ……はぁ……ぁ、」
息切れする身体が、郁美の上に覆いかぶさる。はだけた服越しに、お互いの肌が密着する。
ベッドの上の花園は獰猛で、だけれど無防備で――。郁美の上で苦し気な呼吸をする彼から、思わず目をそらす。
(……ちょっと重い)
終わったのなら、早くどいてほしいと思いながら、郁美はおとなしく待った。しかし、花園はいっこうにどく気配がない。
「あの……大丈夫ですか」
「ん……」
花園は少し顔を上げて、郁美を見下ろした。その表情が拗ねたように歪む。
「……なんだよ、こんな時も澄ました顔してさ」
「別にそういうわけじゃ……」
その顔がさらにくしゃっとなる。
「下手だとか、早いとか思ってんだろ。どうせ」
「いや思ってませんけど……」
「じゃあ、よかった……?」
じっとうかがうような、けれどたやすく傷ついてしまいそうな濡れた目で花園は郁美を見た。
その視線をまともにくらって、郁美は少したじろいだ。
(な、なに……!?まるで私が悪いみたいな顔……)
しかし花園が、こんな顔を見せるなんて以外だ。いつもちくちく嫌味ばかり言ってくるのに。そう、この男の心ない言葉には、けっこう傷つけられた。だからこそ。
(私はあなたみたいに、意味もなく人を傷つけたりしないんだから。たとえ相手が――あなただって)
郁美はふうと息をついた。
「悪くなかったです、別に」
「ほ……ほんと?」
「痛くなかったし……でも、どいてもらえませんか。重いので」
「あ、わるい」
花園は素直に身体を起こした。ずるりと彼のものが引き抜かれ、つながっていた部分が解放される。郁美は即座に起き上がったが、彼が手を掴んだのでベッドから出れなかった。
「シャワーなら一緒に行こうよ」
郁美はベッドサイドの時計をちらりと見た。もう真夜中ちかい。弟は大丈夫だろうか。
「いえ……私はここで失礼します」
服を着始めた郁美を見て、花園は信じられないという顔をした。
「な、何で?もう電車もなくなるよ」
「まだギリいけます」
「いいじゃん……今晩は泊まってけよ。あ、お腹減った?夕食食べてないよな。あれ食べる?」
花園はテーブルの上に置いてあるメニュー表を指さした。表紙にはフルーツで飾り立てられた巨大なスイーツが派手な色合いで印刷されていた。しかし郁美は首を振った。
「花園さんはゆっくりしていってください。では」
郁美はきっぱりと言って立ち上がった。
今夜は一回やった。もう義務は果たしたはずだ。ここで夜を明かす気には到底なれなかった。
「待てよっ!」
花園もベッドから立ち上がった。
「か……彼氏んとこ、戻るのか」
「いませんよ彼氏なんて。」
「じゃあ帰らなくたっていいじゃんか」
「着替えないし」
「明日買えばいい」
「出勤前の時間にあいてる店なんてありません」
「……っ」
出て行こうとする郁美の背に、花園の声が飛ぶ。
「なんだよっ、もう少しいたっていいじゃんか……!」
「……だって今夜はもう、する事ないでしょう。」
顔は見えないが、背後で花園が息を飲んだのがわかった。
「あ……あんた、最低だっ」
さすがに聞き捨てならない。郁美は振り返って睨んだ。
(最低はどっちよ!)
が、その言葉は喉から出かかって、引っ込んだ。
(でも……500万。助けられちゃったから……こんな事、言えないな)
郁美は肩を落として言った。
「ごめんなさい、本当に帰らないと。今日は勘弁してください」
しおらしい郁美の言葉を受けて、花園はぷいっと背を向けた。その頬が赤い。
「あ、明日の夜はちゃんとあけとけ。俺に逆らった事、後悔させてやる……っ」
ため息を押し込んで、郁美はうなずいた。
「わかりました」
なんとか終電に乗り込み、最寄りのネカフェで小さくなっている淳史を回収し、二人は家路についた。
「いくちゃん……大丈夫だった?」
怯えたように、淳史は郁美を見上げて恐々聞いた。
「うん、大丈夫だよ。お金はとりあえず返した。」
「うそ……どうやって?」
「ちょ、ちょっと当てがあってね。それより……借金はこれでおしまいだよね?」
淳史は泣きそうに目尻を下げてうなずいた。
「うん。ほんとうにごめんなさい……」
郁美は首を振った。淳史の借金は、過去、専門学校に通うためしたものだった。世間知らずの淳史は学生ローンという名目に騙されて、実質闇金と取引をしてしまったのだ。気がついた時にはもう遅く、その返済のために別の闇金に行かされ、またさらに……という負のループにはまってしまいた。その結果、100万もなかった借金は500万まで膨れ上がってしまったのだった。
「いいよ。それは。でももう借金はしないでね。お金が必要なら私に言って」
「……わかった」
「よし、じゃあコンビニでご飯買って帰ろうか」
いつものコンビニで、郁美は中華まんを、淳史はメロンパンを選んで家に帰った。
家はちらかってはいたが、二人はとりあえず後回しにして食事とした。
(……よかった、今日もちゃんと家とごはんがある)
郁美はそう思いながら、温かい肉まんの味をかみしめた。
次の日は、郁美の気持ちとは裏腹に爽やかな晴天だった。内心びくびくしながら郁美は出勤したが、フロアのどこにも花園の姿はなかった。
(お休みってこと……?)
とりあえず、郁美はほっとした。出勤していないのなら、今夜の「約束」もなしかもしれない。
常に付け狙ってくる意地悪な目がないというだけで、なんだか肩が軽かった。郁美はひさびさにのびのびとした気持ちでフロアで立ち働いた。
「お疲れさまです!」
軽い足取りでタイムカードを押し、郁美は退勤した。金曜日の夕方だ。街は郁美と同じように帰り道の務め人だらけで、駅にかけてのお店は所せましといい匂いを振りまいている。
(……お惣菜でも買って帰ろうかな。昨日コンビニご飯だったし)
郁美はいつもは寄らない、縞々のひさしのついたデリカッセンのショーケースを覗いてみた。たっぷり具のつまったサンドイッチや、色とりどりのサラダ、それにスイーツが並んでいる。
(美味しそう。このプリン、頼んじゃおう。あっくんは甘い物が好きだから)
郁美は二人分のお惣菜を買い込んで、デリを後にした。すると隣で煌々と光るドラッグストアの看板が郁美の目に飛び込んできた。
(そうだ、歯磨き粉がもうなかった。ゴミ袋と、あと……)
一つ買い物をすると、次々と数珠繋ぎのように他の買い物も頭に浮かんでくる。郁美はドラッグストアに足を踏み入れ、必要なものを一つひとつ取っていった。歯磨き粉、袋、痛み止めの薬……。
「あ」
薬の棚にさしかかったその時、郁美は思わず足を止めた。
(ゴム……買っといたほうがいいかな)
昨晩はたまたま花園が持っていたが、彼のストックをあてにするのは危険な気がした。郁美はさっと棚からひと箱ゴムを取った。
(10個入り……か)
残りは、あと49回。つまり、5箱使い切るころには、郁美は借金を返したことになる。
(1回10万、か……)
それがずいぶんと高い値段なのは、さすがに郁美にもわかった。しかし弱みにつけこんで会社の同僚をお金で抱くのは、どう考えても卑劣な行為だろう。
(良心的なのか、そうでないのか、どっちなのか……)
首を傾げ一人考える郁美の肩に、ポンと手が置かれた。
「何、ゴム?俺のため?」
「ヒッ」
突然の事に、郁美は情けない悲鳴を上げた。
「は……花園さん?!今日は、休みなんじゃ……?!」
すると彼は眉をひそめた。
「今日は出張だった。さっき行くってラインしたろ、見てないの?」
郁美は首を振った。買い物に夢中で見逃してしまったようだ。
「み、みてません、てっきり有給かと。すみません」
「なに?俺は今日来ないって……思ってたわけ」
花園がちらりと郁美の荷物を見る。その顔がすっと冷たくなる。
「それで飯なんて買って、ウキウキ帰るとこだったわけ?」
図星である。郁美は困って彼から目をそらした。すると彼はデリの紙袋を無理やり奪って中を覗いた。
「ちょっ、やめ」
「サンドイッチもサラダもプリンも、全部2個じゃん……誰と食うつもりだったわけ?」
郁美はぎゅっと唇を結んだ。弟がいるという事を花園には言いたくなかった。
(馬鹿にして、いろいろ言ってくるに決まってる……)
無職で、ひきこもりで、眠剤が手放せない弟。けれど彼は、小さいころから助け合ってきた、唯一無二の大事な家族なのだ。郁美もたくさん、彼に助けられた。
自分に対する攻撃は我慢できるが、身内をけなされるのはどうしても嫌だった。
「……自分で食べようと思ったんです」
その言い訳に、花園の眉根がぐっと寄った。
「スプーンもフォークも2つ入ってるんだけど?」
「店員さんが入れてくれただけです」
「だいたいあそこ量り売りだろ。一人で食うなら、2パックにわける必要なんてない」
いちいち皮肉を言ってくるだけあって、細かい所に目ざとい。郁美はため息をつきたくなった。
「……何だっていいでしょう」
「何で嘘つくんだよ」
「いいです、そんなに食べたいなら全部あげますから」
「……別に欲しくて取ったわけじゃねぇし」
そういって彼は郁美の買い物かごをひったくって歩き出した。
「行くぞ。」
「あ、待ってください、それまだお会計……」
「あんたは俺の後ろで待ってろ。わかったな」
『中野さん?いまどこ』
花園だ。郁美は震える指先で返事をした。
『新宿駅前です』
『わかった、今いくから待ってて』
スマホをバックにしまい、郁美は駅前の広場の石垣に腰を下ろした。昼間の雨のせいでそこは濡れていた。が、もうどうでもよかった。
(あの人……私をどうするつもりなんだろう)
身体で払えなんて、前時代的すぎる。裸の写真でも撮って、それを盾に会社を追い出す気だろうか。それとももしかして、文字通り「臓器」で支払わせられるとか……?
死んだ魚のような目で、郁美は駅へ向かう人の群れを眺めた。家路につく人々のひとりひとりが、今は心底羨ましかった。
自分も昨日は、そんな人のひとりだったはずなのに――。
「いたいた、待った?ごめん」
かけられた声に、郁美はどんよりと花園を見上げた。暗い目の郁美とは対照的に、花園の目はなぜか嬉し気にキラキラ輝いていた。
「どう?無事返せたわけ?」
郁美は死んだ目のままうなずいた。
「返せました……」
すると花園は、拗ねたような不機嫌な表情になった。
「あのさぁ、もう少し何かないの?お、お礼とかさぁ」
そういわれて、郁美は深々と頭を下げた。仕事で習った、「最も深いお辞儀」。
「この度は助けていただいて、ありがとうございました。……お借りしたものは、時間がかかっても全額しっかりお返ししたいと思います。それまでお待ちいただけますか」
深々とお辞儀をしたまま、郁美はつづけた。
「なので、今日はどうか帰らせてください……。家が、心配で」
「何で心配?もう借金は返したんだから平気でしょ」
「ですが……」
「そんなに彼氏が気になるの?」
花園はずいっと郁美に顔を近づけた。嘘を言ったら絶対に見破ってやる、そんな顔だった。郁美は顔をそむけた。
「そ――そういうわけじゃ」
「本当に?」
「は、はい」
すると花園は郁美の手首をつかみ、立たせた。
「金なんていらないって言っただろ。俺に付き合え。50回分な」
ぐいっとひっぱられ、抵抗する間もなく郁美は手を引かれて歩いていた。心にぽっかり穴があいたような絶望感で、下腹部がうす寒くなった。
(そっか――500万と引き換えに、おもちゃになれってことなんだ)
きっとこれから、いろいろひどい事をされるんだ。でも、お金を受け取ってしまったらかには、もう逆らう事なんてできない。
嫌だった。悲しかった。だが不思議と涙は出なかった。力を持つ者に逆らったって、どうしようもない。
すでに諦めが、郁美の身体を支配しはじめていたのだ。
「ほら、入るぞ」
いつの間にか、入り口にずっしりとした塀で入り口を隠された建物の前にいた。ピカピカ光るネオンの看板。このへんは、駅から少し歩けばもうこんなホテルばかりだ。手を引かれるままに郁美はその玄関をくぐった。ガラスのドアが自動で開き、柔らかなオレンジの照明が二人を迎え入れる。
無人のロビーで開いている部屋をさっさと選び、花園は一直線にフロアを横切りエレベーターへ乗り込んだ。一番上の「6」の表示が煌々と光っている。ぼんやりとそれを眺める郁美の横顔を、花園は食い入るように見つめていた。その息遣いが荒い。
「なんですか……?」
虚ろな顔を向けて問うと、花園は獣のように郁美の身体を掻き抱いた。
「っ――」
突然、唇を重ねられる。郁美の冷たい唇を割って、荒々しく花園の舌が侵入してきた。
「っん、ふ……っ」
乱暴に舌を絡めさせられ、唇を噛まれる。痛い。不快だ。けれど郁美は文句も言わずにじっと耐えた。
「はぁ―、あ、中野……」
顔を離した花園は、なぜか必死の表情だった。
「俺もう、我慢できない」
ちょうどその時、エレベーターが到着した。
「はぁ……はぁ……ぁ、」
息切れする身体が、郁美の上に覆いかぶさる。はだけた服越しに、お互いの肌が密着する。
ベッドの上の花園は獰猛で、だけれど無防備で――。郁美の上で苦し気な呼吸をする彼から、思わず目をそらす。
(……ちょっと重い)
終わったのなら、早くどいてほしいと思いながら、郁美はおとなしく待った。しかし、花園はいっこうにどく気配がない。
「あの……大丈夫ですか」
「ん……」
花園は少し顔を上げて、郁美を見下ろした。その表情が拗ねたように歪む。
「……なんだよ、こんな時も澄ました顔してさ」
「別にそういうわけじゃ……」
その顔がさらにくしゃっとなる。
「下手だとか、早いとか思ってんだろ。どうせ」
「いや思ってませんけど……」
「じゃあ、よかった……?」
じっとうかがうような、けれどたやすく傷ついてしまいそうな濡れた目で花園は郁美を見た。
その視線をまともにくらって、郁美は少したじろいだ。
(な、なに……!?まるで私が悪いみたいな顔……)
しかし花園が、こんな顔を見せるなんて以外だ。いつもちくちく嫌味ばかり言ってくるのに。そう、この男の心ない言葉には、けっこう傷つけられた。だからこそ。
(私はあなたみたいに、意味もなく人を傷つけたりしないんだから。たとえ相手が――あなただって)
郁美はふうと息をついた。
「悪くなかったです、別に」
「ほ……ほんと?」
「痛くなかったし……でも、どいてもらえませんか。重いので」
「あ、わるい」
花園は素直に身体を起こした。ずるりと彼のものが引き抜かれ、つながっていた部分が解放される。郁美は即座に起き上がったが、彼が手を掴んだのでベッドから出れなかった。
「シャワーなら一緒に行こうよ」
郁美はベッドサイドの時計をちらりと見た。もう真夜中ちかい。弟は大丈夫だろうか。
「いえ……私はここで失礼します」
服を着始めた郁美を見て、花園は信じられないという顔をした。
「な、何で?もう電車もなくなるよ」
「まだギリいけます」
「いいじゃん……今晩は泊まってけよ。あ、お腹減った?夕食食べてないよな。あれ食べる?」
花園はテーブルの上に置いてあるメニュー表を指さした。表紙にはフルーツで飾り立てられた巨大なスイーツが派手な色合いで印刷されていた。しかし郁美は首を振った。
「花園さんはゆっくりしていってください。では」
郁美はきっぱりと言って立ち上がった。
今夜は一回やった。もう義務は果たしたはずだ。ここで夜を明かす気には到底なれなかった。
「待てよっ!」
花園もベッドから立ち上がった。
「か……彼氏んとこ、戻るのか」
「いませんよ彼氏なんて。」
「じゃあ帰らなくたっていいじゃんか」
「着替えないし」
「明日買えばいい」
「出勤前の時間にあいてる店なんてありません」
「……っ」
出て行こうとする郁美の背に、花園の声が飛ぶ。
「なんだよっ、もう少しいたっていいじゃんか……!」
「……だって今夜はもう、する事ないでしょう。」
顔は見えないが、背後で花園が息を飲んだのがわかった。
「あ……あんた、最低だっ」
さすがに聞き捨てならない。郁美は振り返って睨んだ。
(最低はどっちよ!)
が、その言葉は喉から出かかって、引っ込んだ。
(でも……500万。助けられちゃったから……こんな事、言えないな)
郁美は肩を落として言った。
「ごめんなさい、本当に帰らないと。今日は勘弁してください」
しおらしい郁美の言葉を受けて、花園はぷいっと背を向けた。その頬が赤い。
「あ、明日の夜はちゃんとあけとけ。俺に逆らった事、後悔させてやる……っ」
ため息を押し込んで、郁美はうなずいた。
「わかりました」
なんとか終電に乗り込み、最寄りのネカフェで小さくなっている淳史を回収し、二人は家路についた。
「いくちゃん……大丈夫だった?」
怯えたように、淳史は郁美を見上げて恐々聞いた。
「うん、大丈夫だよ。お金はとりあえず返した。」
「うそ……どうやって?」
「ちょ、ちょっと当てがあってね。それより……借金はこれでおしまいだよね?」
淳史は泣きそうに目尻を下げてうなずいた。
「うん。ほんとうにごめんなさい……」
郁美は首を振った。淳史の借金は、過去、専門学校に通うためしたものだった。世間知らずの淳史は学生ローンという名目に騙されて、実質闇金と取引をしてしまったのだ。気がついた時にはもう遅く、その返済のために別の闇金に行かされ、またさらに……という負のループにはまってしまいた。その結果、100万もなかった借金は500万まで膨れ上がってしまったのだった。
「いいよ。それは。でももう借金はしないでね。お金が必要なら私に言って」
「……わかった」
「よし、じゃあコンビニでご飯買って帰ろうか」
いつものコンビニで、郁美は中華まんを、淳史はメロンパンを選んで家に帰った。
家はちらかってはいたが、二人はとりあえず後回しにして食事とした。
(……よかった、今日もちゃんと家とごはんがある)
郁美はそう思いながら、温かい肉まんの味をかみしめた。
次の日は、郁美の気持ちとは裏腹に爽やかな晴天だった。内心びくびくしながら郁美は出勤したが、フロアのどこにも花園の姿はなかった。
(お休みってこと……?)
とりあえず、郁美はほっとした。出勤していないのなら、今夜の「約束」もなしかもしれない。
常に付け狙ってくる意地悪な目がないというだけで、なんだか肩が軽かった。郁美はひさびさにのびのびとした気持ちでフロアで立ち働いた。
「お疲れさまです!」
軽い足取りでタイムカードを押し、郁美は退勤した。金曜日の夕方だ。街は郁美と同じように帰り道の務め人だらけで、駅にかけてのお店は所せましといい匂いを振りまいている。
(……お惣菜でも買って帰ろうかな。昨日コンビニご飯だったし)
郁美はいつもは寄らない、縞々のひさしのついたデリカッセンのショーケースを覗いてみた。たっぷり具のつまったサンドイッチや、色とりどりのサラダ、それにスイーツが並んでいる。
(美味しそう。このプリン、頼んじゃおう。あっくんは甘い物が好きだから)
郁美は二人分のお惣菜を買い込んで、デリを後にした。すると隣で煌々と光るドラッグストアの看板が郁美の目に飛び込んできた。
(そうだ、歯磨き粉がもうなかった。ゴミ袋と、あと……)
一つ買い物をすると、次々と数珠繋ぎのように他の買い物も頭に浮かんでくる。郁美はドラッグストアに足を踏み入れ、必要なものを一つひとつ取っていった。歯磨き粉、袋、痛み止めの薬……。
「あ」
薬の棚にさしかかったその時、郁美は思わず足を止めた。
(ゴム……買っといたほうがいいかな)
昨晩はたまたま花園が持っていたが、彼のストックをあてにするのは危険な気がした。郁美はさっと棚からひと箱ゴムを取った。
(10個入り……か)
残りは、あと49回。つまり、5箱使い切るころには、郁美は借金を返したことになる。
(1回10万、か……)
それがずいぶんと高い値段なのは、さすがに郁美にもわかった。しかし弱みにつけこんで会社の同僚をお金で抱くのは、どう考えても卑劣な行為だろう。
(良心的なのか、そうでないのか、どっちなのか……)
首を傾げ一人考える郁美の肩に、ポンと手が置かれた。
「何、ゴム?俺のため?」
「ヒッ」
突然の事に、郁美は情けない悲鳴を上げた。
「は……花園さん?!今日は、休みなんじゃ……?!」
すると彼は眉をひそめた。
「今日は出張だった。さっき行くってラインしたろ、見てないの?」
郁美は首を振った。買い物に夢中で見逃してしまったようだ。
「み、みてません、てっきり有給かと。すみません」
「なに?俺は今日来ないって……思ってたわけ」
花園がちらりと郁美の荷物を見る。その顔がすっと冷たくなる。
「それで飯なんて買って、ウキウキ帰るとこだったわけ?」
図星である。郁美は困って彼から目をそらした。すると彼はデリの紙袋を無理やり奪って中を覗いた。
「ちょっ、やめ」
「サンドイッチもサラダもプリンも、全部2個じゃん……誰と食うつもりだったわけ?」
郁美はぎゅっと唇を結んだ。弟がいるという事を花園には言いたくなかった。
(馬鹿にして、いろいろ言ってくるに決まってる……)
無職で、ひきこもりで、眠剤が手放せない弟。けれど彼は、小さいころから助け合ってきた、唯一無二の大事な家族なのだ。郁美もたくさん、彼に助けられた。
自分に対する攻撃は我慢できるが、身内をけなされるのはどうしても嫌だった。
「……自分で食べようと思ったんです」
その言い訳に、花園の眉根がぐっと寄った。
「スプーンもフォークも2つ入ってるんだけど?」
「店員さんが入れてくれただけです」
「だいたいあそこ量り売りだろ。一人で食うなら、2パックにわける必要なんてない」
いちいち皮肉を言ってくるだけあって、細かい所に目ざとい。郁美はため息をつきたくなった。
「……何だっていいでしょう」
「何で嘘つくんだよ」
「いいです、そんなに食べたいなら全部あげますから」
「……別に欲しくて取ったわけじゃねぇし」
そういって彼は郁美の買い物かごをひったくって歩き出した。
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