嘘と微熱〜甘美な一夜から始まる溺愛御曹司の愛執〜

桜月海羽

一章 はじまりはひとつの嘘/二、天国から地獄へ【2】

「海外事業部の山重やましげくんをどう思う?」


ところが、緊張していた私に飛んできたのは、予想もしていなかった疑問。

「はい?」

質問の内容もその意図もわからず、無意識のうちに首を傾げていた。


「山重くんだよ。知ってるだろう?」


従業員は百名にも満たない会社。そして、海外事業部には兄と姉がいる。
私が直接関わることはない部署だけれど、入社当時に兄を介して山重さんを紹介され、それからは挨拶を交わすことはあった。


それに、社内にいれば、私たち兄妹が声をかけられるのは珍しくはない。
社員たちから慕われていたり一目置かれていたりする兄と姉とは違うものの、曲がりなりにも社長の娘である私にも挨拶くらいはしてくれる。
だから、父の問いに対する答えは「はい」だった。


「彼のご両親は歯科医で、都内でクリニックを開業されているそうだ。お兄さんがふたりいて、ご長男が家を継ぐことが決まっているらしい」


その話が私になんの関係があるのか……と疑問が大きくなったとき。

「山重くんさえよければ、茉莉花と見合いしてみないか訊いてみようかと思ってな」

頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。


「えっ……?」
「彼はなかなか仕事ができる人間だ。裕人と百合に聞いたが、人当たりもよく家族仲も良好そうだということだし、ご実家も近いなら遠くに引っ越す必要もないだろう」
(待って……。なに? どういうこと……?)
「山重くんが家業を継ぐなら大変かもしれないが、ご長男がすでに副院長のようだし、次男は公務員だそうだから、山重くん自身が肩身が狭いということもなさそうだ。茉莉花が嫁ぐことになっても、家業のことで悩む必要はないはずだ」


父の言葉が、耳をすり抜けていく。


『他の会社で働きたい』
『好きな人と結婚したい』
『せめて普通に働きたい』


これまで訴えてきたことは、なにひとつ聞き入れてもらえなかった。
どう足掻いても父の考え方が変わらないことは察していたし、いずれお見合いをさせられることも覚悟しているつもりだった。
けれど、唐突すぎて頭がついていかない。


「仁科はいずれ裕人が継ぐことになるが、山重くんは海外留学の経験があって語学も堪能だし、百合とともに裕人を支えてくれるだろう。これで茉莉花と結婚することになれば、会社も茉莉花もきっといい方向に行く」


なにより、お見合いなんてもっと先のことだと思っていた。


「茉莉花も家庭に入ればゆっくり過ごせるし、今みたいに仕事のことで悩む必要もなくなるはずだ」


笑顔を見せた父の意図が、ようやく読めてくる。
父は、私が結婚すれば家庭に入ることになり自分の働き方について不満を唱えることはなくなる……と考えているのだ。


仁科にも女性社員はたくさんいるし、姉はこれからさらにキャリアを積むだろう。
私には結婚を勧める父も、姉に対してはそこまで口煩く結婚について言わない。
姉自身が『私は仁科で働き続けるから』と言い切っているのもあるけれど、そもそも仕事ぶりを父に認められているからだ。
もちろん、それだけの努力を重ね、実力を持っているのもわかる。


反して、私は結婚すれば家庭に入ることを父に望まれている。
きっと、父の中にあるその考えを覆すのは不可能に近い。


「お父さん……私はまだっ……!」
「ああ、心配しなくてもいい。お見合いと言っても簡単なものだし、そう肩肘を張る必要もない。それに、海外事業部は新しいプロジェクトが動き出したところだから、今すぐというわけでもない。そうだな、秋くらいが妥当か」


私の言葉を遮った父は、微笑んでいるけれど……。目の奥にある厳しさが、YES以外を受け付ける気がないのは明白だった。


「ひとまず茉莉花の耳にも入れておこうと思っただけだ。そろそろ休憩が終わるから、百合と茉莉花は戻りなさい。裕人は少し残ってくれ」


ろくに返事もできないまま、姉とともに社長室を後にする。
エレベーターに乗り込んですぐ、姉が口を開いた。


「山重くんね、一年くらい付き合ってた恋人がいたんだけど、今年の春に別れたそうよ。お父さんは前から彼を気に入ってて、最近たまたまその話を耳にしたみたい」
「そう……なんだ」


父はきっと、山重さんが恋人と別れたと知り、チャンスだと感じたに違いない。
だから、早々に今回の件を実行しようとしているのだろう。


「嫌ならはっきり拒絶したら? お父さんはああ言ってたけど、先月くらいから山重くんによく話しかけてるし、たぶんできるだけ早くこの話を纏めるつもりよ」


それができるなら、私だってそうしている。
オミくんへの恋が実らなくても、せめて次の恋に進めるときが来れば誰かと恋愛する未来だってあるかもしれない。
たとえそれが、どれほど淡い期待だったとしても可能性はゼロじゃないはず……。
そう思うのに、言葉が出てこなかった。


「相変わらず、すぐ黙るんだから。そんな態度だから、お父さんの言いなりになるしかないのよ。本気で嫌なら自分でどうにかしなさいよ。茉莉花の人生なんだからね」


姉はため息交じりに言い置き、四階でエレベーターを降りた――。

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