嘘と微熱〜甘美な一夜から始まる溺愛御曹司の愛執〜

桜月海羽

一章 はじまりはひとつの嘘/一、憧れの人との密会【1】

じめじめとした暑さに見舞われた、八月某日。
昨日から降り続けている雨のせいで湿度が高く、社内にいてもどこか身体が重い。
仕事中じゃなければ、ベッドにごろんと横になってしまいたいくらい。


仁科にしなさん、そろそろ定時だから仕事切り上げてね」


聞き慣れた課長の言葉に、「はい」と頷く。

「お気遣いありがとうございます」

そう返しながら、苦笑が漏れてしまいそうだった。


JR大久保おおくぼ駅から程近いビルに会社を構える、『仁科にしなフーズ』。
従業員が百名にも満たない菓子メーカーで、有名企業とは言えない会社だ。けれど、最近は世間での認知度が少しずつ上がってきている。


数年前までの細々とした事業方針とは変わって、大手スーパーやコンビニとのタイアップをするようになったからだろう。
その機会はまだ数回ほどではあるものの、影響は確かに感じられた。


特に、二か月前にコンビニとのタイアップで出したガレットがSNSで大きな反響を得たことが、仁科フーズの名を一気に周知させたのは間違いない。
一個二百円ほどのガレットは売り切れ続出で工場での生産が追いつかず、一時は販売中止になったほどだ。


ただ、悲しいことに世の中の興味や流行の移り変わりは早い。
残念ながら、今は他社が出しているチーズケーキに人気を奪われてしまった。
発売当初に比べると、売上も半分近く落ちている。


そんな仁科フーズの総務部で事務員として働く私――仁科茉莉花は、仁科フーズの社長の娘である。
社長の娘とはいっても、仁科は大企業や財閥とは程遠い。
生活面では不自由なく育ててもらったけれど、中野なかの区にある実家も平均的な一軒家よりも少し広い程度だし、中学校や高校だって都立だった。


有名私大に進学して海外留学をしていた兄の裕人ゆうとや姉の百合ゆりとは違って、私はごく一般的な人生を歩んでいる。
お世辞にも〝社長令嬢〟という感じじゃない。


にもかかわらず、課長が私にだけあんな風に声をかけるのは、社長である私の父から『茉莉花には残業をさせないように』と通達があったせいだ。


わけあって異常なくらい過保護な父から離れたかったため、私は仁科以外に就職することを考えていた。
けれど、父がそれを許さず、どれだけ話しても平行線のままの状態が続き、結局は私が父に従う形で収まった。


その代わり、一人暮らしをするという交換条件だけは飲んでもらい、実家から程近い単身者向けのマンションに住んでいる。
ただし、これも父が決めた物件だ。せめてもう少し実家から離れた場所で暮らしたかった私の意見は、まったくと言ってもいいほど通らなかった。


それが父なりの愛情であることは理解しつつも、まだ業務を続ける同僚もいる中で上司から私だけ『仕事を切り上げてね』と言われるといたたまれない。
常に、身の置き場はなく、肩身の狭さは相当なもの。
それでも、私が残って仕事をすると、総務部長や課長が父から注意を受けるだろう。


父が上司たちに言いそうなことも想像できるからこそ、私は笑顔で「お疲れ様でした」と頭を下げて退社するしかなかった。
肩身が狭くても情けなくても、これが一番他人に迷惑をかけない方法なのだ。入社してからの日々で、それを学んだ。


就業時間は、朝九時から一時間の休憩を挟んで十八時まで。私ほどきっちりとそれを守っている社員は、きっと他にいない。
大学を卒業後、仁科に入社して約一年と四か月。退社時間が毎日十八時ぴったりなのは、私だけだと知っている。


兄や姉ですら、残業は珍しくない。
もっとも、優秀なふたりは今年から設立された海外事業部の部長と課長という役職があり、いてもいなくても変わらない私とは違うのだけれど。

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