運命の赤い糸が引きちぎれない

泉野あおい

2章:120m

 あれからいろいろとあった。
 まぁ、簡単に言えば、家から3時間かかる病院も5時間かかる病院までも……落ちたのだ。

(なに? もしかして厄年なの?)

 しかし、どう考えても私は年齢的には厄年ではない。
 しかも厄年には、叔父が継いだ本家の春日園神社で、しっかり厄除けの祈祷を受けているのだ。

(じゃあ、ただの私の実力(もしくは人間力)不足ってことね……!)

 そう考えて、完全に私の心はぽっきり折れた。
 色々走馬灯のように流れたし、走馬灯が流れるということは死ぬのかと思ったくらいだ。

 私は25年生きてきて、どこの職場でも必要とされていない存在となっていたらしい。

 心の中が真っ白の灰になって、そこに北風がぴゅーっと通り抜けた時、私を見かねた伸とさくらが無理矢理に近い形で私を矢嶋総合病院に押し込んだ。


 完全に折れていた私の心は、優しく出迎えてくれた矢嶋総合病院事務員さんたちの面々によって、優しく包帯が巻かれ処置が施された。

(こんな私でも必要としてくれる人もいるんだなぁ……!)

 そう思いながら、矢嶋総合病院にルンルンと通っている時、ふと気づいた。

 ――あれぇ? いつのまにここで楽しく仕事することになってるんだっけ……。

 何故だか、病院の受付にこだわりすぎていたのだ。
 医療事務の資格を持っているからって、病院の事務と思い込んでいただけのことだ……。

 そうだ。普通の事務だ!
 普通の事務に就職すればいいのだ!


「……って思うんだけど、どう思う?」

 私はその日の昼休み、そう言って、唐揚げを一つ口に放り入れた。

 矢嶋総合病院の食堂の唐揚げ定食はかなりおいしい。衣はサクサク、一口食べるとじゅわーと旨味が口の中にひろがり、どこの唐揚げよりおいしいと私は思っている。

 さらに唐揚げ定食だけ他の定食より120円も安い、380円とかなりリーズナブルだ。
 そんなわけで、矢嶋総合病院に勤めだしてから私は毎日こればかり食べている。

 唐揚げを頬張る私を見て、目の前に座って焼き魚定食を食べていたさくらはため息をついた。

「とにかく、せっかく雇用してもらっといて一か月でやめるって言うのはどうかと思うわ。給料も断然上がったんでしょ?」
「それはそうだけど……」

 たしかに給料もいい。仕事も、人間関係も最高だ。
 唐揚げも安くておいしい。こんな職場は他にない。

 でも、矢嶋3兄弟と一緒なのは、私にとってかなりアンタッチャブルなのだ。
 とはいえ入ってみると、みんな忙しく仕事していて、よく会うのは一緒に住んでいる伸と、時々、廉と直さん。その時々を我慢すればいいくらいなのだ。


 さくらは思った以上に早く食べ終え、お茶を飲むと、

「私は、こうやってよもぎと一緒にお昼も食べられて嬉しいわ」と微笑んだ。

「最近、さくらも伸も帰ってくるの遅いもんね」
「まぁ、ね。でも今日は早く帰るわ」

 そう言われて、私は終業後に事務仕事を頼まれていたことを思い出した。
 残業代もかなり出るので、私はどんどん引き受けている。
 おかげで周りの評価もうなぎ上りだ。

 ここは、矢嶋3兄弟の病院だと思わなければ、最高の職場なのだ。

「今日は私が遅くなる。冷蔵庫にカレー入ってるから温めて」
「ありがとう」

 さくらが笑ったとき、

「よもぎ! やっぱりここだ。今日は会えた!」

と声が聞こえて私は眉をしかめた。

 振り向くときには、もう同じ唐揚げ定食をもった廉が勝手に私の隣に座る。

「勝手に座るな!」
「いいですよね? お義姉さん」
「もちろんいいわよぅ。未来の弟よ」
「『お義姉さん』言うな。っていうか、さくらも合意するな! 弟になる予定はない!」

 私が叫んだ時、周囲の視線を感じて私は口を噤んだ。
 ちらっと見ると、周りの看護師や女性医師までこちらを見ている。

(こういうのが嫌なのよ!)

 ただでさえもアンタッチャブルな3兄弟なのに、廉はこうやって声が大きくて目立つ。

 なのに……。

「頬に米粒ついてるぞ」
「へ?」

 さらりと頬に着いた米粒を取られ、パクリと食べられた。
 それを見て、嫌でも顔が赤くなるのを感じる。

「人の米を勝手に食べるな!」
「本当はそのまま唇で取りたいところを我慢してやったんだぞ」
「絶対やめて!」

 私が泣いて叫ぶと、前で見ていたさくらが息を吐く。

「まったく、相変わらずツンデレなんだから」
「デレてない!」

(どこデレている要素があったんだ!)

「ほんと、かわいいでしょ。俺のよもぎ」
「廉のものになった覚えもないし、これからもない。不吉なこと言わないで」
「不吉なことじゃなくて、ただの俺の願望だ」
「っ!」

(何を言っても打ち返される!)

 言い返せなくて悔しくなり、ふいと顔を反らせた。
 そんな私を見て、さくらは微笑むと口を開く。

「ホント昔から仲良しよね」
「仲良くない!」
「大丈夫。俺のことが好きだって本心は分かってますから」
「勝手に私の本心を捏造するな!」

(あぁ、頭痛い……)

 こういうのもあって、ここで働くのが嫌だったんだ……。

 そう考えていると、さくらは早々に席を立った。

「私、午後一会議だから先に行くわね」
「あ、私も」

 私が立ち上がろうとしたとき、廉が私の手を掴む。
 最初は同じくらいだったのに、いつのまにか私より随分大きくなった手で……。

「よもぎはちょっと待てよ」
「な、なに……!」

 私が困っているというのに、さくらは、じゃあね、と先に行ってしまう。

 私は慌てて手をぶんぶん振ろうとしたが、掴まれた手は全く動かなかった。

「あのさ……なんか俺のこと避けてない?」

 そう聞かれてドキリとする。

「あなたは先生。私は受付事務。私たちは、ただの職場の知り合い。いいですか? 先生?」
「ただの知り合いじゃない」

 廉はぴしゃりと言う。そして続けた。

「俺はよもぎが好きだ。ずっと好きだった」
「……っ」

 なんで真っ昼間の職場の食堂で告白されなければならないのだ。
 しかし、あまりにもストレートな告白はやけに顔を熱くさせ、心臓を落ち着かないものにさせた。

「よもぎ? よもぎは?」
「わ、私は好きじゃない!」

 私が慌てていうと、廉は息を吐く。
 そして、

「伸から聞いた。よもぎが彼氏欲しい理由」

 はっきりそう言って、いつもと違う真剣な目で睨まれると動けなくなった。

「それは……」
「『処女捨てたい』ってなんだよ。捨てるくらいなら、くれよ。俺が一番欲しいって思ってるものだ!」

「いやだ」
「なんで」
「私は廉が嫌いだからよ!」

 私はそう言うと、「離してください。仕事に遅れる」と低い声で告げる。
 廉は小さく息を吐くと、やっと手を離してくれた。

 ――捨てるくらいなら、くれよ。俺が一番欲しいって思ってるものだ!

 なによそれ……。ばか、廉。
 一度、食堂の冷凍庫で一晩冷やされればいいのよ! 少しは頭が冷えるだろうし。

 昼からは時々廉のことを思い出しては仕事にならなかった。

 気づいたら夕方。
 一般診療の受付は終わり、私と事務の先輩である松井さんは残って、副院長室にある直さんの書類の整理を手伝うことになっていた。

 しかし、松井さんは、今日は何か約束があるそうで最初の一時間だけで帰ってしまう。

 直さんと二人になって気まずい、と思ったところで、直さんが緊張した空気を壊すように優しく微笑んだ。

「よもぎ、ごめんね。手伝わせて。秘書がいないから、自分でやるしかないんだけど、どうも、整理は昔から苦手でさ」
「いえ。残業代も出るんでむしろ助かります。今日は金曜で、明日休みだし。これをファイリングしておけばいいですか?」
「うん、よろしく」

 昔、直さんの部屋には入ったことがあるけど、ものはきちんと整理されていたように思う。

 直さんが今使っている副院長室だって、一見、綺麗には見えた。
 しかし、引き出しの中には書類がどさっと無造作にたくさん入っていたのだ。

(直さんの部屋が綺麗だと思ってたけど、実は開いてみるとこんな感じだったのかな……)

 私は思わず苦笑して整理を続ける。
 すると、直さんがまた話しかけてきた。

「うちで働いてみてどう?」
「は、はい。みなさん優しいし。特に松井さん。気さくで話しやすいから何でも聞けるのもとても助かります」
「そう、よかった」

 直さんはそう言うと、ほっとしたように息を吐く。
 そのあと、突然、「そういえば、昼は廉とケンカしてたね」と言った。

 私は一瞬固まり、それから口を開く。

「……見られてましたか」
「廉もよもぎも、声が大きいから」
「ご、ごめんなさい……」

 私は慌てて最後の書類を綴じ終えると、立ち上がる。

「では、これで失礼しますね」
「あ、ちょっとまって」

 直さんが言うと、引き出しから書類の入った封筒を取り出す。

「これも綴じますか?」
「ううん。これね、一応、寮の書類。よもぎは伸とさくらのとこって知ってるけど、一応説明だけはしておかないと、と思って。寮って言っても、徒歩10分のマンションをうちが買い取ってそこを賃貸しているの」

 直さんは言う。
 その封筒から書類を取り出して見ると、これまで何度か目にしたことのある築浅のマンションが写っていた。

「え……あの綺麗なとこですか? そんなところが寮? すごいですね」
「うん、月2万だけ共益費がかかるんだけどね。それは給料から天引き」

 そう言われて私の心がぐらりと揺れる。

「……たった2万」
「とりあえず説明だけしたかったんだ」

 そう言って、直さんは時計を見る。「もう7時か。ごめんね、今日はつきあわせて」

「いいえ、全然。失礼します」
「いい子だから、気を付けてまっすぐ帰るんだよ」
「はい」

 私は頭を下げると、副院長室を出た。


 言われた通り自宅にまっすぐ向かうとエレベータに乗りこむ。

「やっぱりちょっと疲れたなぁ……」

 特に、今日一日は色々あったから……。
 廉が突然、変なことをまじめに言い出すし。

 あーあ、今すぐお風呂に入って寝たい。

 あ、ちょっとお酒も飲みたいな。
 私は、お酒は好きだがお酒に弱いので、外でのお酒は控えている。合コンでも飲まない。
 ただし、家では晩酌をする。家だと酔っても問題ないからだ。

 さて、と部屋に入ろうとすると、玄関ドアの向こう、

『さくらっ……』

 妙に艶っぽい伸の声が聞こえた気がした。
 私は鍵を開けずに、そっと玄関ドアに耳をつける。

『ん、……だめっ! 伸ちゃん、こんなとこ! あ、ちょっ……待って!』
『ごめん、待てない!』
『んんっ……! なんで、今日、そんなっ! あっ、んんっ、そこ! あ、だめだってぇ!』

(これ、子どもが聞いちゃ、ダメなやつだーーーー!)

 私は慌てて踵を返して、エレベータに飛び乗った。
 エレベータはまっすぐ一階に向かう。

 バクバクと心臓が波打っていた。
 エレベータの中で私は座り込む。

「お願いだから、玄関でしないでくれよぉおおおおお!」

 家に入れやしない。
 いや、そういう問題じゃない。

 これまでもキスくらいは見たことある。
 でも全然違った。

 どうしよう! なんか、ものすっっっごい気まずい! 帰って顔合わせにくい!
 あんなの聞いて、これからどうすればいいんだ!

 忘れようと頭を振れば振るほど、先ほどの二人の声が頭の中をぐるぐる回る。
 二人でじゃれ合っている時とも全然違う艶っぽい声。

 私は軽く処女を捨てたいと思っていたけど、あんな艶っぽい声とか……! 雰囲気とか!

(無理だ! いまさらだけど、私にはできない!)

 私は一階に着くと、すべてを忘れるようにもう一度強く頭を振って、久しぶりに一人で飲みに行くことを決めた。

 どうしても素面でいられなかった。

 まっすぐ向かったのは、近くのダイニングバー。
 以前惨敗した合コンでは私は飲まなかったのだが、雰囲気も良くていつか飲みに来たいと思っていたのだ。


 カウンターに座り、最初はビール二杯。それからワイン一杯。
 つまみはチーズの盛り合わせに、一人でピザまで頼んだ。

 お酒がなくなったら、種類豊富なカクテルを三杯。

 つい飲みすぎて、お会計が気になったけど、追加でさらに一杯頼んだ時、男の人に声をかけられた。

「よもぎ? 何してるの? 一人?」

 私はふらふらしながら顔を上げる。
 そこには、直さんがいた。

(なんで? なんで、直さんなんだ……)


 そう思って眉をしかめ、気づいたら
「一人じゃ悪いれすか!」と叫んでいた。

 直さんは優しく苦笑する。

「あぁ……。これは、相当酔ってるね」

 そこから直さんが隣に座って、私はプラス二杯くらい飲んだ気がする。
 何を話したかあまり覚えていないが、気づいたら直さんに支えられて店を出ていた。

「よもぎ、帰れる?」
「だめ。伸とさくらとえっちしてるからぁ」
「……そう。それは困ったね」

 直さんはそう言って苦笑する。

 直さんは大人だ。
 私なんかよりも随分大人……。

 ああいうことも全部知ってるんだろうな。
 ずっとみんなのお兄ちゃんだったし。

 気づいたら、別の場所に移動していて、目の前で直さんが私をじっと見ていた。

「あれぇ……ここ、どこ」
「とりあえず、うちに連れて来たよ。大丈夫?」
「うち……」

 うちって家ってことだよね。
 いえ……直さんの部屋。

 そしてふわふわのベッドの上……。

 ――ベッド!

 私は酔いが醒めて立ち上がった。

「もうらいじょうぶれす! 帰れます、帰りますから!」
「危ないからちょっとだけ休んで」
「離して!」

 直さんの制止する手を振り解く。
 次の瞬間、胃からこみ上げる気持ち悪さに私は口を覆った。

「な、直さん……はきまふ……!」
「はき……吐く?」
「吐く。と、といれぇえええええ! といれどこ!」
「こっちだよ」

 私は超絶急いでいるのに直さんはのんびり私を案内する。
 廊下もどこもかしこもきれいで、こんなところで吐くわけにはいかないと、私の最後の理性が限界を超えても私を我慢させてくれた。

「でる! もう出るぅうううう」
「いいよ、どこで出しても」

(そういう優しさが欲しいんじゃない!)

 そう思って泣きそうになったとき、やっとトイレに辿り着いた。

「で、出てって! 直さん、出て行って!」

 私が言っても、直さんは私の横で私の背中を撫で続ける。しかも顔をがっつりと見ながら。

「大丈夫だから、全部出していいよ」
「みないれぇ」
「全部、見せて」
「やだぁあああ!」

(だから、そういう優しさは欲しくないんだって!)

 いつも優しいはずの直さんが悪魔に見えた。

 それから悪夢のような辛すぎる時間が終わり、項垂れた私を直さんはお姫様抱っこでベッドに運ぶ。
 そのままベッドに寝かされ、冷たいペットボトルの水を渡された。

「よもぎ、大丈夫?」
「うう……もうお嫁にいけない。全部、わすれてくらさい」

 私が泣きながら水を飲むと、直さんがまたそれを回収してくれる。

(もういろいろと、最悪だ……)

 どうして今日に限って、直さんと出会ってしまったんだろう……。
 私は、忘れてぇ、と何度も呟いて、枕に顔をうずめるとまだお酒も残っていたのか、すぐにうとうとしはじめる。

「だめだよ、絶対忘れない」

 そんな声と髪に落ちるキスの感触。

「ろうして、私の糸は……廉じゃなくて、直さんにつながってるんれしょう……」

 そうつぶやいた私の声も、

「僕はそれに何度感謝したかわからないよ」

 そうつぶやいた直さんの声も……

 ――夜の闇に溶けて消えた。

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