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恋と遺伝子~相性98%のおためし同居生活~

寧子さくら

さよならとキス(3)

 七滝さんに内見の依頼をしたのは、すぐ次の日のことだった。
 仕事の終わり、少し時間を作ってもらって訪れたのは、会社から電車で数駅。ごく普通の単身用のマンションは、家賃のわりには中が狭くて、東京で十分な広さに住むためにはそれなりの稼ぎが必要なんだと実感した。

「少々手狭ではございますが、築年数は浅いです。料理されるならコンロも二口ありますし、お風呂は意外と広いですよ」

 付き添いで来た七滝さんは、本当に不動産の営業かと思うほど。彼のプレゼンに魅了されて、即決までは時間はかからなかった。

「いいところですね。ここにします」
「よかったです。では、日付が決まりましたら業者を手配しますので、いつでもご連絡ください」
「そんなにすぐ入れるんですか?」

 普通マンションを借りる際は、審査や契約など諸々の手続きが必要であるはず。今回会社側が対応してくれるからといっても、融通がききすぎている気がする。
 疑問をぶつけると、七滝さんは少し困ったように笑った。

「実は、こちらのマンションは既に契約済みなんです。ですから姫松さんがここで良いと仰って安心しました」
「契約済みって……どういう意味でしょうか?」
「仰る通り通常入居までには多少時間がかかります。ですから社長が、姫松さんがいつ嫌になっても出て行けるように事前に契約しておけと」
「社長が……?」

 一体どこまで社員思いの人なのだろうか。この部屋を契約しても無駄になるかもしれないのに。
 無駄が嫌いな人なのに、他人のことになるとまるで別人だ。

「……優しい方ですよね」

 一言漏らすと、七滝さんは穏やかに微笑む。

「本当に不器用な方ですよ、社長は」
「え……」
「あ、こちらも内緒にしておいてくださいね? 怒られてしまいますから」

 七滝さんは茶目っ気たっぷりに笑って、自らの唇に人差し指を当てた。
 これほどまでに社員に、他人に気を使えて優しい人だ。万が一私の中に芽生えている気持ちを伝えたら、彼を困らせてしまうかもしれない。どうしたら私を傷つけないで済むか悩むかもしれない。
 だからこそ――

「あの、七滝さん。引っ越しの日、今決めてもいいですか?」
「はい? 私は構いませんが」
「ついでに、お願いがあるのですが……」

 このままあの部屋にいてはいけない。彼と一緒にいればいるほど、叶うことのない不毛な気持ちが膨らみそうだったから。
 七滝さんに引っ越しの日を伝えると、彼は困ったように首を傾げた。

「しかし、よろしいのですか」
「はい。構いません。どうぞ、よろしくお願いします」
「……承知いたしました」

 どこか納得いかなそうに、でも私の気持ちを汲んでくれたのか、彼は丁寧にお辞儀をしてみせた。
 あの部屋で生活できるのもあと僅か。私はあるひとつの決意を胸に抱いていた。





 それからの毎日は比較的穏やかに過ごすことができた。とは言っても、月曜日から飲み会だったせいで体は重く、さすがに歳を感じたのだけれど。
 金曜日の朝、啓さんと朝食を囲んでいると、知らぬうちに私の皿にトマトが追加されていた。

「あーまた! ちゃんと食べてください」
「食べなくても生きていける」
「子供みたいなこと言って……」
「君よりは年上だが」
「そういうの、屁理屈って言うんですよ」

 相手は社長だというのに、いつの間にか素で言い合えるようになった。それも今回の試験の大きな成果のひとつだ。

「それでは、今日の質問は……」

 啓さんはいつものようにタブレットに手をかけ、「いや、もういいか」と食事に集中し直した。
 おそらく彼と私の気持ちは同じだ。
 もう互いに質問し合う必要はない。十分すぎるほど、相性が良いことなど分かり切っていたから。
 となれば、この生活もこれ以上続ける必要はない。そう思い、意を決して口を開いた。

「そういえば、今日のお帰りは何時頃ですか?」
「今日か? 確か夕方から会食があったから、そんなに遅くはならないと思うが……」
「でしたら、その後の時間は私にいただけますか?」

 躊躇いもなく告げると、啓さんは少し驚いて箸を止める。しかしすぐに口角をあげ、挑戦的に笑みを浮かべた。

「なんだ。朝から誘ってるのか」

 時間をくれと言ったところで、下心のある意味とは限らない。けれど彼の意地悪な質問は、予想の範疇だった。

「はい。今夜は朝まで一緒にいていただけたら」
「っ……」

 啓さんは明らかに動揺して、せき込みそうになっている。
 普段の私ならこんなこと言わない。いや、言えるはずがない。それでも今日だけは、そうしなきゃいけなかった。私自身が後悔しないために。

「……わかった。なるべく早く帰るようにする」
「ありがとうございます」

 おそらく彼は、私がいつもと様子が違うことに気付いていたに違いない。けれど特に触れることもなく食事を再開した。
 これが二人でとる、最後の朝食になるかもしれない。そう思いながら、彼が皿にのせたトマトを口に含む。
 熟したものを選んで買ったはずなのに、想像以上に酸っぱくて、急いで飲み込んでしまった。


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