恋と遺伝子~相性98%のおためし同居生活~

寧子さくら

キスの余韻(1)

 結局その日は眠れない夜を過ごし、明け方、社長が自室に入った音を確認した後で軽くシャワーを浴びた。
 髪を洗わないのは躊躇われたが、幸い今は夏ではない。一日くらいは問題ないだろうと、体だけを念入りに洗った。
 今日は異動初日。万全な体調で臨みたかったけれど、眠れなかったのだから仕方ない。
 原因は、昨夜のハプニングに驚いただけじゃない。頭が真っ白になってしまうような、強引で、だけど優しいキスの感触がまだ残っており、興奮が冷めやらぬままにベッドに潜り込んだのだ。
 そんな状態で眠れるわけがない。それに、本当にこんな感覚、生まれてはじめてで――。
 無意識に唇に触れてしまう自分に気づき、慌てて思考を振り払う。

「ダメだ! 仕事に行かなきゃ」

 いつまでも考えていても仕方がない。
 初日だからこそ早く行かないと、と着替えを済ませ部屋を出た。




 社長が自室に戻ったのは明け方。その後、物音はしなかったはず。
 さすがにこんな早朝から起きていないだろうと思った読みは外れ、リビングでは既に彼がコーヒーを飲みながらタブレットを眺めていた。

「ああ、おはよう」
「あ……おはようございます」

 いつの間に移動したんだろう。まさか瞬間移動……? なんて、そんなわけはない。
 こちらは気まずさで上手く目が合わせられないというのに、彼は相変わらず表情一つ変えずにタブレットに視線を戻した。
 かけている眼鏡はブルーライトカットのものだろうか。レンズが青白く光っているのが、チカチカと目にうるさい。タブレットを眺めながらも、片手でカップに口を付ける所作があまりに綺麗で、唇を見ると昨日の出来事を思い出してしまう。
 私はこんなにも戸惑っているのに、社長は何事もなかったかのよう。そもそも、キスをしてきたのは彼からなのに。それに対して謝罪などはないのだろうか。
 緊張していた気持ちはやがて、怒りへと変わる。悶々とした気分のまま冷蔵庫の前まで歩いて来て、朝食を何も用意していないことに気付いた。
 シャンプーといい朝食といい、昨日から抜けてしまっている自分に小さくため息をつく。
 そんな私の様子を見たからなのか、ダイニングテーブルから社長が顔を覗かせた。

「どうかしたか?」
「あ、朝食を買い忘れまして……外で食べようかと」
「そうか。コーヒーくらいしかないけど、飲むか?」
「いいんですか?」
「いいも何も。家のものは自由に使ってくれて構わない」

 言いながら、社長自らコーヒーメーカーにカップをセットしてくれる。

「ありがとうございます……」

 距離が縮まった瞬間、彼の匂いがふわりと香った。香水ほど強くはない、かといって柔軟剤の匂いともまた違うような。
 同時に昨夜はアルコールの香りがしたことを思い出し、また恥ずかしさからなのか、体温が上昇するのを感じた。

「あ、あの……昨日……」

 ダイニングテーブルに戻ろうとする社長を引き止め、昨夜のことを尋ねてみる。
 しかし彼は、私が何を言おうとしているのかまるで想像ができていないように、小さく首を傾げた。

 まさか――

「何も覚えてないですか?」
「何も、というと」
「その、リビングで……」
「ああ、寝落ちしてたみたいだな。……もしかして起こしてくれたのか?」

 酔っていたのか、寝ぼけていたのか。どうやら彼は本当に何も覚えていなさそうだ。
 それに、彼の様子から嘘をついているようにも思えない。

「あ、いえ……何でもないです」

 まさか、何も覚えていないなんて……。私はこんなに動揺しているのに。
 あんなに濃厚なキスを交わしたというのに、正気の沙汰じゃない。
 けれど覚えていないと言われれば仕方がない。これ以上咎めることはできない。
 人間、酒に酔った時など理性はきかないもの。それを言ってしまったら、理性を失うほど飲むなっていう話だけど。
 諦めてコーヒーメーカーに視線を戻すと、既にコーヒーが出来上がっていた。
 ここで飲むべきか迷っていると、彼が「座ったらどうだ」と促してくれる。
 断るわけにもいかず、気まずい空気のまま椅子に腰を下ろすと、社長はピルケースのようなものを探っていた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……何個か手に薬を取り出して、コーヒーカップの横にあった水で流し込む。

「どこか悪いんですか……?」

 薬の量に驚き思わず尋ねると、彼はなんでもないように首を振った。

「いや、これはサプリメントだ」
「そんなに飲むんですか?」
「ああ、朝食代わりだからな」
「えっそれだけですか!?」

 コーヒーとサプリメント。いくらサプリメントで栄養を摂っているとはいえ、どう見ても健康とはいいがたい習慣だ。

「朝食を用意してる時間が惜しい」
「そう、ですか……」

 本当に無駄が嫌いなんだ……。
 これが彼の生活なのであれば、私にとやかく言う資格はない。ただ、あまりにも違う生活習慣に、やはり彼と相性が良いというのは間違いではないかと思えてくるほど。

「もし君が普段料理をするなら自由に使ってくれて構わないから」
「は、はあ」

 自由に、と言われても、綺麗すぎてなんだか使うのが躊躇われる。
 コーヒーを飲む時間が気まずくて、彼を見ると、眼鏡のレンズ越しに目が合った。

「ん?」
「あ……」

 何か話したほうがいいだろうか。
 悩んだ末、今回の試験について聞いてみることにした。

「あの、今回の試験ってゴールはどこなんでしょう」
「ゴール?」
「婚活事業に使われるサービスですよね。でしたら例えば、どの程度仲良くなるとか、お互いに好きになるとかそういう具体的なことは……」

 どうしよう。「好き」だの自分で言っていて、何だか恥ずかしくなってきた。
 誤魔化すようにカップに口を付けると、彼は口元に手を当てて考え込む。

「やはり相性、というのは数値では測れないところがある。だから単純に一緒に暮らしていて居心地がどうだったかとか、相手との趣味嗜好の一致度なども比較できたらと思っている。それから、異性として好意を持つかどうかについては今回は問題ない」
「どういう意味でしょうか……?」
「俺は君を好きにはならないし、君と恋愛する気もない。だから君もそういう認識でいてくれたらいい」
「っ……」

 つまりそれは、私には異性としての魅力を感じないということでしょうか。
 面と向かって失礼なことを言われているようで、腹立たしい気分になってくる。

「……わかりました」

 だけど相手は社長。物申したい気持ちをこらえると、精一杯の返事をした。
 それ以上はお互い会話することもなく、また気まずい空気が戻ってくる。
 その雰囲気に耐えられず急いで熱いコーヒーを飲み干すと、足早にリビングを後にした。

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