社長は身代わり婚約者を溺愛する

日下奈緒

第36章 もう忘れなよ②

その瞬間、信一郎さんと目が合った。
マズい。
私は、一瞬身を引いたけれど、今が乗り込むタイミングだと思い、もう一度身を乗り出した。
そして信一郎さんが、首を振る。
今は、飛び込むタイミングじゃないって事 
それとも、来るなって事 

「沢井さんの家のご事情は、知っています。」
「事情?」
信一郎さんのご両親は、驚いている。
「事情とは何ですか?」
信一郎さんのお父さん、お金を出すのに、事情を知らないの?

「沢井さんの奥さんが、ご病気で施設に入るのに、支度金を使うようです。」
「奥様がご病気?」
信一郎さんのお母さんも、心配な様子だ。
「施設に入るなんて、何のご病気なんですか。」
芹香のお父さんは、困った顔をして、信一郎さんを睨んでいる。
きっと、知られたくなかったのだろう。

「沢井さん。」
信一郎さんのお父さんが、もう一度聞く。
「……妻は、若年性認知症でして。」
「そうでしたか。」
これで、芹香の事は諦めて。
お願い、信一郎さんのお父さん!

だけど、その後の信一郎さんのお父さんは、とんでもない事を言い始めた。
「支度金、1億で足りますか?」
「えっ?」
「認知症の施設と言ったら、大変でしょう。足りない場合は、仰って下さい。」
「黒崎さん……」
「何、こんな綺麗なお嬢さんを、信一郎さんのお嫁さんに貰えるなら、安いモノですよ。」

信一郎さんのお父さんとお母さん、笑っている。
「ですが……」
「信一郎、何も言わずに結婚を決めろ。」
信一郎さんのお父さんも、この結婚に乗り気だ。

私はフラッと、窓から離れて、庭を歩いた。
きっと、信一郎さん一人の意思では、この結婚を断れない。
ー 愛だけじゃ、足りないのよー
芹香、本当だね。
私は、何を勘違いしていたんだろう。
お金持ち同士の結婚に、愛なんて必要ない。
必要なのは、支度金だって、今更分かった。

「……っ。」
涙が溢れてくる。
信一郎さん、さようなら。
今まで、楽しかったよ。
私は一人静かに、そのお店を去った。

その次の日から、私の体調は最悪だった。
きっと今頃、芹香と信一郎さんの結婚が決まっていくかと思うと、憂鬱で仕方なかった。
「森井さん、書庫に行ってこの書類、取って来てくれない?」
「はい。」
先輩に言われ、私は一人書庫に行った。

「はぁー。」
ため息をついたせいで、書庫のドアを開けるのも重い。
やっと開けた書庫は、もわっと息苦しかった。
「はいはい、誰も来ないもんね。」
私は書庫の中に入ると、窓を開けた。
新鮮な空気が入ってくる。
小鳥のさえずりも聞こえてくる。

ああ、このままここで、時間を潰していたいな。
その気持ちを打ち破ったのは、一人のサラリーマンだった。
「ここにいた。」
「下沢君。どうして来たの?」
あれ以来、ちょっと仲が良くなっている下沢君。
「そりゃあ、あれだけ元気がなかったら、心配するでしょ。」
下沢君は、私の元に来ると、手を差し出した。
「先輩に言われた資料って、何?」
「これ。」

私は先輩に渡されたメモ紙を、下沢君に見せた。
「俺が揃えてくるから、休んでなよ。」
「あい。」
さすがは、私を好きでいるだけの事はある。
下沢君は、私を甘やかす事が得意だ。
私は近くにあった椅子に座って、窓の外を見ていた。

「そんなに元気がないって、社長との事?」
私の身体がピクッとなる。
そう言えば、信一郎さんとの仲を知っているんだよね。
「もしかして、別れた?」
嬉しそうに聞いてくる下沢君が、嫌いだ。
「別れてないけれど、別れると思う。」

「どうして?」
「あっちが、結婚するから。」
「社長が 」
下沢君は驚いて、棚から顔を覗かせた。
「誰と 」
「私の友人と。」
「何それ!ドロドロの三角関係じゃん!」
私もそう思う。

何で、芹香なの?
何で、私じゃないの?
自問自答しても、何も答えは出てこない。

「そうなんだ。」
「そうなのよ。」
下沢君は、集めた書類を揃えて、私の元に持って来た。
「だったら、忘れなよ。社長の事。」
「下沢君……」
「俺が、忘れさせてやるって。」
下沢君は、後ろのデスクに書類を置くと、私を抱き寄せてくれた。
「な。俺にしとけ。」

その時、書庫のドアが開いた。
その隙間から姿を現したのは、信一郎さんだった。
「信一郎さん!」
「社長……」
だけど、下沢君は私から離れようとしない。
「礼奈、そういう事?」
信一郎さん、やけに冷静だ。
「もうそいつと、デキてるの?」
何で、否定しないのかは、自分でも分からなかった。

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