社長は身代わり婚約者を溺愛する

日下奈緒

第9話 久しぶりのキス①

信一郎さんから連絡が来たのは、芹香と会って二日後の事だった。
【水族館のチケット頂きました。如何ですか?】
その言葉に、また信一郎さんの会社が関係しているのだろうと思った。
そんな風に思う自分も、もうもどかしい。
いっそ、自分が変わってしまえばいいのにと思った。
返事は【楽しみにしています。】と返信した。

会う予定は、週末の日曜日。
本当はデート用の服が欲しいけれど、そんなお金はもうない。
水族館という事もあるから、いつものカジュアルな格好にした。

「行って来ます。」
日曜日に家を出る時に、お母さんが立ち止まった。
「ここんところ、毎週日曜日は出かけているわね。」
「うん。用事があるから。」
「そう言って、デートなんでしょ。」
お母さんはニコニコしている。
「それにしては今日は、カジュアルね。」
「いつもいつもお洒落なんて、してられないよ。」
お母さんは、私に笑って見せた。
「楽しんできなさい。」
「うん。」
こうなったら、お母さんにはデートだって思われてもいい。
お母さんは、お父さんに余計な事を言わないと思うから。

駅の改札口で、信一郎さんと待ち合わせをした。
改札を出ると、信一郎さんが手を挙げた。
「お待たせしてごめんなさい。」
「ううん。待ってないよ。」
相変わらず紳士な信一郎さん。
私には、いつも眩しく見える。
「行こうか。」
「はい。」
信一郎さんと並んで歩くと、自分がお嬢様に見えて嬉しい。

「今日は、服装カジュアルなんだね。」
「こういう服装、ダメですか?」
「ううん。ギャップがあって、面白い。」
信一郎さんも気に入ってくれたみたいだし、よかったと思った。
少しずつ自分を見せていけば、やがて私自身を気に入ってくれるかもしれない。
そんな期待感が生まれた。

水族館に着いて、信一郎さんはチケットを受付に渡した。
すると受付の人が驚いている。
「大丈夫?受付できる?」
信一郎さんが受付の人の顔を覗き込むと、それでもまた驚いていて、改めて信一郎さんは凄い人なんだなと思った。
「はい、受付できます。こちらです。」
挙句の果てには、受付の人が直に入り口を案内してくれる始末。
どこまで信一郎さんは、特別な人なのだろう。

「この水族館も、信一郎さんの家が寄付しているんですか?」
「ああ……この水族館は、寄付じゃなくて出資してるんだ。」
「じゃあ、信一郎さんの家の水族館って感じですね。凄いなぁ。」
私の言い方に、戸惑いを感じたのか、信一郎さんは立ち止まってしまった。
「芹香さんは俺の事、凄い凄いって言うけれど、凄いのは俺じゃない。」
「信一郎さん?」
「今のところは、親父が凄いだけなんだ。」
この人は、その凄い家に生まれた自分を、気にしているのだろうか。
「でも、やがてそのお父さんの後を継ぐのでしょう?」
「どうかな。」
信一郎さんは、近くの水槽を覗き込んでいた。

「俺は俺の会社を持っている。親父の会社を継ぐかどうかは、分からない。」
本当だったら。
芹香のようなお嬢様だったら、そんな事を言われたら、不安になるだろうけど。
私は、逆にそんな風に言う信一郎さんを、頼もしく思った。
「……自分の人生は、自分で決めるって事ですね。」
「ああ、そうだね。」
信一郎さんの覗いている水槽を、私も一緒に見た。
「そういう信一郎さん、素敵だと思います。」
信一郎さんをチラッと見ると、優しく微笑んでいた。
「芹香さんは、普通のお嬢様と違うな。」
「えっ?」
ギクッとなって、何かマズい事を言ったかなと思った。

「普通、親父の会社を継ぐか分からないと言ったら、”そうなんですか?”って、不安な顔になる。」
「そうでしょうね。」
信一郎さんは私を見つめてくれる。
「でも芹香さんは、そういう俺を素敵だと言ってくれた。それは……」
「それは?」
「俺自身を見ていてくれているから?」

私達は、水槽の前で見つめ合った。
しばらくして、信一郎さんはクスッと笑った。
「俺の勘違いだったかな。」
そう言って信一郎さんは、歩き始めた。
「信一郎さん……」
信一郎さんの背中が、遠くなる。
今、信一郎さんに遠くに行かれたら、私はもう追いつけない。

私は信一郎さんを追った。
「信一郎さん!」
私は信一郎さんの背中に、抱き着いた。
「えっ?芹香さん?」
「行かないで。」
そして信一郎さんの身体を、ぎゅっと抱きしめた。

「私、信一郎さんが好きです。」
「芹香さん。」
「信一郎さん自身が好きです。その、家柄とかお金とかじゃなくて。」
そして信一郎さんは、クルッと振り向いた。
「芹香。」
ドキッとした。
急に信一郎さん、名前を呼び捨てにするから。

「俺も、芹香の事が好きだ。」
その瞬間、信一郎さんに唇を奪われた。
長いキス。
信一郎さん、本当に私の事好きなの?
唇が離れると、信一郎さんは私の手を握ってくれた。
「ごめん。長い時間キスして。」
「ううん、嬉しかった。」

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