ワンコな後輩の飼い主になりました!?

東 万里央

「ワンコな後輩にセクハラしちゃいました!?」1

「マー君」を亡くして二ヶ月になるが、透子の悲しみは薄まるどころか日々濃くなる。まだ元気だった数年前の遺影と位牌に手を合わせ、在りし日を思い出しては涙に暮れている。
 
 勤め先から帰ってからと休日が一番辛い。がらんと薄暗くぬくもりのないマンションの一室――もうこの世にマー君はおらず、一人ぼっちになったのだと思い知らされる。

 ともに暮らしていた頃にはドアを開けるなり、マー君はお帰り!とばかりに飛び付いてきて、食事を出すと目をキラキラ輝かせて喜んだ。二人で思い切り遊んでからベッドで身を寄せ合って眠ったのに。規則正しい呼吸のリズムをよく覚えている。

 寂しいだけではなくあの部屋には思い出が詰まり過ぎている。今はマンションに帰るのが苦痛だった。

 だから、月命日の今日部署の飲み会に誘われ、珍しく二つ返事で頷いたのだ。

 いつものように断られると思いこんでいたのだろう。誘いをかけた同僚の仁科裕貴は「どんな風の吹き回しだ?」と首を傾げた。

「例の束縛クセのある男と別れたのか?」

「うん、まあ、そんなものね」

 笑いながら誤魔化したのだが、裕貴は何を勘違いしたのか、「……女でその年で別れるのって辛いだろ」と深刻な表情になった。

「なんだったら男紹介するか? まだギリギリ二十代なんだから、彼氏作るなら今のうちだぞ」

「ありがとう。でも、当分男は遠慮しておくわ」

 確かに二十九歳という微妙な年齢ではあるが、まったく余計なお世話だった。もっとも裕貴にはマー君が何者かを教えてないので、彼氏だと勘違いされても仕方がないのだが。

 五年前当時の彼氏とある件で揉めて以来、もう男性は懲り懲りだった。

 飲み会の会場は海鮮料理が売りの居酒屋。オープンしたばかりで個室全体に清潔感があった。和モダンのブラウンのテーブル、グレーがかった畳、灯籠風の照明も雰囲気がある。

 テーブルに並べられた刺身の盛り合わせを中心とした料理も、味が良いだけではなくセンスのある盛り付け方だった。

「一橋さん、もう空っぽですか? ……ちょっとペース早くないですか?」

「大丈夫、大丈夫。私のお酒の強さは諏訪君も知っているでしょう。それに、こんなに美味しい料理があるのに飲まないなんてありえない」

「知っていますけど……」

 心配顔の後輩――諏訪蒼真の心配をよそに、次々とビールジョッキを呷り、カクテルのグラスを空にしていく。
 
 だが、アルコールは透子の視界を多少ブレさせはしたものの、マー君を忘れさせることはできなかった。

(私、こんなところで何をしているんだろう)

 情けなさで涙が込み上げてくる。

(今日はマー君の月命日なのに。大好きだったジャーキーもお供えしていない。なのに、こんなところに逃げてきて)

 宴もたけなわなので皆酔っ払い、適当に数人で固まるなり一人で飲み続けるなりして、いちいち透子に構う者はいない。今はそうした個人主義的無関心がありがたかった。

(やっぱり二次会は遠慮しておこうかな。……帰りにお花買って帰らなくちゃ。遅くなってごめんねってマー君の遺影に謝らないと)

 泡盛のグラスを置き幹事の裕貴を探したのだが、トイレにでも行っているのか姿はない。とりあえず酒代を用意しなければと、バッグから財布を取り出したところで隣で船を漕ぐ蒼真に気付いた。腕を組み壁に背をつけて寝息を立てている。

 そういえば蒼真は人懐っこく社交的でおしゃべりなのに、今日はなぜかずっと自分の隣にいた。ビールのピッチャーを手に参加者全員に注ぎ回ってもおかしくなかったのだが。

 それにしてもと蒼真の顔を何気なく見る。

(相変わらず綺麗な顔してるわね。営業事務の女の子たちが騒ぐのもわかるわ)

 諏訪蒼真は昨年中途採用組として透子の勤め先である大手菓子製造業者、鹿角製菓本社営業部に転職してきた。前職は大手流通業者の傘下であるコンビニエンスストアチェーン本社のマーケティング部だったと聞いている。営業からマーケティングへの転職は時折聞くが、逆のケースは珍しいと感じたのを覚えている。

 透子は蒼真の指導員だったのだが、あのイケメンのそばにいられるなんてと、営業事務の女子社員にしきりに羨ましがられた。

 何せ名門国立のI大学を卒業し、流通大手から鹿角製菓にやってきたのだ。それだけで会社から期待されいるのだとわかる。

 実際、蒼真は優秀だった。いい意味で要領がよく、あっという間に仕事のコツを掴んだだけではない。任せた取引先の担当に可愛がられていると聞いた。人好きのする性格なのだろう。

 蒼真は能力や性格だけではなく、数ある男性社員の中でも際立った容姿をしていた。

 身長は優に一八〇センチを越え、ダークネイビーのスーツがよく似合う。細身で腰の位置がぐっと高く足が長いからだろう。
 
 スタイルだけではなく顔立ちも魅力的だった。

 意思の強そうな眉の下にあるくっきりとした二重のチョコレート色の目。すっと通った鼻梁といつも人懐っこい笑みをたたえた薄い唇。

 賢そうで、それでいてちょっと気が強そうで、少年のように悪戯っぽく笑う――ふと、身長は高いのに小型犬みたいな子だなと思う。

(そう、この髪もマー君の毛みたい)

 マー君の毛色はレッドと呼ばれていた。日本語では赤茶が近い。そして、蒼真のサラサラの髪も同じ色だった。

「……」

 無意識のうちに手を伸ばし指先に髪を絡ませる。

(……手触りまでマー君にそっくり)

 マー君のアンダーコートを思わせる柔らかさだった。蒼真の頭を撫で撫でしつつ声を潜めて泣いてしまう。

「うっ……マー君。どうして私を置いていっちゃったの……」
 
「あなただけが心の支えだったのにと」呻く。十七年マー君を中心に生きてきた透子にとってその死はあまりに大きかった。
  
 悲しさと寂しさ、心にぽっかり空いた穴を埋めたくて、マー君そっくりの髪を弄び続ける。

 いくら酒に強いとはいえやはり酔っていたのだろう。いつもの透子なら無許可で他人に触れるなどありえない。昨今、女性から男性へのセクハラも問題となるのだから。

 だから、チョコレート色の目がゆっくり開いてその視線が向けられ、ぎょっとして我に返った時には心臓が止まりそうになった。

 薄い唇にあの人懐っこい笑みはない。

「……一橋さん、マー君って誰ですか?」


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