おとぎの店の白雪姫【新装版】

ゆちば

第28話 ましろの葛藤

 小折花衣里こおりかいり。東京生まれの30歳。21歳の時にフランスに渡り、24歳でフランスのグランメゾンのシェフとなる。去年はフランス料理コンテストで優勝し、満を侍して日本で《テーブル・ディ・エスポワ》をオープンした、超人気オーナーシェフ。


「調べれば調べるほど、すごかったなぁ」


 昨日、ましろはりんごおじさんのいないスキを狙って、家のパソコンで小折シェフのことを調べた。 
 そして、小折シェフがどれほど優秀で人気者なのかが分かり、心の底から驚いていたのだ。


 東京のお店の予約が数年間埋まってるなんて、びっくりすぎるよ!


 のんびり営業している《りんごの木》とは大きな違いだ。


 そして、小折シェフとりんごおじさんは、フランスのグランメゾンでいっしょに働いていたのではないだろうか。
 きっとその時に、小折シェフがりんごおじさんに恋をしたけれど、りんごおじさんは日本へ帰ることを決めていた。すぐに後を追うことができない小折シェフは、約束の場所での告白を誓い、りんごおじさんの飛行機を見送った──。


 こんなかんじ?


 我ながら、なかなかドラマチックな妄想だ。






 ましろは、りんごおじさんを尾行するべく、《りんごの木》の入り口から少し離れた電柱の陰に隠れていた。


 ランチ営業の片付けを終えたりんごおじさんは、お店の表、もしくは裏口から出て来るはずだ。そのため、ましろは表の入り口、アリス君は裏口を見張っている。そして、りんごおじさんが出て来次第、スマートフォン(アリス君は二台持ちなので、ましろは一台借りた)で連絡を取って合流するという予定だ。


「あっ!」


 そうこうしている間に、りんごおじさんが出て来たではないか!


 ましろは、急いでスマートフォンで『出て来たよ!』とアリス君にメールを送ると、そっと静かに、りんごおじさんの後を追った。


 そして、りんごおじさんは軽やかな足取りで、おとぎ商店街を歩いて行く。少し離れた場所から見ていても、機嫌がいいと分かる。 


 ふと、ましろは、りんごおじさんが「相手の喜ぶ顔を想像するだけで、心が踊って、あたたかくなりますよ」と、恋の話をしていた時のことを思い出した。


 今のりんごおじさんは、心が踊っているのかな……。


 そう考えると、なんだか胸の奥がチクリと痛くなって、モヤモヤとしてきた。昨日よりもさらに、モヤモヤだ。


 何、この気持ち。わたし、変だ。


 一瞬、ましろの足が鉛玉みたいに重たくなったのは、ある建物の前にいる小折シェフが、りんごおじさんを見つけて、大きく手を振っている様子を見たからだ。


「やぁ、凛悟君! 会いたかったよ!」
「お久しぶりです。花衣里さん」


 嬉しそうににこにこと笑い合う二人姿に、ましろは立ちすくむ。


「待って……。行かないで!」


 わたしをひとりにしないで。


 ましろは、重たい手を伸ばす。りんごおじさんに届かない距離だと分かっているけれど、りんごおじさんが遠く遠くへ行ってしまう気がして、手を伸ばさずにはいられなかった。


「……ましろ、だな?」


 その時、背中側から名前を呼ばれた。


 低くてよく響く声。ましろの知っている男の人の声。反射的に、体が縮こまってしまう声──。


 ましろは、勇気を出して振り返った。


「久しぶりだな。ましろ」
「お父さん……?」


 そこには、きれいなスーツを着た男の人が立っていた。鋭い目をした顔に見覚えはない。それは、お父さんがましろが小さいころに出て行ってしまい、ましろはお父さんのガラス玉のような目しか覚えていないから。


 けれど、声は覚えていた。「もう疲れたんだ。自由にしてくれ」と、力なく言い放った声の主は、間違いなく目の前の男の人だ。


「どうして、お父さんがここに……」


「お前に会いに来た。少し、話す時間はあるか?」


 ましろは、スマートフォンをギュッと握りしめながら、黙ってうなずいた。


 アリス君、ごめん……!






 ***
 ましろのお父さんの名前は、美鏡七人みかがみななひと。ましろは、それは覚えていたけれど、お父さんは名刺をくれた。


「好きなものを頼んでいいから」


 食い入るように名刺を見ていたましろの前に、お父さんはメニュー表をトンと置いた。


「うん。ありがと……」


 ましろはお父さんに連れられて、駅の近くにある大きなホテルの中のカフェに来ていた。
 結婚式もできてしまうくらい大きくて立派なホテルで、もちろんカフェも立派だ。天井にはシャンデリアがぶら下がっていて、とてもまぶしい。真っ白のテーブルクロスには、金色の刺繍がほどこされているし、ソファはふかふかすぎて、むしろ落ち着かない。


 ましろは、メニュー表を見つめるけれど、食べ物の写真やイラストがなく、小さい日本語と英語ばかりでピンと来ない。けれど、値段は見ただけで分かる。


 すっごく高いお店だ。


「リンゴジュースが飲みたい……」
「それだけか?」


 ましろが遠慮がちに言うと、お父さんは顔をしかめたまま、店員さんを呼んだ。


「ブレンドコーヒー。リンゴジュースとホットケーキをこの子に」


 ホットケーキ⁈


 ましろが「えっ?」と顔をあげると、お父さんは「子どもが遠慮するんじゃない」と言いながら、お水を少しだけ飲んだ。


「……お母さんのことは、残念だったな」


 唐突に、お母さんの話になった。
 ましろは息苦しさを覚えながらも、正面からお父さんを見つめた。


「誰から聞いたの?」
「お母さんと共通の友達から。つい最近だが……。つらかったな、ましろ」
「うん……」


 黙っている時間の方が長いからか、いつの間にかリンゴジュースとホットケーキが運ばれてきていた。キラキラのグラスに入ったリンゴジュースと、二段重ねのふっくらとしたホットケーキは、美味しそうだけれどなかなか手が伸びない。なんだか、食欲が湧かなかった。


「悲しい時、そばにいてやれなくてすまなかった」
「いなかったのは、悲しい時だけじゃないじゃん」
「……そうだな。お父さんは、ずっといなかったもんな」


 お父さんは、コーヒーをひと口だけ飲むと、そっとお皿の上に戻した。もう、昔のガラス玉みたいな目はしていなくて、キリリと光る黒い宝石みたいな目だと思った。


「ましろ、お父さんと暮らさないか?」


 お父さんのよく響く声が、ましろの耳の中でコダマした。


「お父さんと、暮らす?」


 少しも想像していなかった言葉に、ましろは戸惑った。思わずきょろきょろしてしまうけれど、誰かが代わりに答えてくれるわけはない。お父さんは、ましろの答えを待っている。


 そして、ましろは「どうして?」とだけ、しぼり出した。
 すると、お父さんはましろに渡した名刺を指差して、再び口を開く。


「お父さんな、五年前にやっと弁護士になれたんだ。あの時は心に余裕がなくて、ましろたちと別れることを選んだが、今は違う。今なら、きちんとましろと向き合える。養ってやることもできる」
「弁護士さん……。《美鏡法律相談所》……」


 名刺には、弁護士事務所の名前と電話番号、そして住所が載っていた。住所は東京だった。


 また東京だ。


 その文字を見るだけで、ましろはなんだか胸が重たくなった。
 けれど、お父さんは気がつかずに続けた。


「ましろ、今は凛悟君の所で世話になっているだろう? レストランの手伝いをしているところも見たよ。住まわせてもらうのが申し訳なくて、手伝っているんだろう? 肩身が狭い思いをして、可哀想にな」
「違うよ‼︎」


 つい、大きな声が出てしまった。


「わたしは、りんごおじさんと《りんごの木》に恩返しがしたくて、お手伝いしてるの! わたしは、かわいそうじゃない!」
「ま、ましろ! 落ち着け!」


 お父さんは、周りを気にして慌てていた。けれど、ましろは止まらなかった。昨日から溜まっていた気持ちが、ダムが壊れたみたいに溢れてきたのだ。


「りんごおじさんは優しいんだ! いっしょにご飯を食べようって、言ったくれた! 忙しくても、学校行事にも絶対に来てくれる! 話は真剣に聞いてくれるし、怒る時もあるけど、突き放したりしない!」
「でも、ましろ。凛悟君は、叔父さんだ。いつまでも姪のお前といてくれるのか? 彼はまだ若い。そのうち、奥さんや子どもだってできるかもしれない。その時、ましろはどうするんだ?」


 お父さんの言葉が胸に重く突き刺さり、言い返すことができないましろは、黙って唇を噛みしめた。それは、今まで考えないようにしていたことだった。


 小折シェフと笑い合うりんごおじさんの姿が浮かび、頭がガンガンと痛くなる。


「凛悟君の自由を奪うのは、ましろだって嫌だろう?」


 わたしが、りんごおじさんの自由を奪う?


「イヤだ……。イヤだよ……」


 わたしのせいで、優しいりんごおじさんが不自由になるのは耐えられない。


 あれ……。どうして?


 気がつくと、涙で視界がゆがんでいる。お父さんの顔がぐにゃぐにゃに曲がっていて、どんな表情をしているのかが分からない。


「それなら、お父さんのところに来るといい。つらい想いをしなくて済むはずだ」
「…………」


 お父さんは、黙ってうつむくましろの頭をぎこちなくなでると、会計伝票を持って立ち上がった。


「お父さんは、しばらくこのホテルにいる。決心したら、連絡をくれ」


 そう言うと、お父さんはカフェを出て行った。


 そして、ひとり残されたましろは、何も考えられないままに、のろのろとホットケーキに手を伸ばした。すっかり冷めてしまっていて、しょんぼりとしたホットケーキだ。そのうえ、量が多くて一人では食べ切れそうにない。


 いっしょに食べてくれたらよかったのに。


 ましろは、甘過ぎるリンゴジュースでホットケーキを胃に流しこみながら、ナフキンで涙をぐいぐいと拭った。









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