嘘つきは恋人のはじまり。
強くなりたい
ふたりの関係がリセットされて約一ヶ月。雑誌では毎年恒例のイルミネーション特集が誌面を飾り、街は華やかに賑わいをみせていた。クリスマスソングがあちこちで流れ、人々は浮足立つ。
そんな中、玲は年内最後の一大イベントに全力を尽くしていた。約一ヶ月後に迫ったクリスマスではシュクレで大型イベントを全国各地で開催する。その最後の集客と来年のバレンタイン施策。玲のシュクレでの見せ所はここまでだった。
クリスマスイベント参加応募資格はクリスマスケーキ予約者限定だ。ケーキも原材料から見直し、スポンジ、生クリームなどの改良を重ね非常に納得のいくものができた。この土台はバレンタインでの新商品にも繋がるため一年かけて消費者の声を拾っていくつもりである。
「ただい、ま」
午後十時。玲は真っ暗な自宅に帰ってきた。手にはスーパーの惣菜コーナーで半額のシールが貼られた冷たいお弁当を持つ。リビングの電気を点け、電子レンジでお弁当を温める。その間にポットでお湯を沸かせてインスタントの味噌汁を作った。
ひとりの夜はとても味気なかった。何をしてもつまらなくて気を抜けば余計なことを考えてしまう。玄関の方ばかり気になって、開くはずのない扉に期待して落ち込んだ。
あれだけ楽しみにしていたバラエティ番組もひとりだと全然笑えない。コンセントは取り合いする相手がいないおかげでいつでも十分に充電ができた。
洗面台に並んだ歯ブラシは寂しそうに傾き、肩身の狭そうな厳つい電気シェーバーは姿を消した。
時間が経つにつれて感じる孤独と喪失感。心はいつも空虚でいつだってぬくもりを求めた。ベッドに入るとさらに寂しさが増す。狭くて窮屈だったはずなのに、今はシングルベッドがとても広く感じた。
満たされなかった。ひどく渇望していた。
恋しくて会いたかった。
「玲」と名前を呼んで広い胸で抱きしめて欲しかった。
あの時間がどれだけ大切だったのか玲は今になって思い知らされた。
時間が経てば経つほどそれは顕著だった。
「管理者研修の件、来年から取り入れる方向になったんだ」
ADF+オフィスにて、玲は木下と最後の打ち合わせをしていた。「そういえば」とふと思い出したように木下が告げた内容は先日玲が提案していたことだった。
「とりあえず、お試しって感じだけど」
「そうですか」
「色々ありがとうございます」
「いえ。お役に立てたようでよかったです」
お互い頭を軽く下げて顔を見合わせて笑った。
きっかけはある社員から相談を受けたことだった。「管理者としてちゃんとマネジメントができているのか自信がない」と彼は俯いた。
日本は新人教育に力を入れる傾向はあるが管理者層の教育はあまり大々的ではない。
アメリカではGDPの2%にあたる4200億が管理者育成のために国が予算立てており、研修内容も充実している。一方日本は80億ほどの予算が立てられているが、どの会社もそこに必要性を見出していない。だが管理者層を強化することは組織を厚くすることに繋がる。
玲はこの件について簡単な資料と共に木下に相談した。本来なら九条・香月・木下の誰かが相談に乗るべき事案であるが、彼らもまた手探りでセオリーがない。だが、マネジメントに必要な考え方や知識、たとえば法律的な部分で言えば、労働基準法に違反をしていないか、パワハラ・セクハラなどが発生した時の対応の仕方など、知っておいた方がいいことは多岐にある。
今のところADF+では大きな問題があるわけではない。ただ、同じような思いを抱えている社員が他にもいることがわかり、それならと早速管理者教育の研修の申し込みをしたという。
「今日で終わりだね」
「はい、お世話になりました」
予定ではあと一ヶ月契約期間が残っている。だが玲はシュクレに注力したかったこともあり一ヶ月前倒しで契約を終了させてほしいと掛けあった。
幸い、この短い期間で予定していたことはすべてできた。あとは長期的な目で見てやった方がいいことと個人的に気になった点などをまとめた引き継ぎ用の資料を渡すだけだ。
「はい、とても充実してました。勉強にもなりました」
「こちらこそだよ」
玲は椅子から立ち上がった。先ほど香月に挨拶すればシュクレの新しいデザインで話が盛り上がりなんだかとても最後のように思えなかった。
木下とも挨拶と引き継ぎを兼ねた打ち合わせをしたが、結局雑談ばかりで大したことは話していない。
「九条なら今日社内にいるから。あとで挨拶する?それとももうする?」
時計を見れば少しまだ余裕はある。だが、あいにくこのあとシュクレの店舗を回る予定にしていた。早いに越したことはない。玲は「今から行きます」と木下に告げると、仕事用の笑みを貼り付けて九条のいる社長室の扉を叩いた。
「お疲れさま」
一ヶ月ぶりに見た梓は相変わらず忙しそうだった。スケジュールも常に埋まっていた。
基本的に外出しており、今日は玲が最後だからと、この時間だけ合わせて社内にいてくれたらしい。
玲は丁寧に「ありがとうございました」と頭を下げた。
「短い期間だったけどどうだった?」
梓は玲をソファーに座るように促した。玲は「失礼します」とダークブラウンの革張りのソファーに腰を下ろした。
「非常に充実していました」
「そう。何か見つけられた?」
梓は真っ直ぐ玲の目を見て訊ねた。その目を見て玲は初めて梓と食事をした日のことを思い出す。「どういうキャリアを築きたいか」と玲の人生について訊ねてくれた時と同じ目だった。
自分の要望ばかりでなく、玲の目指す方向を確認して尊重してくれた。もしそれがうまく重ならないのなら彼は無理に誘わなかっただろう。
玲がただぼんやりとした、曖昧な未来のビジョンだったからこそ選択肢を増やしてくれた。
こんな人の元で働ける社員はきっと幸せななんだろうな。玲はそっと目を伏せて小さな声で「はい」と頷いた。
「…大切なものを見つけました。大事なことを教えてもらいました」
玲は何がとは言わなかった。具体的なことも何ひとつ言うつもりはなかった。
梓もそれ以上踏み込んでこなかった。聞いていいのかどうなのかきっと迷っただろう。それでも玲は答えるつもりはなかった。今ここで話せる内容でもなかった。
穏やかな時間をくれた人は最後まで優しい目で玲を見つめていた。玲は真正面からその眼差しを受け入れる自信がなくてわずかに視線を逸らしてやり過ごす。
声を聞けば聞くほど手を伸ばしたくて、言いたいことはたくさんあるのに言葉にできないことばかり。余計なことを言ってしまう前に、玲はこの場を後にしようと立ち上がった。
「お世話になりました。次の予定があるのでここで失礼します。」
挨拶はわずか五分ほどで終わった。それでもとても長く感じたのは玲が緊張していたからだろう。玲は軽く頭を下げて背中を向けた。
だが、ドアノブに手を伸ばしたところで先に梓がその取手を掴んでしまった。反対側の手が扉につき、玲は扉と梓に囲まれた。背中に彼のシャツが触れた気がして振り返ることもできない。
「…行かないでほしい、と言えば少しは考えてくれるのか?」
頭上から落ちてきた声は随分と自信なさげな声だった。見上げればとても苦しそうな目とぶつかり玲は何も見なかったふりをして視線を流した。
「…仕事なので無理ですよ」
梓がそういうことを言いたいのではないと理解していた。でも玲はまだ梓の約束をなにひとつ守れていない。ロバートとの関係もまだ継続中だ。それでも一歩玲は踏み出した。
「…来月パースに戻ります」
「……日本に戻ってくるのか」
玲はなにも答えなかった。答えられなかった。話し合いがどう進むかも分からない。すぐに戻ってくるという確証はなかった。だが、どっちに転んでもロバートとの関係を終わらせるつもりだった。それは玲が悩み抜いた上で決めたことだ。まだ誰にも言ってもいない。
「大切だから、そばにいない方がいいこともあると思うんです。守りたいから選ばないという選択肢もある」
「…玲はそれでしあわせなのか」
玲は答えられなかった。それが正解かどうかなんてきっと死ぬまでわからないだろう。
だけどきっと今はこう答えることが正解なんだということはわかった。
「…はい。自分で決めたことですから」
「…………そう」
梓は「気をつけて」と扉を開けてくれた。玲は最後にしっかりと視線を合わせて目を細めた。
「…ありがとう」
それは玲として今言えるとてもシンプルな言葉だった。梓は真っ直ぐな姿勢で去って行く後ろ姿を見て奥歯を噛み締めた。
******
日本での出店の話が今今すぐに動くような話ではなかった。当然と言えば当然だがいくつかの段階を踏まないといけない。また時期も時期なので、日本への下見は早くとも来年の二月頃。つまり、玲は予定通り一度帰る手筈になっていた。
だが玲はその予定を前倒しにして十日ほど早くパースに向かっていた。年内でけりをつけたかったこと、そしてできればお正月は家族と過ごしたかった。
「…みんな元気かな」
羽田から離陸した飛行機はシンガポールを経由してパースに到着する。真っ直ぐに彼の家には帰らずホテルを予約した。次に来るの機会があるかどうかわからない。それなら玲は最後に街をゆっくり見て回りたかった。いつもの散歩道のコースとはまた別に玲のお気に入りの場所がいくつもある。時々ひとりでふらりと出歩いてそういう場所を見つけていた。
「暑いな」
日本は真冬でも赤道を超えた向こう側は季節が真逆だった。つまり夏だ。
オーストラリアのサンタクロースは真夏にモコモコの赤い洋服を着てビーチで寛いでいる。玲は日本で買った夏物の洋服に着替えて先にホテルにチェックインすると小さな鞄ひとつで街に出かけた。
初日は街を巡り、二日目はお気に入りの場所を訪れた。覚えてくれたいた人がいたらしく玲は「久しぶりだね」と声をかけられて驚いた。耳は少し衰えていたけれど人々の会話を聞いているうちに少しずつ慣れてきた。
夜の海はとても静かだった。波打ち際を歩きながらロバート出逢った日のことを思い出した。ロバートは玲が入水自殺するように見えたらしく、後から聞いてとても笑った。
でもそれだけ玲が悲壮な顔をしていたんだろう、と今になって思う。本当なら昼間の綺麗な青い海を眺めたかったがあいにく人が多くて玲が一人のんびりと海を眺めていると変質者に変わりない。だから玲は夜にこそっリ別れを告げにきた。
たくさん助けてもらった海を見て、受け入れてくれたこの街を歩きまわった。
もう思い残すことはないだろう。玲は海に向かって小さな声で「ありがとう」と呟くと背中を向けて帰路についた。
三日目は昼過ぎにロバートの自宅へ向かう予定にしていた。彼に連絡はしていない。
仮にもしやましいことがあっても玲はロバートを責める権利はない。
どうか彼にふさわしい人と幸せになってほしい。ただそれだけが玲の想いだ。
近くの飲食店で昼食を取った後、玲は懐かしい道を歩きながらロバートの自宅を目指した。一応彼が喜びそうな日本のお土産も持っている。シュミレーションもバッチリだった。何か言われても「驚かせたくて」と笑って誤魔化すつもりだった。ここまでくればもうあとはなんとかなるだろう。悪いのは自分で、だからこそもう関係を解消させるつもりだった。
「あれ?いない」
いつもならロバートはこの時間帯は自宅にいるはずだった。だからこそ狙ってきた。
本人不在とはやはり連絡は必要だったかと肩を落とす。一応寝室も覗いてみたがもぬけの殻だった。部屋中を見渡してなんとなく懐かしさよりもアウェイ感の方が強く感じてしまう。帰ってきたはずなのに余所者のように感じるのは玲が別れを告げようとしているせいだろうか。
庭に回るとロバートが愛用していたサーフボードが立てかけられていた。
濡れてもないので今日は海に行っていないらしい。
それなら買い出しか、それとも店か。玲は日本のお土産であるお菓子を痛まないように冷蔵庫に入れると鍵をかけて仕入れルートへ歩き出した。
「レイ、久しぶりだね!」
「帰ってきたのかい?」
「なんだ、すっかり白くなって」
仕入れ先の人々は玲を見るなり声をかけてくれた。
玲も「お久しぶりです」とにこやかに対応する。
今日ロバートは来たか、と尋ねれば皆顔を見合わせていやと首を横に振った。
「来るならもう少しあとだな」
そこは変わらないのか。
玲はふむ、と頷いて「ありがとう」と礼を言って店に向かった。
入り口は鍵が閉まっていたが勝手口は開いているようだった。
玲は少しだけ扉を開けてその隙間から中を覗った。トントントントン、と小気味よい包丁の音がする。玲はもう少し扉を開けて中を覗くとそれに気づいたらしいロバートが振り返った。
「っ?!レイ?!」
「ここにいたのね」
ロバートは手に持っていた包丁を置くと『どうしたんだい?』と慌てて駆け寄ってきた。玲は「ごめんね、邪魔して」と一言謝罪する。いつもなら邪魔されることを嫌うロバートだがさすがに今の状況で文句は言わなかった。だが玲は「終わるまで店で待ってていいか」とロバート訊ねた。
ロバートは入り口を開けてくれた。玲は懐かしい店内に入りいつものカウンター席に座る。ここはロバートが調理している様子がよく見える場所だった。パースに来て初めてこの店に連れてきてもらった時もこの席に座らせてもらった。
「何か飲むかい?」
「お水でいいよ」
「もう少ししたら仕入れに出るんだ」
二人は当たり障りのない会話をして、ロバートはまた店の奥に引っ込んだ。
玲はぼんやりとしながらここで過ごした時のことを思い出す。
「東洋人」という物珍しさに常連たちはよく玲に話かけてくれた。だが玲は英語がからっきしダメだ。会話にもならなかった。だがそんな玲のために、英語力養成講座が始まった。簡単な英会話をお客さんたちが教えてくれた。
そのおかげといえるのか、玲は日常会話に困らなくなるぐらいには会話力が身についた。半年を過ぎた頃にはアルバイト程度の接客ならこなせるようになった。
彼らは今も元気だろうか。ふと思い出してロバートに尋ねようと思いやめた。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで彼の邪魔をしないようにと店の奥に向けた視線を店内に戻す。
『もう仕事は終わり。早く寝よう』
『明日の資料が』
『明日考えよう』
『もう明日ですけど』
『とりあえず、俺は寝たい。だから玲も一緒に寝る』
あの時梓は強制的に玲を寝室に連れて行った。玲はそのことを思いだして苦笑する。
邪魔ばかりしてくる彼はきっと人のことなど全く関係なく自分の思うままに好き勝手していたはずだ。
玲はいつからか悪い意味で人の顔色を読むようになってしまった。
だから今も、昔からずっとロバートに嫌われないようにしようと行動に出てしまうのだろう。
馬鹿だなあ、と思う。きっとその時点でもう対等じゃなかった。
対等じゃない関係は長続きしない。だからきっと遠慮なく言い合えた梓との時間は対等で居心地が良かったんだと思いいたった。
「それでどうしたんだい?予定より早かったじゃないか」
ロバートは三十分ほどで切り上げると玲の隣の椅子に腰掛けた。
玲はロバートを見上げながら「うん」と頷く。
「これを返したくて」
玲は鞄の中からロバートの自宅の鍵を取り出して、カウンターのテーブルの上に置いた。彼から鍵を渡された時もこの店だった。
傷ついた玲に居場所をくれた。逃げ場をくれた。それにしがみつくように玲は彼を受け入れた。
「……わたしと別れてください」
後戻りはできなかった。本当に正しいのか今もわからない。だけどこれでいい。
玲は静かに頭を下げて恋人の反応を覗った。
そんな中、玲は年内最後の一大イベントに全力を尽くしていた。約一ヶ月後に迫ったクリスマスではシュクレで大型イベントを全国各地で開催する。その最後の集客と来年のバレンタイン施策。玲のシュクレでの見せ所はここまでだった。
クリスマスイベント参加応募資格はクリスマスケーキ予約者限定だ。ケーキも原材料から見直し、スポンジ、生クリームなどの改良を重ね非常に納得のいくものができた。この土台はバレンタインでの新商品にも繋がるため一年かけて消費者の声を拾っていくつもりである。
「ただい、ま」
午後十時。玲は真っ暗な自宅に帰ってきた。手にはスーパーの惣菜コーナーで半額のシールが貼られた冷たいお弁当を持つ。リビングの電気を点け、電子レンジでお弁当を温める。その間にポットでお湯を沸かせてインスタントの味噌汁を作った。
ひとりの夜はとても味気なかった。何をしてもつまらなくて気を抜けば余計なことを考えてしまう。玄関の方ばかり気になって、開くはずのない扉に期待して落ち込んだ。
あれだけ楽しみにしていたバラエティ番組もひとりだと全然笑えない。コンセントは取り合いする相手がいないおかげでいつでも十分に充電ができた。
洗面台に並んだ歯ブラシは寂しそうに傾き、肩身の狭そうな厳つい電気シェーバーは姿を消した。
時間が経つにつれて感じる孤独と喪失感。心はいつも空虚でいつだってぬくもりを求めた。ベッドに入るとさらに寂しさが増す。狭くて窮屈だったはずなのに、今はシングルベッドがとても広く感じた。
満たされなかった。ひどく渇望していた。
恋しくて会いたかった。
「玲」と名前を呼んで広い胸で抱きしめて欲しかった。
あの時間がどれだけ大切だったのか玲は今になって思い知らされた。
時間が経てば経つほどそれは顕著だった。
「管理者研修の件、来年から取り入れる方向になったんだ」
ADF+オフィスにて、玲は木下と最後の打ち合わせをしていた。「そういえば」とふと思い出したように木下が告げた内容は先日玲が提案していたことだった。
「とりあえず、お試しって感じだけど」
「そうですか」
「色々ありがとうございます」
「いえ。お役に立てたようでよかったです」
お互い頭を軽く下げて顔を見合わせて笑った。
きっかけはある社員から相談を受けたことだった。「管理者としてちゃんとマネジメントができているのか自信がない」と彼は俯いた。
日本は新人教育に力を入れる傾向はあるが管理者層の教育はあまり大々的ではない。
アメリカではGDPの2%にあたる4200億が管理者育成のために国が予算立てており、研修内容も充実している。一方日本は80億ほどの予算が立てられているが、どの会社もそこに必要性を見出していない。だが管理者層を強化することは組織を厚くすることに繋がる。
玲はこの件について簡単な資料と共に木下に相談した。本来なら九条・香月・木下の誰かが相談に乗るべき事案であるが、彼らもまた手探りでセオリーがない。だが、マネジメントに必要な考え方や知識、たとえば法律的な部分で言えば、労働基準法に違反をしていないか、パワハラ・セクハラなどが発生した時の対応の仕方など、知っておいた方がいいことは多岐にある。
今のところADF+では大きな問題があるわけではない。ただ、同じような思いを抱えている社員が他にもいることがわかり、それならと早速管理者教育の研修の申し込みをしたという。
「今日で終わりだね」
「はい、お世話になりました」
予定ではあと一ヶ月契約期間が残っている。だが玲はシュクレに注力したかったこともあり一ヶ月前倒しで契約を終了させてほしいと掛けあった。
幸い、この短い期間で予定していたことはすべてできた。あとは長期的な目で見てやった方がいいことと個人的に気になった点などをまとめた引き継ぎ用の資料を渡すだけだ。
「はい、とても充実してました。勉強にもなりました」
「こちらこそだよ」
玲は椅子から立ち上がった。先ほど香月に挨拶すればシュクレの新しいデザインで話が盛り上がりなんだかとても最後のように思えなかった。
木下とも挨拶と引き継ぎを兼ねた打ち合わせをしたが、結局雑談ばかりで大したことは話していない。
「九条なら今日社内にいるから。あとで挨拶する?それとももうする?」
時計を見れば少しまだ余裕はある。だが、あいにくこのあとシュクレの店舗を回る予定にしていた。早いに越したことはない。玲は「今から行きます」と木下に告げると、仕事用の笑みを貼り付けて九条のいる社長室の扉を叩いた。
「お疲れさま」
一ヶ月ぶりに見た梓は相変わらず忙しそうだった。スケジュールも常に埋まっていた。
基本的に外出しており、今日は玲が最後だからと、この時間だけ合わせて社内にいてくれたらしい。
玲は丁寧に「ありがとうございました」と頭を下げた。
「短い期間だったけどどうだった?」
梓は玲をソファーに座るように促した。玲は「失礼します」とダークブラウンの革張りのソファーに腰を下ろした。
「非常に充実していました」
「そう。何か見つけられた?」
梓は真っ直ぐ玲の目を見て訊ねた。その目を見て玲は初めて梓と食事をした日のことを思い出す。「どういうキャリアを築きたいか」と玲の人生について訊ねてくれた時と同じ目だった。
自分の要望ばかりでなく、玲の目指す方向を確認して尊重してくれた。もしそれがうまく重ならないのなら彼は無理に誘わなかっただろう。
玲がただぼんやりとした、曖昧な未来のビジョンだったからこそ選択肢を増やしてくれた。
こんな人の元で働ける社員はきっと幸せななんだろうな。玲はそっと目を伏せて小さな声で「はい」と頷いた。
「…大切なものを見つけました。大事なことを教えてもらいました」
玲は何がとは言わなかった。具体的なことも何ひとつ言うつもりはなかった。
梓もそれ以上踏み込んでこなかった。聞いていいのかどうなのかきっと迷っただろう。それでも玲は答えるつもりはなかった。今ここで話せる内容でもなかった。
穏やかな時間をくれた人は最後まで優しい目で玲を見つめていた。玲は真正面からその眼差しを受け入れる自信がなくてわずかに視線を逸らしてやり過ごす。
声を聞けば聞くほど手を伸ばしたくて、言いたいことはたくさんあるのに言葉にできないことばかり。余計なことを言ってしまう前に、玲はこの場を後にしようと立ち上がった。
「お世話になりました。次の予定があるのでここで失礼します。」
挨拶はわずか五分ほどで終わった。それでもとても長く感じたのは玲が緊張していたからだろう。玲は軽く頭を下げて背中を向けた。
だが、ドアノブに手を伸ばしたところで先に梓がその取手を掴んでしまった。反対側の手が扉につき、玲は扉と梓に囲まれた。背中に彼のシャツが触れた気がして振り返ることもできない。
「…行かないでほしい、と言えば少しは考えてくれるのか?」
頭上から落ちてきた声は随分と自信なさげな声だった。見上げればとても苦しそうな目とぶつかり玲は何も見なかったふりをして視線を流した。
「…仕事なので無理ですよ」
梓がそういうことを言いたいのではないと理解していた。でも玲はまだ梓の約束をなにひとつ守れていない。ロバートとの関係もまだ継続中だ。それでも一歩玲は踏み出した。
「…来月パースに戻ります」
「……日本に戻ってくるのか」
玲はなにも答えなかった。答えられなかった。話し合いがどう進むかも分からない。すぐに戻ってくるという確証はなかった。だが、どっちに転んでもロバートとの関係を終わらせるつもりだった。それは玲が悩み抜いた上で決めたことだ。まだ誰にも言ってもいない。
「大切だから、そばにいない方がいいこともあると思うんです。守りたいから選ばないという選択肢もある」
「…玲はそれでしあわせなのか」
玲は答えられなかった。それが正解かどうかなんてきっと死ぬまでわからないだろう。
だけどきっと今はこう答えることが正解なんだということはわかった。
「…はい。自分で決めたことですから」
「…………そう」
梓は「気をつけて」と扉を開けてくれた。玲は最後にしっかりと視線を合わせて目を細めた。
「…ありがとう」
それは玲として今言えるとてもシンプルな言葉だった。梓は真っ直ぐな姿勢で去って行く後ろ姿を見て奥歯を噛み締めた。
******
日本での出店の話が今今すぐに動くような話ではなかった。当然と言えば当然だがいくつかの段階を踏まないといけない。また時期も時期なので、日本への下見は早くとも来年の二月頃。つまり、玲は予定通り一度帰る手筈になっていた。
だが玲はその予定を前倒しにして十日ほど早くパースに向かっていた。年内でけりをつけたかったこと、そしてできればお正月は家族と過ごしたかった。
「…みんな元気かな」
羽田から離陸した飛行機はシンガポールを経由してパースに到着する。真っ直ぐに彼の家には帰らずホテルを予約した。次に来るの機会があるかどうかわからない。それなら玲は最後に街をゆっくり見て回りたかった。いつもの散歩道のコースとはまた別に玲のお気に入りの場所がいくつもある。時々ひとりでふらりと出歩いてそういう場所を見つけていた。
「暑いな」
日本は真冬でも赤道を超えた向こう側は季節が真逆だった。つまり夏だ。
オーストラリアのサンタクロースは真夏にモコモコの赤い洋服を着てビーチで寛いでいる。玲は日本で買った夏物の洋服に着替えて先にホテルにチェックインすると小さな鞄ひとつで街に出かけた。
初日は街を巡り、二日目はお気に入りの場所を訪れた。覚えてくれたいた人がいたらしく玲は「久しぶりだね」と声をかけられて驚いた。耳は少し衰えていたけれど人々の会話を聞いているうちに少しずつ慣れてきた。
夜の海はとても静かだった。波打ち際を歩きながらロバート出逢った日のことを思い出した。ロバートは玲が入水自殺するように見えたらしく、後から聞いてとても笑った。
でもそれだけ玲が悲壮な顔をしていたんだろう、と今になって思う。本当なら昼間の綺麗な青い海を眺めたかったがあいにく人が多くて玲が一人のんびりと海を眺めていると変質者に変わりない。だから玲は夜にこそっリ別れを告げにきた。
たくさん助けてもらった海を見て、受け入れてくれたこの街を歩きまわった。
もう思い残すことはないだろう。玲は海に向かって小さな声で「ありがとう」と呟くと背中を向けて帰路についた。
三日目は昼過ぎにロバートの自宅へ向かう予定にしていた。彼に連絡はしていない。
仮にもしやましいことがあっても玲はロバートを責める権利はない。
どうか彼にふさわしい人と幸せになってほしい。ただそれだけが玲の想いだ。
近くの飲食店で昼食を取った後、玲は懐かしい道を歩きながらロバートの自宅を目指した。一応彼が喜びそうな日本のお土産も持っている。シュミレーションもバッチリだった。何か言われても「驚かせたくて」と笑って誤魔化すつもりだった。ここまでくればもうあとはなんとかなるだろう。悪いのは自分で、だからこそもう関係を解消させるつもりだった。
「あれ?いない」
いつもならロバートはこの時間帯は自宅にいるはずだった。だからこそ狙ってきた。
本人不在とはやはり連絡は必要だったかと肩を落とす。一応寝室も覗いてみたがもぬけの殻だった。部屋中を見渡してなんとなく懐かしさよりもアウェイ感の方が強く感じてしまう。帰ってきたはずなのに余所者のように感じるのは玲が別れを告げようとしているせいだろうか。
庭に回るとロバートが愛用していたサーフボードが立てかけられていた。
濡れてもないので今日は海に行っていないらしい。
それなら買い出しか、それとも店か。玲は日本のお土産であるお菓子を痛まないように冷蔵庫に入れると鍵をかけて仕入れルートへ歩き出した。
「レイ、久しぶりだね!」
「帰ってきたのかい?」
「なんだ、すっかり白くなって」
仕入れ先の人々は玲を見るなり声をかけてくれた。
玲も「お久しぶりです」とにこやかに対応する。
今日ロバートは来たか、と尋ねれば皆顔を見合わせていやと首を横に振った。
「来るならもう少しあとだな」
そこは変わらないのか。
玲はふむ、と頷いて「ありがとう」と礼を言って店に向かった。
入り口は鍵が閉まっていたが勝手口は開いているようだった。
玲は少しだけ扉を開けてその隙間から中を覗った。トントントントン、と小気味よい包丁の音がする。玲はもう少し扉を開けて中を覗くとそれに気づいたらしいロバートが振り返った。
「っ?!レイ?!」
「ここにいたのね」
ロバートは手に持っていた包丁を置くと『どうしたんだい?』と慌てて駆け寄ってきた。玲は「ごめんね、邪魔して」と一言謝罪する。いつもなら邪魔されることを嫌うロバートだがさすがに今の状況で文句は言わなかった。だが玲は「終わるまで店で待ってていいか」とロバート訊ねた。
ロバートは入り口を開けてくれた。玲は懐かしい店内に入りいつものカウンター席に座る。ここはロバートが調理している様子がよく見える場所だった。パースに来て初めてこの店に連れてきてもらった時もこの席に座らせてもらった。
「何か飲むかい?」
「お水でいいよ」
「もう少ししたら仕入れに出るんだ」
二人は当たり障りのない会話をして、ロバートはまた店の奥に引っ込んだ。
玲はぼんやりとしながらここで過ごした時のことを思い出す。
「東洋人」という物珍しさに常連たちはよく玲に話かけてくれた。だが玲は英語がからっきしダメだ。会話にもならなかった。だがそんな玲のために、英語力養成講座が始まった。簡単な英会話をお客さんたちが教えてくれた。
そのおかげといえるのか、玲は日常会話に困らなくなるぐらいには会話力が身についた。半年を過ぎた頃にはアルバイト程度の接客ならこなせるようになった。
彼らは今も元気だろうか。ふと思い出してロバートに尋ねようと思いやめた。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで彼の邪魔をしないようにと店の奥に向けた視線を店内に戻す。
『もう仕事は終わり。早く寝よう』
『明日の資料が』
『明日考えよう』
『もう明日ですけど』
『とりあえず、俺は寝たい。だから玲も一緒に寝る』
あの時梓は強制的に玲を寝室に連れて行った。玲はそのことを思いだして苦笑する。
邪魔ばかりしてくる彼はきっと人のことなど全く関係なく自分の思うままに好き勝手していたはずだ。
玲はいつからか悪い意味で人の顔色を読むようになってしまった。
だから今も、昔からずっとロバートに嫌われないようにしようと行動に出てしまうのだろう。
馬鹿だなあ、と思う。きっとその時点でもう対等じゃなかった。
対等じゃない関係は長続きしない。だからきっと遠慮なく言い合えた梓との時間は対等で居心地が良かったんだと思いいたった。
「それでどうしたんだい?予定より早かったじゃないか」
ロバートは三十分ほどで切り上げると玲の隣の椅子に腰掛けた。
玲はロバートを見上げながら「うん」と頷く。
「これを返したくて」
玲は鞄の中からロバートの自宅の鍵を取り出して、カウンターのテーブルの上に置いた。彼から鍵を渡された時もこの店だった。
傷ついた玲に居場所をくれた。逃げ場をくれた。それにしがみつくように玲は彼を受け入れた。
「……わたしと別れてください」
後戻りはできなかった。本当に正しいのか今もわからない。だけどこれでいい。
玲は静かに頭を下げて恋人の反応を覗った。
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