嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

ふたり暮らし

 思いがけず、江ノ島デートを楽しんだ玲はやっと心が少し軽くなった気がした。
 というのもようやく自宅に帰れた。玄関の扉を開けて「帰ってきた」としみじみと感慨深くなってしまったのは仕方ないだろう。

 「拗ねないで」
 「拗ねてない」
 「拗ねてるじゃない」

 荷物は最低限だったため、玲の鞄に十分収まった。荷物持ちは要らないが梓が車を出してくれた。電車でも十分帰れる。なんなら歩いてもそれほど時間はかからない距離なのに、梓は車で「送る」と言って聞かなかった。

 一方梓にとって誤算もいいところだった。せっかくいい感じで過ごした江ノ島デートの結果がこれか、と梓は非常に落胆した。少しは玲の心を掴めてもう少し一緒に暮らしていけると思ったのに。まるで全然通じていない。むしろ手のひらの上で踊らされた気分だ。

 あの夜、ホテルに戻った二人は食事そっちのけで身体を重ねることに没頭した。もう何度も交わったはずなのに、それでも毎回毎回新鮮で梓は余裕がなくなる。
 玲も慣れてきたのか、行為中は恥ずかしながらも快楽を求めるようになり、素直に梓を求めるようになった。あの時間だけは、梓が唯一玲を自分のものだと思える時間でだからこそ毎日のように彼女を抱く。誰に抱かれているのか、誰に溺れているのかしっかりと体に刷り込んでいた。

 毎日一緒に過ごしているのに玲の心は分からないままだった。気長に待つつもりでいるが、やはり欲は出てくる。そばにいることさえできればいいと思っていたのに、今は彼女の心が欲しくて欲しくてたまらなかった。
 少しでも自分の手にあると安心したくて、一分一秒でも長く自分のものであってほしい。だからこそ九条は情事中に無駄に名前を呼び彼女にも名前を呼ばせた。
 
 彼女の中に熱を埋め込んで名前を呼べば返事の変わりにキツく締め付けられた。
 キスの合間に名前を呼べば、ひどく渇望した声が返ってくる。
 四肢を絡ませ抱きしめあいながら名前を呼べば縋り付くように返してくれた。
 九条の心はその瞬間、ひどく満たされた。それを味わいたくて、実感が欲しくて、玲が嫌がらないと分かって遠慮という言葉はシュレッダーで細切れにしてやった。

 そんな九条の欲望で抱かれ続けている玲はさすがに身の危険を感じた。九条に言わせてみれば「玲が可愛いのがいけない」らしいが、玲に快楽を教えたのは他ならぬ九条だった。たった一度きりだと思ったのに、結局流されるままにそういう関係を続けている。
 それも良くない、と頭でわかっていながらも九条に求められると抗えない。
 玲の身体はすっかりその快楽を覚え込んでしまっており、頭では理解していても身体は素直だ。九条に見つめられれば熱を帯び、たちまち覚えたばかりの快楽を思い出しては期待するのだから。
 
  「ただいま」
 
 自宅に戻り数日後。世間は夏季休暇中だった。玲は久しぶりに実家に戻り祖父母の墓に手を合わせた。家族や親戚と過ごしながら数日顔を見ない梓のことを思い出して苦笑した。

 (やっと解放されたのに物足りないって変ね)

 自宅のベッドはシングルベッドにもかかわらずとても広く感じた。いつもあった高い体温も睡眠を妨害してくる甘える視線もない。悪戯に服に潜り込んでくる手も、絡まってくる長い脚もない。おかげでしっかりと十分睡眠が取れた。安眠できるってなんて幸せなんだろう、と思うぐらいにはここ数日平和だ。それなのに心のどこかで寂しい、なんて玲は自分でびっくりして笑ってしまった。

 (たった半月ほどだったのに)

 きっかけは仕方ないこととはいえ、恋人でもない男性と一緒に暮らすことに気が引けた。だが同時に安心感もあった。「大丈夫」と頭を撫でながら抱きしめられて眠る夜は何にも言い難いほど安堵したことを覚えている。
 梓は過保護なぐらい玲を心配し甘やかした。玲が戸惑うぐらいには自分の空いた時間を全て投げ打ってでも傍にいてくれた。
 突然思い出したように連れて行かれた江ノ島デートも予想以上に楽しんでしまった。
 誰もが知るブランドホテルのスイートルームとは裏柄に熱のこもったセメントの堤防に座り込んで花火を見た。コンビニで買った缶ビールで乾杯して、花火に見惚れて、そして。

 …大変、だった。

  夜のことを思い出して玲は今更ながらに顔を赤くした。実家の自室のベッドに転がりながら誰もいないのに思わず顔を隠してしまうぐらいには恥ずかしい。

 自分を呼ぶ声も、視線も、触れられる感触もすべてが甘くて、言葉にされていなくても伝わってくる好意が玲は嬉しくてしょうがなかった。
 玲はなんとなくわかっていた。九条が気持ちを言葉にしない理由を。きっと玲が困ることを考えてのことだ。じゃなきゃもっと鬱陶しいぐらい伝えられそうだった。玲はそんなことを考えてふと表情が緩んでいることに気づいて苦笑した。
 
 だが、それを咎めるように携帯に連絡が入った。一瞬九条かと思ったが、相手はロバートだった。ドクンと心臓が妙に大きな音を立てた。まるで読んだようなタイミングに玲は何度か深呼吸をする。

 「…もしもし?」
 『レイ?元気かい?』

 ロバートの声を聞くのは久しぶりだった。来月彼の店が周年イベントを催す。
 そのための新メニューを考えたりと色々忙しくしているらしい。
 本当は、ストーカーに遭ったことを話そうと思っていたが、これは美味しかった、微妙だった、などのメッセージとともに新メニューの試作品の写真が送られていた。
 忙しそうだな、と玲はぼんやり思いながら「どれも美味しそうだね」と一言だけ添えた。ロバートは夢中になると自分の世界に入り込むし余計なことは考えたくないタチらしい。前に一度「邪魔をしないでほしい」と言われて玲はとても落胆した。
 
 (話ぐらい聞いてくれたっていいじゃない、と)

 『また電話するよ。じゃあ』
 
 ロバートの電話は新商品が決まったことや周年に合わせて店内を少し改装することだった。今は友人達が集まりパーティーをしているという。ロバートは一言玲を気遣う言葉を口にしたが、それ以外は自分の話したいことを話し、遠くから彼を呼ぶ声がして電話が切られた。

 (…女性だったな)

 玲はもしロバートが同じように浮気していたらいいのに、と少しだけズルいことを考えてしまった。そしたらきっとこんなにも罪悪感を抱かなくていいはずなのに。
 
 「せこいなあ」

 そんな自分が嫌だと自嘲気味に笑えば今度は九条から電話が入った。

 「…はい」
 『…何かあったか?』

 ただ一言だけだった。それなのに九条は何か察したようだった。
 
 「…何もない」
 『本当は?』
 「…ちょっとやさぐれてた」

 何もかも見透かしたように訊ねてくる九条に玲は降参とばかりに本音を吐露した。すると電話の向こうでクスクスと笑う声がする。玲が「なによ」と言えば「いや」と弾んだような声が返ってきた。

 『玲がどんな顔で言ってるか想像したらおかしくて』
 「想像しないでよ」
 『やだ。それぐらいしか楽しいことないし』
 
 少しだけ残念に思った玲は「そう」とこれ以上止めることはしなかった。

 『いつ帰って来る?』 
 「明後日かな」
 『まだ二日もあるのか』 
 「正確には一日半」

 玲は細かいことを訂正する。だけど九条はすでに仕事が始まっており、会えるのは夜になるという。

 『早くあいたい』
 
 あまりにもストレートな言葉に玲は口籠もってしまう。
 適切な言葉が見つからなくてどうしようと悩んだ。
 
 『触れたい抱きしめてキスしたい』
 「…変態」
 『今更だろ』
 
 クククと笑う九条が憎たらしい。だけどそれ以上に情けなくてひどくもどかしかった。

 「おかえり」

 品川駅のロータリーにはその場に相応しくない高級車が待っていた。「新幹線に乗ったら教えて」と言われて素直に教えた玲も玲だが、何時に着くとは連絡はしていない。
 しかも京都あたりで「乗った」とメッセージを一言入れただけだ。
 それなのに、新横浜を過ぎたあたりで「ロータリーで待ってる」とメッセージが返って来た。「今仕事のはずじゃなかったっけ」と玲は訝しく思いながらもスーツケースを転がしていけば運転席からわざわざ九条が出てきて荷物を持ってくれた。
 
 「た、だいま。っていうかどうして」
 「なにが?」
 「仕事!」
 「ちょっと抜けてきた。すぐ戻るけど」

 梓は玲のスーツケースをトランクに乗せると唖然とする玲を助手席に押し込んだ。
 梓は周囲を見渡しながらすぐにその場を発車させると、助手席でムッとしている玲に笑いかける。

 「どうして怒ってる」
 「怒ってない」
 「じゃあなぜ不貞腐れてる」

 玲はどうすればいいかわからなかった。正直に言うと迎えに来てくれると思っていなかった。夜は何時になるんだろう、とぼんやりと考えていたぐらいだ。
 だからか自分が思っていたよりも嬉しかったようだ。そのことに気づいてしまいそれを素直に言葉に出すのも憚れたせいでついこんな態度をとってしまった。

 「…わざわざ来なくてもよかったのに」

 挙句の果てにこんな可愛くない言葉まで飛び出してくる。玲はもう自分が何かわからない。わからないけど一回黙った方がいいことは確かだった。だが、梓はそんな玲に破顔すると片方の手でくしゃくしゃと玲の頭を撫で回した。

 「俺が会いたかった。ただそれだけだ。玲は気にしくていい」

 梓は玲が「忙しいのに無理に来なくても」と気を遣ったと捉えたらしい。心のどこかでほっとする自分とわかって欲しかったと思う自分がいて玲は複雑思いを抱える。

 「…何時になるの?」
 「夜?」
 「うん」
 「多分二十時ぐらいには」

 だがそれも玲が自宅に戻りしばらくすると「行けなくなった」と短いメッセージが届いた。「なんだ来ないのか」と少し落ち込んでいる自分にどうしようもないなと思う。
 
 実家に戻っている間に玲は色々考えた。両親にはそれとなくこれからどうするつもりかと聞かれたが曖昧に濁して答えた。「日本に留まってほしい」と言われるのかと身構えていたが、彼らは何も言わなかった。あっさりと引き下がり「好きにすればいい」と無理やりな笑みと「玲がしあわせなら」と言葉が付け足された。だが、弟や妹からはストレートに「親のことを考えろ」と言われた。二人もなんとなく玲に迷いがあることを見破ったらしい。あまり恋人の話もしないしどこか考え込んでうわの空の状態でもあったことは玲も自覚している。そして、毎晩のようにかかってくる電話をどこか待っている自分がひどく矛盾していることにも気がついていた。
 
 夜も一時を過ぎた頃。こんな時間なのにインターフォンが鳴った。
 ソファーでテレビを見ていた玲はいつの間にか寝てしまっていたらしい。
 眠い目をしょぼしょぼさせたままインターフォンの画面を覗き込んだ。
  
  すると画面には梓が映っていた。玲は当たり前のようにロックを解除する。ホッとしたような梓の表情が見えてそういえば携帯はどこへやったかな、と玲は携帯を探し始めた。

  「どれだけ電話しても出ないから心配した」

  玄関を開けると共に梓に抱きすくめられてしまった。ちなみに携帯は充電が切れた状態でソファーの背もたれとクッションの間に挟まっていた。

  「ごめん、寝てた」

  ホッとした梓は玲の髪が寝起きのようにくしゃくしゃになっていることに気づいた。
  本当に寝ていたらしく声も眠そうだ、と表情を綻ばせる。
 
   「そう。でもよかった」

  梓は玲の頭頂部にキスをした。玲は咄嗟に頭を上げる。
  それは梓がキスをするときの癖だった。頭にキスをするのは玲の顔をあげさせたいから。玲はわざと罠にハマる小動物のように顔をあげた。程なくして重ねられた唇は玲の心を甘くとかしていく。玄関で何度も繰り返されるキスは終わりを知らないようだった。
  そのまま抱き上げられた玲は大人しく寝室に連行された。

  たった三日顔を合わせなかっただけだ。それなのにひどく懐かしくて心が押しつぶされそうだった。服を脱ぐ暇も勿体無くてずっとキスを繰り返した。そのうちトロトロと意識が溶けていき、朝目が覚めていつものように梓が隣で寝ていることにとても驚いた。

 「おはよう」
 「…おはよう」

  いつもならあるはずの下半身の異物感が今朝はなかった。目の前の男は蕩けた笑みを向けるがどことなく目が怖いのは気のせいではなかったらしい。

 「もしかして、寝た?」
 「あぁ」
 「怒ってる?」
 「少しだけ」
 「本当は?」

 梓はのっそり体を起こすと玲を組み敷いて見下ろした。玲は恐る恐る梓を見上げる。
 
 「怒ると言うよりがっかりした方が大きいかな」
 「…うん」
 「アイツもこんな気持ちだったんだなって」
 「え?」

 何気なく放たれた言葉に玲が目を丸くした。九条は昨夜煩悩と戦いながら寝てしまった玲を起こさないように気遣いながら着替えさせたパジャマを剥き始める。

 「ごめん。何もない」
 「…うん」
 
 九条はパジャマを脱がすと白く華奢な肌を腕の中に閉じ込めた。ただ彼女のぬくもりを感じたかった。それでも梓は健全な三十代の男性で人より少し性欲が強くてそれに対して貪欲なだけだ。食いしん坊の前にケーキを置いて食べるな、と言うのと同じで、好きな女性が無防備にいつでも襲ってくれと言ってるのに手が出せない。寝ている女性を抱く趣味はない。なんて拷問なんだ、と信じられなかった。
 だから昨夜は遠慮したが今時間を見ればまだ朝の五時半だった。抱きしめたぬくもりに仕返しをするように顔を埋める。大きすぎず小さくもない、細身の体には豊かに実った白い果実の頂を口に含み丁寧に転がした。柔らかな肌に指を滑らせて撫でていく。白から桜色に色付き始めることを期待して九条は玲を窺いながら唇を滑らせた。

 ♡♡♡

 「今日から俺此処に帰って来るから」

 眠そうに欠伸をしながら服を着た梓が思い出したように振り返った。玲は一瞬聞き間違いかと耳を疑いながらベッドの中でしょぼしょぼと瞬きをする。

 「家に玲がいないなら玲のいる家に帰ればいいと思って」

 梓はクスッと笑いながら屈み込むとベッドに伏せた玲にキスをした。初めは軽いキスだ。だけど執拗になり始めたキスはもう完全にスイッチの入ったそれだった。

 「…っ、仕事」
 「まだ間に合う」
 「わたしが」
 「煽る玲が悪い」

 何もしてないし何も言ってないのに!!
 玲は夢中で梓の肩を押し返した。だが力では敵うはずも無い。

 「此処に帰ってきていい?」
 「…」

 玲は答えなかった。ただ乱された息を整えるだけでいっぱいいっぱいだった。

 「ダメなら今から続」
 「いいです!いいから!もうっ!!」

 玲は思い切り枕を投げつけてやった。梓はしてやったりと笑いながら部屋を出ていく。
 
 「あ、夕食はハンバーグがいい」
 「子ども舌!」
 「デミグラスソースよろしく」

 その夜、梓は嬉々としてスーツケースに荷物を詰めて玲の家に押しかけてきた。
 そして当たり前のように食事を共にし、テレビを見てどうでもいい話に盛り上がり、風呂に入ると同じベッドに入った。朝の続きと言わんばかりに玲を抱き、胸焼けしそうなほど甘い時間を過ごしたのだった。
 

 
 

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