嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

彼を知る2

 
 晃が来て二時間ほど経った頃、梓が慌てて帰ってきた。
 普段スマートな彼がこれだけ取り乱すのは非常に珍しく、玲も晃も驚いて汗だくで帰ってきた梓を目を丸めて見上げた。

「あ、お、おかえりなさい」

 髪を乱して息を切らして飛び込んできた梓に玲は吃りながら帰宅の挨拶をした。晃もキョトンとした顔を見せたがすぐに「おかえり」と手を振った。

「何を言った?」

 梓は玲の表情を見て晃を睨みつけた。玲の目尻に僅かに涙が見えたからだ。
 突然胸ぐらを掴まれた晃は焦った。
 本人としてはただ面白おかしく梓の小さい頃の話を玲としていただけだった。

「何をって。なんもいっちょらんよ」
「嘘つけ」
「…高校の卒業単位が足りないのに大学が受かってしまって頭を下げに言ってなんとか卒業させてもらったことや、金髪でピアスジャラジャラで悪ぶってたことは話したけど」
「話すな、そんなこと!」

 今の梓とはかけ離れた姿に玲は驚いたが二人のやりとりを見て胸を撫で下ろした。ただの兄弟喧嘩だ。兄に揶揄われて弟が怒っている。どこにでもある風景だった。
 だが、玲は晃から梓の過去を聞いた。玲が聞き出したわけじゃない。ただ昔を懐かしむように晃が話はじめてしまった。そんな梓の過去を知り玲は心が痛んだ。 

 晃と梓の母、千郷は生まれつき身体が弱かった。父、久志と結婚した時も子どもは難しいと言われていた。晃を授かり出産した後入院が長引いた。医師からは「二人目は諦めてくれ」と言われたが、千郷は子どもを諦めきれなかった。これはあくまで晃の推測だが千郷はもう自分が長く生きられない事をどこかで察していたんだと思っている。久志は最後まで反対したらしいが、子どもを望む妻を無碍にできなかったようだ。身籠るには時間がかかったが、晃が生まれて八年後、梓が生まれた。晃は小さな手が一生懸命伸ばされて自分の指を掴んだ時の感動を今も覚えていると笑った。

 「それやったらもう、帰ってこんでいい!」

 もうすぐ千郷の誕生日だった。梓は数ヶ月前からちまちまとお小遣いを貯め、晃に連れられて生まれて初めて百貨店で母にプレゼントを買った。いつも手が冷たくて赤切れの多い頑張り屋さんの手だった。梓はそんな母に喜んで欲しくて温かそうな手袋を買った。
 綺麗にラッピングしてもらい、メッセージカードも書いた。喜んだ顔を見たくてずっとそわそわしていた。
 だけど、誕生日の一週間ほど前、検査結果が思わしくなかった千郷は入院することになってしまった。いつもなら聞き分けの良い梓がこの時ばかりは駄々をこねて最後に放った言葉が本当に最期になってしまった。誕生日を自宅で過ごすことができない、と知ってつい感情的になってしまった。本心ではないことぐらいわかる。泣きながら部屋に閉じこもった梓を千郷はずっと心配していた。

 それから程なくして千郷は呆気なく逝ってしまった。最後は風邪を拗らせた肺炎だった。体調を崩した後は本当にあっという間だった。お別れをいう間もなく千郷は旅立った。
 久志は憔悴しきり妻の死から逃げるように仕事に精を出した。千郷がいつの間にか多額の保険金をかけていたことを知りとても悲しくて寂しくてやるせなかった理由だろう。
 当時晃は高校二年生。東京の大学へ進学することを考えていた。だが、母親が死に家族がバラバラになっていく様子を見て必死になって立て直しを図った。
 いつも母親に甘えていた梓は電池の切れたロボットのようになってしまった。口を閉ざし、学校に行きたくないと部屋に篭った。ある日友人が外に連れ出してくれ、少し回復したものの、しばらくすると学校から梓が暴力事件を起こしたと連絡があり、授業をサボって小学校へ飛び込んだ。
 今でこそ片親の家庭は多いが当時は非常に珍しく腫れ物に触れるような扱いだった。そして同級生は何があったか知っていてもそれが学年を跨ぐとそうではないこともある。
 一部の上級生が心無い噂を流し梓を煽った。それは梓のせいで母親が死んだというとても酷い噂だった。
 晃は保護者に謝罪を求め、教師にも噛み付いた。暴力はいけないが母親の死からまだ一年も経っていない状況でそんな噂を流させる学校側にも問題があると抗議した。
 晃はその日からなるべく梓の傍にいて梓を優先した。父は相変わらず仕事ばかりで家庭を顧みない。酒と女に逃げるようなことはなかったが、なかなか家に帰ってこない父親に業を煮やした。晃は晃でクラスメイトが模試の結果を伸ばしていく中、どんどん成績が落ちていく自分に焦っていた。
 そんな晃を支えたのは幼馴染で妻の芽衣子だった。幼い頃から九条兄弟と親しくしており、芽衣子にとって梓は弟のようなものだ。芽衣子も代わる代わる梓の面倒を見ていたが、ある日ストレスが溜まりに溜まって爆発した晃はつい芽衣子に愚痴ってしまった。
 迂闊だったのは晃の部屋だったことだろう。梓は晃の話を聞いてしまい自分は邪魔者で要らない子なんだ、と勘違いしてしまった。
 
 きっかけなんて沢山あった。でも目に見えてよそよそしくなったのはその日以降だろう。晃はまさか芽衣子に愚痴っていることを梓に聞かれているとは思わずに梓を執拗に追いかけた。そのうち梓は自宅に帰ってこなくなり、友人の家で過ごすことが増えた。次第にあまりいい噂の聞かない人達と連むようになり、深夜徘徊で捕まり、喧嘩して補導され、学校にも警察にも呼び出され続ける日々が続いた。
 高校生になって少し落ち着いたと思ったら突然「東京の大学に行く」と言いだした。学校にも行かず、アルバイトをして貯めたお金で知らぬ間に受験し、おまけに合格までしていた。入学金まで払ったと言われた時は膝から崩れ落ちたものだ。晃だってただボーッと過ごしていたわけじゃなかった。梓が大学に行けるようにと新卒のわずかな給料からチマチマと学費貯金をしていたのだが梓は自分を頼ることもなく相談することもなく全て自分でやってしまった。そのことがとても衝撃的でとても悲しかった。だけどそうさせたのは自分で父で梓とまともに向き合おうとしなかった結果だろうと反省している。「行ってくる」と振り向きもせずに玄関を出て行った背中を今も覚えている。鞄ひとつで上京し、知らぬ間に社長になり、ビジネス雑誌に載るぐらいには頑張っているようだが、晃にとって梓はいつ崩れるのか分からない不安定な存在だった。

 結局晃はなんだかんだと居座った。「腹が減った」とデリバリーを頼み、ビールを開けて上機嫌で食事をした。ご機嫌なはずなのに何処か無理して笑っているように見えたのは玲の考えすぎだろうか。だけど少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいではないだろう。
 夕方を過ぎて夕食に差し掛かる頃、晃は強制的に羽田空港に送られた。最後は「泊まる!」と駄々を捏ねはじめたので見かねた梓が自宅から無理矢理引きずり出した。晃がいつの間にか玲のことを「玲ちゃん」と呼んでいるのも気に入らないらしかった。普段あまり感情的にならない梓が兄の前では子どものように怒ったり拗ねたりして玲は微笑ましく思った。

「兄が迷惑かけた。すまない」

 その夜、食事を終え風呂にも入りソファーでテレビを見ていると九条が叱られた犬のように頭を下げた。

「楽しい人だね、お兄さん」
 
 玲はそれほど迷惑をかけられたと思っていなかった。むしろ逆に気を使われたと思う。

「昔から人たらしなところがあるんだ。しかも押しが強い」
「さすが兄弟」

 玲は小さく拍手すると九条がムッとして、思わず吹き出して笑ってしまった。

 「…何か聞いた?」

 真面目な声だった。テレビに向けた視線をそのままにスライドさせると探るような視線とぶつかった。
 
 ここで嘘つくのは簡単だった。「何を?」と逃げて誤魔化すのもできる。
 だけど玲は素直に「うん」と頷いた。ただ何をとは言わなかった。
 梓は「そう」とそれだけ返した。
 そして寂しそうに目を伏せて八つ当たりのように玲の唇にキスをした。
 押し付けるだけの子どものようなキスだった。どこか不安げで何か恐れているようにも見えた。
 
 「大丈夫だよ」
 
 玲は慰めるように梓の首を抱きしめた。何が大丈夫なの、と自分で言って心の中で突っ込んだけれど出てしまった言葉はもう取り消せない。
 梓は玲の肩に顔を埋めると縋り付くように玲の細い腰を抱きしめる。

「子供扱いするな」
 
 よしよしと頭を撫でると拗ねた声が聞こえた。頭を撫でる手を止めないまま笑う。
 
 肩に蹲った顔が持ち上がった。
 その瞳には先ほどまでの真剣さも寂しさもない。
 あるのはただ酷く欲情した色だった。玲が怪我をして以降ずっと甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 彼の寂しさを知り、傷を知った。
 後悔だらけの過去はこの人も同じだった。本当は人一倍甘えん坊で寂しがり屋だと晃が言っていた。梓は許しを乞うように玲に甘えた。
 唇で視線で指で玲にこの先を望んでいいか問いかける。
 
「…いい?」
「…うん」

梓はBGMにもならなかったテレビを消すと玲を抱き上げて寝室に向かった。怪我をした足を気遣いながら玲をベッドに寝かせる。
 
「怖かったら言って。やめるから」

 返事を待たずに唇が奪われた。優しくもないが荒くもないキスだった。どこか探るようなキスはそれでも玲の答えは望んでいない。あるのはただどんな自分でも受け入れてほしいという梓からの悲痛なメッセージだった。

 

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