嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

彼を知る1

 
 玲は右足首の捻挫で全治二週間と診断された。あの夜、玲を襲ったのは家の近くにあるコンビニの店員だった。
 コンビニに立ち寄った際に挨拶をされるので返す程度の関係だが、思い込みが激しい質なのか男は玲と付き合っていると思っていた。
 玲からすれば挨拶をされたので返しただけ。しかも他の従業員にも同じように対応していた。ただそれだけで「付き合ってる」と思われるとは思わなかった。

 誰かに後をつけられている気配がしたのもその男が犯人だった。玲に声をかけようと玲の帰宅時間を調べてこの数週間前から付けていたらしい。
 だがある日、マンションに九条と一緒に入っていく玲を見て「浮気された」と思ったとか。言いがかりにも程があるが、男に吐き捨てられた「浮気」というキーワードがあの日からずっと頭にこびりついて離れなかった。
 
 「動くなって言ってるだろう」
 「ちょっとぐらい大丈夫」

 そして玲は今九条の自宅に監禁…ではなく同居している。犯人は捕まったが、今回の騒動で周囲の注目を浴びてしまった。九条が大事にしないように、と警察に取り計らってくれたものの小さな見出しでネットニュースにもなった。
 そして面白可笑しな目から逃げるように玲は九条の自宅に連れてこられた。まるで攫われるようだった。もちろん玲に拒否権はない。知らぬうちに玲の家族にも連絡してくれており、玲は頭が下がる思いだった。

「悪化したらどうする」
「昨日より痛みはマシよ」
「それでもまだ腫れているだろう」

 九条はとても過保護だった。そしてすごく心配性になった。あの夜、九条はもっと早く来ていればと自分を責めていた。玲にとって来てくれただけでも有難いのに。
 だから何度も「来てくれてありがとう」と伝えた。実際仕事でもう少し遅くなる可能性もあったはずだ。それなのに九条は来てくれた。怖い目に遭ったが、少なくとも九条を責めるような気持ちにはならなかった。

 「もう寝よう」
 「うん」
 「おいで」

 ここに来て三日。玲は毎日九条に抱きしめられて眠った。
 頭を撫でられながらうとうとし、朝少し早く目覚めると寝顔を観察した。
 「おはよう」と見つめあって「もう少し」と目を閉じる。
 いつもの朝のはずなのに、この時間はとても心が休まった。

 それから一週間。仕事は全てオンラインで解決し、九条もずっと自宅で仕事をしていた。玲が「自分のことは気にしなくていい」と言ったが九条は九条で「俺が傍にいたいだけ」だと言う。

 甘やかされているな、と玲は思う。自分の警戒心が足りなくて迷惑をかけているのに九条はそのことについて一言も責めない。唯一「どうしてもっと早く相談しなかった」と怒られたぐらいで、それよりも「無事でよかった」と何度も強く抱きしめられた。
 未玖にも怒られたけれど「九条さんに怒られなさい」とすぐに笑われて怪我が治ったら食事に行く約束をした。
 香月と木下も心配して様子を見に来てくれた。当たり前のように九条は自宅に招き、玲は身の置き場がなくて非常に居心地が悪かった。
 

 その週の土曜日は珍しく九条は朝から出かける準備をしていた。足の腫れはほとんど引いて、引きずらない程度には歩けるようになった。だが動き回る玲を九条は心配する。一緒にいると掃除も何もさせてくれない。

「昼過ぎには帰るから。大人しくしてて」
「…はい」
「ひとりで出かけないように。分かった?」

 過保護だ、と玲は苦笑した。
 でも少しだけ嬉しかった。
 素直に「はい」と頷いた玲に九条は柔らかい笑みを向ける。唇を軽く啄んでしっかりと唇を重ねた。

「行ってくる。早く帰ってくるから」
「行ってらっしゃい。ゆっくりしてるから慌てないで。気をつけて」

 九条は玲の見送りの言葉に満足げに頷くともう一度唇を押し付けて玄関の扉を開けた。

「うーん、どうしよう」

 玲は部屋の窓を豪快に開けて換気をしながらこの先どうしようか答えを見出せずにいた。
 フローリングはお掃除ロボが掃除してくれている。天気がいいのでシーツぐらい洗おうかと洗濯中。料理ぐらいしたいが、フライパンひとつしかなく、勝手に触るのも憚れてしまい、時間を持て余していた。
 
 「…家、いつ帰ろう」

 時間があれば考えてしまうのは、今のこの状況をどうやって変えるか、だ。自宅に戻ることもそうだが、やはり周囲の目が怖い。
 幸い、ネットニュースに流れたのは名前だけだった。同姓同名は全国に沢山いる。もちろん現場のあったマンションや道路などは映ってしまったが、それが玲と結びつく人はほとんどいないだろう。

「友達、いないからなー」
 
 ははっと自嘲的な笑いが溢れた。
 玲はパースに飛んだ時に一度携帯を解約した。電話番号も全て変えて一度リセットした。だから今の携帯には家族と恋人と未玖と仕事関係の人たちしか入っていない。
 アドレス帳は多分両手で足りし、そのうちの過半数が同じ「宮内」姓だ。
 玲は大人四人が優に座れるソファーの端っこで膝に顔を埋めて小さくなった。自分の人生を振り返って悲観的になってしまう。恵まれていないわけではないのに、今は素直になれなかった。だが、考えていても堂々巡りを繰り返すばかり。もうしばらく、足の腫れが落ち着くまでは絶対安静だろう。
 九条に怒られる未来しか見えなくて玲は苦笑した。

『九条ひかる様がお見えですがいかがいたしましょうか』

 それから間もなくのこと。九条の兄と名乗る人物がマンションに訪ねてきているとフロントから連絡が入った。玲は九条に兄がいたことも知らず、そもそも本当に兄かどうかも分からないので一旦お待ちしていただくように伝えた。そしてすぐに九条に連絡を入れた。

『…悪い、兄貴だ。。今メッセージ見た』

 電話の向こうから溜息が聞こえた。九条は『俺から連絡するから何もしなくていい』と言って電話を切ってしまった。
 ただ、玲はどうしようか少し悩んだ。九条の生家は確か九州だったはず。兄がいたことも知らなかったが、挨拶をしないのも申し訳ない気がした。とてもお世話になっているのに、居留守を使うことに罪悪感を感じる。そわそわと落ち着かないでいると再び九条から連絡が入った。なんでも九条の兄が玲に会いたいと駄々をこねているらしい。
 九条は会わせたくないというニュアンスで伝えられたが、本当に会わせたくないなら玲に相談はしないだろう。
 良ければ相手をしてやってほしいと解釈した玲は快く承諾した。

「初めまして、梓の兄のひかるです」

 晃と梓はやはり兄弟のせいか似ているところは多々あった。梓の方が背が高く、顔立ちは凛々しいが、立ち方や笑い方などが非常に似ている。

「弟が世話になってるようで」
「いえ。わたしの方こそ九条さ…弟の梓さんにはお世話になっております。宮内玲と申します」

 玲は慌ててペコっと頭を下げる。
 兄の晃は嬉しそうに破顔した。
 
 晃は梓の八つ上で、福岡にある住宅ハウスメーカーに勤務している。十三年前に結婚し、現在三児の父らしい。昨日は出張で東京に来ており、久しく顔を見ていない弟に会いに来たと笑った。

「先週連絡入れたはずやったんやが」

 冷たいお茶を出す玲に晃は眉を下げて頭の後ろに手をやった。既読はついていたが返事はなく、ただ「くるな」と言われなかったためやってきたらしい。
 なんとなく兄弟に通じるものを感じた玲はその話を聞いて頬が引き攣るのを感じる。先ほど九条から「なんとか早く帰るようにする」、「兄には早く帰るように言う」という文章が送られてきた。慌てて打ったらしく、単語の変換ミスもある。玲がそのメッセージに返信していると、とても穏やかに見守るような視線とぶつかった。
 目を瞬かせる玲とは対照的に晃は申し訳なさそうに白状した。

「本当は梓が居ないなら帰ろうと思っていたんです。ただ、同居人がいてしかも女性だと聞いて、いてもたってもいられなくて」

 すみません、と晃は頭を下げた。

 「あの、頭を上げてください。ご心配される気持ちはわかりますから」

 玲はあたふたと晃を宥めた。晃は頭を上げて本当に困惑している女性にさらに頭を軽く下げる。
 玲は手持ち無沙汰になり、氷だけになってしまったグラスにお茶を継ぎ足そうと席を外した。晃はそんな玲の後ろ姿を見てどこか緊張していた体から肩の力を抜いた。
 
 梓の過去の女性達は皆梓をアクセサリーのように思っていた。
 外見に釣られて本当の梓を見ようとしない。今では「代表取締役」という輝かしい肩書きまで増えてしまった。より一層女性を寄せ付けなくなった梓がここに来てなんの前触れもなく恋人の存在を明かした。しかも梓は晃に「きちんと紹介はするから今日は帰ってくれ」と頭を下げた。だがそこは兄の言い分もある。前もって連絡しておいて留守にする方が悪いのだと。せっかく東京に来たのだから会わせてくれと押し返した。
 どんな女性を選んだのか単純に興味を持った。そして、万が一梓が騙されていないか心配もあった。
 だがそれは、要らぬ心配だったらしい。携帯を眺めている玲の表情は優しげで想像以上にふたりはきちんと関係構築ができているのだと理解できた。

 「宮内さんを見て安心しました。梓のこと、よろしくお願いします。ちょっと手のかかる奴ですが、根はいい子です。兄の欲目もありますが」
 
 ちなみに過去の付き合っていた女性の情報源は香月と木下で、二人は定期的に晃と情報交換をしていた。というのも、父親とは不仲で晃と梓の間には溝がある。母親は梓が七歳の頃に亡くなっており、上京するまでは男三人で暮らしていた。
 玲は九条の生い立ちは知らなかった。知ろうとも思わなかった。九条本人も話してくれなかった。
 二人の会話はいつだって「今」で「未来」だ。
 この時初めて「ああそうか」と玲は納得した。九条との時間が居心地よく感じるのは過去を想像させる話題がほとんどでないからだ。彼はいつだって先を見ている。それが少し羨ましくてそれが少し切なかった。



コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品