嘘つきは恋人のはじまり。
恋人と偽恋人3
ふわふわとした心地よさだった。なぜか分からないけれどひどく安心する。これほど満たされたのはいつぶりだろうか。
玲は浮上する意識の片隅でこの安らぎの正体に手を伸ばしたくなった。
重い瞼をゆっくりと持ちあげる。
だが、ぼんやりとした視界は真っ暗で何も見えない。何か大きな影というか壁があるのはわかるが、それが何かを考えるよりも抗えそうにない睡魔の波に攫われる。
持ち上げた瞼をとろとろと閉じようとして背後からずっしりとのしかかる重みに眉を顰めた。
え?
その重みはとても温かかった。温かいどころではない。若干暑い。続いて規則正しい呼吸音が聞こえた。それもとても耳に近い。玲は少し頭を持ち上げると恐る恐る後ろを振り返り口をぎゅっと閉じた。
?!?!
驚いた。驚きすぎて心臓が止まるかと思った。叫ばなかった自分を褒めてあげたいぐらいだ。おかげで一瞬にして眠気が吹っ飛んだ。
さっきまでぼんやりだった思考は一気にクリアになる。だけど今見た光景は何かの間違いじゃないかと思うぐらいに俄かに信じがたい。
ならば、ともう一度振り返った。
でもやっぱり見たものは変わらなかい。
どうして。
振り返ればとても気持ちよさそうに九条がすやすやと眠っていた。
そしてようやく気がついた。ここはベッドの上だということを。
うそ。
玲はこの状況にひどく混乱した。今更だが緊張感が走る。ギコギコと壊れた機械音が聞こえそうなほど不自然に振り向かせた頭を元の位置に戻した。
!!!
玲のお腹を抱きしめた九条の腕がぎゅう、と締め付けた。
苦しいわけではないけれど、わずかに空いた隙間がなくなり、ピッタリと背中がくっついた。先ほどよりもより近く高く感じる体温と感触。
先ほどまで呑気に寝ていた自分を殴ってやりたいぐらい今は心臓がバクバクと音を立てていた。この音で九条が目を覚ましてしまわないかとヒヤヒヤする。
どうしてこうなったの。
九条に「寝るまでいてほしい」と言われた。手を握られて「明日も来てほしい」と言われて、承諾したまでは覚えている。
その後は九条が眠るまでただじっと見つめていた。大人しく目を瞑ったはずなのに。
それから、えっと…
残念ながらそこからの記憶がない。
まだどこか本調子ではない思考を無理に働かせて記憶を辿った。
だけどどうしても九条のベッドで自分が寝ている理由がわからない。
どうしよう。
このままここで寝てしまっていいのだろうか。いやよくない。
玲は小さく頭を横に振って今の状況から脱却しよう決めた。
腕が邪魔…
しっかりとホールドされた九条の腕は重かった。寝ているとさらに重い。
九条を起こさないように解きたいが。
…あぁ、起きないで。
背後の様子に気を配りながら恐る恐る九条の片方の腕を持ち上げた。少しずつ腕を離してそろりと置く。なんとか片方を外したことに小さく息を吐き出す。
この調子でもう片方も離せばこの隙間から逃げることができるだろう。希望の光が見えたせいか少し油断した。
もう片方の腕に手を掛けたところで先ほど離したばかりの腕が戻ってきた。
おまけに手を封じるようにしっかりと両手を纏められてしまう。脚まで絡みついてきた。
「…だめ」
?!?!
甘さを含む掠れた声が玲を嗜める。気怠けなのにどこか棘が含まれていた。
「…起きてたんですか」
「今起きた。誰かさんが逃げようとするから」
やっぱり起こしてしまったか、と項垂れる。
「どうして、こんなことに…」
玲はまずどうして同じベッドで寝ているのか知りたかった。九条も玲の聞きたいことを察したらしくすぐに答えをくれる。
「座り込んで寝てたから」
「…寝てたから?」
「『おいで』って言ったら素直にベッドに潜り込んできた」
「う、うそ?!」
病人がいるのに思わず大きな声を出してしまった。案の定、「うるさい」と九条
に顔を顰められた。
「まあ誘ったのは俺だし」
「誘わないでください」
「誘いに乗ったのは玲だから俺は悪くない」
九条の言い分は最もだ。起きてしまったことは仕方ない。
玲はこの状況をなんとかしようと考えた。だが良い方法が見つからない。素直に離してくれる素振りもなければ、言っても離してくれないだろう。玲がうんうん唸っていると、Tシャツの裾から九条の手が潜り込んできて地肌を撫でた。
「ひぃぁ」
おまけにその位置でピタリと止まってしまった。玲の両手は九条の片手で簡単にまとめられてしまっている。
なんとかその手から逃げ出そうと試みても当然だが力で叶うはずがなかった。
「あ、あの、手を」
「離して欲しかったら早く寝ろ」
「こ、こんな状況で寝られるわけないでしょう!?」
さっきから心臓がずっとうるさい。
九条が話すたびに首筋に息がかかるし、密着した身体から振動が伝わる。
今の玲フと鼻で笑ったのも伝わってくるぐらいだ。
玲はもう気が気ではなかった。
「さっきまでぐーすか寝てたくせに」
「っぐぅ」
「もう夜も遅いし送ってやれないから寝て。じゃないと無理矢理寝かすけど」
どうやって、と喉まででかかった言葉はヒュと飲み込まれた。
面倒くさそうに身体を起こした九条が玲を覗きこむ。唇が触れそうな距離でじっと見つめられて息が止まった。
「寝ろ」
「…う、はい」
「よしよし」
頭を撫でられてそわそわしてしまう。落ち着かなかったはずなのに、規則正しい呼吸音とぬくもりのせいで簡単にころりと夢の中に落ちてしまった。
ぱちり、と効果音が聞こえてきそうなほどはっとして目が覚めた。
なんだかすごく心臓に悪い夢を見た気がしてあたりを見渡す。
「…夢じゃなかった」
玲はここが九条の寝室で、記憶の中にある通りベッドの上で寝ていたことにガックリと項垂れた。
だけど後ろを振り返れば九条はいない。
どこに行ったのだろうとあたりを見渡していると扉の向こうから足音が近づいてきた。
咄嗟に目を閉じて寝たふりをする。
熊に会ったら死んだふりしろって言うしね。
ガラッと扉が音と立てて開いた。それと同時に光が差し込み風呂上がりのいい匂いもする。
あぁなんだ。シャワーを浴びてたのね…って
わたし、お風呂も入ってないしメイクも落としてない。
え、どうしよう。
というか帰らなきゃ。
内心あたふたしているとギシリとベッドが軋んでそれどころじゃなくなった。
ぬっとできた影に、人の気配に身を固くする。
じぃと見つめられている気がして居心地が悪い。それなら寝たふりなんかしなければ良かった、と早々に後悔し始めた。
どうしよう。今ここで起きたふりしようか。それとももう少し様子を見るか。寝たふりをしながらひとり悩んでいると急に肩を掴まれて横を向いていた身体が仰向けに転がされた。その衝撃に驚いて目を開けば自分を見下ろす九条としっかりと目が合った。
「…っ!?ちょっと!ふ、服!服着てください!!」
視線が合って数秒。九条はバスタオルを首からさげて上半身裸だった。
玲はとても狼狽えた。なんたって、色気がやばい。心臓に悪い。
「寝たふりした罰」
九条は笑いながら玲を一蹴すると、顔を両手で覆った玲を抱き込んだ。
「服着てって言ってるじゃないですか!」
悪戯が成功した子供のように九条がケタケタと笑っている。玲は九条の肩を押し返そうとして逆に強く抱きしめられてしまった。
ジタバタする玲を抑え込むように九条の長い脚が玲の脚に絡みつく。
「暑いし」
「風邪ひきますよ!」
「もう引いてるし」
そうだった!と玲は忘れかけていたことを思い出して大丈夫だろうかと九条の顔色を伺う。玲が考えていたことが分かったのだろう。九条は玲の額に自分の額をピッタリとくっつけた。
「ん」
なんて原始的な、と思いながら意識を集中させる。
まだ少し熱が残っているようだ。
「まだ熱いですね」
「冷静だな」
「じゃあなんて言えばいいんですか」
なんてって、と九条が面白そうに笑っている。鼻先が触れ合うこの距離で下手に反応したら負けだと玲は思う。こういうのは大袈裟に反応すればするほど面白がって悪戯してくる。
小学生の時、好きな子を揶揄ういじめっ子の対処法を教えていた友人の言葉を思い出して玲は冷静になろうと努めた。
「治るまで傍にいて」
「え、無理です」
「じゃあ今日はずっとこのままで」
九条は抱きしめる腕を強めた。玲は息を詰めて目を見開いて固まる。
「…すげー心臓どくどく言ってる」
「い、言ってません」
「そう?もっとよく聴かせ、痛っ」
九条が窮屈そうに背中を丸めて玲の胸に耳を押し当てた。その頭をパシンと叩いてやる。
「は、離れてくださいっ」
「これで離れたら殴られ損だ」
「へ、変態!」
「人間は皆変態だ」
九条は楽しそうに笑いながら胸に押し当てた耳を離そうとしない。玲は九条の身体を揺さぶってみたもののどうにもならなくて諦めるしかなかった。
「一時間で戻ってきて」
「無理です」
「じゃあ一時間半」
きっかけは九条の「腹へった」という一言だった。作ってほしいと強請られた玲は冷蔵庫の中に何もないことを説明した。だがネットスーパーを使えば最短二時間程度で到着する。九条にそう言われたものの、お風呂も入っていないし着替えてもいない。顔はテカテカな上歯磨きもできていない。いろんなことを含めて「自宅に戻りたい」と言えば九条は「帰るな」という。
服は貸すし歯ブラシもある。洗顔用品は買えばいい、と言われたが玲にもこだわりがあった。
なんとか宥めて帰宅は許してくれたものの九条は一時間で戻ってこいという。そんな無茶なと呆れれば駄々をこねる子どものようにひっついて離れようとしない。
「九条さん、ちゃんと戻ってきますから」
「…戻ってっこなかったら押しかける」
「はいはい」
「言質は取ったからな」
もう面倒くさい。玲は面倒くさいことは嫌いだ。長引きそうなら自分が折れた方が早い。
そうやって甘やかしたせいで弟と妹は姉ちゃん大好きっ子になってしまったが。
今はブスくれたこの男をなんとかしないといけない。
玲は戻ってきますから、ともう一度念押しした。九条は渋々納得して腕を解いてくれた。
「玲」
「戻ってきますって」
玄関でも一悶着。九条は最後まで「いやだ」と駄々をこねた。
それを振り払って呼んだタクシーに飛び乗り、なんとか一時帰宅をする。
ホッとすると同時に出ていく間際、玄関で寂しそうに立ちすくむ九条の表情が頭から離れなかった。
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