嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

死んだ男と約束の薔薇3

「少し、席を外すよ」

 グスっと鼻を啜る玲に九条は笑いかけると携帯を片手に席を立った。扉を開けながら「はい、九条です」と応答している様子をぼんやりと見送る。

 なんとなく席を立ち窓際に向かった。今夜は満月らしく、東京タワーと月が鮮やかに光り輝いている。赤いライトが満月の光で柔らかくなり、室内を仄かなオレンジ色に照らした。玲は東京タワーを眺めながら、先ほどの九条の言葉を反芻した。

 正直に言えばもうキャリアを諦めていた。一年後はパースに戻り、今の仕事とは関係ない彼の飲食店を手伝う予定だった。ようやく日常会話に慣れ、常連たちとも砕けて話せるようになったのだ。あちらでコンサルタントを続けることは考えておらず、ただ穏やかに過ごしたかった。

 だけど、日本に戻り仕事をしていく中でやはり「楽しい」という気持ちが戻ってきた。玲は大学生の頃に猛勉強して中小企業診断士という国家資格を持っている。閉店間際の美容院を立て直した経験を基に卒論を書き、それが評価されてコンサルティング会社に入社した。だけど玲の熱量が増える一方、社内ではそんな玲を疎む人間が出てきた。退職理由は人間関係の破綻。ドラマのような嫌がらせや虐めに遭い、心を病んでしまった。

 退職後は家を引き払い携帯を解約し、逃げるように日本を離れた。誰も知らないところに行きたかった。誰も信じられなかった。もうこの仕事はしないと決めて、たまたま知り合った男性に告白されて現実から目を逸らすようにパースに住み着いた。
 恋人のロバートはとても優しかった。玲の辿々しく拙い言葉を根気よく聞いてくれた。傷ついた玲を癒すように、羽根で温めるように包み込んでくれた。何より彼は玲に居場所をくれた。もうこのまま、ここで一生を過ごしてもいいかなと思えるぐらいにはパースでの生活を気に入っていた。

 …だけど本当にそうだろうか。

 九条は当たり前のように玲のキャリアプランについて言及した。「こんな道もある。やってみないか」とさも当然のようにひとつの選択肢をくれた。九条の言葉ひとつひとつに、当時の自分が少しだけ救われたような気がした。

 …それがロバートならもっと良かったのに。
 
 月を見上げていた視線をそっと伏せる。
 恋人は優しかった。だが仕事人としての玲を認めることはないだろう。彼はカジュアルなダイニングバーを営んでいる。一応経営者だが、いかんせんプライドが少し高い。ワンマン経営者は世の中にたくさんいるが、スペイン・イタリアで修行した経験があるからか、少々拘りが強く頑固な部分もあった。
 シュクレの経営者もよく似たものだった。彼らは皆職人気質だ。菓子職人と料理人。経営とは切り離した方がスムーズにいくこともある。
 シュクレは山崎が指揮をとるようになり立て直した。玲は恋人の店の経営状況は知らない。玲には何も言ってくれない。玲もそこまで踏み込むつもなかった。
 だけどもし、少しでも頼ってくれたらこの気持ちはもう少し早くに救われていたのだろうか、とも思う。大多数の人に認められたいわけじゃない。ただ必要としてくれる人の力になりたいだけだ。だけどロバートにそれを望むことは間違っていると玲は理解していた。それでもいい。優しく寄り添ってくれるならそれで。

 …こんな素敵なお店もできれば一緒に来たかったな。
 
 だけど、一人の女性として、玲にもそれなりに理想はあった。こんな星のつくレストランでの食事は一生に一度あるかないかだろう。身の丈に合っていないと自負しているが、九条のような男性にスマートにエスコートされてしまうと全くときめきがない訳ではない。ロバートは仕事柄よく色んな飲食店に出かける。もちろん玲もついていった。どこもカジュアルで気軽にフラッと立ち寄れる場所ばかりだが、本音を言えば一度ぐらいこういう雰囲気のあるレストランで食事をしたいと思った。

 ロブは…ないかな。

 だけど、恋人の性格を考えると早々に諦めた。
 誰とでもフレンドリーで冗談もよく言う彼が、こんな雰囲気のあるレストランで食事をする姿が似合わない。失礼だけど、と玲は付け足しながら苦笑した。

 「待たせたね」

 扉が開くと共に部屋に光が差し込んだ。その光が窓ガラスに反射する。玲は窓ガラス越しに九条の姿を見て「いいえ、大丈夫です」と言いながら振り返り言葉を失った。

 一体なんの冗談なのか。九条は薔薇の花束を抱えていた。
 それも、まあまあの大きさだ。玲は目を丸くしながら近づいてくる九条を見上げて戸惑いの表情を浮かべる。

 「もうひとつ、今夜の本題」

 九条は自重気味に笑い呆然としている玲に薔薇の花束を差し出した。

 「あ、の?」
 「覚えてないか?俺たち昔会ったことがあるんだ。いつになったら思い出すかと思っていたんだけど」

 九条は瞬きひとつせずに固まっている玲を見て苦笑する。そしてつい最近瘡蓋かさぶたが剥がれた古傷を抉った。

 「五年前、きみは公園で死にかけていた一人の男を助けた。覚えてる?」

 どうして九条がそのことを知っているのだろうか。
 そのことは玲とその男性の二人しか知らないはずなのに。その時「もしかして」とひとつの可能性を思い付いた。どうして五年経った今なのか、と恐る恐る訊ねる。

 「…ご遺族ですか?」
 「え?」
 「だって、あの時、」

 玲は唇を噛み締めて俯いた。今になって自分を探し出して糾弾しようと言うのだろうか。自分の対応が遅れたせいで助からなかったと責めにきたんだろうか。玲の思考は悪い方へ悪い方へ転がっていく。そんな悪循環のループを止めたのは他でもない、九条自身だった。

 「なにか勘違いしているようだから言うけどな、サイオンジミオ」
 「…ど、どうして、その名前、」

 息が止まるかと思った。その名前はあの日あの夜にあの男性にしか伝えていない。
 伝えていないのにどうして、どうやって九条は知ったのか。

 絡れた糸がさらに絡まって玲の思考はぐちゃぐちゃになる。だけど九条の呆れたような一言で毛玉のようにぐちゃぐちゃだった思考が離散した。

 「まだ分からないのか。俺がその時の、死にかけていた男だ」
 「…?!」

 玲は信じられれず唖然として九条を見上げた。
 死んだはずの男性が実は生きていた、なんてこんな漫画みたいな展開があるだろうか。
 まさか彼は幽霊で何か未練があってこの世に止まり続けたのか。再び斜め上のことを考えはじめたとき、痺れを切らした九条が口火を切った。

 「忘れたとは言わせない。きみはあの日俺とひとつ約束した。『薔薇の花束を持ってくれば俺のものになる』と」

 ちょっと待って。待ってほしい。
 全然意味がわからない。
 
 「そ、そんなこと言ってません!」
  玲は慌てて否定する。

 「…きみはあの時、同じ大学の男に失恋したと言っていた。男は性格の悪い女に引っかかったと」

 なんだか色々悪意のある言い方だが失恋した経緯は概ね間違ってはいない。
 ちなみに彼らは卒業して半年ほどで別れたらしい。風の噂で聞いたとき少しだけ胸がスッとした。

 「俺がもらってやろうか、と言えば『薔薇の」
 「あーっ!!」

 玲はようやくその時のことを思い出した。それと同時に九条が話した内容は正真正銘事実だということも理解した。

 当事者が亡くなったためそんなことすっかり忘れていた。
 玲はあやふやだった記憶を引っ張り出して辻褄合わせを始める。
 確かその後に名前を聞かれて母の旧姓と妹の名前を組み合わせた偽名を教えた、ような気がする。
 
 「やっと思い出したようだな。それで約束通り薔薇を持ってきた。つまり今日からきみは俺のもの。OK?」
「…Not OK」

そんな昔の話を今更もってくるなんて。というか大事なところはそこじゃない。

 「…生きてたんですか?」
 「むしろどうして死んだと思った」
 「…だって」

 玲は込み上げてくる涙を堪えながら唇を丸めて俯いた。その肩が小刻みに震え始めたことに気づいた九条は玲を抱き寄せる。

 「…っ、病院に電話したんです。そしたら」
 「死んだって言われた?」
 「…はい」
 「それで君はずっと自分を責めていたのか」
 「…はぃ」

 玲はぐすりと鼻を啜り我に返った。だがふと背中に腕が回ったことに気が付く。
 何どさくさに紛れて抱きしめているんだ、と突き飛ばそうとするも所詮男と女。力の差は歴然だった。突き飛ばすどころかさらにグッと抱き込まれてしまった。

 「…俺はずっときみを待っていた。サイオンジミオが来たらすぐに案内してもらえるように病院にも話をつけていた。今思えば滑稽だな。まさか偽名を使われるとは夢にも思わなかったからな。おかげでこの五年ずっと探し続ける羽目になったが」
 「…それは、すみませんでした」
 「本当に。命の恩人に礼も言えないとは思ってもなかった。早く報告できていれば自分を責めることもなかっただろうに」
 「ぅっ、それは…」
 「まあ、嘘をついた代償だな」
 「…大きすぎます」
 「自業自得だ」

 玲は何も言い返せなかった。確かに自業自得だった。
せめて連絡先を伝えておけば、とか、そもそも九条の名前を聞いておけば、とか色んなタラレバを考えて肩を落とした。

「見つけた時は奇跡だと思った。きみは全然覚えてなかったけど」

 ちくりちくりと嫌味を言われ玲はぐぅと押し黙る。何も反論できる要素がなくて素直にその嫌味を受け止めた。

 「…あの、そろそろ離してもらえませんか?」
 「俺のもんになる?」
 「…それは」
 「何も今すぐ別れろとは言わない。まあなるはやで頼む」
 「それ同じ意味じゃないですか!」

 続けて「別れません!」と玲が言えば「ふーん」と白けた目を向けられた。身動きを封じられた玲はそわそわと瞳を彷徨わせることしかできない。

 「嘘つき。自分から強請ったくせに」
 「っ!?ちょっと語弊があります!」
 「何も間違ってはいないけど?俺の言葉が信じられないって言ったから『どうすればいい?』と聞けば『薔薇の花束もってこい』って言ったんだろ?」
 「も、もってこい、なんて、そんなこと言って」
 「言葉は違うかもしれないがそう言った。間違いなく。だからさっき思い出して恥ずかしくなったんだろうが。いいかげん認めろ」

 言葉とは裏腹に九条は非常に楽しげだった。
 とりあえずこの腕を解いてほしい。言葉が通じる通じないは少し別問題だ。玲は早々に諦めて白旗を上げた。

 「っ、時間切れか」

 だがそんな玲を味方したように救いの手が差し伸べられた。悔しそうに九条が携帯を取り出して画面を見て顔を顰める。

 「まだ時間あるだろうが」

 ぼそっと吐き出された言葉に玲は安堵した。この後まだ予定があるらしく催促の電話がかかってきたようだ。玲は顰めっ面の九条をも上げていた。だが彼は携帯の音を消すと携帯を元通りにしまった。

 「で、電話」
 「いい」
 「いや、良くないです!」

 帰りましょう、ね?と見上げれば、九条は仕方なさそうに肩を落とした。
 ようやく解放されると喜んだのも束の間。やわらかな感触が額に押しつけられる。

 「え」

 目を丸くして驚けば、思いがけないほど柔らかい眼差しとぶつかった。
 バタバタと女性が倒れそうなほど殺傷能力の高い微笑みはどこか黒くそれでいて艶っぽかった。あまりイケメンに興味のない玲ですら見惚れてしまうほどに釘付けになる。
 そんな玲を見て九条は小さく笑うともう一度キスをした。

 「…?!」

 しっとりとした唇だった。さっきのような子どもっぽいお遊びの戯れじゃない。もちろん誘うような深いものでもない。ただ、唇全体から伝わる感触や体温は穏やかで、少し乾燥した唇にぬくもりが伝わっていく。
 目を閉じる余裕もなく、何かを考える余裕もない。思考は止まり頭の中は真っ白だった。一体何が起きているのか玲は長い伏せられた睫毛を眺めながら今ひとつすぐに理解ができなかった。
 
 「……」

 ただ、されるがままに受け入れて離れていく顔をぼんやりと眺めた。
 九条はまるで何事もなかったかのように「帰ろうか」と背中を向けた。

 



 

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コメント

  • そら

    おもしろい!
    今後が楽しみ

    0
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