夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

第五章 浅川の企み 1

 いつものように、部屋にやってきた当直医と身体を重ねた浅川は、着替え始めた彼に言った。
「女の子を紹介したいんだけど」
「え?」
 驚き振り向いた当直医は浅川の言葉を聞き返した。
「隣の部屋の子なんだけど……一度だけでいいから遊んでやって欲しいの」
「……いいの?」
 彼は浅川を後ろから抱きしめて問う。
「なにが?」
「僕が他の女の子を抱いても」
 浅川の肩に顎を乗せて、真横から浅川の顔を見つめてくる。
「私……そんなに弱くないし、先生は私だけのものじゃないでしょ。本来の職場に戻れば彼女居るんでしょ、先生を束縛はしない」
 顔を横に向け、そこにあった彼の頬に口付ける。その目はギラついていた。
「……菜胡という名前なの。廊下の突き当たりの部屋」
 浅川を抱きしめたまま、わかった、と小さく呟いた。
「先生のタイミングで会ってあげて。次の当直の前とか早めに来る? あの子、外来勤務だから土曜なら十七時頃なら帰ってくるから」
 
 *  *  *

 内科医は浅川に好意を寄せていた。どこか全てを諦めたかのような彼女の儚さが心配で、なんとか繋ぎ止めておきたかった。

 初めて当直医のバイトに来た日、病棟で患者の急変があり呼ばれた時に夜勤だったのが浅川だった。次の指示をするよりも前に動ける彼女を純粋にすごいと思った。落ち着いていて行動に無駄がない。頼りになるナースだと思った。厳しい人なのかと思ったら患者との会話ではとても柔らかい笑みを浮かべる。そのギャップに惹かれた。
 だから部屋に来ないかとこっそり誘われた時は驚いたし嬉しかった。肌を重ねてみれば強気な中にも少女のように恥じらう瞬間もあり、内科医は更に浅川に惹かれていった。だが彼女はその気持ちを解っていながら応えようとしてくれず、身体だけの関係が数年続いていた。
 その浅川からの、この提案だった。戸惑ったが惚れた弱みで、受けた。

 *  *  *

 浅川は看護師になって七年になる。一年目は内科外来、二年目からは整形外科外来に勤務していた。内科外来に居た経験が活きて、整形外科でも仕事はスムーズに覚えられたし、患者に目を配ることもうまかった。診察の流れの少し先を読んで動くこともでき、外来診療は滞りなくこなしていた。

 二年目の終わり頃、看護部長が診療後の外来に来た。
「浅川、あなた四月から重症病棟ね」
「えっ」
 唐突な異動の話に驚いて声をあげた。大原は何も言わなかったからおそらく先に話を聞いていたのかもしれない。看護部長が話す間は大原は席を外していたから表情を見ることはできなかったが、引き留めてはくれなかったのだろう、何となく寂しさを感じた。
「なあに嫌なの? ステップアップにはあちこち経験した方がためになるのよ」
「病棟の誰かと交代ですか?」
 たまに、結婚した者が妊娠を機に外来に異動することがあった。だから今回もそれなのかと思ったが違った。
「新人をね、一人外来に」
 居心地の良い場所が、新人の場所になる。
 浅川だってずっと外来に居られるわけがない事はわかっていた。だが、たった二年、外来では三年で……と思うと寂しい。とはいえ、異動は避けられないものだ。組織の中にいて上からの指示に従わないわけにはいかない。わかりました、と答えるより他に無かった。

 三月の最後の週、後任の新人がやってきた。石竹菜胡と名乗った子はとても地味で野暮ったい子だった。背が低く内気な印象で、おかっぱ頭がダサく見えた。前任者という事で、新人に付きっきりで一週間、共に動いて仕事を教える役目が浅川の、外来での最後の仕事になった。
 朝八時半前に出勤してきたら、守衛で外来の鍵を受け取って待合室の椅子の乱れをなおして廊下の電気をつける。診察室の扉を開け放って、受付から届くカルテを並べる。薬だけの人、注射だけの人、リハビリだけの人はそれぞれ専用の札があり、それを目印に仕分けをする。注射の準備、診察が始まったら診察の補助の仕方、患者との対応など細かく新人に伝え続けた。
「――だから、わかった? わからなかったらはっきり聞いて」
「今言ったことメモしなくていいの?」
「ねえ、あたしそういう風に言った?」
「これはどうするって教えた?」
 新人は声が小さくて、いつも自信なさげだった。少しおっとりもしていて引っ込み思案なところが少し苛立った。

 ――こんな子に務まるの?! やっぱりあたしじゃなきゃ……浅川を戻してって声が来るかな、来てほしい。

 菜胡に一通りの仕事を教える期間は一週間で、その最後の日、土曜の午後のことだった。
「浅川、菜胡を借りるわね」
 大原が菜胡を連れて院内を巡り出した。
「この子、あたしの新しい娘よ! 可愛がってやってね」
 意気揚々と、院内のあちこちに声をかける大原。

 ――もー大原さんたら、あんなに言ってあたしが戻ってきた時気まずいじゃん。

 外科外来での大原の声は整形外科にも聞こえてきた。
 
 だが重症病棟へ上がって一年が経っても整形外科外来から戻ってきてほしいといった声が掛かることはなかった。掛かるわけがないのに、愚かにも浅川はそこに縋っていた。
 
 病棟は、日勤、準夜勤、深夜勤の3パターンのほか、早番、遅番がある。夕方十七時からの勤務である準夜勤のため病棟へ上がりステーションへ近づいた時、看護部長と樫井の会話が聞こえた。
「あら、樫井せんせ。石竹さんはどう?」
「良い子だよ、よくやってると思うよ。素直だし患者への対応も上手くて、診察も問題なく進めてる。浅川君が仕込んでくれたからね。菜胡ちゃんは穏やかな空気を纏ってる不思議な子だよ。お年寄りの患者さんなんて気に入っちゃってさ」
「あっはっは、それはいいわね。浅川とは正反対だものね」
「取り立てて美人ってほどでもないけど、顔立ちも可愛らしいしツボに入ったらハマってしまうような子だね」

――ベタ褒めじゃない!!!

 この頃から、菜胡への敵対心、嫉妬心のようなものが強まった。外来の仕事について何一つ質問もして来ないし、たまに外来で会っても話しかけてもこない。先輩を立てるべきでは? 浅川は傲慢になっていた。
 
 寮に帰れば菜胡がいる。浅川の部屋の奥に菜胡の部屋があり、どうしたって顔を合わす機会が多い。共同のキッチンで何かを作っている菜胡に話しかけた。
「彼氏に食べさせるの?」
「あ、おつかれさまです。彼なんて居ませんよ〜自分で食べるんです」
「食堂使えば良いじゃん? 作る手間があったら合コンとか行けば?」
「うーん、そういうのあまり得意じゃないので……」
 恋愛に奥手なのだとわかった。それからは、恋愛でなら菜胡より優位に居られると、会うたびにそういう話題を振った。遊び相手の若い当直医を部屋に連れ込んで、最中の声も聴かせた。
「ごめんねえ、聞こえた?」
 そう聞いても菜胡の反応は薄く、照れもせず視線も合わせず、ただ大丈夫だったとだけ返ってくる。その余裕にも苛立った。もっと照れたり謝ってきたり、色々聞いてくればいいのに。恋人が欲しいなら相談してくれれば乗ってやらない事はないし、整形外来が辛いという愚痴も聞きたい。看護部長に話して自分と交代してもらう妄想までしてるのに、菜胡は一切絡んでこようとしない。それすら腹立った。

「菜胡も部屋に連れ込んで良いんだよ」
「好きな人作ればいいのに」
「だから処女なんだよ」
 これらの煽りにも菜胡は動揺も見せなかったが、整形外科に新しい医師・棚原がやってきた事でそれがわずかに揺れ出した。

 棚原は見た目が非常に良い。あれを自分の男として連れて歩けば羨望の眼差しで見られるはずだし、体格も良いから身体の相性も試してみたい。若い当直医と同じように足繁く棚原のところへ通っても、名を呼ばれるどころか眉をしかめてろくに相手にしてもらえなかった。それでも浅川は諦めず、病棟に棚原が来ると必ず隣に座ったし、整形の回診には浅川が必ず着いた。かつて整形外科外来に居た関係もあり他のナースも譲ってくれたから、樫井も浅川を指名して指示を出していた。

 だが棚原は何度回診に着いても、指示を仰いでも浅川には見向きもしなかった。更には、毎週土曜の午後は棚原の姿が消える。患者の急用は無いが、土曜の午後は比較的時間に余裕があるため、交代で休憩に入らせてもらえる日もある。そんな日に医局へ行ったが居なかった。他の病棟へ行っても居る様子がない。棚原の車はある。思いつくところは整形外科外来しかなかった。

「棚原先生来てる?」
「居ませんよ」
 菜胡は即答した。奥の診察机のカーテンが引かれている。あそこに居る。浅川は直感でわかった。だが菜胡が立ちはだかった。
「午前に来た患者さんが横になっている」
 そう言った。絶対、棚原がそこに居るのに、と思いながら、菜胡に仕返しを試みる
「そんなんじゃ一生、処女だよ」
 焦った声が返ってきた。確信した。外来に居る。だが本当に患者だったならカーテンを開けて押し入るわけにはいかない。一旦は引いた。

 それからしばらくして、菜胡のまとう空気が変わった事に気がついた。どこか余裕のような、自信のある顔つきになった気がした。決定打は、車から降りてきた菜胡を見かけた事だ。乗っていた車は棚原のもので、降りる前、二人はキスをしていた。
 あの菜胡が? 美人でもない、野暮ったい子のどこがいいの? 浅川はただただ悔しかった。

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