夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

5

 週が開けて水曜日、棚原の担当患者、佐々ハルミが来院した。若い頃は芸妓をしていたそうで、身だしなみにはとても気を遣うおしゃれな女性だ。八十歳になろうというお歳でも赤いスカートを着こなし、化粧も施して、いつもニコニコと来院する。名を呼ばれて中に入ってくると決まって言った。
『先生、今日も良い男ねウフフ』
 だがこの日のハルミはいつもと様子が違った。顔つきが険しく、左右の靴下の柄が違った。カーディガンのボタンは掛け違えており、化粧は中途半端。
「大原さん、今日のハルミさん何だかおかしいです。着るものもお化粧も中途半端で顔つきがキツいっていうか」
 菜胡に聞いて大原も待合椅子にいるハルミの様子を見に行けば、確かにおかしいと戻ってきた。大原が聞いたことへの返事はなく、ただつらつらと言いたいことを口にしていたと。
 佐々ハルミも、南川由雄と同様に古くからここに通う人の一人だ。元芸妓という矜持が年寄り扱いされる事を拒み、頑なに遠方の息子からの申し出を断り続けて一人で暮らしていた。毎週水曜、膝の治療とリハビリに来院していたハルミ。頭頂部で白髪をお団子に結い上げ、エナメルの靴も履いてくる。ビーズで作ったのだとポシェットを斜めがけにし、杖をついて病院へやってきていた。そのハルミに異変が見られた。だが帰りはいつものように笑顔で帰っていった。会計のお金もきちんと払い、忘れ物をする事なく、病院を後にした。
 外来の四人は、ハルミの次回の様子次第では息子氏に連絡を取る事を話し合った。ハルミのカルテに記載されている連絡先を確認し、そうして迎えた翌水曜日。

 ハルミは予約時間である十時に現れなかった。

 予約時間をはるかに過ぎた十一時半、受付から「一名、救急で診てもらいたい」と連絡が入った。この日は空いているから構わないよ、と受けたものの、四人は嫌な予感がした。大原と棚原が受付に向かった。菜胡は診察室の扉を開放固定し、どういう状態かわからないが縫合セットや包帯など思いつく限りの用意をして到着を待った。
 受付の前には車椅子に乗せられ肩をしょぼくれさせているハルミが居た。
「ハルミさん、どうしたのよ」
 大原が声をかけながら顔を覗き込むとようやく笑顔を見せた。車椅子を押して整形外来へ向かう。
「アタシね、病院に行こうと思って家を出たのよ。今日はほら樫井先生の日だから。そしたら玄関出たら転んじゃってね、知らない方が助けてくださったんだけど知らないところに連れて来られってどうしようかしらって思ってたの、そしたらあなたが迎えに来てくれたじゃない? 良かったわ」
 傍に立つ棚原のことは顔を見ても何も言わなかった。

 ――認知症、か……?

 おでこにハンカチを当てて車椅子に乗ったハルミをひと目見て、樫井は菜胡を見た。息子氏への連絡が決まった。
「ハルミさん、僕だよわかる?」
 樫井が背を屈め、笑顔のハルミに声を掛ける。
「イヤだわ、樫井先生のこと忘れたりしないわよ、ウフフ」
「おでこが擦り切れてるから、消毒するからね」
 おでこを盛大に擦りむいている他の外傷は無く、足腰も動かせるし骨折等もない事が解った。ハンカチを退けて、消毒薬を染み込ませた綿球を軽く当てる。
「あらやだ痛いわ、どうして? 先生何なさったの?」
 消毒する樫井の腕を掴んで驚くハルミ。転んだ事も忘れていた。
「ハルミさんね、さっき転んじゃったんだって。それでおでこを擦りむいてたの。消毒したからもう大丈夫だからね」
「アタシね、樫井先生の日だから病院に行こうと思って家を出たのよ」
 先ほどと同じことをまた繰り返しはじめた。

 一時間程して到着した息子夫妻に、樫井が事の次第を話した。
「ここへ来る前に自宅へ寄って来ました。部屋は散らかっていて、かつての母には考えられない状態でした。芸妓時代に着ていた着物や三味線も倒れていて……綺麗好き、整理整頓は欠かさない母だったのに」
 車椅子に座り、息子と樫井の会話を聞いていたハルミと目が合うと、不思議そうな顔をして、樫井と会話する息子氏に話しかけた。
「あちらの方はどなた? 新しい先生?」
 棚原はじめ、ここにいる皆が、認知症だと確信した。菜胡と目があった。頭を小さく横に振る。
 
 その日、ハルミは息子夫妻が連れ帰った。

  *  *  *

 ハルミの異変があった週の土曜、棚原はまた外来に来た。資料作りはないが、のんびりしたいと、本を持ち込んだ。甘めのコーヒーを出しながら、そういえば――と菜胡が口を開いた。
「昨日、ハルミさんの息子さんが来られたんです。息子さんのご自宅近くの総合病院で診ていただいて認知症と診断されたって。そこへとりあえず入院させてもらって、施設の空きができ次第、移るそうです」
「そうか。それが一番だなあ……」
 話しながら菜胡が診察台に腰掛ける。
「ハルミさんは、私が大原さんの娘だと信じていた時期があって、時々そのことで笑い合ってたんですよ。一年目の冬にはスカーフをクリスマスプレゼントにくれたんです。大原さんから叱られた時はこっそり励ましてくれたし、私化粧しないでしょう、紅くらいは差してご覧なさいってたまに言ってくれて……しんみりしてごめんなさい」
 菜胡は俯いた。
「いや、いいよ。知り合いが認知症になってしまうのは切ないもんだ……大原さんや菜胡は、彼らにとって必要な居場所だったんだ、しんみりもするさ」
 菜胡の隣に座り直し、よりかからせる。
 しばらく寄りかかっていた菜胡は「よし」と気合を入れて立ち上がった。
「土曜はやる事が多いんでした、先生はどうなさいますか?」
「少し仮眠したい、いいかな」
 いつものようにカーテンを引き、タオルケットを掛けてくれる。カーテンの向こうでは菜胡がパタパタと動き回る音や鼻唄も聴こえてくる。それらをBGMに寝入ってしまった。
 
 ややキツめの口調の声が聞こえた気がして目を開けた。起き上がればタオルケットが掛けられていて、カーテンの向こう、診察室の入り口で菜胡が誰かと話しているようだ。
「ホント堅い女ねぇ、そんなんじゃ一生処女だよぉ?」
「ほっといてください! 患者さんの迷惑ですからもう帰ってください」
 あの菜胡が声を荒げている。

 ――いや、処女……?

 扉を閉めて鍵を掛ける。ふぅ、と大きく息を吐いた。
「浅川さんたら……あんな言わなくてもいいじゃな……き、聞こえてました、よね」
 振り向きながら独り言を言っていた菜胡と目があった。
「やだな、恥ずかしい……」
 こちらに向けられたその背中を抱きしめる。
「ほんとなの」
 こくんとうなずいて口を開く。
「前も言いましたけど、先生が、全部初めてです」
 ごくり、と唾を飲み込む。初めてならば、なおさら丁寧に接するべきだった。あんなに何度もキスを迫り、抱きしめたりしてはいけなかった。
 背中越しに抱きしめて感じる菜胡の匂いはより強くて、欲しい、菜胡が欲しい。愛しくてたまらない。だけど、大事にしたい。だから――。
「ごめん、今まで強引に……怖がらせた」
 そっと菜胡を解放して後ずさる。
「先生……?」
 菜胡が不安そうに振り返った。
「病棟に寄って帰るね、菜胡もお疲れさま」
 棚原は菜胡の顔を見られなかった。どれだけ怖い思いをさせて来たのだろうと思ったら、もう気軽に触れられなくなった。
 菜胡を抱きしめて離したくない。けれど、それ以上に菜胡を大切にしたい。
 
 外来を出てすぐの、細い廊下の壁に寄りかかる。菜胡はどんな表情をしてるだろう……大きく息を吐いて天を仰いだ。

 ***


 菜胡に気軽に触れられなくなって週が明けた。診療中は前と変わらず話すし、菜胡が近くにいても、大原もいれば普通にその場に留まり談笑もするが、二人きりになるのを極力避けた。大原が外来を出るタイミングで棚原も病棟へ向かう。とにかく二人きりになるのを避けた。

 ――はー……どうしよう。菜胡を抱きしめたい。でも……もっと気を遣わなくちゃいけなかった。

 菜胡が軽々しく身体を許すような軽い女だと思ったから抱きしめたわけじゃない。そういう事をしたいならそういう所に行けばいい話だが、菜胡は違う。そうじゃなかったのに……。

*  *  *

 外来に居る時間が減ったぶん、病棟にいる時間が増えた棚原に、浅川がしつこく絡んできていた。うんざりするくらい、医局に居ればやってくるし病棟で書き物していれば隣に腰掛けて話しかけてくる。外来に逃げようにも菜胡を怖がらせてしまってはいけない。だから浅川のことは相手にしないのだが――。
「先生、最近こっちにいる時間が多いですねぇ? 外来に居辛い事でもぉ?」
 浅川はこういう事には聡い。そもそもこいつが外来に来さえしなければ――! そう八つ当たりをしてしまうものの、菜胡との関係があのままでいいはずはなく、きちんと向き合う時はいずれ取らないといけなかったのだ。

「私とランチする気になりましたぁ?」
 断っても無視しても引き下がらない。こいつのメンタルはどうなってるんだと恐ろしくもある。
「ねぇ、先生、看護研究で整形外科の資料が欲しいんですぅ」
 そう言われれば無碍にもできず、医局に置いておくから勝手に取りに来て、と告げた。後日、資料を机に置いて外来診療に降りていた間に、彼女は資料を取りにきたらしいが、名刺のようなものが代わりに置いてあった。
『連絡いつでも待ってまぁす』
 浅川の連絡先だろうか、携帯番号と寮の部屋番号が書かれていた。

 ――こんなものを持っていて万が一にでも菜胡に見られたらどうする! 不吉極まりない! 突き返してやる!

 日にちを置くとタイミングが外れてしまう。その日の夕方、全ての業務がひと段落した合間を縫って、病院裏手の寮へ足を向けた。書かれていた番号の部屋の扉を叩く。
「はぁ〜い」
 中から浅川の声がした。扉が開くと、ムワッと暑苦しい空気がまとわりついて、不快な媚びた匂いがした。この中に入る気は無く、扉を開けたままで要件を伝えた。
「こういう物は迷惑だ、返しにきた。今後は一切やめてもらいたい」
「えぇ〜冷たぁい、会いに来てくれたんじゃないんですかぁ?」
「迷惑なんだ。その資料は返さなくていい、使い終わったらシュレッダーにかけて捨てて」
 その時、誰かが後ろを通り過ぎた気配がした。それが例え菜胡じゃなくとも、自分が浅川とだなんて誤解されるのは真平ごめんだ。そう思っていたのに、浅川はあろう事か適当なことを言い出した。
「棚原先生、金曜日楽しかった。また来てね、今度はもっとゆっくり……」
 浅川は棚原の返事も待たずに、それじゃ、と身体を押して扉を閉めた。

 ――なんなんだ、金曜日って?! 会ってもいないぞ、頭おかしいのか?

 彼女と接するのはとても疲れる。だがこれでもう二度と関わらないでくれたらいい、と思い踵を返したところ、廊下の奥の部屋から音が響いてきた。

 ガチャガチャ……ガチャガチャ!

 振り返れば、看護師だろうか、鍵穴に挿さった鍵が抜けずに奮闘していた。先ほど後ろを通ったのは彼女だろう……浅川と関係を持っていると誤解されたに違いない。金曜日楽しかったなどと言っていたのも聞こえていただろう。関係のない者に釈明などはいらないが、困っているなら手伝ってやろうと近づいて、声を掛けて手を伸ばした。
「力任せに無理にやったらダメだ、貸し……菜、胡……?」
 鍵を持つ手に触れた時、左手の甲の真ん中にある黒子に目がいった。知っている手だった。毎日、目の前でカルテを捌いている手だ。診察の補助をしてくれている手――菜胡の手だ。鍵は棚原が手を添えたらすんなりと抜けた。名を呼んでも顔を伏せたまま、菜胡の手に添えた棚原の手の甲に、水滴が一滴、ぽとりと落ちた。それはパタパタと増えていく。
「菜胡……なんで泣い……」
 頬の涙を拭おうと手を伸ばしたが、菜胡に触れることは赦されなかった。寸前で彼女の手によって振り払われてしまったのだ。
「あ、す……みません、失礼します」
 頭を下げ、わずかに開いた扉から室内へ身体を滑り込ませて、菜胡の姿が消えた。パタン、と扉が閉まったのと同時に鍵の掛かる音が響いた。

 行き場を失った手と、閉まった扉を交互に見つめるしかできなかった。
 

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