夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

9


「棚原くんのほうカルテどのくらい? 新患多い?」
 新規患者は、二人がレントゲンを撮りに行っていて、彼らが戻ってくるのを待っている状態だった。
「こっち多いから棚原くんに割り振っていいかな」
 樫井の方はまだカルテが積み上がっていた。一人一人が長いためなかなか減っていかない。時刻はそろそろ受付が終わろうという頃で、待たされている患者側も疲れて来てしまう。樫井がカルテの山を見て、継続して経過観察している患者の中でもだいぶ状態の安定している四人のカルテが渡された。

 診察内容はカルテを見れば一目瞭然だが、どんな患者かはわからない。だから菜胡が少し付け加えた。
「この方は近くの洋食屋さんの店主です、メンチカツが絶品なんですよ。ガッチリした方で、スケボーするんですって。次の方は民謡が趣味で、軍隊にいた頃の話をよくしてくれます、右耳が聞こえにくいです。こちらは元芸妓さんだった方で、穏やかに見えて黒白ハッキリつけたがる方です、おしゃれさんです。洋食屋さんの店主とお友達の散髪屋さんです、マウンテンバイクが趣味で、そっち系の話すると長くなります」
 棚原に一通り伝えた。
「へー。なるほど、ありがとう。すごいね……なんか、すごいね」
 背を屈め、隣の診察の邪魔にならない声のトーンで一通り伝える菜胡を、棚原は見つめていた。
「少しは見直してくれましたか」
 うん、と小さく頷き、菜胡の頬に降りかかる髪を耳に掛けてやりながら不敵な笑みを浮かべた。
「箒を振るのがうまいだけじゃなかったんだね」
 小声で返ってくる。髪を掬われ、耳に軽く触れながら髪を掛けてくれる動作がとても優しくて、触れた指の温かさが気持ちよく、腰にくる例のバリトンボイスを聞いて、忘れかけていたキスを思い出してしまった。
「なっ」
 顔を赤くして身体を離し、頬を膨らませる菜胡。だが、そんな様子を見て声を殺して笑う棚原は楽しげだ。

 ――あんな出来事はきっと出会い頭に衝突事故が起きたようなもので二度目は無い。先生だって気にしてない。大丈夫、きっともう忘れてる。

 自分だけが狼狽えてるわけで、ちょっとイモくさい女が目の前にいたから揶揄っただけなのだ。菜胡の中でそう気持ちを落ち着けた。そういう風に思うことで菜胡は心を保っていた。でなければ恋愛経験の少ない自分は簡単に絆されてしまう、勘違いしてしまう。目の前のカルテに視線を落としている棚原の、少年のような笑顔を見ながら、口を引き結んだ。

「ねえ石竹さん、これでいいのかな」
 四人の診察を終え、カルテに記入していた棚原が菜胡を呼んだ。
「はい、なん……」
 棚原が指差す伝票を、背を屈めて覗き込んだ時だ。後頭部に手が当たったと思ったら顔を横に向かされて、棚原の顔が近づいた。唇に軽く何かが触れ、そしてすぐに離れた。
「……そういうことか、わかった」
 
 ――この……! 診察中に!

 素知らぬ顔でカルテに向かう棚原に反論したくてもカーテンのすぐ向こうには樫井と大原がいる。声を出せば勘付かれてしまう。菜胡は頬を膨らませて、チラッと菜胡を見てきた棚原を睨んだものの悪びれた様子もない。

 ――……一瞬だけど、やっぱり、気持ち……良かった……。

 棚原に背を向け、そっと唇に触れる。二度目はないと思ってたのに。

 
 午前の診察は無事に終えた。話がしたいと大原や菜胡を待っていた患者の話を聞いている途中で、大原宛に電話が掛かってきたため、それからは菜胡が聞き役を引き継いだ。ひと通り話を聞き終えて診察室へ戻ったら、大原は帰り支度をしていた。
「あれ、どうかしたんですか」
「ごめんね、息子が熱出したって学校から連絡来たのよ。あたし帰るわ、それで内科に息子連れてくる。あと頼んでいい?」
「あら、わかりました、お帰りください」
「このカルテは処理済みよね、これはあたしが受付へ届けるわ。十七時半には帰って」
 十数冊のカルテを小脇に抱え、大原は忙しなく帰って行った。

 大原の家は病院から自転車で十分くらいのところにある。栃木県から一家でこちらへ引っ越してきて旦那さんと出会い結婚した。その頃からここに勤めていると聞いたことがある。息子が十歳の頃に旦那さんが帰らぬ人となり、それからは母一人、子一人で暮らしている。
「大原さんの息子くんたいした事ないといいけどね。さて、午後の僕らは病棟だよ。今日は手術が無いし、回診してゆっくりしよう。何か外来でやり残した事ある?」
 大原を見送ってから、座りながら背伸びをした樫井が午後の予定を告げる。
「一つだけ……確かめてから上に行きます」
 思案顔で樫井にそう言うと、樫井は一人立ち上がった。
「そう? ならそのままお昼休憩もしてきて。僕ちょっとこれから製薬会社さんと外で会ってくるからさ。すぐ戻るけど」
「わかりました、では後ほど上で」
 樫井をも見送って、いよいよ外来には棚原と菜胡の二人だけになってしまった。途端に気恥ずかしさが増して緊張してくる。
「えっと、あ、ちょっと私もリネン庫へ出てきますね、先生は適当に――」
 白衣の裾をツンと引っ張られた感じがして振り向いたら棚原に腕を掴まれ、一瞬で腕の中におさまった。
「ちょっ、ななななんなんですか、この前から! 私、そんなに軽く見えるんですか」
 そういう扱いをしてもいいと見られているから、こうして気軽に気楽に、気安く、菜胡に手を出すのだろう。しかも慣れた手つきで。奥様がいるくせに。

 菜胡はうつむく。これだから――嫌だ。こっちはこうされる事すべてが初めてだからぐいぐい来ないでもらいたい……心が追いつかない。
「軽くなんて見てない、むしろガードが堅そうだなとは思ってるけど」
「そ、そうですか……何か確かめたい事があるんじゃないですか」
「ん……。ああ、やっぱりあの匂いは君からだった。なんだろう、香水かなにか?」
 そっち? と思いつつ、ガードが堅そうと浅川にも何度か言われたことを思い出す。
「いえ、香水は使っていませんけど……」
「とてもいい匂いがするんだ。甘くてふわっと丸い感じの優しい匂い。なにこれ、落ち着く……ホッとする」
 菜胡の肩口に顔を乗せて、深呼吸をしているらしい棚原から発せられている息がうなじの辺りにかるく触れてきて、くすぐったい。
「ん……」
 いい匂いというならば、棚原からもいい匂いがする。菜胡もスンスンと匂いを嗅いだ。
「なに? 俺、臭い?」
「あ、すみません、臭くないです」
「そう? ならいいけど……それと、何でかわからないけど、この前から君が気になってる……」
 近づく顔。菜胡もこの前から棚原が気になっていた。その見た目じゃなく、この匂いと気持ちのいいキスが忘れられなかった。だが、甘い空気になり唇が触れあおいうという時、菜胡が唇の間に手を差し入れた。
「だっだめですよ! 診察中も不意打ちされましたけど、恋人でもないのに、そんな簡単に、キッ、キキキキスなんて、勘違いのもとですから」
「勘違いか……でもあんなに気持ちの良いキスは初めてだったんだ……確かめてもいい」

 ――え、先生も?

 唇の間にある菜胡の手に自分の手を合わせ指を絡ませてきた。耳元で囁いて、腰に回された手に力が込められて菜胡をわずかに持ち上げる。

 ――だめ……。

 気がついたら唇が重なっていた。優しく割り入れられる熱。押し返そうとすれば逆に絡め取られて、ますます深く交わる。棚原の手は菜胡の腰に添えられ、菜胡は棚原の胸元をぎゅっと縋るように掴んだ。そうしていないと、唇から拡がる不思議な感覚に飲み込まれてしまいそうで怖かった。
「んんっ……まっ……」

 ――だめ、なのに……気持ちのないこんな事。

 そう思うのに、全力で拒否できなかった。菜胡もあの時から棚原が気になっていて、またあの気持ち良さを感じたい、そう思っているから、重なる唇を、棚原の熱を、受け入れた。境目がわからない程に溶け合って、息が上がりはじめた二人。
 診察室の電話の音が響いた。
「はい、整形外来です」
 一瞬で正気に戻り、棚原の腕の中でくるりと反転して受話器を取る。
『あ、菜胡ちゃん? 走らせちゃった? ごめんね! 棚原くんはまだいる?』
 息の上がる菜胡。走ってきたわけではないから、何となく罪悪感を感じる。
「いまもうそちらに上がるって手を洗ってます」
『わかった。僕少し遅れるって言っといてくれる? 病棟のカルテ見ててもらえたら』
「わかりました、お伝えします」
 受話器を置いて、背中にいる棚原に伝えた。
「だそうです……」
「行かなくちゃいけないな……もう一度だけハグさせて」
 というか既にしてますよね、と突っ込みつつ、棚原に抱きしめられるのはそんなに嫌じゃない事に気がついた。大きな身体に包まれる安心感は心地良かった。
「ハグだけ、ですからね」
 パァッと笑顔になって、菜胡を振り向かせ強く抱きしめてきた。肩口に顔を寄せ深呼吸をする。匂いが好きなんてマニアックな、と思いっていれば、間髪入れずに口づけもしてきた。菜胡の唇を割り入って、先ほどの続きと言わんばかりに熱を絡めてくる。ハグだけで終わるわけがなかった。
「ん。頑張ってくる。ありがとう、菜胡ちゃん」
 パタパタ……軽やかな足音が遠ざかる。

 まだほんのり残っている棚原の匂いに胸がキュンとする。先ほどまで触れていた唇をなぞる。
「なんなの、もう……」
 火照る頬を冷やすように両手で包む。この火照りがなんなのかは考えたくなかった。

 ――好きになんてならない。だいたいあんな、いきなり、キス……あんなに、気持ちのいいものなの? みんなもそうなの? 

 初カレ以降、男性とこんなに接したことが無いから、ああやって近づいて来られると絆されてしまう。チョロいなと自分でもわかっている。真意を見抜けずに弄ばれる。だから気は許さないようにしなければと思うのに、抱きしめられるととても安心する自分もいて戸惑う。甘えたくなってしまう。

 背中に回る腕の安心感と、ほんのり残る棚原の匂いに頬の熱が再燃した。

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