夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

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 浅川と朝食を食べた週の土曜。菜胡は一人で外来の後始末をしていた。
 大原は外来が終わって少しすると帰っていく。だから土曜の午後は早い段階で菜胡一人になる。救急は来ないし、他の外来からヘルプを頼まれる事もほとんど無く、ただひたすら整形外科外来の掃除をし、月曜からの診察の準備をする。

 診察台の敷布を交換し、リネン庫へ持ち込んで新しいものを必要数+アルファで持ち帰る。一週間の間に使った薬剤の数と在庫数を数えて薬剤科へ補充を頼んでから、処理済みのカルテを受付へ届ける。診察が終われば取りに来てもらえるが、紹介状や診断書を書く必要のあるカルテは避けていて、それらの処理の済んだものは菜胡が届けている。診察机や椅子、取っ手、待合室の椅子、受話器などあらゆるところを消毒用アルコールで拭き上げてから伝票の補充、カルテに使うハンコの印面の掃除、シンクの掃除、自分たちが使う作業台の整頓などをして最後に床を掃きモップで拭く。この他に、月曜に来る患者の検査伝票の確認や、業務日誌を書いたら仕事はほぼ終える。だから菜胡一人でも充分なのだ。

 休憩も兼ねて、喫茶セットを入れている棚の掃除もする。今は樫井と大原、自分の三人だが、近々一人増えるという。好きなお菓子はあるのかしら、コーヒーは飲める人? どんな先生なんだろう。そんな事を考えながらのんびり作業をするこの時間が、わりと好きだった。

 この日は珍しく外科外来から呼び出された。大原のように処置のサポートは無理だと思いつつ向かえば、菓子のお裾分けだと言って紅茶を淹れてくれていた。
「あんたいつも一人だからさ、たまにはいいかと思って」
「ありがとうございます、嬉しいです」
 十数分ほど外科でお茶をいただいて整形外科外来へ帰ってきた時、待合室の椅子の奥にワタ埃が見えた。清掃は基本的に専用のスタッフが居てやってくれるが、椅子の奥の方は気がつかなかったのだろう。菜胡は掃除用の箒を取りに診察室へ戻った。その時、カーテンの向こうの机付近に人の気配を感じた。誰も居ないはずなのにカーテンの下に足が見える。手近にあった箒を手に持って、足音を忍ばせながら近づきカーテンを思い切り引いた。
「あなた誰! 何してるの!」
 スーツ姿の、背の高い若い男性が居た。長い前髪をしていて、ややタレ目。左手薬指には指輪が見えた。細すぎない体幹……そんなことを観察して菜胡は相手の出方を待った。

 男性は診察机の上の棚に腕を伸ばしていて、その手には未記入の伝票が複数枚あった。
「わっ、待って、怪しいものじゃ」
 手に持った箒を男性に突きつけながらジリジリと距離を縮める菜胡に対し、その箒の先を凝視しながら手にしていたものを机へ置く男性。そして箒の先から菜胡へと視線を移した時だった。

 視線が絡んだ。

 一瞬か、あるいは数分かわからない。視線が絡み合った瞬間、金縛りにあったかのように動けなくなった。男性と見つめ合う。息も止めていたかもしれない。耳に響く鼓動の音がやけに大きく聞こえてきて息苦しさを覚え、プハッと吐いた時、込めていた全身の力の均衡が崩れたのか、勢いをつけて踏み出していた足が前へスリップしだした。だが体重は後ろ足にあり、箒を持つ手はそのままにバランスが崩れた。このままでは尻餅をついてしまう。悪ければ頭を打つ。菜胡は来る衝撃に歯を食いしばった。

 ドサッ。

 ――痛……くない?

 背中に衝撃を感じる事はなく倒れもしなかった。代わりに、箒を持っていた右腕の手首がキツく掴まれていて、身体の前面が良い匂いのする柔らかくもない硬くもない何かに包まれていた。腰には何かが巻きつき固定されていて身動きが取れない。一瞬どういう状況なのか分からず混乱していると頭上から声がした。
「大丈夫?」
 バリトンボイスが腰に響く。巻き付いていたのは男性の腕で、その腕が背中をさすっている事に気がついて目を開け見上げれば、紺色のネクタイと白いシャツ、スーツの裏地が目前にあり、えも言われぬいい匂いがした。そこでようやく先ほどの男性なのだと理解できた。全身を男性に預け、持っていたはずの箒は床に落ちている。片手は男性と手を繋ぐかのように絡み合い、もう片方の男性の手は菜胡の腰にある。まるで社交ダンスをするペアのような体勢で、たがいに身体を密着させていた。
「豪快に転ぶところだっ……」
 ふー、と息を吐いた男性は、突如、何かに気がついて言葉を詰まらせ、菜胡を見つめてから抱きしめなおした。初カレと抱き合って以来の、男性の腕の中だ。大きく逞しい身体つきに包まれると言い様のない安心感が生じる。

 ――初対面で安心感も何もないのに。

 懸命に心の中で抗う。
「あの、助けてくださり、ありが――」
 お礼を言おうとして男性の胸元に手を当ててその腕の中から逃れようとした。だが最後まで言わせてもらえなかった。菜胡を抱きしめる腕には力が戻り、更に強く引き寄せられた。次いで、菜胡の背中と後頭部に手が添えられたと思ったら男性の顔が近づいてきた。あっという間だった。
「んんっ……」
 それはまるで青天の霹靂だった。何をされているのかわからなかった。眼前には、目を閉じる男性の顔があり、言葉が出せないのは唇が塞がれているからで、身動きが取れないのは抱き寄せられているからだ。

 ――えっ……

 軽く触れたと思った唇は、顔の角度や強さを変えながら何度も繰り返し重なってきて、菜胡が正気を取り戻す頃は、唇から拡がる甘く痺れるような不思議な感覚が全身を包みはじめていた。胸がキュンとして腰に力が入らない。縋らないと立って居られず、その甘い痺れに酔いそうで不安になり、悲しいわけでもないのに涙が目尻を濡らす。男性の胸をぽかぽかと叩き続けた。
「す、すまない……」
 叩かれて男性も気がついて、ようやく腕の力を緩めてくれはしたものの、動揺でうまく言葉が出ない上、腰に力が入らない菜胡はその場にへたり込んでしまった。男性は何か言いかけたが、へたり込む菜胡の背中をさすり出した。
「何なん、ですか、どうして」
 色々聞いてやろうと思うのに、ドキドキが増しているのと息が上がっているのとで言葉が出てこない。
「俺は棚原紫苑、来週から整形外科医としてここに――ちょっと失礼」
 話途中で、棚原と名乗った男性の携帯電話が鳴った。菜胡の背に手を当てながら会話をする。
「いま整形外科外来を見させてもらってます……はい、わかりました、行きます」
 電話を切ると棚原はニッと笑顔を見せた。
「樫井先生と約束があったんだ。じゃあまたね、石竹さん。来週からよろしく」
 パタパタと遠ざかる足音。それが聞こえなくなるまで菜胡は立ち上がれなかった。床に落ちたままの箒に手を伸ばし、のそのそと立ち上がり声を出した。

「はあー?!」

 それから退勤するまで、菜胡は無心に身体を動かし続けた。ちょっとでも止まるとすぐ棚原と名乗った男を思い出してしまう。
 
 ――なにあの男! いきなりキスなんか! 勝手に伝票持ってた! あんな! キス……気持ちよかった……あんなに気持ちいいものなの? 知らなかった……それになんかいい匂いもした、香水? しっとりした匂い。ホッとするような、胸のあたりがキュってなるような、落ち着く匂い……落ち着……かない!!! ファーストキスだったのに!!
 
 翌日曜も、一日中、頭から離れなかった。買い物に行って野菜を見ても、道を歩いているカップルを目にしても、豆大福を買っても、洗濯物を畳んでいても、テレビを観ていても、何をしていても棚原の事が頭から離れなかった。
 
 ――最悪! こんなに! こんなに……。
 
 初対面の人に心を乱されるなんて。

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