夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

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 病院の非常口を出た敷地の奥にある、古めかしい建物が寮で、そこの三階と四階が寮になっていた。バストイレとキッチンは共用で、食事は院内の職員食堂に申請すれば患者と同じものだが用意してもらえる。寮にあるキッチンを使っても良いのだが、菜胡はそういうわけで浅川の生活リズムを気にしてしまっているから、満足に調理できない。調理中にあの声が聞こえてきたら食欲減退だし気まずい。ニンニクの香りなど立てようものならたちまち浅川が怒鳴り込んできそうだ。だから、菜胡は食堂で食べることを選んでいた。日曜は気分転換のつもりで自分で調理もするが、浅川に会わないよう短時間で作れるものばかりを選んでいた。

 週が明けた月曜の朝。三月最後の週だ。七時半少し前。食堂へ足を踏み入れた。
「おはようございます」
 厨房の奥から複数の「おはよう」が返ってくる。患者の朝食を出し終えた厨房には一時の休憩でもあるのか賑やかに話し声も聞こえる。

 厨房と飲食スペースの間のカウンターには注文しているスタッフの名札が乗ったトレイが並び、その中から『石竹』と書かれたトレイを持ち上げる。『浅川』のトレイも用意されていた。

 ――浅川さんも来るんだ……日勤か。

 献立は入院患者と同じメニューで、この朝は、ロールパン、コンソメスープにチーズ入りオムレツ、サラダ、フルーツヨーグルト。トレイを手にとって給湯器でほうじ茶をカップに注いだら、いつもの窓際の明るい席に着いた。
「いただきます」
 窓の外に目をやれば、病棟の早番スタッフが続々と出勤してくる。口々に挨拶を交わす声、厨房からは洗い物をする音が聞こえ、いつもの朝の風景だとホッとした。また一週間が始まるのだと気を引き締め、食事をしていれば、不快な声が耳に届いた。
「菜胡ぉ〜、おはよう〜」
 浅川だ。トレイを手にし、お茶を注いで菜胡の正面に座ってきた。
「おはようございます、今日は日勤ですか?」
「んーん、準夜勤なんだけど朝はきちんと食べようと思ってぇ」
 準夜勤とは夕方十六時から二十四時半までのシフトの事だ。夜勤はやっただけ手当がもらえる。外来勤務だとそれがない。

 ――準夜勤ならキッチン使えるし、声が聞こえる前に眠ってしまえる……!
 
 そんな菜胡の心を知ってか知らずか、スープを口に運んでいた浅川が声をひそめて言った。
「ねえ、昨日ごめんねぇ? 聞こえてたぁ?」
「大丈夫ですよ」
 オムレツを頬張る。
 大丈夫か大丈夫じゃ無いかと言ったら後者だ。あのあとシャワーを浴びるタイミングを逃したし、トイレも我慢してしまった。シャワーは日付が変わる頃にささっと浴びることができたものの、順番待ちをされていて焦った。とにかく身体の汚れを落とすだけで、湯船に浸かるなどは到底できなかった。ただ、部屋探しが面倒で寮に住んでいた菜胡だけれど、やっぱり寮を出ていこうと考えるとてもよいきっかけになったという意味では、"大丈夫"だ。
「菜胡も連れ込んでるんでしょお? 黙っといてあげる」
 声をひそめる。
「いやいや、してませんよ、いませんし。それに寮ですよ、扉は薄いしダメでしょう」
「ふう〜ん。お堅いのね。……菜胡ってぇ、好きな人とかいないのぉ?」
 じっとこちらをみる浅川の目は笑っているようで笑っていない。口元が意地悪に歪んで見えた。
「いませんよ?」
「ほんとぉ? 作ればいいのにぃ。いたら毎日楽しいよぉ? 新しく整形の先生来るじゃん、狙っちゃえばぁ」
 菜胡にだってそれくらいわかる。確かに毎日が楽しかったし、明日も頑張る励みになった。だからたまに寂しくなって恋がしたいと思うのだ。でも、が未だ消えない。
 だけどこれを浅川に話すと彼女の都合の良い誰かを紹介されてしまう可能性が高い。人を好きになるのは誰かに薦められてするものじゃないと思っていて、知り合いから縁を繋いでもらう紹介はいいが、そこから恋に発展するかどうか、そこまで期待されていると思うと気が重くなる。恋は自分のペースでしたい。だから絶対に、浅川には悟らせない。

 先月、樫井が診察中の休憩時に言った。
『もう一人先生が欲しいなあって思ってさ。友人に頼んだんだよ』
『先生ずっと一人だもんね、もう一人居てくれたら楽よね』
『そうなんだよ、そしたら木曜は休診にしなくて済むし、病棟と外来を分けてもいいしさ』

 浅川が言っているのはこの事だろうと解った。
「無理ですよ、おじいちゃん先生かもしれないじゃないですか」
「つまんない子〜! 夢壊さないでぇ? そんなんじゃいつまでも処女だよぉ?」
 大きくため息ついて、盛大に人の秘密を言う浅川。それまで声を顰めていたのに、ここにきて急に声を大きくするのは何なんだろう。人が少ない朝だし厨房とは離れているからいいものの、こういうデリカシーのない下品なところは苦手だ。
「ほんっとほっといてください。お先に失礼します」
 食べ終わったトレイを持って席を立つ。何か小さく言っていたような気もするが、いつもああやって処女だと決めつける。……事実、そうなのだが。だから何なのだ。未経験なのが悪いんだろうか。自分は性生活を謳歌している事のマウントだろうか。

 菜胡は、"初めて"を捧げても良いと思える人に出会える時を待っていた。――そう、ただ待っているだけなのだ。出会いが増えればそれだけ恋愛へ発展する率が上がるのはわかる。だが好きな人を作るべく合コンに行くことは面倒臭いし、もしそこで初カレのように……と思うと気が乗らなく、引越して生活環境を変えることもしない。だから一向にその時は訪れず、四年が経っていた。

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