案山子

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          案山子

       案山子

                        かい とおる


 柿の木から落ちたら三年以内に死ぬという。あれからずいぶんと時も過ぎて、なんていい加減な言い伝えだろうと思ってきた。でもあの時の感覚、宙に浮いて落下していくなんとも言い難い喪失感は忘れない。田舎で育った小学校の4年生にしたら、充分に気になる迷信だった。あの日から何かが変わったとしても、不思議に懐かしく、心にすとんと落ちるものがある。

 写生大会の日は全校生徒が一日校外に出て自由に遊んだ。実りの秋、収穫の季節を切り取ってこいと、いっせいに学童が野に放たれる。素直に絵筆を握り画板を抱えている子がどれだけいたろうか。みんなそれぞれ仲のいい仲間たちと、描くべき適当な場所を探してぶらぶらしている。見慣れたいつもの風景、絵にかく対象としてなど考えた事はない。そこは特別な場所などではない、草木が風と戯れるように、そこは身をゆだね皮膚で感じる場所なのだ。特にこの時期は水を抜いた田んぼの稲が徐々に刈り取られ、駆け回れる大地が夢のように広がっていくのだから。
 僕らは期待を込めて脱穀を終えた稲わらの束が放り投げられる様を眺めてきた。青い空に放物線を描いてそれらは小さな山を作る。黒い大地に哀れにも従順に居並ぶ稲株たちを従えて、ゆったりとしたすそ野を持つ藁の山は2メートル程の高さになった。校庭のどんな遊具よりもそれは魅惑的なのだった。

 数日前から目を付けていた藁山があった。学校帰りのくねくねとした田舎道沿いにある、比較的広い水田がもう裸になり、程よく乾いている。そこには秋のからりとした光を集めて見事に黄金色に輝く円錐形の山ができていた。まだ形の崩れていないそれはゆるやかな広いすそ野で僕たちを誘う。どれだけ美しく気取った姿を見せても、その奥にある暗く湿った濃厚な匂いに満ちた場所が少年たちの凶暴性を駆り立てるのだ。我先に絵の具やら画板やらを道端の草むらに投げ捨て、奇声を上げて藁山に襲い掛かる。なにか柔らかく温かいものを蹂躙する喜びで、体がむずがゆく、じたばたとした衝動に声にならない叫びが込み上げてくる。僕たちは何度も頂上に駆け上がり、転がり落ち、ジャンプして埋もれ、体当たりしては藁束を投げつけ、ひとしきり乱暴狼藉に酔いしれた。

 やがて、藁山の中腹に出来た深い穴にひとり身を沈めて僕は甲虫の幼虫のように背中を折る。仲間たちはなお歓声を上げて藁束で穴を塞ぎにかかるが、しだいに遠くなる光と音を押しやりながら目をつぶる。乾いた藁の粒子の粗い匂いと、湿った土の冷たく纏わりつく匂いとが混ざり合い、僕を胎児の眠りに誘い込む。             

 近頃の自分が少し疎ましい。何をしていても時々、ふっと我に返る瞬間がある。しらけるというよりも、どこか遠くに身を置く感じ。僕の心の大事な部分がどこかへ飛んでいって、今いた場所の抜け殻を眺めている。そこはもう色も香りも褪せた重さの感じられない世界だ。そこには僕とミチがいる。ミチは僕の幼馴染の同級生。一軒家の僕の家から一番近くに住み、小さな時からいつも一緒で、小学校に上がってからもずっと同じクラスの空気を吸っている。ミチは目が極端に悪いので、その頃の田舎では珍しく一年生の時から分厚い眼鏡をしていた。机に突っ伏すようにして字を書くものだから、「おいそこ居眠りするんじゃない」と先生にもからかわれる。何のことかわからずキョロキョロしてるとまた笑われる。体も小さくて、おとなしいミチは当然のようにいじめられた。僕には彼を助ける力も勇気もない。やせっぽちの意気地なしだ。だから、いっしょにいじめられる立場になった。せめてもの慰めのように。

 いじめられた日には二人で石ころだらけの曲がりくねった道をとぼとぼ歩いて帰る。うつむき加減になる顔を出来るだけ上に向けて、草や木や川や虫の話をした。ミチは草木の事をよく知っている。僕は魚や虫について想像も含めて大袈裟に話した。そうしていると学校はだんだん遠くなり、背中のランドセルも少しは軽くなる。ミチの器用な手が草笛を作る、妹に人形を縫ってあげていた優しく真剣な美しい手。

 二人だけの「ごっこ」の世界がある。そこでの僕は「はやぶさジョー」だったしミチは「いたちのサブロー」と名乗っていた。無敵な僕らは近所の古い塚の藪の中をアジトにしていて、目の前に広がる藁の敷き詰められたミカン畑が戦場となった。見えない敵と戦っていたわけではない。敵の設定については具体的に細部までこだわっていた。何処からきてどんな姿か、目の色、髪や髭の格好の恐ろしさ、その目的や悪だくみ、笑い声、何を好んで食べるか、武器の種類や大きさ。思いつくままに悪のイメージを膨らませていたが、酒を飲んでいるかどうかはいつも議論になった。僕は酔っぱらったヤツなんか相手にならない、と言った。ミチは酒を飲んでいた方が狂暴だという、ミチの父親のように。ミチの相手は巨大で太った赤ら顔の剥げ頭が多かった。血に濡れた重たい鉞をふりまわし、体格に似合わない甲高い声で喚く。僕の宿敵は獣の顔をしている。黄色い目をした狼の頭に引き締まった人型の身体、全身真っ黒い剛毛に覆われ、いかにも残忍そうに長いしっぽをくねらせる。あの尾には気を付けないといけない。油断すると巻き付いてこちらの自由を奪う。そうなったら、鋭い牙や爪が僕を引き裂くのは簡単だ。だけど、僕には羽があった。灰色と青が美しく織り込まれた大きな羽が背中から生えている。全身純白の羽毛に覆われ、手には金色の長い槍、腰には鋭い氷の短刀を帯びている。ミチは、ミカン畑を縦横に走り回り空を飛んで敵の攻撃をかわす僕を狡いと言うのだが、空を飛べないヒーローなんて意味がない。ミチは逆に地を滑るように素早く移動し、窪みに身を隠し、一瞬のうちに隣のミカンの木陰に転げている。どうやら分身の術が使えるらしい。褐色のしなやかな体は敏捷そのもので、目は静かな殺意に赤く燃えている。ただし彼は片目だ。かつてイタチの神と取引をして右目を犠牲にすることでその能力を得たらしい。左手を差し出せば大きな体をくれると言ったらしいがそれは拒否した。ミチは左利きだ。ミチは僕よりも世の中の厳しさやリスクというものを心得ていた。兎に角、僕らはお互いの世界観に微妙なずれを感じつつも、同じフィールドでそれぞれの敵と戦っていた。奴らの残忍な息遣いと、怒りに地を荒々しく踏みにじる音が聞こえる。時間のたつのも忘れて、夕暮れが舞台を血に染めればなお一層鬼気迫る幻想に我を忘れるのだ。

 ある日、ふと何かが変わった。背中の羽が風を掴むことをやめ、だらりと重く垂れさがる。空は飛べなくなったのに、僕は遠くにいる。荒れて痩せたミカン畑を見下ろして、転げまわるミチがまるでテレビの中のミッキーマウスのように滑稽で白々しく思えた。
「ルーちゃん、あぶない 」
ミチが叫ぶ。
「なに・・・・?」
僕は茫然と立ち尽くす。
「・・・何してんだよ」
 ミチはゆるゆると立ち上がりながら、肩の藁くずを払い落とした。目をすがめて僕を見やる彼は明らかに不満そうだ。急速に圧力を失ってしぼむ熱気球はどこか無難な地に降りるしかない。
「いや、カミキリがいるん・・・」
「だから、なんだよ」
 僕は目の前の枝からゴマダラカミキリをつまんでミチに見せた。カミキリムシは首を盛んに動かして、悲しく切ない鳴き声でその場を慰めてくれた。

 その後もたびたび僕の胸にぽっかり空洞ができて、その穴を透して虫食いだらけの世界が広がっている。ミチと二人きりで遊ぶことはだんだん少なくなっていった。空想の戦場は大事に脇に押しやられ、新たな世界は多少色褪せてはいるが平和だった。友達も何人かできて、ミチも黙って僕についてきた。だけど時々僕はどこかへ弾かれる。若草の匂いや風の音、虫の声がひっそりと空洞を満たす時そこに還る。今、藁こづみの中で膝を抱えて目をきつく瞑れば、すべては遠くなり、或いは無限に近くなる。

 空気が変わっている。藁山に伝わる振動も喚き声も聞こえない。シャクリ、シャクリ、クシュ、カシャ、稲株を踏む音に混じって女の子の声がする。
「あんたたち何やってるのよ」
「なにって?」
「あたしたち、その藁こづみ描こうとしてたのに」
「かけば?」
「ぐちゃぐちゃじゃない」
「ぐちゃぐちゃにかけば?」
 会話は永遠に交わらない。

 僕がオケラのように藁をかき分けて出てきた時には、話題は柿の木に移っていた。

 田んぼの隅に何故か三角形のごつごつした土地があって、そこに大きな柿の木が生えている。露出した太い根っこに巻かれるように大小の様々な石が転がっている。乾いた苔が貼りつき、かなり摩耗しているが明らかに加工されたものだから、何かを祀る祠でもあったのかもしれない。秋になると大きくて甘い柿が、黒い枝をしならせて沢山なるものだから、所有者のはっきりしないことをいいことにみんな勝手にちぎって食べている。手や短い棒の届く範囲の実はすでになくなっていて、もう木に登らなければ、それもかなり高いところまでいかなければ手に入らない。あとは熟して落ちるか、カラスや小鳥たちの取り分だ。

 それを採ってきて、と女の子たちが言っているらしい。「だって私たちちっとも食べてないもの」意味が解らないが、同じクラスの女の子にとって平等であることはとても大事な理屈になりうるのだ。仲間はみんなしらけてしまって、お互いの肩を突き合ったり、急に自分の画材道具のありかが気になって捜しにいったりしている。「ルーちゃんならとってこれるよ」ミチが振り向いてぼくを見た。何を言い出すんだと、睨み返したがミチはいつものくそ真面目な顔つきで唇をちょっと突き出す。あぶら蝉の羽化をじっと観察していた眼、からす貝を探してぬかるんだ泥の奥を見透かす眼、ザリガニに捕らえられたオタマジャクシのはみ出した内臓を見つめる眼。

 何故か柿の実を採って来る役目を負わされ、根元に立って複雑に絡み合って広がる枝を見上げた。ミチと僕はよく木に登った。寺の裏庭や神社の森、近所の大きな屋敷に侵入しては訳もなく枝に手を伸ばす。出来るだけ高いところまでよじ登り幹にしがみつく。指が緊張でこわばり心臓が痛いほど暴れるけど、微かに震える木々の生命を感じる事が出来る。僕とミチはそれぞれの相棒を抱きしめたまま目で笑い合うのだ。

 柿の木は簡単そうに見える。実のなる木は誘うように取っ掛かりも多い。ただ枝が折れやすいのが罠で不規則に伸び広がる細い枝が行くてを遮るし、けっこう意地悪な木なのだ。僕は根元の大きな石から手ごろな枝を選んで飛びつくと体を引き上げた。残っている実は遥か頭上にある。慎重に足場を選びながら手が届きそうなところまで登っていった。男の子たちはもう興味を失ってまた藁山に群がっている。下でこちらを見上げているのは女の子たちとミチだけだ。ミチは気づいているのだろうか。

 女の子たちのなかにモモがいた。同じクラスなのだが、最近モモを見ると妙な気分になる。まるで高い木に登った時のように胸がどきどきするのだ。それほど目立つわけでもなく、いつもみんなの後ろに隠れているような子なのだが、何故か生々しくその体温を感じてしまう。きっかけは国語の授業だった。みんなで芥川龍之介の「杜子春」の感想を言い合っているときだった。子供たちはそれぞれ教科書の意図をくんで適当な事を喋る。母親思いの主人公に感動した、欲張るのはよくないことだ、ぼくも仙人になりたい、いや真面目にコツコツ生きていくのがいいのだ、等々。僕は何故かモヤモヤした気分だった。先生はとてもいい人だ。どの意見にもにこにこと頷いて楽しそうだ。でもどこか苛立たしく潤んだ眼が遠くを見ている。前の授業で感想画を描いた。先生はいきなり画用紙をくしゃくしゃに丸めてバケツの水に突っ込むと、広げた皺だらけの紙に様々な絵の具をたらし網の目のような暗い背景を描いた。その中心に宙に漂う杜子春がいる。まるで必死に水から浮かび上がろうとしているみたいに藻掻いている。口を大きく開け眼には光がない。杜子春は仙人を、世の中を恨んでいるに違いない、僕はそう思った。
「・・・仙人は悪い人だと思います」
 モモが立っていた。
 粉を振ったようにしろい顔を眼もとから頬にかけて熱っぽく紅潮させている。恥ずかしがっているのか怒っているのかよくわからない。あの顔は以前見た事があった。覚えたての自転車をあてもなく走らせていた夕暮れの田舎道、たまたま通りかかった田んぼのなかに彼女はいた。農家の子供なら誰でもそうだったが、小さな体を精一杯使って手伝いをしていたのだ。両手に抱えきれないほどの藁束を抱えたモモは僕を見かけると、のけ反った姿勢のままくるりと向きを変えて走り去った。ほんの一瞬だったがあの時の上気した表情に似ている。熟したモモの瞳が揺れるように笑っているのだ。おそらく母親のであろう大きめの古い花柄のシャツを作業着として羽織った彼女は驚くほど大人びて見えた。

 先生は一瞬戸惑った顔をしたがすぐに笑顔になった。「うん、そうだね、どうしてそう思った?」「だって・・・」モモはますます赤くなって黒板を睨んでいる。そりゃ、そうだ、僕は思った。仙人のしたことは素直に肯定できない。兎に角苛立たしい。でも教科書に載っているお話の感想としては的外れだ、子供っぽい反応だ。目立つことの嫌いな僕はそう考えた。でもな、モモの言ってる事が普通に正しいのではないか?先生の感想画の杜子春は幸せそうにはとても見えなかった。この人には平穏な生活が訪れたのだろうか。

 僕は柿の木のかなり高い所まで登ってきていた。もう手の届く範囲に重そうに大きな実が垂れさがっている。貪欲なヒヨドリに傷つけられていないやつを選んで、モモに向かって投げた。たいてい他の女の子に取られたがしょうがない。僕の気持ちは伝わっただろうか、もし伝わったとしてどうしたらいいんだ?もう少し上へ登ってみよう。手を伸ばせばまだ触れる実がありそうだ。丈夫そうな枝に足を掛けさらに高みへ伸びあがると、川向こうのあぜ道に腰掛けている男が目に入った。ああ、あいつだ、そう思ったとき足元のひび割れた木の皮がずるりと剥けた。咄嗟に掴んだ枝もあっけなく折れて、僕は細かい枝に顔を引っ掻かれながらゆっくりと落ちて行った。

 あっ、というミチの声と女の子たちの悲鳴を聞いたような気がするが、薄い現実感と拡散する視野の中で感覚だけが明瞭になり、一瞬僕は覚醒したヒーローになって浮かんでいたように思う。が、すぐに中腹の太い枝に激突して我に返る。手を伸ばし必死にしがみつこうとすることでくるりと体が反転して、そのまま仰向けの状態で背中から地面に落ちた。

 しばらく黒っぽい枝に縁どられたうすい空を見上げていた。息が詰まり、後頭部がしびれたが、柔らかい田んぼの土のせいでなんとか助かったようだ。枝を掴むことで速度と方向が少し変わり、石の上に落下するのだけは免れたらしい。
「ルーちゃん大丈夫?」
 心配そうな声がする。ミチはいつも深刻な顔をしている。「・・・うん」恥ずかしさが込み上げてきた。起き上がると女の子たちが遠巻きにして見ている。仲間たちも駆け寄って来ている。なんてことだ。
「ちょっとすべっちゃった、なんともない」
 みんな珍しいものでも見るように好奇の眼をしている。死にかけた人間をみるなんて滅多にないことだから。モモが柿の実を差し出してきた。モモの髪の毛は秋の日の乾いた光に反射して柿の実のように紅い。僕は落ちる直前に見たあの男のことを考えていた。

 少し前から男を見かけるようになった。みんな、彼には近づかない。なぜなら頭のおかしい奴だと思っているからだ。村のはずれに古い療養所がある。田舎には珍しいこぎれいな洋館風で、白い玄関の前には小さな花が規則正しく並んだ花壇がある。一見普通の住居なのかと思うが、小さな窓にはどれも木の格子がしっかりと嵌っている。白や青のペンキで何度も塗りなおされた格子は綺麗だけど、よくみるとささくれ立っていて子供らしい好奇心を遠ざける力があった。その奥の窓ガラスは老人の瞳のようにぬるりと歪んで見通せない。植物の名のついたその施設はその土地にあらかじめ置かれたようにしっかりと根付いている。時々、くたびれた木綿の寝間着を着た患者たちが看護師たちに付き添われて散歩したり、日向ぼっこをしたり、畑や花壇をいじったりしている。風に乗って運ばれてくる消毒液の匂いの中には憂鬱な糞尿の気配を感じることが出来る。それは嗅ぎなれた肥やしの陽気な匂いではない。僕らは意識的にそこを避けてきたし、その場所の名前を口にするのさえタブーになっていた。

 男はその施設からやってくるのだとみんな言っていた。大きすぎる灰色の作業着を蛹のように着込んでふらふら歩いている。青白い骨ばった手が折り曲げた袖からにょろりと生えていて、それは前後に振られるたびにどこまでも伸びていきそうな錯覚を起こさせる。人に会えば笑顔で会釈するし、特に変わったところもないけれど誰も声を聴いたことがない。話しかけても曖昧な顔をして逃げるように歩き去る。最初はいかにも脱走してきたように寝間着姿にビニールのサンダル履きだったという。そのうち施設の人も諦めたのか、何も問題は起こさないし、ちゃんと暗くなるまでには帰って来るし、との事で割と自由に出歩けるようになったと聞いていた。でも子供たちは容赦がない。何も抵抗しないとわかると遠巻きにして囃し立てる、嘲笑する、なかには石を投げるヤツまでいて男も相当煩わしかっただろうが、少し足を速めるだけでただギクシャクと歩いていく。大人に叱られたり、飽きたりで今では誰も構ったりしない。ただ、子供たちは心の中でずっと男を畏怖し続けていた。神社の裏に捨てられた子犬は死にかけていて、その眼窩にはウジ虫が沢山蠢いていた。それを見た子供たちは一斉に逃げ出したが、子犬が白い骨になっても聖地として長い間語り継がれ、密かに特別な場所になった。それと同じことだ。

 僕が木の上で見た時、男はいつもと様子が違っていた。座っているのも珍しかったが、目の前に大きなカンバスをおいて、じっと切り株のように空を見上げている。と言っても本格的な画材など見たこともなかったから、イーゼルやらなにやら何か魔術めいていて、思わず見とれてしまったのだ。だけど、落下の衝撃と気恥ずかしさで何もかも忘れてしまった。一時的な騒動の後なんとなく気が抜けて、みんなそれぞれ自分の本来やるべきこと、つまり画用紙の白い部分を埋める作業をするために散っていった。ミチは一旦絵を描きだしたらモグラのようにのめり込む。先生に褒められる唯一のものだから。禍々しく枝を広げた柿の木とそのてっぺんで蜘蛛のように手を伸ばす僕を描いた。僕は画面いっぱいに大きな藁の山を描いた。そして隅っこにひとつ紅い柿の実を置いてみる。それはモモに貰った柿の実だ。つまりモモそのものだ。

 農村の茫洋とした風景には不釣り合いな校舎だった。鉄筋コンクリート造りの三階建ての白くて長い建物、まだ出来上がって十年程だが、壁には細かいひびが入り、屋上の鉄柵の紅いペンキは剝げかかっている。校舎の真ん中に資料室と呼ばれる大きな窓に覆われた四角い部屋が乗っていて、屋根から長い避雷針が伸びている。そう、離れてみればまるで軍艦のようだと僕は思っていた。波打つ田畑の海を押しのけて浮かぶ巨魁はずしりと硬質だが、草木の生気を吸い取ったかのように生暖かく伸びあがっている。特に雨の日の学校は独特だ。大きな口を開けて待つ校舎に傘をたたんで入ったとたん、僕らは内に捕らわれる。湿って硬い廊下を裸足で駆ける音がひんひんと響いて、いつもより迫って来る壁に窮屈さを感じながら、ゆっくりと消化されていくのだ。僕はよく遅刻をしたから、教室で騒ぐ生徒たちを横目で見ながら長い廊下を走った。こんなところで何をしているのだろう、自分の行くべきところはどこだったろう、いつまでもたどり着けないような気がして気が滅入るばかりだ。
 学校は時間をひたすら潰していくだけの場所だった。授業なんてほとんど聞いていない。面白いのは理科の実験くらいで、教科書を読むより図書館で図鑑でも眺めていた方が役に立ちそうだ。あそこには天井に届きそうな程でっかい地球儀もあるし、身を隠す場所も多い。書棚の隙間に入り込んで目をつむれば緊張からすこし解放される。学校全体の震えが伝わってきて、そのあらゆる企みを知り、逃れることができそうな気がするのだ。

 でも、どうしても我慢できなくなると、僕は保健室に行く。そこのベッドで休みたいわけではない。帰るためにはしばらく具合の悪いふりをしなければいけないからだ。保健室の先生はたぶん気付いているのだろうけれど、一時間ほど寝かしておいてくれた後、「まだおなか痛む?」と真顔で聞いて来る。僕が頷くと「じゃ帰ろうか、一人で大丈夫?」慣れた様子でベッドのカーテンを開け掛け布団を畳む。この世で三番目に好きな女の人なのだ。連絡を受けてミチがランドセルを持ってきてくれる。相変わらず深刻な顔で「ルーちゃん大丈夫?」と聞いてくるから、僕も顔をしかめて見せる。どうせ後でプリントやら何やら届けてくれる。給食のパンはいらないからな、それから新しいマンガあるから読んで行けよ。ミチは学校を休んだことがない。学校の方が楽しい、そう言われた時には少なからずショックを受けた。ミチにとって逃れる場所は学校以外にあるのだ。

 午前中の授業が終わるころ、僕はこっそりと外に逃げ出す。帰り支度の僕を一年生が不思議そうに見送るが、ほとんど誰も気にはしない。裏門から出て細い曲がりくねった田舎道をとぼとぼ歩いていく。途中に大きな川が流れていて、頑丈なコンクリートの橋が架かっている。ここまでくれば何故かほっとする。境界線なのだ。橋の上から学校を振り返ると、昼休みに入った建物全体に煙のように騒音が渦巻いている。子供たちの喚く声、笑い声、給食の食器の触れ合う掠れた音、慌しく机やいすを引きずる音がうわーんと一体になって空に昇っていく。それは僕からは遠い所にあって、巨大な要塞のように周りを圧して見下ろしていた。なんとも言えない悲しい気持ちが込み上げてくる。何故なのだろう、沈んでゆく船からやっと逃れてきたかのように僕は安堵しているというのに。

 橋の下には豊かな水が盛り上がるようにゆったりと流れていて、どこまでも見飽きることがない。大きくうねり絡まる長い川藻が誘うように揺れる。うっかりすると透明な水の中に吸い込まれてしまいそうだ。その滑らかな冷たさを感じたい、魚のように、ゲンゴロウのように、水草のように。

 僕はここで巨大な魚を見たことがある。誰も信じてくれなかったが本当の事だ。その魚は川下の方からゆっくりとやってきた。近づいてきた時、明らかに自分より大きな図体なのが解った。見慣れた鯉やナマズ、タイワンドジョウなんかじゃない。もっと、優雅で威厳のある青みがかった黒い躰をしていた。橋の下に潜り込んでゆく頭は両手でも抱えきれないほどで、橋の反対側に出てきた時、まだ飴色の大きな尾びれが向こう側に隠れずに残っていた。橋の幅は3mはあったと思う。僕は声もなくその魚を見送った。夜狩川の主はその名前にふさわしく、無音の闇を広げて重たく滑るように去っていく。見る間に悠々と川藻の揺れに溶け込んでいった。もう二度と会うことはないのだろうか、みんなが言うようにただの妄想だったのだろうか、追いかけてくるノイズから逃れてあの魚についていったら時の流れを遡れるだろうか。僕はいまだにあの橋の上に立っていて蛇行する水の流れを眺めているのかもしれない。

 橋を越えると不思議と学校の騒音も気にならなくなる。目の前に伸びる轍はみっしりとした雑草に縁どられたのどかな帰り道だ。カタバミの葉をわざと踏み散らかしながら歩いた。別に急ぐ必要はない。僕はやせっぽちだし、具合が悪いのだから家に着いたら布団に潜り込もう。誰もそんなに咎めないだろう。先ほどの大きな川に注ぐ支流に沿って道はくねくねと続き、うって変わって澱んだ水辺に亀でも甲羅干ししていないかと覗き込みながら僕の足は少しも進まない。後ろめたいのは嘘をついてきたからか、これからつく嘘を思うからか?そうこうしている内にいつかの柿の木が見えてきた。藁山はもうさんざんに荒らされてすそ野がばらけ見る影もない。だけど周りに広がるレンゲの花に埋もれた姿はけして見苦しいものではなかった。もうすぐ草花もろ共に耕されて田植えを待つ水田に変わるのだ。ひばりを追って走り回れる季節は短い。新学期になって僕は五年生になっていた。半年がたった今でも男の姿はよく見かけた。写生大会がまだ続いているかのようにあれからずっと場所を変えながら絵を描いている。落ち葉をはらいながら、雪の残るあぜ道で、菜の花に隠れて、背を丸めた男が座っていた。何を描いているのか誰も知らない。からかいがてら覗きにいった勇者も結局何なのか解らなかったという。「なんか塗りたくってるだけだ」そんなこんなで、その画家と呼ばれるようになった男の周りは、また空気の変わった近寄りがたい場所となった。なぜなら男は特別なのだから。

 だから、画家がそこに居るのが目に入ったとき、僕は一瞬息をのんで固まってしまった。大人は木や石と同じでただそこに在るだけの存在、世界の一部だから対応の仕方はわかるような気がした。だけど、子供たちはまだ未完成で異質なものだし、生々しくて緊張する。画家はどこか自分たちと同じ匂いをもっている。仲間でなければ敵かもしれない。

 田に水を引くための用水路代わりの小川はいたる所を縫うように流れていて、細い板を一枚渡した向こう岸の田んぼのへりに男はいる。両手を後ろについて空を見上げて座っていた。いつも被っている麦わら帽子は背中に顎ひもでぶら下がっている。手首から先を草葉の中に埋めて足を伸ばし全身で春の陽気に浸っているようだ。今日は機嫌がいいに違いない、僕は勝手にそう判断した。だから絵を見てやろう、何を描いているか突き止めてやろう、僕らを敏感にさせるものがなんなのか探ってみよう、いや、たぶん道草をくういい口実が見つかっただけだったかもしれない。しなしなと靴底を押してくる板を慎重に渡ったとき男が振り返った。まだ二十歩は離れているのにもう気付かれてしまった。どうしようか迷って立ち竦む僕を、不思議そうに見ている。引き返そうとすると画家が片手を上げておいでおいでと手招くのだ。それはいつもの飄々とした仕草ではなく、妙に真剣な手つきだったものだから、思わず僕も引き寄せられてしまった。保健室の匂いが甦った。
「君は柿の木から落っこちた子だろう?」
 いきなりそう聞かれて戸惑っていると、
「元気そうだね、こう見えてもぼくは後悔してたんだ、ほら、君たちはぼくを怖がってるじゃないか、いや、少なくとも避けてるじゃないか、だから、助けに行こうとは思ったんだけど、ついいろんなこと考えちゃってね、心配はしてたんだ、ぼくは病気なんだけど・・」彼は言う。病気という言葉の何か甘い誘惑の匂い、茶色い分厚い靴下、青いビニールのサンダル。

「けがもなかった?大丈夫そうだね、そう、そのあと誰も騒いでなかったからね、大丈夫だと思ったんだ、心配はね、したんだ、でも、ほら絵も、いや絵は描けなくなってぼくは帰ったんだ、君らも絵を描いてたね、びっくりしたよ、なぜって、ぼくがまた絵を描こうと思った日だからね、偶然にしては出来すぎじゃないかい?だけど、あの日はもう描く気がしなかったんだ、だから、帰ったんだ、君のことが心配だったけど、ほら、頭を打ってるんじゃないかとか、でも帰ったんだ、ぼくも頭が痛くなっちゃってね、ぼくはけっして役に立たない人間じゃないんだ、ただ、時々体がゆうことをきかなくなって・・・」
 掠れ気味の声で一気に捲し立てる男に圧倒されながらも、どちらかというと恐れよりも気の毒な気持ちが勝った僕はなにも言えず立ち竦んでいた。話の大半はよく解らなかったが、心底何か僕に弁明したいらしいのは伝わってきた。ずいぶんと落ち着かない様子だった。このまま永遠にしゃべり続けそうだ。

「何を描いてるの?」
 画家はぎくりとして口をつぐみ、ゆっくりとカンバスを振り返った。強張っていた顔に次第に笑みが広がる。それから、また真顔に戻り絵筆を取った。見たこともない長い筆で様々な色が重なりこびり付いていた。男の骨ばった指もまた絵筆の延長のように汚れている。大きな楕円形の木のパレットは、盛り上がった絵の具が日に輝き、草の葉をくっつけたまま陽気に乱れていた。どうやら目の前の空を描いているらしいのは様子を見ていてわかる。油絵をみるのは初めてだった。塗り重ねられた厚い絵の具の上にまた色をのせていく。春のもやっと明るい空はどこまでも普通なのに、掠れた雲の向こうに画家は何か違ったものが見えるのだろうか。雲は千切れて、いつの間にか姿を変えている。いくつかの島を作り、やがて薄れて消えてしまう。

「空は、雲はね、じっとしてないんだ、ずっと動いている、そうだろ、かぜに押されて流れていく、形を変えていく、風がみえるかい?」
 画家はすっかり落ち着きを取り戻し、いつも通りの姿勢で絵に向かっている。雲が笑っている、あっという間に白い霞に覆われてしまった。
「かぜ?吹いている風?見えないよ、透明だもん」
「透明なものなんてないよ、よく見てごらん、世の中いろんなもので溢れかえってる、目の前を見てごらん、頭の上にだって、足の下にだって、よくもまあ、上手く作ったもんだ、うるさくってしょうがない・・・」
 
 僕は周りを見渡した。俄かに雑踏の中に放り出された気分だった。一面のレンゲ草や川沿いの土手を蔽う柳、水門から溢れる水やミツバチの羽音。確かに世界は濃密だ。息苦しいほどの気配と匂いに満ちている。それは時々僕を不安にさせるが不快ではない。でも空は遠すぎて身近に感じることができない。心を伸ばしてみても触れることができない。形や色が変わっても、鳥が点になって消えて行っても、遠い外国の言葉で語りかけられるようにすり抜けて行ってしまう。大人になって背が伸びたらまたいろいろなものが見えるのだろう。

「雲が好きなの?」画家はしきりに白い帯の淵をなぞり形を変えていく。確かに先ほどから薄かった雲が折り重なるように厚みを増してきていた。カンバスの中の雲は黄色や緑や赤で輪郭が変わってゆく。見えるはずのない風の手のひらに押されて。
「そうだね、好きなんだ、面白いんだ、描くのが・・・」
「でも、終わらないね・・」厚く塗り重ねられた絵を見ながら僕は言った。
「・・終わらないね、君も終わった方がいいと思うかい?これ」
「う~ん、出来上がらなきゃあ、他の絵は描かないの?レンゲとか、川とか、魚とか、」
「そうだなあ、今はこれが描きたいしやめたくない・・うん、雲以外描きたくない、というかぼくは何を描いても終われない、終わらせてくれないんだ、終りがないんだ、何もかもどんどん変わっていくし・・」

 その頃の僕は、自分の事を「ぼく」という大人に初めて会ったし、大人というものは当たり前の事しか言わないものだと思っていたから、やっぱりこの男は頭がおかしい、本物の画家じゃないんだ、ただ絵を描いているだけなんだ、と思った。でも、頭がおかしくなるとどんな気分なんだろう、僕は自分の正気を疑うことなんて知らなかった、その時は。

「ボク、大きな魚を見たことがあるんだ、向こうの橋の上で、橋の幅より大きな魚、蜘蛛が空を飛んでるのもみたことがある、それから、殻から半分抜け出したところで死んじゃった蝉も見たことがある、カラス貝に足を挟まれて死んでるカエルとか、カエルはきらいなんだ、むこうもボクを嫌ってる、でもザリガニにオタマジャクシを食べさせたらぐちゃぐちゃですごく嫌な気分になった、イトトンボの羽をちぎって蟻の行列に放り込んだこともある、トンボは大好きなのに、でも蟻も好きなんだ、蟻の巣の中を想像したことある?ボクの飼ってた小さいフナは指を入れると寄って来るんだ、餌をもらえると思ってね、でもタライから飛び出して死んじゃった、ミチをさっきの蝉の所に連れて行ったらまだ生きてると思って、真剣な顔でじっと座って見てるんだ、目が悪いから蟻がたかってるのが見えないんだね、ミチは友達だけど、最近ついからかいたくなるんだ、どうしてだろう、おじさん、ボクが見たさかなのこと信じる?だれも信じないんだけど、笑うんだけど・・それからね、小豆洗いが小豆を洗ってる音を聞いたんだ、ほんとだよ、夜中にね、家の前に小さな川があって・・」

 わけもなく饒舌になってしまったのはなぜだろう。画家はぶどうの実のような落ち着いた瞳で僕を見ていた。笑うでもなく、ああ判ってるよ、といった大人ぶった風でもなく、真剣な顔で聞いている。そんなことは初めてだった。たぶんそのせいだろう。

「信じるよ、君の話、君の見たもの、聴いたものは本当のことだ」
 絵筆の先を僕に向けて画家は言った。僕は黙った。
「じゃまをしてごめんなさい・・・」
「邪魔じゃないよ、君の話は絵に似ているね、歩道橋を渡ったことはあるかい?ぼくは歩道橋から下の道路を眺めるのが好きなんだ、車や人が流れていくのがまるで川のようだよ・・・」歩道橋なんて見たことなかった、僕は橋の下の道路を人がぞろぞろ並んで歩いていくところを想像した。それは大きな蛇のように曲がりくねってどこまでも続いていった。
 画家の口元が少し綻んでいる。いつの間にか空の様子も変わり、絵筆が後を追っている。

「・・・蚊がね、血を吸うじゃない、ずっとほっておくとお腹がまあるく膨らんで、もう飛べなくなるんだ、知ってた?」
 僕は大事な秘密を打ち明けるようにそっと言った。
「知ってるとも」
 画家は嬉しそうに笑った。

 それから僕と画家は時々一緒になった。早退した日に上手く会えればだったけど。とりとめのない話をしたり、何も話さずただ並んで座っていたり。いつまでも完成しない絵は不思議なほど心地いい。大地に一緒に座っていると、だんだん空に向かって押し上げられていくようだった。夏が近づいていた。

 夏休みに入ると僕は忙しい。朝のラジオ体操の時から蝉の声が気にかかる。宿題はいつかやるとして、午前中はかつてのアジトの再建に精を出した。放置された藪の中はツタが絡まり、木の枝に渡した板もばらばらに傾いてずり落ちていた。侵入者がいたらしくごみも散乱している。家の手伝いに忙しいミチも時々手伝いにきた。ぼくらはもうヒーローにはなれないけれど、秘密を共有することは出来る。ミチがどこにいようとその子犬のような足どりを感じることができる。午後には一緒に学校のプールに行った。泳ぐというよりも潜ってばかり。水の中は楽しい。あらゆる世界から切り離され、僕は周囲の首のない胴体や手足に向かって、思いっきり喚き散らす。見上げれば水面越しに青い空が伸びたり縮んだりしている。カワウソになりたい、真剣にそう思った。夕方にはまたアジトに戻る。8月に入る前になんとか形を整え、漫画の本やらビー玉やら、宝物を持ち込んだ。セミの抜け殻を周囲の枝に何個も這わせて、夕日に透ける飴色の手足を眺めた。

 画家に会いに行くのは稀になったが、気がつけば手を振ってくれた。日差しを避けて木陰にいることが多くなったし、以前にもまして痩せて縮んでゆくようだったので、沸き立つような夏の最中にあっても、一人影の薄い存在になっていくようだった。そんな、ある日、どんこの餌にする小エビや小魚を取りに川を探りながら、なんとなくいつもの場所に来てみると、画家が女の人と一緒にいるのがみえて、ひどく動揺してしまった。画家は蝉の抜け殻のようにいつも孤独な存在だと勝手に思い込んでいたからだ。その頃はもう滅多に見なくなった和服姿の若い女性で、背中を丸めた男の後ろに立っていた。白い日傘をさしている。ほっそりしているが冷ややかな朝顔のように周囲の五月蠅さを祓っている。隣町の煤けた喧噪ではなく、もっと遠くの洗練された都会の匂いがして、僕は自分の錆びたバケツと子供っぽい網が恥ずかしくなった。二人は同時に僕に気が付いたらしい、画家がこちらを指さして何か言っているのが見える。手で招かれて躊躇したが道具を置いて近づいていった。女の人が急いで目のあたりを拭っている。泣いていたのだ。僕は後悔した。

「あら、こんにちは・・・」泣きはらした目をちらちらと揺らして女の人は言った。初めて見るようなきれいな人だった。きれいな人だと思って大人の女性を見ることじたい初めてだった。木陰にいてさえ真夏の強い日差しは葉叢に乱反射して、その白い顔を蝶の羽のように瞬かせていた。
「・・こんにちは」
「近くに住んでるの?夏休みは楽しい?」
「はい・・」
 僕らにそれ以上の会話は無理だった。画家はなぜ僕を呼んだりしたのだろう、なぜ黙っているのだろう、間の悪さにうんざりしながら恨めしさだけが募った。女の人は暫らく自分の足元を見つめていたが、やがて日傘の柄を持ち直して、画家の背中に向かって言った。
「おとう様には、そう伝えておきます」
画家は何も答えない、
「わたしはもう行きます・・・」
 女の人は僕に口元だけでほほ笑むと、ゆっくりと去っていった。道に出たところで屈んで裾の草の葉を掃い、もう一度こちらを見て小さく手を振った。僕もおずおずと振り返した。魚を見送った橋を渡って学校の方に歩いていく。相変わらず巨大な船を思わせる白い建物は、今は静まり返って夏の日差しに焼かれ、打ち上げられた貝殻のように干からびて見える。

 画家を見ると、また空を見上げている。ある一点をみつめて何か考えているようだ。
「誰だったの?」
「・・ん、ああ、知ってる人だよ」
 画家は絵筆もとらず、ぼうっと空を仰いでいる。視線の先には、覆いかぶさるように筋肉質の入道雲がその卵白のような圧力を強めてきていた。

「秘密を教えようか・・今見ているこの世界は本物じゃない、君もぼくもここで生かされているだけだ・・」
 唐突に画家はしゃべり始めた。
「あの空の向こうに本物の世界があって、やつらは見張ってるんだ、何をしたいのか、何が目的なのか、ぼくにはわからない・・・」
 言葉は呪文のように纏わりつく、
「いつかあの空の一か所が窓のように開いて、眼鏡をかけた澄ました野郎が『やあ、おつかれさん、実験は終わりだ、全部おしまいだ、ご苦労だったね』って笑って言いそうな気がするんだよ、実際・・・」
「・・そうなの?もし、そうなら・・・」
「そうじゃなきゃおかしいんだ、あまりに何もかもが都合よく出来すぎてる、みんな知ってて芝居をしてるんだ、わざとらしいんだよ、つらすぎるんだよ、ぼくはもう降りたい、誰かに言ってくれないか、きみ・・・」
「ぼく、わからない・・・」
 画家はじっとこちらの顔を見つめてきた。熱っぽい眼、どうしようもない疲れが滲んでいた。
「きみはあいつらの仲間じゃなさそうだ、ここで何してる?蜻蛉でも捕まえておいで、トンボだってきみに捕まえられたら本望だろう・・」
 画家の無精ひげだらけの顔を見るのはそれが最後になった。僕は黙ってそこを離れた。帰ったらどんこは逃がそう、生きたものしか食べないし、それを見るのは耐えられない気がした。

 夏休みが終わりに近づき、僕は放っておいた宿題に仕方なく向き合っていた。自分の汚い字にうんざりしながら、『夏休みの友』やらプリントやらを埋めていく。いちたすいちは、必ずしもにではない、と教えてくれた先生もいたが、いざそれを考え実行すると、いろいろとメンドクサイ。手伝いの風呂焚きよりもつまらない作業を続けながら、僕の眼はいつの間にか窓の外の姿の見えないツクツクボウシを追いかけていた。

 ミチが声をかけてきたのはそんな時だった。
「ルーちゃん、案山子が浮かんでるんだって、みんな見に行ってる、行ってみようよ」
「かかし?」
 なんで案山子なんかで騒いでるんだろう、先日の台風でどこかの田んぼから流されてきたんだろう。
「行こうよ、みんな集まってる・・・」
 ミチはいつも通り真剣だ、だけど、メガネの奥の瞳がいつになく暗く緊張しているのがわかった。
「うん、行こう、ちょっと待ってて‥」

 僕らは並んで急ぎ足で歩いた。首筋や肩が自然に強張って来るのがわかる。走っていくのは何故か怖いし、違う気がした。子供たちの噂話は早い、なにか異様なことが起こっている。見るべきもの、共有する価値のある秘密がそこにあるのだ。心の奥底では何を見ることになるか判っていたのだと思う。

 夜狩川に注ぐ支流の一つが流れに出る前に小さな堰がある。ひび割れ黒ずんだ板を乗り越え、あるいは染み出た細い流れが落ち込む澱んだ淵に案山子は浮かんでいた。古い作業着がパンパンに膨らんで、手足を大きく広げうつ伏せに揺れていた。藻の絡まった頭部は曖昧に膨張し水に溶け込んでいる。逆に手足の先は腐った棒のように突っ張っていて、成る程、これは『案山子』なのだった。淵に覆いかぶさるように斜めに傾いたハゼの木の枝が彼を留めている。ずいぶん変わり果てた姿だったが一目見てそれが画家だと分った。

 淵を囲んで20人程の子供が『案山子』を見下ろしている。小さな子から大きな子まで、手をつなぎ、あるいは肩を抱きあい、一人の者は腕を組み、黙り込み、眉をしかめるもの、不思議な笑みを浮かべるもの、ただ佇んで、誰もが、夕陽で徐々に赤く濡れていく水面を見つめていた。ミチは座り込んでじっと観察している。羽化の途中で死んだ蝉の時と同じように。恐怖が冷たく皮膚に貼り付いていくのがわかった。西の空には一筋黒い雲が動かない。

 誰かが小石を投げた。石は『案山子』には届かず、手前で水を跳ね、女の子たちが小さな悲鳴をあげて後ずさる。膨らんだ胴体の下から小魚やエビが一斉に逃げ散った。それと同時に僕は、水中深く大きな尾びれが蠢くのが見えた気がした。もっと遠くへ向かう、絶えることのない流れに向かって泳ぎ去る青い魚を見たような気がした。

 画家は数日前から行方が知れなかったそうだ。それなりに騒ぎになったらしいが、すべて後日聞いた話だ。その頃には僕らにとって古びた伝説になっていた。宿題の絵に川に浮かぶ『案山子』を描いた。『夏休みの思い出』、自分ではずいぶん力作だと思ったが、先生には伝わらなかったようだ。隣町から車で通ってくる先生は、事件のことも知らなかった。「なんだ、これ」と言って笑っていた。当然『案山子』の左手に持たせた絵筆のことなど気付きもしなかった。
         
                 *

 市役所の駐車場に車を止めて、僕はしばらくぼうっとしていた。すぐそこに総合病院の肌色の建物が見える。聞かなきゃよかったな、ミチが膵臓がんで入院していることじゃない、もうたぶん助からないこと、ミチがそれを知らないことだ。僕は平静を保てるだろうか、笑ってミチをからかえるだろうか。もう何十年もまともに話した覚えがない。実家に帰ったとき、たまに見かけることはあった。彼は農家を嫌がった長男の代わりに家業を継ぎ、灰色に乾いた泥を手足にこびり付けたまま大股で歩き回っていた。あの小さくて華奢な身体は嘘のように逞しくなったが、以前の敏捷な身のこなしは消え、大地を踏みしめるような重たい足どりだった。だけど、心が頭上のどこかへ浮かんでいるような、そう、かつての画家を思わせる雰囲気が漂っていた。一度だけ道端で立ち話をしたことがある。他愛もない話題だけで終わったが、区画整理され、変わり果てた田園の風景について僕が嘆くと、
「でも作業はずいぶん楽になったんだ、仕方ないんだよ、いろいろと・・・」
 ミチはそう言って相変わらずの深刻な顔で眉間にしわを寄せる。コンクリートの真っすぐな用水路の周りには身を寄せる影がない。

「そのうち飲みにいこう・・」
 僕がそう言うと、ミチは眩しそうに笑った。実を言うとミチはお酒が大好きなのだ。しかも小学校の頃から。昔、どんな飲み物が好きかアジトで話し合っているとき、一番好きなのはビールだと答えた。二番目は日本酒、三番目にかろうじてミルクが入った。クリームソーダが好きだった僕がずいぶん子供じみていて恥ずかしかった。それは空想の話ではなかったのだから。ミチも赤ら顔の親父みたいになっていくのだろうか。
「じゃあな」そう言って別れようとすると、あわてた様子で呼び止められた。
「どうやって連絡したら・・・」
「ああ、おふくろに聞いてくれよ」

 なぜあの時ちゃんとミチに向き合わなかったんだろう。二十代の後半、車で二時間ほど離れた街の運送業者で働いていた僕もいろいろなものから逃れようとしていた。ミチとゆっくり話したかったのは本当だ。でも誰とも話したくなかったのも本当だ。ミチとはそれっきりになってしまった。


 なつかしい街並みをぐるりと遠回りしていると、小さな花屋があった。鉢植えはだめなんだよな、店の女の子は慣れた手つきで適当に花束を作ってくれたが、どうもしっくりこない。結局、オレンジの薔薇だけを10本束ねてもらった。その持ち方すらよくわからなかったけど、バラの花は冷たい真冬の風に吹かれていてもきりりと鮮やかだった。

 数年後に建て直されることになる病院は、蛍光灯の明かりだけがやたらと眩しい、重たくて寂しさの沁み込んだ建物だ。受付で聞いた階までガランとしたエレベーターで上がる。ナースセンターで部屋を訊ねると若い看護婦がびっくりした顔で僕を見た。
「お見舞いですか?わぁ、喜びますよ、それ活けるものあります?あとで持っていきましょうか?、8号室です、よかったわぁ」
 不思議なほど喜んでいる。すぐに理由がわかった。ミチは気難しいのだ。まだ慣れない看護婦にとって、末期のがん患者は接し方に気を遣うのだろう。ミチのしかめっ面を思い出して僕は少し気が楽になった。

 消毒液の匂いが漂う狭い個室にミチは寝ていた。暖房がききすぎて暑いのか、くたくたのふとんをはだけて瘦せた脛を伸ばしていた。窓際のベッドには冬の清潔な光が注いでいる。寝間着の胸の合わせ目から深い鎖骨の窪みが覗いていた。小さな薄い身体。それは、かつて藁の上を転げまわった、子供の頃のミチの姿に近かった。
「あ、るーちゃん・・・」
「おう、元気・・な訳ないか・・」
「まあ、な、でも手術は成功したんだ・・」
「うん、よかったな」
 手術はほとんどお腹を開けてみただけだったらしい。ミチは起き上がろうとしている。
「おい、無理するなよ」
「いや、寝てばっかりもいられないんだ、今日は天気がいいしな」

 窓の外は師走にしては明るい午後だった。水色の空に千切れた雲の流れが早い。
「なんだよ、それは」バラの花を指さして言う。
「何って、お見舞いだから」
ちょうど先ほどの看護婦が水の入った花瓶を抱えて入ってきた。丸くて白い陶器の花瓶。
「なんか普通だな」ミチが言う、
「すみません、これしかなくて・・・」
「いいよ、いいよ、ぴったりだよ」と、僕。
 ベッド脇のテーブルの上の薬の袋やら、飲みかけのリンゴジュースの紙パックやらを急いで片付けると、適当に花を放り込んで花瓶を置いてみた。
「きれいじゃないか」
「うん、きれいだな」

 オレンジの薔薇の花は、まだ半分つぼみで、これから大きく花弁を広げていくのだ。ミチは照れくさそうに笑った。まあ、座れよ、なんにもないけど、これでも飲むか?と、冷蔵庫からヤクルトを取り出した。少年の頃、蝉の鳴き声に囲まれたアジトで、僕が二番目に好きだと言った飲み物だった。

 それから三時間余り、僕らはいろいろな話をした。ほとんど子供時代の思い出話だ。ミチはよく憶えていなかったが、黄色く濁った眼を瞬かせながら徐々に記憶が甦っていくようだった。そんなこともあったよなあ、なつかしいよなあ、あの逃がしたカニでかかったよな、岩の隙間に入り込みやがって、と、楽し気に過去を彷徨っている。意外なこともあった。ミチは当時まだ珍しかったパソコンを使って作物を管理しようとしていた。業者にも手伝ってもらって、日照時間、降雨量、与えた肥料の種類と量など、様々なデータを集めているらしい。想像して思わず笑うとむきになった。
「これからは大事なんだよ、おれはやるよ、あいつ、怠けてないといいけど・・・」
 業者への不満も隠さない。たぶん、周りから随分からかわれているんだろう。昔からそうだ。
「ごめん、ミチはすごいよ、大丈夫、うまくいく」

 画家の話は出来なかった。どうしても川に浮かぶ『案山子』がミチと重なって、どこかへ流れていきそうで、それを追いかけるのが怖くて。

「今日は子供は?時々連れてきてるでしょ・・」
ミチは四十を半ば超えても独り身だ。一度結婚したけど一年もしないうちに逃げられた。
「ああ、もう中学生だ、不思議だな」
「なにが?」
「いや、子供を見てるとさ」
「そうかな?」
相変わらず真剣な顔で考える。
「そうだったかな・・・」

 帰りにはどうしても玄関まで送ると言って聞かなかった。点滴袋をぶらぶらさせて、スタンドを押しながら付いてきた。ガラスドアの向こうで手を振るミチは頼りなげで、こちらが動揺するほど奇妙に傾いでいる。もうその顔には表情もなく、途方に暮れた蝉のようにどこまでも彷徨っていきそうだ。おい、いったいどちらが見送ってるんだよ。笑って手を振って、それが最後になった。

 年が明けて幾日もしないうちにミチは亡くなった。仕事の都合で通夜にしか出席できない。夜遅くに車を走らせながら、出来るだけ何も考えないようにした。どんな曲をかけてもイラつくだけで、とうとうオーディオのスイッチを切ってしまった。エンジンの眠そうな音とタイヤの愚痴る音、ヘッドライトの堅気な光に集中していた方が落ち着くようだ。世の中いろんなことが起こるけど全てを受け入れられるわけじゃない。

 県道脇の小さな葬儀場はすでに駐車している車もまばらで、ひっそりとわずかな灯りに照らされている。周囲の闇を少しずつ受け入れてやがて満たされていくのだろう。遺体の側には憔悴したミチの母親と妹が膝を崩して座っていた。苦手な父親は離れた場所で数人と酒を飲んでいる。
「まあ、るーちゃん・・」
 田舎ではいつまでたっても『るーちゃん』だ。焼香を済ませ、棺の中のミチを見せてもらう。やっぱりなあ、ミチは真面目くさった顔で到底納得できないという表情だ。そう深刻になるなよ、ミチ・・

「ありがとね、お見舞いにも来てくれたんでしょ、『なつかしかったぁ』ってとても喜んでたんよ、最近は痛みも少し治まって、正月にはうちに帰れてねぇ、そりゃあ美味しそうにお酒も飲んで・・・」

 母親の話を聞いている内に少しずつ事実が事実として僕の中に入ってきた。「この世界は本物じゃない」画家は言ったっけ、もしそれが本当だとしても僕の前からミチは消えてしまった。あの頃僕らはずいぶん同じ時間を一緒に過ごした。ミチの仕草、ミチの言葉、笑顔や不満、悲しみの先にこんな未来が待っていたなんて不思議で理不尽な感じがする。ただ流れに押されて藻掻いているしかないのか、必死に手を伸ばしても岸辺の花に一瞬触れられるだけだ。遡れるのはあの青い魚しかいない。いい加減にしろよ、なあ、おじさん、ミチをよろしく頼むよ・・・
 
                 *

「あ、魚がいるじゃん」

 用水路の曲がり角に作ってある四角い桝を覗き込んで息子が面白そうに笑っている。小さい頃はよく網を振り回していたものだが、都会の学校に通う今、自然は見つけるもの、観光するもの、遊びに行くものなのだ。圧倒的に優勢だった生き物の気配に押し包まれながら泳ぐように少年時代を生きていた僕には、距離を感じながらもただ微笑ましい。
「うん、カダヤシじゃなくメダカがいるんだ、カワムツやフナ、すっぽんも見かけたぞ、お前の小さい頃にはタナゴもいたんだけどなあ」
「ふーん」あまり興味なさそうだ。

 実家の近くに墓を移築して初めての盆休みだった。山の中腹に父親が建てた墓を親父ごと運んできた。歩いて行ける距離にできて年老いた母親は喜んでいる。あたりの風景はすっかり変わってしまった。用水路沿いの広い水田だった場所には思い思いの住宅が並び、繋がれた柴犬が吠えてくる。なんとかニュータウンというらしい。土地の毛細血管だった水路の代わりに、乾いた舗装道路とコンクリートの用水路が基盤のように延びている。夜狩川は今も健在だ、だけどずいぶん痩せてしまった。護岸工事が進み、所によっては錆びた鉄板が撃ち込まれたまま放置されている。しぶとく生き残った生き物たちもどこか捻くれて、不本意ながらも意地悪な顔をしている。

 町が新しく整備した墓地はかつて僕らのアジトがあった場所にある。藪が払われ小山を平してみると墓石らしいものが幾つかでてきた。やはり昔からそういうう場所だったのだろう。墓地の片隅にまとめて並べられた角の取れた石たちにも手を合わせ、父の拘った五輪塔に向かう。新しく建て直さなくてよかったな、見慣れた墓はひんやりとして、うっすら苔色に落ち着いている。よく掃除は行き届いているようだ。家族四人で花の水を変え、線香に火をつける。今日は一つお願いがあるのだ。19年生きた猫が死んでしまった。脇の道具入れの隅にでも置かせてください、兄夫婦と母さんには了解を得ております、それ以外の方には秘密でよろしく。ほとんど一緒に育ってきた下の息子が抱いてきた小さな骨壺をそっと奥に押し込む。

「さあ、帰りましょ、暑くって・・」
 白い日傘を広げながら妻が言った。
「ちょっと先行ってて・・」
 妻は怪訝な顔をして振り向いたが、すぐに了解したようだ。
「早くね・・・」

 墓地の突き当り、ミチの家の真新しい墓がある。ここは新しく作り直したようだ。ミチが死んでもう十年以上たつが、記名塔の一番端はミチだ。

「またここに戻って来たなぁ・・」

 この辺りはミチが巨漢の宿敵に地面へ押し付けられて藻掻いていた場所だ。苦し気な息遣いが聞こえてくる。残忍なニタニタ笑いがその華奢な身体のすぐ上に迫っていて、ミチは唸り声をあげて相手の毛むくじゃらな腕に爪と牙をつき立てた。そうだ、がんばれ、ミチ、負けるな、熱い風が藁と土の匂いを送って来る。

 だけどな、もう目の前に敵はいない。抗うのをやめて耳を澄ましてみろよ。そうすれば甦るものもある。ほら、乾いたアジサイの花がカサカサと揺れて、割れた瓦の下ではコオロギが遠慮がちに仲間を呼んでいる。薄暗い橋の下を流れる水の音が聞こえるかい?ここは微かな呟きで溢れているのに、そのざわめきを黒い羽根で叩くようにハグロトンボがひらひらと飛んでいて、まるで夢の世界のように音を消していく。覚えているはずだ。追いかけて、あのドクダミの花の咲く裏庭に行こう、妖しい香りの低く漂うあの場所へ行こう、冷たい葉を押し分けて青いしっぽのトカゲを探そう、今度こそ蝉の羽化を、その白く濁った翅が緑色の翅脈を伸ばしてステンドグラスのように甘く輝くまで、日が落ちて梢の向こうに鏡の月が浮かんできても、見届けよう最後まで、そして・・・

               
                  了













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コメント

  • ノベルバユーザー599850

    1話完結ということで自分の参考にさせてもらいたくて読ませていただきました。
    思っていた以上の内容の充実に驚きでした。
    ありがとうございました。

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