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黒と白と階段

清泪(せいな)

今と過去と決断 14

 電車に乗って四駅、駅直結のバスターミナルから吹田は懐かしさのあるバスに乗り込む。
 通勤ラッシュから逃れた時間帯のバスは、数える程しかいない乗客を乗せて走る。
 真ん中付近の一人座席に座り、見馴れた景色を眺める。
 かつては毎日のように眺めていた窓から見える景色も、いつの間にか懐かしいものになっていた。
 しかしそれも、数週間前までのことでまたすっかり見馴れた景色に戻ってきていた。

 吹田がかつて住んでいた団地から出たのは、母親が亡くなったからだった。
 吹田が幼い頃に両親は離婚して、女手一つで育てられた。
 離婚の理由は父親の浮気だと、中学生の頃に酔っぱらった母親に聞かされた。
 結婚した理由も出来ちゃった結婚で離婚した理由も出来ちゃった離婚なの、と泣きながら笑う母親。
 中学生の吹田はそんな母親に戸惑うばかりで、悲しさも苛立ちも抱くことは無かった。

 二十歳を過ぎた頃に流行った映画があった。
 国民的アイドルグループの一人で演技派の少年が主演を飾るサスペンス映画。
 陰鬱な雰囲気の小説を原作にしたことで、単純なアイドル映画にはならず陰鬱な雰囲気を見事に映像化したことを賞賛された映画。
 むしろ一部のファンからは暗すぎると叩かれていたぐらいだった。
 父子家庭の長男が、毎日暴力を振る父親を兄弟の為に殺害する話。
 時と砂、という題名の映画だ。
 当時吹田は、記者見習いとしてどうにか新聞社に勤め始めた頃だった。
 新聞配達からのつてを使いどうにかたどり着いた職場は、高卒ということで正社員としては雇ってはくれなかった。
 学歴のことで執拗に馬鹿にされながら、先輩記者から勉強にと流行りの映画を勧められて観ることになった。
 アルバイト扱いの少ない給料だと病に伏した母親を食わしていくのがやっとだったが、自分の食事を抜いたりして映画代を工面した。

 映画を観て吹田が思ったのは、父親に殺意を抱かなかった自分への疑念だった。
 母親が捨てたのか、捨てられたのか。
 あの時泣き笑い父親の事を話す母親に詳しく聞こうとも思わなかった吹田は、その後母一人子一人でした苦労を父親のせいだと直結することはなかった。
 病に伏して看病を必要とする老いた母親を見ていても、誰かの手があればと願うことはなかった。

 流行りの映画は、共感はできないがこういう刺激的な物語が受けるのだろう、と吹田は自分の感想をそう結論付けた。
 勧めてきた先輩にも観た事を報告するついでにその感想を伝えた。

「なんだそれは、お前本当に記者になる気あるのか?」

 嘲笑うように言った先輩の言葉は、随分と経った今になっても耳にこびりついて離れなかった。

 バスの窓に見える風景、見馴れた街並みが流れていく。
 数年街を離れたら、思い出のある建物はほとんど建て替えられていた。
 学生時代に遊んだボーリング場は、看板を外されて中身の入ってない建物になっていた。
 大人になって明るい時間帯にこうして街並みをゆっくりと眺めることがなかった。
 通勤のために過ぎていく景色でしかなかった街並みに、学生時代以降の思い出は無かった。

  あの夏の日──高塚家の父親が団地の階段から転落して死んだあの日。
 吹田は仕事に向かうところだった。
 介護を必要とするほど衰弱した母親のことは、近くにある包括支援センターの介護職員に任せていた。
 他人の介入を毛嫌いする母親の反対を押しきって吹田は介護を頼んでいた。
 記者としての仕事は飯を食える程度にはなっていたが、手応えというものを感じたことがなく、吹田は仕事に対して常にストレスを抱えた状態だった。
 そこに母親の世話が重なれば、父親を殺そうとも思わなかった自分が母親を殺しかねないと、恐くなって頼ったのだった。

 十数分の道のりを経て、団地最寄りのバス停へ近づく。
 バスが道路を左折して、少し身体が揺れる。
 吹田はこの揺れを懐かしく感じていた。
 そして、この数週間、近づいていくという緊張感を揺れと共に感じていた。

 あの暑い夏の日。
 吹田は家を出て団地の階段を降りてから、携帯電話でいつものように包括支援センターに朝の挨拶をしていた。
 職員の柔らかな声に少しの安堵を抱いていると、救急車のサイレンが聞こえた。
 近づいてきている、と音の響き方で判断した吹田は電話を切って、サイレンの方へと向かった。

 棟の階段下に僅かな人だかりが出来ていて、救急車が停まった。
 階段の上の方を見ると泣きわめく女性の姿と、階段の踊り場、手すりにもたれ掛かるように横たわる男性の姿が見えた。
 救急隊員二人が階段を駆け登っていく。
 男性の意識を確認する動作。
 女性に説明を伺う様子。
 隊員一人が階段を降りてきて車内でどこかに連絡していた。
 吹田はじっくりとその一部始終を目に焼きつけていた。
 駆け出しの記者として記事にしようと考えていたわけではなかった。
 よくある事故だと思っていて、似たような事故を小さな枠で簡単にまとめて書いたこともある。
 だが、起こったばかりの状況を生で直接見るのは初めてだった。
 いつもは、あとから駆けつけたりだとか、人づてに聞いてだとかなので、経験だと、よく見ておくことにした。

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